もう安心 

~演劇とアイドルと何かと~

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「嫌いな女」の嫌いになれなさ

*月刊「根本宗子」第9.5号『私の嫌いな女の名前、全部貴方に教えてあげる。』(2014.8.22)

2014_8_22_nemoshuu_1


 本ブログでは幾度か触れていますが、根本宗子さんという作家の特性は、人間の抱えている甘さ、弱さあるいは大人になれなさに対する繊細な、辛辣な視線にあります。
 彼女の描く登場人物たちは、環境に甘え、肯定されるべき根拠を持たない自分を受け入れてくれる(ように見える)他者に甘え、自分が弱いことの「仕方なさ」を理不尽に主張し、外部に押し付けて暴発する。けれども、それらは異端者でもなければ、遠いフィクショナルな存在でもない。芝居を観ている我々が当たり前に抱えている弱さ、理不尽さそのものです。取り繕いながら、バランスを取りながら生きているだけの自分たちは、はたから見ればこんなにも弱くてみっともなくて、性に対して不格好な反応しかできない。そのことを根本作品は痛烈に突きつけます。人間が否応なく背負い込んでいるそんなみっともなさを安全圏から笑うのではなく、観る者が自らを省みざるをえないようなものとして、根本作品はあります。


 この辛辣さは時に、根本宗子さんという人自身、あるいは演劇をする者たち自身に直接跳ね返ってくるような批評性にもなっています。根本作品に時折登場するのはたとえば、クリエイターワナビーの男性と、彼の才能を信じているがゆえに経済的精神的に男を献身的に支える女性のカップリングです。「創造」や「表現」の貴さという、それ自体は尊重すべきものに寄りかかることで、自分たちの「甘さ」を温存し続け、互いの甘さや弱さをよりどころにするような共依存的な姿。とりわけ今年はじめに上演された月刊「根本宗子」第9号『夢も希望もなく。』(下北沢駅前劇場、2014年1月)では、作家志望の男性を支える女性もまた、演劇の世界に身を置いていました。実績も根拠もないまま己の才能(があってほしいという願望)にすがる男性が見せる他者への攻撃性は、他人には「才能がない」ということを確認するための自己防衛。もちろんそこで上演されているのは創作上の登場人物の弱さだしどうしようもなさなのだけれど、そのままそれを上演している人々自身の人生に対しても牙をむく。上演する者も観る者も本当は無関係などではない、人間の情けなさがありありと描き込まれるのが、「月刊「根本宗子」」です。


さて今回の作品『私の嫌いな女の名前、全部貴方に教えてあげる。』

 アイドル的人気を誇るバンドのボーカルがキャバクラ嬢たちと合コンをするという今作のメイン設定で映しだされるのは、女性たちの仲間内の関わり合いの水面下にある、それとない上下関係や、意識的無意識的にあらわれる相手への疎ましさ等、コミュニケーションの軋みです。それは体裁的にはコミュニケーションであっても、実のところ互いの思惑を拒否し、見ないようにしてやりすごすディスコミュニケーションだったりする。その喧騒をさらにかき回す存在としてあらわれるいささか記号的なバンギャルまで含め、全員がそれぞれの論理と処世のために生きているだけではあるのです。それなのに、男も女も「ただ生きている」ことがこんなにもみっともなく恥ずかしい。その恥ずかしさを鳥瞰図で見せてくれるいたたまれなさ。
 もちろんこれは、調子に乗ったバンドマンだからではないし、キャバクラ嬢だからではないし、バンギャルだからではない。普通の私たちの普通の姿、普通の性欲の情けなさを身も蓋もなく省みせてくるのが根本作品の大きな、目を背けたくなるような魅力です。


 そのボーカルと同棲している恋人の女性が一人で部屋で過ごす、きわめて静的な場が合コンと並行して描かれるのですが、その対照がひたすら上演されることで浮き上がるのは、知りさえしなければ存在しなかったことにできた、「裏」の姿というものの厄介さです。ボーカルの男が、恋人の日常生活の裏で遂行するあからさまな浮気は、両者がその時間に過ごしているそれぞれの場所が繋がりを持たない限り、「なかった」ことにできるものです。ばれないでいてくれれば、浮気は浮気たりえない。そんな表/裏の越境が、本作のテーマの一つになっています。


 合コンのお店と同棲している部屋との間をとりもつようなきっかけがなければ、バンドのボーカルとファンという関係性以上に踏み込む侵犯がなければ、あるいは表面上成立しているキャバクラ嬢同士の背後の思惑が表面にあらわれなければ、致命的な破綻を呼び込まなくても済んだのかもしれない。すべてがつまびらかになるような「正義」は時に、誰を幸せにすることも誰の気持ちを納得させるものでもない。それでも不義を不義として追及し、あばくという「正義」への欲求を抑えられない不格好さもまた、我々が繰り返す普通でみっともない営みです。


 芸能人を表/裏の二面に峻別して捉えることは、特にステージと日常とが互いに侵食し合うことそのものが訴求力になっている女性アイドルシーンなどを想起すれば、少し古い切り取り方のようにも思います。ただし、本作で表現される「裏」は、「芸能」に関わるゴシップとしてではなく、人間関係にとっての表/裏の越境を象徴的に見せるための素材として見たほうがよいのでしょう。

2014_8_22_nemoshuu_2

 今回、根本さんは獲得しつつある自身の劇作家としての足場をそのまま舞台に乗せています。すなわち、彼女自身が劇中で「根本宗子」役を擬似的に演じている。それ自体がまた、表/裏、虚実の皮膜を揺らす重層的な役割を果たしています。根本宗子さん演じる「根本宗子」の部屋には大人計画の戯曲本が並べられ、大森靖子のポスターが貼られといった、彼女が平素垣間見せるパーソナリティが再現されています。


 これは本作のテーマへのリンクになると同時に、作品と根本さんとの距離感の近さを示唆するものでもある気がしました。すでに書いたように、根本作品は人間のみっともなさや甘さ、理不尽さを描きながら、それを単に他人ごととして見せるのではなく、観ている者たち自身の抱えている同様のみっともなさ、さらには作り手である根本さんや演者自身のもがきを映すような、自分たちを批評する距離も持ち合わせています。


 ただし今作の場合、根本さんが「根本宗子」を演じ、劇作家としての実人生と関連付けて描くのと呼応するように、「嫌いな」人を戯画化して溜飲を下げる方向への舵取りが幾分強くなっているようにも感じました。つまり、自分たちを含めた人間の情けなさを突き放して俯瞰するスタンスよりも、「嫌いな」他者を他者として捉え、その「他者」に向けての威嚇が強くあらわれているような。そのこととも通じますが、ラストシーンがそれまでの流れから少し跳躍したような感もあり、ラストの「惨劇」は、作品としてのバランスよりも現在の根本さんにとっての心地良さが重視されているように見えました。


 作品と根本さんとのこの距離感は、今作の弱点のようにも見えるし、一方で根本宗子さんという作家の現在の勢いのあらわれのようにも見えます。いずれにしても、男と女の弱さみっともなさを直視したくなくなるほど繊細に描く筆致はやはり彼女の大きな強みだし、その描写の力があるからこそ、いかに「嫌な女」として設定されても、根本作品に登場するどの人物も、それぞれの論理で、それぞれの弱さと致し方なさで生きているから愛おしい。
 挑発的なタイトルや文言で「嫌い」を突きつける本作は、人間の弱さみっともなさを容赦なく描き、どの登場人物のこともなかなか「嫌い」にさせてくれない芝居でした。
スポンサーサイト

テンションと微細さと

*『太陽2068』 シアターコクーン (2014年7月7,8日)

taiyou2068_0

 ごくごく日常的な暮らしの中にSF的な設定が静かに浸透していき、やがて世界が致命的な事態に向かって加速する。イキウメという劇団は、しばしばそうした世界を描きます。特にそのような設定を用いて、イキウメの主宰・前川知大が巧みに描くのは、異物である他者と共存することの困難さや、理解し合うことができない絶望を前にした人々の葛藤です。

 2011年に上演された『太陽』もまさに、先進的で理性的な人々と、過去の遺物としての立場に置かれた人々との、互いに対する分かり合えなさを繊細に描いていました。(2011年の『太陽』レビューはこちら

 本作『太陽2068』は、その作品の蜷川幸雄演出によるリメイクです。
 この作品は、先に述べたようなSF的な設定が日常に浸透してしまい、世界が一旦破綻を迎えたのちの状況から始まります。


<バイオテロによって人口が激減、現在あるような社会基盤が破壊されたのちの世界。生物兵器感染から奇跡的に回復した人々は、通常の人間を遥かに上回る能力を持つ身体に変異していた。彼らは頭脳明晰、肉体は若く健康なまま維持できるが、吸血鬼のように太陽光のもとでは生きられない体質をもつ。徐々に人口を増してゆく彼らは自らを通常の人間と区別し、「ノクス」(ホモ・ノクセンシス=夜に生きる人)と名乗るようになる。
一方、生物兵器汚染から逃れた通常の人間は、人口的にも政治経済の担い手としてもノクスの周縁に追いやられ、ノクスに依存しながら小さな集落を作り生活している。彼ら通常の人間は「キュリオ」(骨董品の意)と呼ばれている。>


 キーとなるのは、進化形の人類であるノクスと、旧来型の人間であるキュリオとの断絶が単なる排除や敵対の関係ではないことです。
 日本を実質的に掌握するノクスは、キュリオとの間に「共存」を掲げていても、その温情的な眼差しの下には、感情的で今や非文明的な存在でもあるキュリオに対する差別意識も見え隠れする。ノクスは、自身が「理性的」であり、またその理性的であることを美徳として自負しているゆえに、自身の中にある欺瞞や、キュリオへの差別意識という、「感情的」な不完全さを自覚せざるを得ず葛藤します。

 他方、キュリオもまた、ノクスに反発を覚え断絶状態を維持しようとしながらも、キュリオからノクスに変異する施術の権利を我が子のために得ようとします(若者に限り、ノクスに変異できる方法が発明されている)。つまり、ノクスを嫌悪し拒絶する一方で、できるものならばノクスとしてこの先の人生を生きた方が人間として「幸せ」である、という認識も持ち合わせている。それはまた、自分たちキュリオが、旧世代として滅びていくほかないという諦念とも隣り合わせです。
 この細やかな関係性の描写によって、対立しあう二者という構図が生む単純でない感情のありようがえがかれていく。


 さて、この基本的な設定やストーリーは、2011年のイキウメ版を継承していますが、蜷川演出になったことで、その手触りや強調されるものは大きく変わりました。

 イキウメが日常性を保ち、落ち着いた明晰な発声で会話するのに対し、蜷川演出では言語をより劇的に発し、テンションも高く強烈になり、その身体も日常的な静かさというよりも、より劇的なものになります。そのことで、イキウメ版のような我々と地続きの世界とは異なる、ひとつ異世界の出来事になった、独特のリアリティの水準が生まれます。

 その蜷川演出のテンションによってこそ可能になったのは、「スター」の個が放つチャームの強調です。
 蜷川版のリメイクでバランスに手が加えられ、大きくフィーチャーされるようになったのが、断絶するノクス-キュリオ間の個人的な友好関係の象徴である、ノクスの森繁(成宮寛貴)とキュリオの青年鉄彦(綾野剛)のやりとりです。
 抑制の効いた言葉で意味を伝えることよりも、個の感情の応酬の方を泥臭く引き出すことで、成宮寛貴、綾野剛という二人のスターのチャームを強く見せている。またその中に、ともすれば役柄以上に、二人の若手スターのパーソナリティの交流を見るようなじゃれ合いを頻繁に差し挟む。
 これは、高い有名性をもつタレントを揃えるという、シアターコクーン的なキャスティングに対して効果的に働き、この二人によって担われるラストのカタルシスも、イキウメ版とは対照的な高揚感になっていました。
 少しずつ距離感を詰め、仲を深めていく二人の可愛らしさを最大限に引き出せたことが、後半のある悲劇、それを経てのラストの解放へと繋がり、本作随一の魅力になっていたと思います。


 また、変異の権利を得るチャンスを持ちながらもキュリオに留まることに希望を見ようとする娘・結(前田敦子)も、その一例でしょう。彼女の前半~中盤の感情表出の強い演技は、終盤の表情の変化に効いてきます。
 芝居中盤までの彼女は、座組に馴染んではいるけれど、演技に自身の色がさほど強く出せてはいないかなと見えていました。しかし終盤の展開を経て再び姿を現した時、彼女はそれまでの流れと断絶した、「別人」の表情を正しく作ります。一種特異な存在感をもつ前田敦子という役者の片鱗は、この終盤の表情に集約されていました。
 ここで彼女が見せる表情は、ごくごく穏やかで台詞も落ち着いたトーンで語られるのみです。この、ごく普通のテンションをきちんと体現できたからこそ、彼女が演じる結の決断がもたらした哀しさが強烈に響く。感情を強く叩きつけるような演技のあり方ではないこの場面にこそ、彼女の手柄はあったように思います。これから先、もっと舞台で成長する姿を観続けたい役者の一人です(ちなみに、伊藤蘭さんのようなキャリアを持つ俳優が「母親」役としてそばにいることも、彼女に良い効果をもたらしそうな気がします)。

 前田さんがここで見せた、断絶を体現した曇りのない表情は、結の父親草一(六平直政)にとっては、肩の荷が下りた安堵の種であり、同時に娘と完全に分かり合えなくなったことを思い知らされる絶望です。彼女の表情が強いからこそ、草一がここで見せる泣き笑いの表情が活きる。


 これら、若手スターの魅力の強調こそが、蜷川版がこの『太陽』にもたらした大きな効果でした。

taiyou2068_2


 一方で、それと引き換えに薄れたのは、この戯曲が持つ静かで微細な描写ではないかと思います。
 イキウメのSF的設定が秀逸なのは、その設定自体の新奇性に寄りかからず、その設定を介した語りを通じて、「人間」の感情を単純化せずに描ききる点です。本作でいえば、断絶した二者の相互に対する拒否反応と無理解が、単なる疎み合いだけで成り立っていない複雑さでしょう。

 それは、設定を説明したり論理を積み重ねたりする台詞の中で獲得されるものです。イキウメは役者陣の演技水準の高さが毎回、作品に大きく貢献していますが、その演技は抑制的で明晰な発声であるため、細かなやりとりに含まれる設定までを受け手が理解することができる(これはもちろん、「演劇」的な面白さを損なうものではないと思います)。

 蜷川演出によるエモーショナルな芝居は、個の強さを提示して劇的な言葉や身振りを引き出す一方で、そうした静かな細やかさをいくらかスキップしてしまうことにもなった気がします。それは役者個体の劇的な言葉や身体を大事にするならばある程度は不可避のことであったかもしれません。


 また、もう一点、蜷川版の特徴に、イキウメ版にはなかった追加登場人物・拓海(内田健司)の存在があります。己の欲求のコントロールが下手な若者としてのこの役を創出したことで、舞台上に「生」の匂いも、「性」の匂いも不穏なかたちで付加され、蜷川版オリジナルの空気を作ることに貢献していたと思います。

 しかし一方で、新たに追加されたことの余波かもしれませんが、ストーリーの中ではやや中途半端になっていたように見えました。後半の拓海の「ある行動」が、その後にどう繋がるのか。結の絶望の引き金のひとつと捉えられなくもないですが、あまり決定的なものにもなっていないような。
 拓海の存在は、特に「性」の匂いに関する生々しさをもたらしましたが、同時に、戯曲に歪さを加えることにもなったのかもしれません。特に、ともすれば「前田敦子さんにあやういシーンを用意する」という、俗っぽい芸能トピックに回収されてしまう可能性も考えると、あんまりうまくないかなあと感じました。


 ただし、エモーショナルさの強調に関して言うならば、それは戯曲から何かが「失われた」と捉えるべきではないのだろうと思います。
 2011年のイキウメ版では、相互についてイメージし受容することの困難さが抑制的に描かれるからこそ、そこに断絶についての普遍的な示唆がありました。たとえば欧米地域とアジア地域、原発にまつわる錯綜、あるいは世代間の断絶、また部分的にはハンディキャップをもつ人々とそうでない人々といった、数々の「断絶」。

 本作ではそのうち、「世代間」の断絶というものが、特に視覚的には色濃くあらわれます。これは、もとの戯曲に比べて何かイメージが限定されてしまったのではなく、そのように幾重にも意味を投影できる脚本から、演出・脚色の段階で、「世代」の割合を強めに抽出したということかと思います。

 優秀な脚本が、演出家によってある面を強調されること、新たに色付けられるということ。そのことによって、オリジナルからは想起できなかった役者の個のチャーミングさの強調を堪能し、また翻って、オリジナル版の持つ微細さをあらためて噛みしめることができる。脚本の強靭さ、演出による肉付けの凄み、往還するように双方を楽しむことができたかなと思います。

まず「芝居」であること

*乃木坂46公演「16人のプリンシパル」trois 赤坂ACTシアター (2014年5月30日,31日)

principal3_1

 いま思えば試行段階にも見える2012年の初演をプロトタイプとして、2013年の乃木坂46公演「16人のプリンシパルdeux」(詳しくはこちら)で確立したのは、演劇オーディションの過程を観客に開示して(それ自体を見世物にして)、そのキャスティング権を観客投票に委ねるというシステムでした。それはファン介入型でありながら人気投票に終わらない、また、演技の素人であるメンバーたちが瞬間的に垣間見せる演技適性の萌芽(らしきもの)に溢れた、特殊な公演形態でした。


 昨年の「deux」ではそのオーディションパートには、「とある劇団のオーディション」という「設定」が与えられ、その中でメンバーと演出家(江本純子)は、“受験者と演出家”という虚構の関係性を半分演じ、そしてまた半分は「乃木坂46」のメンバーがオーディション自体で葛藤する姿を生のドキュメンタリーとして見せるというバランスになっていました。そこでは演出者の江本がオーディションを統率しディレクションしながらも、キャスティング権はオーディション自体には介入できない観客にあるという権限のねじれも生じて、それが「プリンシパル」の構造をいっそう趣深いものにしていました。


 今回、ステージ上の演者たちはよりストレートに「乃木坂46のメンバー」そのものとして存在しています。冒頭や転換の時間にスクリーンにあらわれるキャラクター、「ソニーのコンノ」(佐藤二朗)が、乃木坂46を運営するSONYを当て込んだ“業界”的な身内ノリであることからも明らかなように、昨年のようなかすかな虚構性はそこにはなく、舞台上の人物たちがまごうことなき乃木坂46であることを示している。
 この構造のシンプルさ自体に問題はないし、ひとつの正攻法だと思います。ただし、ひとつ気になることをあげれば、この“業界”的な身内ノリは、ただでさえ内向きな「プリンシパル」の中で、受容層をさらに狭めてしまう気がしました。


 とはいえ、オーディションが単なる人気投票にならないスリリングさは今年もうまく機能しています。
 初日公演でも、その面白さは早くもあらわれました。第2部の演劇内唯一の男役ロザリオ役を、生駒里奈さんと斎藤ちはるさんの二人が競い、斎藤さんが役を獲得しました。グループの人気や知名度、優遇度で考えれば、ファンによる投票で現状、斎藤さんが生駒さんを凌ぐことは困難です。しかし、その場の巡り合わせやその瞬間に発揮できた演技力、対応力が肝になるこのオーディションでは、こうした「逆転」が往々にして起こりうる。そこにある驚きと緊張感は、同様にファンを介入させる他の48系の企画と比しても異彩を放つものです。グループ内の目に見えやすい立ち位置ではないところに宿る投票結果は、独特の説得力がある。

p3_3

 他方、昨年確立した「役ごとに立候補してオーディション」という形式を基本的に継承しているだけに、昨年に比べての難点もまた明確になっていました。

 最も難しいのは、昨年が「演技」による選抜だったのに対して、今年の「trois」では「面白さ」を基準に選抜するよう促されることです。同じ役に立候補したメンバー同士の組み合わせでコントを上演し、そのパフォーマンスが選考者の判断材料になるわけですが、そこで判断される「面白さ」が第二部と有機的に繋がりにくくなっていたように思います。

 第2部はコメディに主眼を置いた一時間近くの「演劇」でもあり、そこでは言葉の積み重ねと間による「笑い」の構築が肝要になります。もちろん第1部のオーディションで課されるコントにおいてもそれは変わらないはずなのですが、短時間で自らをアピールする必要に駆られるため、メンバーが選択する「面白さ」の性質が、演劇的なそれとは大きく離れてしまっていました。

 オーディション課題となるコントは稽古で事前に実践したことのあるものだと思われますが、その場で急遽組むメンバー同士で配役も即席に決めるため、間をつくって協調し合うための環境には不向きです。自然、短時間で「己」をアピールするための一発芸的な「面白さ」に流れがちになってしまう。多くのメンバーはその方法として訛りやアクセントの過剰な強調による、「変な喋り方」によるキャラ付けを実践していました。

 それらは瞬間的には笑いに繋がることもありますが、一定の長さのあるコント全体をそのキャラで通せば笑いのメリハリも失われて冗長になってしまい、またコントの設定やセリフのやりとり自体に支障をきたします。笑いや演技のプロではない彼女たちは自然、同質の冗長さを繰り返してしまう。

p3_4

 これに関連して、昨年との大きな違いとして、オーディションの進行が録音音声で行われている点があげられます。昨年の「deux」では、第1部のオーディションについても「舞台作品」としての枠内に成立させるために、常に演出家の江本は公演中に声で出演して指示を出し、交通整理をしていました。今回はその役目がいないため、メンバーのみに舞台上の運びが任されてしまう。メンバーのみで一定の長さのコントを最後までやり切ることが平等の条件になっていて、ディレクション役がいないのです。たとえばコント内にサポートとしてプロの役者が一人常に入って舵取りをしていれば、成果は大きく違ったような気がします。


 これは公演期間が開始したばかりの所感ですが、公演を重ねることでオーディションも「コント」という演劇を上演しているのだという意識に変わってくれば、各人の演技スタイルの違いもまた引き出せるようになって、より楽しめるようになるのかなと。第1部が次の段階の面白さを獲得するのは、「変な喋り方」合戦を抜けて以降かもしれません。


 上演期間が進むに連れての変化というのは舞台演劇には必ず生じるものですが、「プリンシパル」は、「半舞台裏、半表舞台」という二面性そのものが舞台に載せられる性質上、日を追って見える変化が「演劇」部分のみではない。演者たちが舞台を創っていく、その過程までも上演されることが、「16人のプリンシパル」という企画が一貫して有している醍醐味でもあります。それは自然、複数回の観劇によってこそより十全に味わえるという内向きのものにもなってしまいますが、そうでなければ具現できないエンターテインメントはたしかにそこに実現していると思います。
(※リピート観劇を促す内向きの企画だからこそ、映像パートが同じものの繰り返しだったり、オーディションの舞台仕切りが録音音声のみというのは、趣旨に対して不親切であるように感じました)


 事前の予想以上に良い仕上がりになったのが第2部の演劇パートでした。第1部のオーディションではコメディ進行上の間延びが気になったのですが、演劇パートは存外にテンポが良く、芝居の感触としては「deux」よりもすっきりしていたと思います。

 「ポリン姫」が父母の囚われた異星で冒険する成長譚を基本軸にしたコメディは、テレビ等で頻出する際物を盛り込みながらも、その際物をやること自体の気恥ずかしさを笑いにしてテンポ良く進めていることもあって、第1部の冗長さとは大きく手応えが違いました。

 大事なのは、第1部のオーディションでメンバーがつくろうとしていた「面白さ」とは、構造が大きく異なるということ。ここで明らかになるのは、「笑い」のためにまず、普通に整った「演技」がされなければならない、ということだったのではないでしょうか。 結果的に第2幕はある程度「演劇」をせざるを得ないためメンバーの演技への意識も数段高くなり、各人の活かしどころが多いように思いましたが、やはりそのぶん第1部との食い合わせの良くなさに思いが至ってしまいます。第2部がコメディというジャンルの「演劇」であるのと同様に、第1部でメンバーたちが上演する「コント」もそれと同じだけ「演劇」として尊重されるべきなのだと思います。

principal3_2

 しかし、そうした歪さを抱えながらも、やはりこの企画がとても特殊で魅力的なスタイルを持っていることには変わりない。 三年目を迎えた現在でも、「16人のプリンシパル」はまだ、この魅力的な装置の最適なバランスを試行錯誤している初期段階なのでしょう。
 舞台演劇についてはまだ何者でもない彼女たちが、思わぬ適性の萌芽を見せる瞬間に立ち会えることはとても楽しい。オーディションの手順構築や、投票環境等も含めて課題も持ち上がった「trois」ではありますが、積み重ねることで安定したバランスを探り当ててほしいなと思います。

人のセックスを笑うな

*ポツドール『恋の渦』(2006年上演:viaシアター・テレビジョン) (2014年2月11日)



 2013年公開映画『恋の渦』の原作となる、ポツドール上演版(2006年)を映像で観ました。順序としては、昨年映画版を先に観ていましたが、その時に感じていたことを含めて、ちょっと通常の演劇レビューとは違う雑感です。

potudor_1
ポツドールHPより)

 映画版を観た際、素直に面白いと思いました。
 その面白さとは、小さな食い違いが雑なままに温存されて流れていくことから来る、人間のコミュニケーションの齟齬に対する視線の細やかさでした。それらを体現する役者の表情や佇まいを含めて、提示してくるものは非常に自分好みの描写がされていました。


 一方で、観た後そしてそれ以降しばらく経っても、ある種の居心地の悪さをずっと感じ続けていました。映画版の「ゲスで!エロくて!!DQN♡」というキャッチコピーに象徴されるように、この映画は「DQNの生態」を覗き見するかのようなプロモーションがされていたように思います。端的にいえばそこに、安全圏から自分とまったく違う世界の人間たちを戯画化して嗤っているような気分を感じていました。つまり、己とは性質や習慣の隔絶した人々としての「DQN」像を設定してそれを観光するような、ともすれば見下しの視線の混じった居心地の悪さです。そしてまた、その作品に面白みを感じている自分を持て余してもいました。


 今回、ポツドール版を観たことで、その何かが少し整理されたような気がします。
 まず三浦大輔という作家がやろうとしているのは、コミュニケーション(の齟齬)の真摯な観察と描写であって、決して「DQNの生態」観察などではない。

 冒頭の、彼女なしの男性オサム(古澤裕介)に女性を紹介するパーティー。一見して感じるのは、初対面の男女を紹介する際の周囲の人々のデリカシーのなさ。グループの中心的存在であるコウジ(米村亮太朗)をはじめとする彼らは、オサムに女性を紹介する流れでTVの際物ネタなどの「ノリ」をオサムに強要し、当のオサムと相手女性のテンションをないがしろにしている。
 ここに描かれているのは、つまり友人に異性を紹介してあげるという体裁をとりながらも、場の主役も主導権も無意識に手放そうとしないコウジたちの論理です。彼らにとって、男女を引き合わせるというのは自身たちのための肴であり、あくまでも自分たちの気分を良くするためのイベントです。同時に、コウジたち自身はそうであることに気づいていない。主観としては、オサムのためのイベントを「開いてあげている」。その自らの錯誤ゆえの権力性にコウジは無頓着です。


 コウジは自宅で開いていたそのパーティー終了後、己の無自覚な権力性を同棲している彼女トモコ(遠藤留奈)に向けます。コウジの弟ナオキ(河西裕介)が連れてきた彼女サトミ(小島彩乃)が所在なさげにしていたことに目を留め、なぜトモコがケアしなかったのかと問い詰める。よく聞けばコウジの論理にも破綻はあるにもかかわらず、彼の高圧的な態度に屈して謝ってしまうトモコは、半ば論理的に負けてしまったような錯覚と腑に落ちなさを覚えつつ怯える。そしてまたコウジも、その場の権力関係によって、自身が論理的に正しいと錯覚する。このもどかしさとどうにもならなさの描写がまず見事です。


 他方、コウジらの先導でオサムと引き合わされた女性ユウコ(白神美央)はなし崩しにオサムの部屋に押しかけます。とはいえパーティーがコウジらの「ノリ」に占拠されていたため、ろくに打ち解けていない二人は、部屋にぎこちなく座ったのち会話が弾まない。それでも、互いに異性を紹介するといわれてパーティーに足を運び、その異性と部屋を共にしている以上、その水面下に相手へのエロティックな期待を忍ばせて、ついにはその期待が噴出してセックスへと流れていく。あからさまな性欲先行の交わりの中で、それでも自身の行動を正当化するような場当たり的な言葉を並べて、相手に対して取り繕おうとする不格好さが滲む。


 他者との関わりにおいて無数に生じる、コミュニケーションのささくれた部分が、本作では丁寧に描写されていきます。ナオキとその彼女サトミの間の、表向きうまく行っているようでいて互いに「裏切り」をしている、それでいて相手との結びつきをありがちなやり方で確認しようとする関係、あるいは一見奔放にセックスをしているように思えるカオリ(内田慈)をめぐるタカシ(美館智範)とユウタ(鷲尾英彰)の、友人関係の内にある小さな苛立ち。それに、「恋人」に無様に依存してすがりつく登場人物たち。


 それらは我々の生活にいくらでも転がっていて、それをやり過ごしたり先送りにしたりして、小さく不満をためながら日々は過ぎていく。そんな大小の齟齬の集積を浮き彫りにする設定として若くてチャラい男女が登場人物に設定されてはいますが、それは彼らのような社会的属性に特有のものではない。間違っても、「DQNだからこのような思考回路や行動をとる」といったような、「DQN」ではないと自認する者が対岸の火事のようにみなせる事柄ではありません。


 セックスを伴う「裏切り」は彼ら彼女らのような人物に特有のものではなく、恋人でない者同士のセックスも観客の生きる日常世界にはいくらでもある。そんな「普通の」セックスが俯瞰されれば皆たいがい滑稽だし、一時的であれ思い入れた相手にすがりつく瞬間はたいがいみっともない。自身の心情の伝え方なんて常に雑で、そこから生まれる誤解もささやかな上下関係も放置しがち。当の我々が生きているのはまさにそんなみっともなさです。

 そうした人間のコミュニケーションへの、真摯で細やかな視線こそが、『恋の渦』のなによりも優れた点です。


 これらのエピソード描写は、実は映画版『恋の渦』でも忠実に再現されています。映画でも、こうしたコミュニケーションに関する齟齬はやはり細かに描かれている。つまり、この映画においても見るべきは、「DQN」の戯画ではなく、その人間同士の関わりへの繊細な視点なのです。

 冒頭で述べたような居心地の悪さとは、映像作品単体というよりは、その繊細で普遍的な人間への視線によって支えられた面白さが、「DQNの生態」のような印象に置き換えられてプロモーションされ、受容されることへの違和感だったのかもしれません。緻密に描かれているのは我々が日々体験し続けているみっともなさや苛立ちの種、セックスにまつわる滑稽さであって、それは「DQN」特有の何かではない。ともすればその「DQN」を「他人」として嗤ってしまえるような誘導は、映画版の魅力のあり方をややねじれさせてしまうようにも思います。


 それでも、そうしたイメージに引っ張られて、「DQN」の戯画化そのものをエンタメにしたようなプロモーションは、さしあたり成功しているように見えますし、そのことの利点は小さくないと率直に思います。この映画の面白さが「DQNの生態」みたいな印象に回収されてしまうのはちょっと惜しいと感じるのだけれど、そこはプロモーションとの諸刃なのかな……。映画が多くの人に届くことは良いことに違いないですし。


 セリフなども含めておおむね進行の共通した舞台版、映画版を観たことで、両者の媒体上の利点もまた鮮明になりました。映画版で強く印象に残っていたのは、コウジ(新倉健太)をはじめとした役者の表情が皆良いこと。それはもちろん自在にカットを割ることのできる映像特性によってもたらされるものですが、各キャラクターの立ち方という面では、やはり映画版に利がありました。舞台で群像として観ていると、ともすると似た印象に見える瞬間もある人物たちを、映画版では微細に切り取り、また役者陣もいい「顔」で応えている。

 一方でオリジナルの舞台の強みは、それぞれの部屋でパーティー後の同時間帯に並行して起きるやりとりを一覧させるダイナミックさです。三浦大輔作品に頻出する、舞台上に複数の部屋を割ってみせるセットの面白さが、ここではねじれた男女関係の進行や、各部屋でそれぞれの事情で苛立ちを爆発させる様がほぼ同時に描かれる際の盛り上がりなどに有効に用いられている。舞台でしかなしえない機構の面白さを、映画版を踏まえて観ることでまた再確認させてくれる。
舞台版、映画版いずれにも、正負入り混じった刺激に溢れているゆえの収穫かなと思います。

「あのころの未来に」

*月刊「根本宗子」第9号『夢も希望もなく。』 下北沢駅前劇場(2014年1月17日)


n

 根本宗子という作家の真骨頂は、どうにも拭い切れない人間の「甘さ」「弱さ」を繊細に、辛辣に描く点にあります。その「弱さ」は時に社会に対する根拠のない優越感としてあらわれ、時に自身の報われなさの原因を外部に押し付けるみっともなさとしてあらわれる。そうした舞台表現のひとつひとつは、他者を安全圏から笑うためではなく、観る者が自身を省みざるを得ないような痛々しさとしてあります。

 そうした根本作品の目を背けたくもなるような魅力は今回、観る者以上に根本宗子本人に、そして演劇をする者自身に直接返ってくるものになっています。すなわち、そこで冷徹な目をもって観察されているのは、クリエイターワナビー同士が温存し続ける「甘さ」にほかならない。


 作家志望の優一(水澤賢人)は己の才能に自信を持ちつつ、アルバイトをしながら執筆活動をしている。優一の恋人ちひろ(福永マリカ)は劇団に所属し、やはりアルバイトをしつつ演劇やオーディションに勤しんでいる。お互いに「芸術」的な道を進んでいることを好き合い、関係は良好のようにみえる。ちひろの幼なじみで看護師という「普通」の道を目指す絵津子(根本宗子)らもちひろの活動を応援し、ちひろが映画のオーディション一次選考通過の通知を受けるなど順調に日々が流れている。そんな光景が繰り広げられる舞台下手の一室とは対照的に、上手では会社員の女性と半ば無職状態の恋人との力ない同居生活が行われている。


 根拠も実績もない、自らの才能(があってほしいという希望)にすがる男性が恋人に見せるみっともなさは、過去の根本作品『根拠のない余裕』(2010年、タイニイアリス)の主人公に通じる設定です。本作は、『根拠のない~』でもがいていた作家志望男性の過信の描き方がさらに磨かれている。
 他者が世間話的にこぼす会話に対し、日本語がわかりにくいとダメ出しをするさまに滲むのは、作家志望の優一の繊細さ以上に、そのようにダメ出しすることで他者の「才能のなさ」を確認するような自己防衛です。ちひろの所属する劇団の公演にも批判的な感想を述べながら、それは芝居を作っている主宰の責任であり、自分はちひろにそんな才能のない人たちの作品に関わってほしくないと主張する。「才能のある」自分(同時に審美眼もあることになっている)が、ちひろの「ためを思って」するダメ出しに、ちひろもまたほのかに違和感を持ちながらも感謝する。
 二人は互いに「芸術的」な道を歩むことにアイデンティティを見出しますが、それは社会の「普通」に対する見下しによって成立しています。アルバイトを適当な理由で休み執筆のための時間をとる優一にじゃれるような言葉を投げるちひろ。そしてそれに応じて自らたちを「社会不適合者」と自称する優一は、その言葉に明らかに優越感を託しています。また、「芸術的センス」がゼロだと自ら述べながら素直にちひろを応援する絵津子を優一はあからさまに見下している。優一に引きずられるように、優越感を伴ったアイデンティティに浸っていくちひろは、彼女を長年見てきた絵津子の心配をはねつけ、優一への思いに傾斜していく。ここでちひろは、優一のパーソナリティが好きなのか「才能」が好きなのか判然としません。というかそれはどちらかだけが好きと決められるものではない。とはいえ、その優一の根拠のない「才能」はちひろを駆動し、他方で優一の心理にも抑圧的に作用していく。

nemoshuu_2014_1_b


 それが大きな軋みとなるのが、ちひろのオーディション一次通過です。「芸術」を志すうえで、他者に公的に認められるステップを踏んだちひろに対し、優一は苛立ちを隠しきれなくなっていく。優一の自らの「才能」への自信は、ちひろが道を切り拓いていないこと、自分よりわずかでも上にいないことが拠り所になっています。その軋みを、やがてちひろは自らが「社会不適合者」から降りることで解消しようとする。しかしそれは、それまでも許していた優一の甘えをさらに許し、生活的にも精神的にも優一を依存させていくことになる。そして、優一の「才能」が駆動因だったちひろの優一への依存心が、くすんでいく契機でもあります。


 ところで、そうした関係が繰り広げられる一方、舞台の反対側ではもうひとつの男女関係が進行しています。会社員として働く女性(大竹沙絵子)と、たまに夜勤に出るのみでほぼ無職の男性(郷本直也)との、もはや惰性と情のみで結びついたような関係です。昨年の根本作品『今、出来る、精一杯。』(2013年、下北沢駅前劇場)に通じる男女の関係といえるでしょう。女性は男性に経済的な期待をせず、依存することを許し続けている。友人の杏奈(梨木智香)との、小さな生活感のあふれる会話に、彼女の静かな諦念と不安が垣間見えています。彼女の名はちひろ。つまり、次第に明らかになるのは、舞台上手で進行している男女の物語は、優一とちひろの10年後の姿をうつしたものだということです。


 創作をやめ、かといってあまり働きもせずにちひろの家に同居する優一は、クリエイティブな道を歩む他者へのシニカルな視線のみを残したまま、自堕落な日々を過ごしている。その優一とちひろの10年後と同時に、舞台下手ではまだ22歳で拠り所のない自身の才能を信望することのできる優一と、劇団を辞めそれを支えることにしたちひろの、無軌道な日々の始まりが描かれていくことになります。それが無軌道に見えるのは、すぐ横に10年後の「生活」が描かれるため。このきわめて舞台的な仕掛けによって、根本はこれまでもテーマにしてきたような人々の「甘さ」の成れの果てを描くことに成功しています。若いちひろたちのストーリーが展開している時、上手にいる10年後のちひろは過去のある岐路を思い返しているようでもあり、10年後の日々が進行していく時、それは下手の若いちひろのゆく道が暗示されているようでもある。
 彼女ら彼らの最悪にどうしようもなく甘くて弱い姿の丁寧な描写は、観る側にとっても遠くにあるものではない。そしてこの作品は、なにより根本や出演者たち自身にとってこそ、自らに対するドライな批評でもあるのです。


 しかし優一の甘さを許したまま過ごしてきた10年後のちひろに、根本は否定的な未来を突きつけてはいない。優一に傾倒するあまり自身の俳優としてのチャンスを自ら絶ち(そのことが本当にマイナスの判断だったのかはもちろんわからない)、優一のためにと始めた「普通」の生活から、「優一のため」という駆動因は消失してしまった。それは何かに賭けてきた日々の終わりではあるけれど、その感傷に浸り続けることすら許さない目の前の生活は、それはそれで自分を否応なく駆り立てる。優一が出て行った瞬間から、もうその次のせわしなさは動き出している。何も達成できなかった10年後が「末路」ではなく、日々の連なりとして肯定されていることは、作品の終盤の完成度に貢献していました。同時に、ちひろがかつて優一のために切り捨てた昔からの友人、すなわち「普通」の人として人生を送る絵津子が過ごしていた10年が最終盤で優しく扱われることで、どうしても甘くて弱い人物たちに注目が当たる根本作品に奥行きをもたらしていたように思います。


 相変わらず根本作品得意の、恋愛沙汰をめぐる人々の気恥ずかしさみっともなさは容赦なくも面白い。誰にでも心当たりのある、それ自体たいした悪でも失敗でもない、不完全な者たちの恋愛へのそれぞれのアプローチを描く繊細な筆致は、根本作品にとって大切な武器でしょう。それを支える、もはや根本作品のキーともいえる梨木や、梨木の10年前を演じる長井短、ちひろと優一の最終的な破綻の鍵となる莉奈(杉岡詩織)、そしてもちろんちひろを演じた福永・大竹らキャストの細やかさも頼もしい。そろそろもうひとつキャパを広げた場で根本作品を観てみたいと思います。
次のページ

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。