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「嫌いな女」の嫌いになれなさ

*月刊「根本宗子」第9.5号『私の嫌いな女の名前、全部貴方に教えてあげる。』(2014.8.22)

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 本ブログでは幾度か触れていますが、根本宗子さんという作家の特性は、人間の抱えている甘さ、弱さあるいは大人になれなさに対する繊細な、辛辣な視線にあります。
 彼女の描く登場人物たちは、環境に甘え、肯定されるべき根拠を持たない自分を受け入れてくれる(ように見える)他者に甘え、自分が弱いことの「仕方なさ」を理不尽に主張し、外部に押し付けて暴発する。けれども、それらは異端者でもなければ、遠いフィクショナルな存在でもない。芝居を観ている我々が当たり前に抱えている弱さ、理不尽さそのものです。取り繕いながら、バランスを取りながら生きているだけの自分たちは、はたから見ればこんなにも弱くてみっともなくて、性に対して不格好な反応しかできない。そのことを根本作品は痛烈に突きつけます。人間が否応なく背負い込んでいるそんなみっともなさを安全圏から笑うのではなく、観る者が自らを省みざるをえないようなものとして、根本作品はあります。


 この辛辣さは時に、根本宗子さんという人自身、あるいは演劇をする者たち自身に直接跳ね返ってくるような批評性にもなっています。根本作品に時折登場するのはたとえば、クリエイターワナビーの男性と、彼の才能を信じているがゆえに経済的精神的に男を献身的に支える女性のカップリングです。「創造」や「表現」の貴さという、それ自体は尊重すべきものに寄りかかることで、自分たちの「甘さ」を温存し続け、互いの甘さや弱さをよりどころにするような共依存的な姿。とりわけ今年はじめに上演された月刊「根本宗子」第9号『夢も希望もなく。』(下北沢駅前劇場、2014年1月)では、作家志望の男性を支える女性もまた、演劇の世界に身を置いていました。実績も根拠もないまま己の才能(があってほしいという願望)にすがる男性が見せる他者への攻撃性は、他人には「才能がない」ということを確認するための自己防衛。もちろんそこで上演されているのは創作上の登場人物の弱さだしどうしようもなさなのだけれど、そのままそれを上演している人々自身の人生に対しても牙をむく。上演する者も観る者も本当は無関係などではない、人間の情けなさがありありと描き込まれるのが、「月刊「根本宗子」」です。


さて今回の作品『私の嫌いな女の名前、全部貴方に教えてあげる。』

 アイドル的人気を誇るバンドのボーカルがキャバクラ嬢たちと合コンをするという今作のメイン設定で映しだされるのは、女性たちの仲間内の関わり合いの水面下にある、それとない上下関係や、意識的無意識的にあらわれる相手への疎ましさ等、コミュニケーションの軋みです。それは体裁的にはコミュニケーションであっても、実のところ互いの思惑を拒否し、見ないようにしてやりすごすディスコミュニケーションだったりする。その喧騒をさらにかき回す存在としてあらわれるいささか記号的なバンギャルまで含め、全員がそれぞれの論理と処世のために生きているだけではあるのです。それなのに、男も女も「ただ生きている」ことがこんなにもみっともなく恥ずかしい。その恥ずかしさを鳥瞰図で見せてくれるいたたまれなさ。
 もちろんこれは、調子に乗ったバンドマンだからではないし、キャバクラ嬢だからではないし、バンギャルだからではない。普通の私たちの普通の姿、普通の性欲の情けなさを身も蓋もなく省みせてくるのが根本作品の大きな、目を背けたくなるような魅力です。


 そのボーカルと同棲している恋人の女性が一人で部屋で過ごす、きわめて静的な場が合コンと並行して描かれるのですが、その対照がひたすら上演されることで浮き上がるのは、知りさえしなければ存在しなかったことにできた、「裏」の姿というものの厄介さです。ボーカルの男が、恋人の日常生活の裏で遂行するあからさまな浮気は、両者がその時間に過ごしているそれぞれの場所が繋がりを持たない限り、「なかった」ことにできるものです。ばれないでいてくれれば、浮気は浮気たりえない。そんな表/裏の越境が、本作のテーマの一つになっています。


 合コンのお店と同棲している部屋との間をとりもつようなきっかけがなければ、バンドのボーカルとファンという関係性以上に踏み込む侵犯がなければ、あるいは表面上成立しているキャバクラ嬢同士の背後の思惑が表面にあらわれなければ、致命的な破綻を呼び込まなくても済んだのかもしれない。すべてがつまびらかになるような「正義」は時に、誰を幸せにすることも誰の気持ちを納得させるものでもない。それでも不義を不義として追及し、あばくという「正義」への欲求を抑えられない不格好さもまた、我々が繰り返す普通でみっともない営みです。


 芸能人を表/裏の二面に峻別して捉えることは、特にステージと日常とが互いに侵食し合うことそのものが訴求力になっている女性アイドルシーンなどを想起すれば、少し古い切り取り方のようにも思います。ただし、本作で表現される「裏」は、「芸能」に関わるゴシップとしてではなく、人間関係にとっての表/裏の越境を象徴的に見せるための素材として見たほうがよいのでしょう。

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 今回、根本さんは獲得しつつある自身の劇作家としての足場をそのまま舞台に乗せています。すなわち、彼女自身が劇中で「根本宗子」役を擬似的に演じている。それ自体がまた、表/裏、虚実の皮膜を揺らす重層的な役割を果たしています。根本宗子さん演じる「根本宗子」の部屋には大人計画の戯曲本が並べられ、大森靖子のポスターが貼られといった、彼女が平素垣間見せるパーソナリティが再現されています。


 これは本作のテーマへのリンクになると同時に、作品と根本さんとの距離感の近さを示唆するものでもある気がしました。すでに書いたように、根本作品は人間のみっともなさや甘さ、理不尽さを描きながら、それを単に他人ごととして見せるのではなく、観ている者たち自身の抱えている同様のみっともなさ、さらには作り手である根本さんや演者自身のもがきを映すような、自分たちを批評する距離も持ち合わせています。


 ただし今作の場合、根本さんが「根本宗子」を演じ、劇作家としての実人生と関連付けて描くのと呼応するように、「嫌いな」人を戯画化して溜飲を下げる方向への舵取りが幾分強くなっているようにも感じました。つまり、自分たちを含めた人間の情けなさを突き放して俯瞰するスタンスよりも、「嫌いな」他者を他者として捉え、その「他者」に向けての威嚇が強くあらわれているような。そのこととも通じますが、ラストシーンがそれまでの流れから少し跳躍したような感もあり、ラストの「惨劇」は、作品としてのバランスよりも現在の根本さんにとっての心地良さが重視されているように見えました。


 作品と根本さんとのこの距離感は、今作の弱点のようにも見えるし、一方で根本宗子さんという作家の現在の勢いのあらわれのようにも見えます。いずれにしても、男と女の弱さみっともなさを直視したくなくなるほど繊細に描く筆致はやはり彼女の大きな強みだし、その描写の力があるからこそ、いかに「嫌な女」として設定されても、根本作品に登場するどの人物も、それぞれの論理で、それぞれの弱さと致し方なさで生きているから愛おしい。
 挑発的なタイトルや文言で「嫌い」を突きつける本作は、人間の弱さみっともなさを容赦なく描き、どの登場人物のこともなかなか「嫌い」にさせてくれない芝居でした。
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まず「芝居」であること

*乃木坂46公演「16人のプリンシパル」trois 赤坂ACTシアター (2014年5月30日,31日)

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 いま思えば試行段階にも見える2012年の初演をプロトタイプとして、2013年の乃木坂46公演「16人のプリンシパルdeux」(詳しくはこちら)で確立したのは、演劇オーディションの過程を観客に開示して(それ自体を見世物にして)、そのキャスティング権を観客投票に委ねるというシステムでした。それはファン介入型でありながら人気投票に終わらない、また、演技の素人であるメンバーたちが瞬間的に垣間見せる演技適性の萌芽(らしきもの)に溢れた、特殊な公演形態でした。


 昨年の「deux」ではそのオーディションパートには、「とある劇団のオーディション」という「設定」が与えられ、その中でメンバーと演出家(江本純子)は、“受験者と演出家”という虚構の関係性を半分演じ、そしてまた半分は「乃木坂46」のメンバーがオーディション自体で葛藤する姿を生のドキュメンタリーとして見せるというバランスになっていました。そこでは演出者の江本がオーディションを統率しディレクションしながらも、キャスティング権はオーディション自体には介入できない観客にあるという権限のねじれも生じて、それが「プリンシパル」の構造をいっそう趣深いものにしていました。


 今回、ステージ上の演者たちはよりストレートに「乃木坂46のメンバー」そのものとして存在しています。冒頭や転換の時間にスクリーンにあらわれるキャラクター、「ソニーのコンノ」(佐藤二朗)が、乃木坂46を運営するSONYを当て込んだ“業界”的な身内ノリであることからも明らかなように、昨年のようなかすかな虚構性はそこにはなく、舞台上の人物たちがまごうことなき乃木坂46であることを示している。
 この構造のシンプルさ自体に問題はないし、ひとつの正攻法だと思います。ただし、ひとつ気になることをあげれば、この“業界”的な身内ノリは、ただでさえ内向きな「プリンシパル」の中で、受容層をさらに狭めてしまう気がしました。


 とはいえ、オーディションが単なる人気投票にならないスリリングさは今年もうまく機能しています。
 初日公演でも、その面白さは早くもあらわれました。第2部の演劇内唯一の男役ロザリオ役を、生駒里奈さんと斎藤ちはるさんの二人が競い、斎藤さんが役を獲得しました。グループの人気や知名度、優遇度で考えれば、ファンによる投票で現状、斎藤さんが生駒さんを凌ぐことは困難です。しかし、その場の巡り合わせやその瞬間に発揮できた演技力、対応力が肝になるこのオーディションでは、こうした「逆転」が往々にして起こりうる。そこにある驚きと緊張感は、同様にファンを介入させる他の48系の企画と比しても異彩を放つものです。グループ内の目に見えやすい立ち位置ではないところに宿る投票結果は、独特の説得力がある。

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 他方、昨年確立した「役ごとに立候補してオーディション」という形式を基本的に継承しているだけに、昨年に比べての難点もまた明確になっていました。

 最も難しいのは、昨年が「演技」による選抜だったのに対して、今年の「trois」では「面白さ」を基準に選抜するよう促されることです。同じ役に立候補したメンバー同士の組み合わせでコントを上演し、そのパフォーマンスが選考者の判断材料になるわけですが、そこで判断される「面白さ」が第二部と有機的に繋がりにくくなっていたように思います。

 第2部はコメディに主眼を置いた一時間近くの「演劇」でもあり、そこでは言葉の積み重ねと間による「笑い」の構築が肝要になります。もちろん第1部のオーディションで課されるコントにおいてもそれは変わらないはずなのですが、短時間で自らをアピールする必要に駆られるため、メンバーが選択する「面白さ」の性質が、演劇的なそれとは大きく離れてしまっていました。

 オーディション課題となるコントは稽古で事前に実践したことのあるものだと思われますが、その場で急遽組むメンバー同士で配役も即席に決めるため、間をつくって協調し合うための環境には不向きです。自然、短時間で「己」をアピールするための一発芸的な「面白さ」に流れがちになってしまう。多くのメンバーはその方法として訛りやアクセントの過剰な強調による、「変な喋り方」によるキャラ付けを実践していました。

 それらは瞬間的には笑いに繋がることもありますが、一定の長さのあるコント全体をそのキャラで通せば笑いのメリハリも失われて冗長になってしまい、またコントの設定やセリフのやりとり自体に支障をきたします。笑いや演技のプロではない彼女たちは自然、同質の冗長さを繰り返してしまう。

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 これに関連して、昨年との大きな違いとして、オーディションの進行が録音音声で行われている点があげられます。昨年の「deux」では、第1部のオーディションについても「舞台作品」としての枠内に成立させるために、常に演出家の江本は公演中に声で出演して指示を出し、交通整理をしていました。今回はその役目がいないため、メンバーのみに舞台上の運びが任されてしまう。メンバーのみで一定の長さのコントを最後までやり切ることが平等の条件になっていて、ディレクション役がいないのです。たとえばコント内にサポートとしてプロの役者が一人常に入って舵取りをしていれば、成果は大きく違ったような気がします。


 これは公演期間が開始したばかりの所感ですが、公演を重ねることでオーディションも「コント」という演劇を上演しているのだという意識に変わってくれば、各人の演技スタイルの違いもまた引き出せるようになって、より楽しめるようになるのかなと。第1部が次の段階の面白さを獲得するのは、「変な喋り方」合戦を抜けて以降かもしれません。


 上演期間が進むに連れての変化というのは舞台演劇には必ず生じるものですが、「プリンシパル」は、「半舞台裏、半表舞台」という二面性そのものが舞台に載せられる性質上、日を追って見える変化が「演劇」部分のみではない。演者たちが舞台を創っていく、その過程までも上演されることが、「16人のプリンシパル」という企画が一貫して有している醍醐味でもあります。それは自然、複数回の観劇によってこそより十全に味わえるという内向きのものにもなってしまいますが、そうでなければ具現できないエンターテインメントはたしかにそこに実現していると思います。
(※リピート観劇を促す内向きの企画だからこそ、映像パートが同じものの繰り返しだったり、オーディションの舞台仕切りが録音音声のみというのは、趣旨に対して不親切であるように感じました)


 事前の予想以上に良い仕上がりになったのが第2部の演劇パートでした。第1部のオーディションではコメディ進行上の間延びが気になったのですが、演劇パートは存外にテンポが良く、芝居の感触としては「deux」よりもすっきりしていたと思います。

 「ポリン姫」が父母の囚われた異星で冒険する成長譚を基本軸にしたコメディは、テレビ等で頻出する際物を盛り込みながらも、その際物をやること自体の気恥ずかしさを笑いにしてテンポ良く進めていることもあって、第1部の冗長さとは大きく手応えが違いました。

 大事なのは、第1部のオーディションでメンバーがつくろうとしていた「面白さ」とは、構造が大きく異なるということ。ここで明らかになるのは、「笑い」のためにまず、普通に整った「演技」がされなければならない、ということだったのではないでしょうか。 結果的に第2幕はある程度「演劇」をせざるを得ないためメンバーの演技への意識も数段高くなり、各人の活かしどころが多いように思いましたが、やはりそのぶん第1部との食い合わせの良くなさに思いが至ってしまいます。第2部がコメディというジャンルの「演劇」であるのと同様に、第1部でメンバーたちが上演する「コント」もそれと同じだけ「演劇」として尊重されるべきなのだと思います。

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 しかし、そうした歪さを抱えながらも、やはりこの企画がとても特殊で魅力的なスタイルを持っていることには変わりない。 三年目を迎えた現在でも、「16人のプリンシパル」はまだ、この魅力的な装置の最適なバランスを試行錯誤している初期段階なのでしょう。
 舞台演劇についてはまだ何者でもない彼女たちが、思わぬ適性の萌芽を見せる瞬間に立ち会えることはとても楽しい。オーディションの手順構築や、投票環境等も含めて課題も持ち上がった「trois」ではありますが、積み重ねることで安定したバランスを探り当ててほしいなと思います。

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