上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消せます。
*『レシピエント』紀伊國屋ホール (2012.3.1) 佐藤江梨子の演技と周囲のキャストのスタイリッシュさ、この二点でまずは導入に成功しています。
弟を亡くし身寄りを失った盲目の女性・信枝を演じる佐藤が冒頭でみせる、静かながらとりつくしまがなく、人に対する警戒や不信が先立つような表情と立ち居振る舞いが、この作品の安定したクオリティを予想させます。
G2の演出はその予感を裏切らず、取り立て屋の会田(加藤和樹)と医師・吉見(三上市朗)の背景、会田の部下たちの関係性をテンポよく見せてゆく。若いキャストも含めて総じて演技が安定し、見栄えも整っていることで、冒頭に佐藤がつくってみせた緊張感と質の高さをきちんと維持している印象を受けます。
取り立ての最中に事故に遭い、臓器移植によって一命を取り留めた会田は、その手術から復帰して以降、自身の趣味や食べ物の嗜好、あるいは性格そのものが以前とは変わりつつあることに気づき、闇医療で手術を担当した吉見を問い詰める。臓器を提供したドナーの性質が提供を受けた者(レシピエント)にあらわれる事例があることについて会田に説明する吉見、そして会田はそのドナーが、会田自身が借金返済を迫って追い詰めビルから身を投げた男であることを知る。
会田とドナーとの関係と共にストーリーを紡いでゆくのが、会田の子分となる三人。彼らのキャラクター、特に手術以降思うように取り立てができなくなってゆく会田の追い落としを謀る木塚(橋本淳)の存在感が際立っています。狡猾さを見せながら子分を率いる振る舞い、また終盤でのヒールとしての活躍ともに、物語の山をつくるのに貢献している。この物語をエンターテインメントとして充実させるうえで、彼の貢献度は大きいと思います。付随して、木塚をはじめとするキャラクターのスタイリングもまた良い。スタイリングの細やかさによる見栄えは軽んじられるものではなく、衣裳担当の十川ヒロコの仕事も評価されるべきでしょう。
他方、この作品は臓器移植というデリケートなテーマを扱うものでもあり、作品全体の要素配分には簡単でないものがあるはずです。このテーマとの対峙にあたって最大部分を担うのは、佐藤江梨子です。
今はなき弟の、姉を気遣う気持ちのあらわれを額面通りに受けとめることができず、またその弟の真っ正直な思いやりの残酷さについて吐露する佐藤の演技は、抑制がきいているだけに重く響く。弟にとって大切な姉へのいたわりの実践はまた、姉にとって大切な弟の何かを損なうものでもあります。幼少時から弟に聞かされてきた思いやりの言葉は、それが無邪気であるだけにいっそう姉を苦しめる。そして時を経て、人生に追い詰められた弟が実践する最後の無邪気さは、さらなる重さを付加して姉に届く。
佐藤演じる信枝は、最後まで残酷な事態ばかりを引き受けざるを得ません。お話として見れば、あと幾ばくかの救いも欲しくなるところではありますが、佐藤の演技はストーリーを支え、見事に作品に格をつくっています。一方で、レシピエントである会田の方に、「自分が自分でなくなる」ことの煩悶をめぐる描き込みがもう少しあっても良かったかなと思います。
ともかくも、佐藤江梨子という役者の強さは記憶に留めておきたいところです。これから30歳代、40歳代を迎えた時に、彼女が役者としてさらに大きな凄みを見せつけてくれるように思えて非常に楽しみです。
劇後半、ドナーの特徴を示す鍵として登場するのが売れないアイドル・カレン(吉川友)です。吉川主演映画
『きっかけはYOU!』 はアイドルコンテンツの時流を批評しつつそれを反転させるような意欲的な試みでしたが、その作品内でもうかがえるように、彼女の俳優としての適応力は低くありません。
本作品内では相対的に出番も少なく、重さが課される役ではありませんが、それでも細かい反応や表情には素材の良さを感じさせます。いわゆる歌ものの“アイドル”はとかく出演する舞台作品やそこでの演者としての機能が限られがちですが、この水準の舞台に立ち、適応できたことはとても嬉しいし心強い。
それとはまた別に、実際のアイドルがアイドル役を演じることの難しさはあるかもしれません。『きっかけはYOU!』の際にも少し感じたことですが、アイドルがアイドルを演じるとディテールの不自然さが否応なく目についてしまうということがあります。吉川演じるカレンのファンであった「オタク」の造形が幾分乱雑であること、握手会にファンが一桁程度しか集まらないレベルのアイドルが常連ファンの見た目を一切覚えていないこと等は、細かい点ですが、演じ手がまさにキャリアをもつアイドルであるだけに少し引っかかります。劇の作り、演出の水準が高いだけに、もっとうまい作劇上の嘘の付き方はあったかもしれません。
しかしそれも瑣末なことではあります。吉川友が「アイドル」役を演じながらも、作品をつくるパーティーの一員としては「アイドル」としての甘い扱いをされていないというのは大きなことですし、この方針で舞台仕事が入れられていくならば、ソロの演者としての彼女の、この先にも繋がるはず。
また作品全体としてみたとき、デリケートなテーマをエンターテインメントとしてつくるのも、覚悟をもったひとつの正当なアプローチですし、舞台作品としての各要素の平均レベルも高い。こうした芝居の一員として吉川友が参加し機能し得た、そのことの意義は小さくありません。
【追記】
舞台演劇において、「アイドル」扱いされないことこそがよい、という単純なものでもないので、そのあたりは
Berryz工房主演『三億円少女』 の項も参照のこと
*北九州芸術劇場プロデュース『テトラポット』 あうるすぽっと (2012.3.2) まず、強く想起するのは海に呑まれた生命のことです。
全編が「海」をモチーフにつくられたこの作品は、2011年3月11日を、そして本当は今でも当たり前にここにいたはずの人たちを、ごくごくありふれた(ようにみえる)ドメスティックなエピソードで想像させます。
人物設定は直接的に東北を示すものではありません。あくまで北九州の人々が描かれ、家族の死も、それを受け止める兄弟たちも、その末弟がアクシデントとして経験する新しい生命のはじまりも、九州の方言で描かれ、そこで語られる生や死はありふれたもののようであっても、実際にあった何かではなく、まして大災害ではない。
それでも作・演出の柴幸男は3月11日の記憶を明確にそこに重ねている。
時間が止まり、同じ場面が幾分ずらされながら繰り返される、その基点になりまた居場所にもなるのは、「2時46分前後」。東北地方太平洋沖地震の発生時刻です。繰り返し言葉にしてあらわされる「2時46分前後」は、北九州に息づく家族や知人の日常的(というフィクション)なエピソードのキーになってゆく。
ある人物の喪失が語られるエピソードが進行していたかと思えば、そのエピソード終盤にその喪失された主体が実は「自分」なのだと指し示され立場が転換するような台詞が語られ、生者と死者の入れ替えがにおわされる。あるいはまたさっきみた「2時46分前後」に戻り、人物の時代設定が行き来し、学生だった彼らが大人に変わり、そのうえでさっきの台詞のシークエンスが反復され、途中で少しそのやりとりの軌道がずらされる。
反復的、往還的な構成でほのめかされるのは、今はもういない誰かが、いま自分が経験している日常を経験していたのかもしれないこと。壮年を迎えた誰かの若い頃の些細なエピソードが、若くしてこの世を去った誰かにとっての「今日」であったかもしれないこと。一人称的な人物として登場する海坂三太(大石将弘)が、みんなはいないのか、と叫ぶとき、「みんな」は逆に、三太だけが“いない”という可能性を突きつける。今はもういない人のありえたはずの現在の日常を自分のものとして経験している我々と、我々と同じような小さな日常を持ちえたはずの誰かの喪失と。両者の本当はありえた現在への想像力が喚起されることで、面倒臭い母親の言動への応対も、みっともない男女関係も、もう割れてしまった家族関係の世知辛いやりとりさえも慈しみたいものに思えてくる。この日常風景的なエピソードが泣きたいほどに愛おしく見えてくる感覚は柴幸男が自身の劇団「ままごと」で上演した前作
『わが星』 にも通じるものです。
この世の終わりをある意味肯定的に描いた『わが星』は、結果としてそのことが今ある生への祝福にもつながっていたように思いました。本作『テトラポット』においては、終末ではなくその先に繰り返される生の営みが強調されます。
四兄弟の末っ子・四郎(藤井俊輔)との間に予想外の、しかも大きな“生”の体験をする川合らっこ(古賀菜々絵)が滔々と言葉にするのは、46億年前から繋がって自分たちの生へと連なり未来にまた今はいない生がうまれる、その繰り返しです。今はもう壮年を迎えた人物の少年期を、少年である別の人物の現在の営みに微かに重ねるような想像力を誘うこの劇を観ているうち、生者としてあること、死者としてあること、過去の生、未来の生へのマクロな捉え方と、日常レベルの些細さを丁寧に見つめるような捉え方とが不思議に重なる。
劇中で象徴的に合奏される「ボレロ」の曲の繰り返しを背景にして、生の営みの繰り返しが「2時46分前後」に重なるとき、そこにあるのは鎮魂だけでも遠大な宇宙観だけでもない、優しさと哀悼と日常と、言い尽くせない何かが綯い交ぜになった感覚です。
「当事者」であり、且つ「当事者」でないことの自覚を持ちながら、3月11日を受け止める作品を創作するのはとても怖いし難しいことでしょう。また観る側もその作品をどう受けたらいいのか、安易に結論も出せないし腑に落ちたような思いになれるはずもない。けれど少なくともこの作品には、生が失われてしまったという、取り返しのつかない事態の中でなんとかその現状を受け止めるための祈りが見えます。また翻って、今ここにいる我々という生を引き受け、慈しむ視点がみえる。この構成をもって、シンプルに切り分けられない多くのことを語ろうとした柴幸男の手際は素晴らしく、またそれを成立させた役者陣の好演も相俟って、演劇体験ということの強さと奥行きを確認させる作品になっていたと思います。
*映画『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る』 新宿バルト9 (2012.1.30) 今日、多くの女性アイドルグループにとって、「物語を紡ぐ」ことは余録ではなく、メインコンテンツのひとつとなっています。しばしばそれは形式上、歌やダンスをメインとした演者の“裏側”を追うサイドストーリーかもしれません。とはいえそのストーリーないしはステージから半歩降りた場所で垣間見せる“素(とされるもの)”や人間関係の読み込みは、アイドルを受容するという営為において歌・ダンス等のパフォーマンスに比肩する重要度を持っています。
そのような文脈や枠組みは、当該アイドルグループを運営するブレーンによって仕掛けられるわけですが、受容する側もこの「運営」の存在に無批判無頓着ではありえませんし、アイドルのサイドストーリーの受容には、「運営」とメンバーとのせめぎ合いや運営方針の是非も内包されます。こうした物語性、仕掛けと読み込みといったエンターテインメントのスタイルは、現在のアイドルグループにあっては前提とならざるを得ませんし、その前提の乗りこなし方に、それこそ「運営」のセンスが垣間見られる(たとえばこうした状況に対する自覚を方法として強く意識したコンテンツに、
吉川友主演映画『きっかけはYOU!』 が挙げられるでしょう)。
2000年代後半以降のアイドルグループにおける物語前景化の先鞭をつけ、また自ら拍車をかける第一人者となったのは、いうまでもなくAKB48です。モーニング娘。等、時代的に先行するアイドルがひとつの武器としていたドキュメンタリー性を単にアップデートしたばかりでなく、プロデューサー秋元康を中心とした運営陣はそこにシンプルな音源リリースやライブのスケジュールには本来不必要な“事件”を殊更に挿入してゆきます。「総選挙」然り、「じゃんけん選抜」然り。あるいは、時に残酷なほどに、メンバー間格差やパーソナルな苦悩を露悪的に提示して見せます。
それらはAKB48の音源やライブパフォーマンスに対してではなく、AKB48メンバー間、あるいは彼女たちが紡ぐストーリーに対して地殻変動を与えるものです。つまりここでAKBは明確に、提供するエンターテインメントが歌やダンスにのみ特化するものでないことを示している。素朴な「歌手」観、「アーティスト」観では、AKB48というプロジェクトの発するコンテンツの性格は掴みえません。
このストーリー作成の周到さはAKBが長期にわたって注目を集める上で多大な寄与をしているでしょう。AKBのドキュメンタリー映画第一弾となる2011年の
『DOCUMENTARY of AKB48 to be continued 10年後、少女たちは今の自分に何を思うのだろう?』 は、ドキュメンタリーと銘打ちながらも、AKBが平素発信しているコンテンツよりもその“ドキュメンタリー”性は薄く、それが作品としての訴求力の弱さでもありました。その作りは幾分穿って見れば、行儀の良いインタビュー主体のドキュメンタリーを大掛かりにパロディ化したかのようにも思えるくらい、ある種のフィクショナルな雰囲気を帯びていました。そのような穿ちを起こさせるのは、AKB首脳が日頃、秀逸で残酷な「ドキュメンタリー」を提示してみせているゆえです。
一方、このように音源リリースやライブといった、体裁上の本分からすれば必然性のない起伏を設けて「ドキュメンタリー」を推進してゆくことで、AKBが提供する物語はどんどん過剰になってゆきます。本作『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る』上映に先立つ
予告VTR は、メンバーがフィジカル、メンタル両面であからさまに“傷つく”さまが映し出され、彼女たちの感情やオフステージの身体を煽り気味に見せる作品であることが暗示されました。このわかりやすく且つ過剰な見せ方は、AKBというドラマに新規客層を呼び込む明快な強さを有してきたことも確かですが、他方でアイドル主体を追い詰め、疲弊させるさまがパッケージ化され続けることはまた、食傷や嫌悪感を呼び起こしやすくもあります。恣意的なドラマが産出され続けそれがすべてに先行してゆくことが、殺伐とした閉塞に向かいはしないだろうか。物語に慣れすぎた受け手の身にはコンテンツのスリリングさよりも、物語が供給過多になるなかで擦り切れていくアイドル主体の悲愴さに対する危惧が頭をもたげます。
果たして、映画本編が始まってまず目に入るのは、AKB48という大掛かりで過剰で周到な恣意のドキュメンタリー的コンテンツが、圧倒的な現実を前に「物語」推進の主導権をあっけなく失う姿でした。
ここで「圧倒的な現実」と表現したものは二つあります。
ひとつは、東日本大震災。AKB48を取材対象にするしないにかかわらず、2011年を追ううえで、東北地方太平洋沖地震とそれに引き続く災害は、具体的な言葉を継げずとも、影響されざるをえないものです。本作においても、全編を通じて基調となっているのは震災と、その震災に対して己の職能(とその無力さ)に対峙するAKBメンバーの姿です。もちろん2011年が終わったから何かが片付くわけでも終わるわけでもなく、彼女たちの被災地支援活動を映す映像は決着のついた活動報告などではない。そしてまた、この圧倒的な現実は、被災地支援活動をAKBのプロバガンダとして繰り込むことも容易に許しません。
被災地の風景が映された直後、本当に簡素な設備で行われる彼女たちの野外パフォーマンスの映像は、彼女たちの存在の小ささを否応なく強調します。AKB48はここで、目に見える実行策もなければ卓越的な超人でもない。紡いできた「物語」によって何かを制御できるわけでもない。有名性を背負っただけの存在です。
昨年、AKBの被災地支援活動を繰り返しカメラが追いかけ、どこそこがその資金を援助しているという噂をもとにして、AKBは震災をイメージ操作に利用しようとしているという旨の批判記事をネットで目にしました。慈善活動を売名や印象戦略として批判するのはたやすいですが、少なくともこの映像を見る限り、東日本大震災はそんな「利用」に易々と応えるようなものではありません(そもそも有名性を前提とした慈善活動を売名・印象戦略か“純粋”なチャリティーかのいずれかに峻別することは不可能ですし、分類することによって気に入らない有名人を批判しようとするのであれば、その振舞いこそが震災を「利用」しているのではないかとも思います)。AKBメンバーはここで、「訪問する」ことしかできません。
しかしAKBにはまた、上記と相反するようなもうひとつの「圧倒的な現実」が随伴します。それは、このAKBというプロジェクトが当初の目論見をおそらくは遥かに超えて絶大な有名性を獲得していることです。被災地訪問で披露される『ヘビーローテーション』は近年稀な、リアルタイムでわかりやすく「皆が知っている」歌です。普段の公演からすれば比べものにならない頼りない装備で、装飾に頼ることもできないなかでの『ヘビロテ』は、それでも初見の人々を踊らせる。続いて行われた現地での握手会、サイン会の映像では、メンバーの名を呼びながら泣き出す中学生の姿が映し出される。ポップアイコンがまどろっこしい文脈を取っ払って観衆を掴む力はやはり軽んじられるものではない。
もちろん有名性とはポジティブ/ネガティブ両面の印象を否応なく背負い込むもので、その存在は両義的です。そこに集ったすべての人間が肯定したと考えることはできない。その有名性ゆえにその場に召喚されたメンバーたちは、被災地で歌い踊ることの怖さを表明していました。メンバーの柏木由紀は、5月の第一回目の被災地訪問の折、バスからステージに向かう際に観衆の笑顔を見て、拒絶されるわけじゃないのかもしれないと、やっと少しだけ思えたと振り返っています。
いつしか日本のポップアイコンとなったグループが是も非も引き受けて被災地訪問で歌い踊るにあたって、自前の物語などさしたる意味を成さない。現実状況の中に放り出されたAKB48は、どうしようもなく小さくて途方もなく大きい存在でした。
絶大な有名性の獲得は、AKBの通常活動であるステージや、おなじみとなった「物語」にも影響せざるを得ません。2011年7月に3日連続で行われた西武ドームライブの鬼気迫る映像素材が映すのは、大きすぎる舞台に対応する心身の能力を持たず、立つこともままならない疲労困憊、失策をさらけ出すメンバーの姿です。
また報道レベルではもはや恒例となって世間が幾らか慣れてしまった感もある「総選挙」も、上位2名の得票が13万を超える規模となった2011年の第三回選挙は、明らかにメンバーの肩にかかるものの大きさが桁外れになる。
もっとも、この制御できなくなった存在の大きさをもまた、自身の物語として吸収しコンテンツとして見せてしまおうとするのが、AKBのもつ本来的な性質であり、この「ドキュメンタリー映画」自体がまさにそのもっともシンプルな試みなわけです(震災についても、地震当時地元の仙台にいた12期研究生・岩田華怜をフックにすることでAKBに引き寄せている。まだキャリアのごく浅い彼女の振舞いは凛々しく素晴らしかったです)。そして自身のその存在が絶対的に大きいゆえに、そこで示される物語は、強い。
西武ドームライブという大きすぎる舞台で前日の“失敗”を取り戻す使命も意識していたであろう前田敦子が過呼吸で倒れ、通常出演も覚束ないコンディションの中、それでも総選挙一位の自身がいなければ意味を成さない『フライングゲット』のセンターに位置すると一瞬にして表情を変え、痛々しく眩しい笑顔を作ってみせるシーン。
総選挙順位発表直後にすっきりとした余裕さえ感じさせるコメントを残した大島優子が、バックステージで近寄ってきた篠田麻里子の胸に顔を埋め声を上げて泣くシーン。
あるいはこのドキュメンタリーでもっとも「内輪」の物語といえるチーム4の大場美奈と島田晴香の関わりもまた、彼女たちの属している器がAKB48という絶大なものであるだけに外に向けた力は強い。
これらのシーンは、AKB48がこれまでも繰り返し提示してきたドキュメンタリー的手法に連なるもので、常套の絵面といえばそうなのですが、それでもこの感情の起伏の物語は抜群に訴求力を持っています。AKB48の紡ぐものの強大さをこの映画は繰り返し繰り返し見せつけます。
ただし、このコンテンツを楽しめば楽しむほど、ある種の罪悪感が常にちらつくのも否めません。各所で指摘、批判されることですが、彼女たちの感情を徒にすり減らせることで成り立つエンターテインメントを自分は消費しているわけですから。
そのことをもって即座にこのプロジェクトを一切否定する立場には与しませんし、多かれ少なかれ感情の消耗が売り物に結びつくというスタイルはAKBに特化することでもなく多くの場で見られるものでしょう。また、この手法によってある種現在もっとも「売れる」肩書きと経験を手にした彼女たちが、それぞれの目標や社会の中での位置取りに向かうことができるという点を踏まえるとき、安易に頻出する「搾取」等の言葉でそれを批判できるとも思いません。
けれども、抜群の面白さとその裏に伴走してしまう、彼女たちの感情の起伏を消費している罪悪感に、自分は折り合いをつけられない。この清濁併せ呑む揺さぶり方がプロデューサーである秋元康という人の真骨頂でもあって、折り合いをつけられないという感情こそが、このエンターテインメントに乗っかっているということの証なのかもしれません。面白さも折り合いのつけられなさも否定しないまま、あと何回かは映画館に通うことになりそうです。
*劇団鹿殺し『青春漂流記』 紀伊國屋ホール (2011.1.23) ここしばらくのグループアイドル活況で、昨年あたりから熱を帯びてきたのが「ローカルアイドル」をめぐる議論です。ローカルアイドルの定義付け、何を主眼に置くべきか等々の議論はそのやかましさに比して論点が整理されているとは言いがたく、そのことがまた、注目が集まり始めたばかりのこのトピックの勢いと難しさを物語っています。時折その論調には「中央」たる東京に対するアンチテーゼも含まれ、東京拠点の運営が非関東圏の地域でアイドルをつくることへの反感がその根底にあらわれることもあり、それが地域根生いのアイドルプロジェクトを支持する心理的基盤になっているケースも散見されます。
しかしまた一方、“東京”という大きな人口・販路のある場へのパイプが相対的に少ない地域の場合はとりわけ、世間の波が落ち着いて以降の「その後」をどう構築してゆくのかというビジョンも備えておかねばならない。これは地域全体の将来像への想像力であると同時にまた、「地域活性」等々の題目より何より、「アイドルになること」を目指した演者たち自身の「その後」への想像力でもあります。
本作で鹿殺しが描いたのは、そんなローカルな地からアイドルを目指した人々の「その後」の話。
22年前、神戸元町高架下商店街をPRするため、商店街の店主の子供たちで結成されたチャイドルグループ「モトコー5」。一世を風靡するが、メンバー年長者の波美(高田聖子)のスキャンダル、失踪を機にモトコー5は表舞台から姿を消す。メンバーは商店街に戻り細々とその後の生活を送り、商店街もブームが去って元の寂れた町並みに戻っている。30代にしてまだモトコーを諦めきれない波美の妹・凪子(菜月チョビ)らメンバーは、わずかな馴染みのファンを相手に中途半端に活動を続けている。そこに失踪以来、一切音信を絶っていた波美があらわれ、東京のTVに出演する機会を持ち込む。
スターへの止まぬ憧憬と、自分もスターを目指すのにそうなれない現状とのせめぎ合い、くすぶりながら己の怠惰を直視できない情けなさ等々は鹿殺しが普遍的に抱えるテーマであり、本作もその系譜に連なるものです。ただし今回の登場人物たちは、一度はアイドルとして名を馳せ、地元商店街に人々を呼び込むことにも成功している。つまりスターとして名を馳せる味を知っている人々です。
とはいえそれはまだ幼い日の、年齢自体がバリューを有した時期のことであるし、その先の生活を考えるようなリアリティをまだ持たなくてもよかった。今日、とうの昔にブームは去り、波美の起こした“事件”以降、再起の機会を逸したまま、諦めるでも積極的に楽曲制作やライブを続けるでもなく、地元にいるわずかな支援者(というか顔馴染み)を前にした月一回のファンの集いでモトコー5をつなぎとめている。当時のモトコー5以外に呼び物もなかった商店街は再び負のオーラをまとい、栄光の痕跡すらほとんどありません。そうしたコミュニティの中で、生活の行き詰まりをありありと露呈させながら、それでも針を振り切れずスターを怠惰に追い続ける主人公たちの様は、鹿殺しに毎回登場するものながらやはり身につまされるものを突きつけます。モトコー5の身辺の人々が声を揃える「私たちだっていろいろ諦めて生きてるんだよ」は、いまだその覚悟すらないモトコー5、そして小劇場界という同じく「食えない」世界を歩き続ける鹿殺し自身への言葉として重なってゆく。
鹿殺しの作品には、くすぶる主人公に対して「成功」している身近な人物が登場し、主人公との対照、あるいは敵役として描かれますが、今回は主人公たちが幼少期に一度成功していることで、対照となる成功者にもひとつの反骨心が描かれています。高架下商店街の子供たちでモトコー5を結成するために行なわれたセレクションで不合格となり、モトコー5になれなかった砂原(谷山知宏)は、地元の不動産屋に就職し頭角をあらわしている。今回登場する成功者は、モトコーメンバーの座を掴みそこねたゆえに、そこにほのかな対抗意識を見せながらも、夢を見続けることなく着実な成功を歩もうとしている。砂原という圧倒的な正論を眼前にしながら、それでもモトコー5にぶら下がろうとする主人公たちの姿は鹿殺しの真骨頂。
昨年夏の作品
『岸家の夏』 から、鹿殺しは座長である菜月チョビを絶対的なセンターに据えない芝居を作っています。今回、波美役に高田聖子を招聘したことで、その中心はさらに変化を見せています。本作、菜月がメインキャストであることはもちろん揺らがないものの、特に後半に超越的な存在として在るのは菜月ではなく高田です。テーマとしては昨夏の作品の方が拡張した感はありましたが、キャストの配役バランスが多様になっていくうえでは、客演として有名俳優を招き続けることでもっと遊べるのではないかと思います。
高田演じる波美のハイライトは、終の地となったアパートの侘び住まい。波美がとりつけた東京のTV番組に22年ぶりに登場したモトコー5が、「あの人は今」的番組での捗々しくもない出演を終えて波美の住所を訪ねると、そこにあった大量の“出せなかった”手紙をもとに、彼女がアイドルじゃなくなってからの歳月が再現されてゆく。知識もなく、したたかにもなれなかった波美の日々は、それでも根拠なくモトコー5の再興を信じて笑顏を見せ続けるだけに哀しく、救いもない。けれど、それでも波美は生きているし、それはその後のモトコーメンバーに変化の光を当てている。「落ち目」を冷笑して距離をとることはたやすいけれど、そこで何かが終わるのはその傍観者にとってのみの話。何かが終わることなどないまま掴み得る望みの乏しいスターに手を伸ばす日々は続くし、当たり前のことだけどそれもまた一丁前の人生の歩みなわけです。
構成面ではいくつか粗さも目につきました。もっとも惜しかったのは、波美のハイライトで日々が綴られる場面が形としてまだ落ち着いておらず、大きなインパクトを与えるまでに至っていないように見えたこと。これは回を重ねることで熟成されて解消される問題かもしれないので、上演期間後半にもっと良い出来になっていればいいなと思います。アイドルの特徴や秋葉原文化的な考証もひっかかりはしましたが、そうしたディテールが肝となる芝居でもないので、そのあたりはさしあたり気にしなくてもよいのかなと。粗よりも勢いの魅力のほうが勝るのがこの劇団の特徴でもあるので、不備に思える点にどこまでひっかかるべきなのかなという迷いもありますが、今回は鹿殺し作品としてはダンスなどフィジカルの面白さがおとなしかったので、幾らか気になる点は多いかもしれません。
アイドル(に限らず芸能に身を投じる者)はただでさえ、「将来どうすんの?」という嘲笑混じりの危惧が投げかけられやすい立場にあります。そしてその「将来」のどうにもならなさのひとつが、波美によって残酷に体現されている。けれどそれを無益と捉えることほど、つまらない態度もない。ラストシーンは希望を見ているかのようにみえて、その実モトコーメンバーは特に確かな何かなど掴めてはいません。けれど波美一人分の人生が蒔いた種によって、モトコーメンバーの世界の見え方は確実に違っているはず。願わくは、この芝居を観た人間の、芸能者の生活への想像力の糧にもならんことを。
*M&Oplaysプロデュース『アイドル、かくの如し』 本多劇場 (2011.12.23) 本作『アイドル、かくの如し』で描かれる“アイドル”は、昨今のアイドル文化に慣れ親しんだ人の目には、幾分オールドファッションな捉え方のものに見えるでしょう。この作品に登場するアイドル・くらら(上間美緒)はソロのアイドル歌手として活躍し、これから新規分野のドラマに進出しようかという段階におり所属事務所の稼ぎ頭である、という設定です。しかしながら、「アイドル歌手」というジャンルがグループアイドルに席巻されている今日において、ソロの“アイドル”歌手としてデビューしその成功を足掛かりに他分野に進出するというルートは実際には想像し難くなっています。ソロとして考えやすいのはむしろ、女優、モデル等他分野で実績を得つつある若手が歌手活動もやる、というケースでしょう。
また、作・演出を手がける岩松了はアイドルという存在について「完璧にいけにえだと思います。何かの代替物。虚像なわけでしょ、どう考えても。その虚像に人は群がるわけだから、求められる人は、いけにえですよ」と述べています。本作でのアイドル・くららの描かれ方は、そのような虚、およびその反対面である実の二面が背後に踏まえられているように見えます。
くららは事務所内、つまりオーディエンスの前に立たない“裏”の場面では、時にスタッフに対して明快な応答をせず、仕事に対してのモチベーションもはっきりしないような態度をとったりする。これは表にあらわすことのないひとつの“裏”の顔です。劇中、岩松自身が演じる作詞家・池田は、くららを落盤事故救出の作業員激励イベントに出演させるなどして、少女の歌だけ歌っているイメージではなくて、社会活動にコミットすることでくららに対して世間が持っているイメージを揺らしたいと言います。表のアイドルイメージを裏方が制御していくようなアイドルづくりがそこには設定されています。
現在、アイドルはライブ、テレビや雑誌媒体に留まらず、インターネット媒体を中心に、過剰にアウトプットすることでファンの興味を持続させざるを得ない環境に置かれています。ステージを降りた“裏(とされるもの)”までアイドルの側が能動的に開陳してゆく必要がある。そうした環境設定に加えて、アイドルが定期的に“会う”存在になっているという距離感の変化は、その「アイドル像」に根本的な揺さぶりをかけることが予想できます。
また今日においては、アイドルが積極的に「アイドルらしからぬ◯◯」を売りにして、差異化をはかろうとする手段さえ常套になり、時にはアイドル自身が「アイドルらしさ」を半ばネタ的に披露してみせる。それは、ステレオタイプな虚像としての「アイドル像」を如何に相対化するか、というモードが“アイドル”シーンで生じているということです。
こうした状況においてファンは、アイドルの単層的な虚像を楽しむというよりも、アイドルの虚実の皮膜(と思しきもの)を享受しているという側面も強いのではないか。もっとも、そうした重層的な虚実の皮膜遊びをひっくるめて、それは虚像であると指摘することは可能ですし、そう指摘されるならば、またそれは真でもある。ともあれ、本作にはそうした重層性への目配せはないように思います。現在の話として『アイドル、かくの如し』を受け取った時、そこに微かな違和感がないわけではない。
しかし、演劇はアイドル時評などではなく、外面的な情報の収集能力によってリアリティが生じるものでもありません。昨今の状況を精緻に踏まえることは、それがテーマにおいて必要な際にのみ、やればいいのかもしれない。
結果的に、“アイドル”の虚実観がシンプルに縮減されたことで、本作の描くものは見えやすくなっています。この作品のテーマが「アイドル」であったならば、そのシンプルなアイドル観はもっと引っかかるものだったでしょう。しかし端的にいえば、これはジャンルとしてのアイドルの話ではありません。けれども、作者・岩松了がアイドルという存在に対して述べている、「虚像」の話ではあります。
くららの置かれる状況を過度に心配するマネージャー・百瀬(津田寛治)が、対照的に泰然と構えているくららの実母・木山(宮下今日子)に対して母親なのに心配しないのかと問うシーン。木山は百瀬に対し、実の親だから彼女がどういう場面で強く、どういう場面で弱いのかくらいはわかっている、だから大丈夫であると、矜持を垣間見せながら反論します。親という立場の説得力を木山は見せつけますが、ごく親しい人間の考える当人像だって、いってしまえば虚像です。その後の場面で、後輩マネージャーの本間(足立理)がどのような人物であるのかと訊かれた百瀬は激昂したように、言葉でどんな人物であるかを説明し得るのか?と問い返し暴れます。客観的な実体を設定することの不可能さが、この作品では明示的暗示的に繰り返し描かれている。
この作品のパンフレット所収のインタビューで、作者岩松は、あるベトナム戦争を扱った小説の叙述について、「それは現実の戦争について述べたことではないけれど、その人にとっては、その時の水面のきらめき(※小説中で叙述されている)が、戦争の本質に近い何かだった、ということは伝わってくる」と述べます(これは『アイドル、かくの如し』のテーマに関連して述べたものではありませんが)。彼は、ある人間に事象がどう受け取られているのか(の差異)、あるいはそこから派生して客観的な実体や虚構性ということに敏感な作家なのではないかと思いますが、本作品ではアイドル像やスキャンダルの“真相”など、客観的な真実が問われ続けるような環境設定の中で、登場人物の捉えている状況が虚なのか実なのかということの判断し難さが突きつけられます。芸能事務所社長・祥子(夏川結衣)の目の前にあらわれる、かつて浅からぬ関係にあったと推測できる人物の姿にいたっては、いま目の前にいるという実在さえもその虚実が揺らいでしまう。こうした整理のしづらい展開を、あからさまに輪郭線を描くことなく静かに描写するスタイルには、不思議な訴求力があります。
本作のもう一つのテーマは祥子とその夫・古賀(宮藤官九郎)の夫婦関係。相手の浮気ももはや決定的な出来事にはならず、また腰を据えて話し合っての相互理解も諦めたような夫婦関係は、それでもなお絶望を感じさせるのではない、絶妙の仕上がりになっています。小さなディスコミュニケーションが重なる二人は、互いの状況を素直に汲もうとするような関係を築けてはいない。そこにはもう、相手に理想として託す虚像さえない。それなのに、そうなってからの夫婦の姿は、最終的に微笑ましい。劇終盤、夫との話を円滑にするために“虚構”のエピソードを挟んで会話を進める祥子は愛らしく、この夫婦関係が物語後半の中心に据えられたことで後味も柔らかいものになっていたと思います。
次のページ
FC2Ad
FC2ブログ