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~演劇とアイドルと何かと~

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お岩さんは素敵です

*八月花形歌舞伎第三部『通し狂言 東海道四谷怪談』 新橋演舞場 (2010.8.10)


お岩さんは気品も矜持もある武家の出です。
ということがすんなり飲み込める、上品で凛とした中村勘太郎のお岩でした。

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勘太郎の持つ凛々しさが最大級に発揮されるのは伊右衛門浪宅の場、すなわち伊藤喜兵衛宅からもらった薬が相貌を変える毒薬であるとも知らず、お岩が有難がりながら飲む場面。包みに入った粉薬を慎重に扱う仕草、不吉さを背後に宿した伊藤家への感謝の振る舞い、お岩さんという女性の気品と丁寧さがいちいちあらわれていて素晴らしい。そこから髪を梳く件りで頭髪が抜け落ち、目の上がただれ腫れ上がっても、舞台上から強く訴えてくるのは怪奇味ではなく彼女の品と哀しさです。雑音の少ない張りつめた時間が流れて、翻弄されるお岩の悲劇が客席にストレートに突きつけられる。


勘太郎の父中村勘三郎が伊右衛門浪宅の場のお岩を演じる際、客席からは少なからぬ笑いが起きます。
ここで幾度か書いていますが、勘三郎が舞台に居ると観客が盛り上がる準備をしてくれる割合が高まる。これは彼がその足跡によって築いてきた武器であり、同時に拭い難い困難でもあります。勘三郎が舞台に居れば何か「面白い」ことをしてくれるであろうという期待は、過剰に笑いポイントを探そうとしてしまう「笑い待ち」の観客層を増やすことに直結します。
彼が口を開けば、彼が体を動かせば、安心して笑うことができる。そんな了解を生みがちではあるため、お岩が粉薬を無駄にすまいと細かく最後の一粒まで湯に溶かそうとする仕草がコミカルと捉えられて笑いが起こり、時には相貌の変わったお岩が頭をあげてその額を露わにする場面にも笑いが生じたりする。ある種おおらかな、そうした雰囲気を許容するのも歌舞伎だとは思いますが、ドラマと観客の反応と、という関係性で見た場合やはりそれは齟齬であって、子息である勘太郎が演るお岩ではどうなのだろう、と危惧に近いものを持ってはいました。


結果、上述したように素晴らしい気品と哀しさで勤められた勘太郎のお岩には、そうした雑音の余地はありませんでした。稽古は確実に父親がつけているでしょうし、父の影から逃げることは不可能な世界です。けれども父親とはまた明らかに異なった文脈を築いて、四谷怪談を己のものにしようとしている姿を見ていけるのは非常に嬉しい。十八代勘三郎(今の勘三郎ね)の築いた功績とそれに伴う困難とは、十八代目当人こそが格闘すべきものであって、勘太郎がその文脈の余波を過剰に受けるのは好ましくありません。というか、それと異なったベクトルでもっと大きなお岩さんを創造していける可能性が、今月の彼には見えました。


非常に良い時期の花形が顔を合わせているだけあって、市川海老蔵の民谷伊右衛門、中村七之助のお袖とともに勘太郎が佐藤与茂七役で居並ぶ隠亡堀の場は、どの役者に焦点化しても見栄えを楽しめます。とはいえ、個々の見た目はともかく『四谷怪談』のお話として、各場で役者同士がスムースに溶け合っていたかというとその点はまだどうにも固いような。しかし彼らが四谷怪談のキャリアを重ねていくのはまだこれからですし、その未完成具合もまた楽しいわけですが。
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「ヒップホップの初期衝動」

*コクーン歌舞伎『佐倉義民傳』 シアターコクーン (2010.6.17)


日本語ラップをいまだに「アメリカかぶれ」という嘲笑で片付けようとする人は多くて、それはそう簡単に逃れられるものではないと思うのですが。

おそらく、嘲笑で終わらせたい人々には、端からその文化を理解しようという姿勢すらないわけで、それを説得するのは難しいし、説得する必要がないと言えばそうかもしれない。けれど一方で、耳慣れない人にとっては一聴してすんなり通る音楽ではない、ということも多々あるわけで、そういう人たちに馴染んでもらうにはある種の説得力を獲得する必要はあるのかなあと(個人的には、「わかる人だけわかればいい」のみで内部完結するのがあまり好みではない、というのもあります)。


今回の『佐倉義民傳』には、義太夫の代わりにラップが用いられています。歌舞伎の義太夫語りのように上手に居て説明や台詞を適宜施してゆくのと異なり、このラップは農民たちが一人称となって苛政、窮状を訴える。『佐倉義民傳』にラップが載ることは、たしかに見慣れないものではあります。けれども、苛政による困窮に苦しむ農民の声が直球な言葉で、それも集団の声として表現されると、形式云々を超えた説得力が生まれ得る。ラップに普段馴染まない人々も乗せ得る。そんな可能性を示してくれた演出であったといえるでしょう。日本語ラップの採用、そしてそれを担当したいとうせいこうの起用は大成功だったと思います。

なにより、ラップという方法が、「訴える」ということに非常に向いた表現であったことを再認識させられます。この作品で描かれる問題意識は“Fight the Power”と相通じるものなわけで、「かぶれ」と揶揄される人間だって、アメリカのラップのスタイルのみならずそういう理念に共鳴したりしていることも多いはず。日本ではラップとして訴えるだけの惨状とかゲットーとかがない、みたいなことも言われたりしましたが、それこそ一面的な日本理解、アメリカ理解。『佐倉義民傳』というストーリーの持つ、抑圧され追いつめられる民衆というテーマ性が現代と重ね合わせられたりしているわけで、そこに日本語ラップによる「訴え」、優れたポエジーが生まれ得る土壌は確実にある。それを本作は見せています。


終盤のリリックでは佐倉の窮状と今日的な世界情勢とが重ねられます。もちろんこれは、飛躍です。天安門は佐倉ではない。9.11以降に起きていることは佐倉ではない。けれど、ここで重要なのは、各事象の違いを精査することではありません。まずは、「追いつめられる人間」について、自覚的になること。それを喚起できるのがラップという方法の強さだと思いますし、その訴求力をヒップホップシーンの外、より普遍的な場に向けて放出できたことは何より素晴らしい成果でした。これは日本語でラップすることの可能性を拡張するものだったと思いますし、この種の拡張は狭義の「ヒップホップ」にこだわらない場からの発信だからこそなしえたものかもしれません。いとうせいこう&駒木根隆介+水澤紳吾(映画『SR サイタマノラッパー』のIKKUとTOM)に大きな賛辞を。


今回の『佐倉義民傳』は日本語ラップの可能性を拡張したのと同時に、「コクーン歌舞伎」というものの可能性も広げたと思います。今回はコクーン歌舞伎の中では特に、意図的に笑わそうとする場面の少ない(あっても小さい)作品だったのではないでしょうか。
わかりやすく(比較的現代的なかたちで)笑わせるという要素は中村屋のカンパニーが持つひとつの特徴で、それは一定の観客層を引き寄せるひとつの要素ではありました。同時にそれが続くと「中村勘三郎=笑わせてくれる」という図式が少なからず観客に内面化されるという側面も出てくる。そうなると観客に「笑い待ち」の状況が生まれて、笑わせる意図のないところで客席が先取りして笑いの波を起こし、ストーリー展開が落ち着かないという状況が生じたりします。客席の混沌自体も歌舞伎の魅力ではあるのですが、ストーリーの切実さという点でもったいなく思えることもある。今回、「笑い待ち」に向かないコクーン歌舞伎がある、ということを提示できたのは大きかったのではないかと思います。笑いが先行してストーリーが落ち着かない、というのを少し昨年のコクーン歌舞伎で感じてもいましたので。


それから、コクーン歌舞伎といえば『三人吉三』に代表されるような視覚的な格好よさが連想されることも多いかと思いますが、『佐倉義民傳』はそもそも民衆の主張の強さを際立たせる演目なので、そうした「華」を先行させる演目でもない。しかしその題材でも、例年のコクーン歌舞伎に遜色ないスリリングさを達成していました。新脚本とラップによる効果とは、緊張感の持続という意味でも素晴らしい効果を上げていました。宗吾の、あるいは困窮民の主張といっても、芝居自体が退屈になってしまったとすれば、そのメッセージの訴求力は小さくなってしまうので(一昨年に歌舞伎座で松本幸四郎が宗吾を演じた際のパンフコメントで、「つまらない芝居を面白く地味な芝居を派手に」見せるのが役者の務めだと語っていて、演じる方としても地味な芝居に見えがちだという自覚があるのだなあと思ったりしました)。


なにぶん、コクーン歌舞伎としてはひとつ新しい実験段階ではあるかと思います。先の日本語ラップの採用にしても、「大失敗だ」と判定する人がいても不思議ではありません。やはり初見の視点から、異物として捉えられることは大いにあるでしょう。ただ、ある程度コクーン歌舞伎の輪郭や皆が期待するものが定着してきている時期に新たな方向性を試し、初物の要素を大きくフィーチャーするというこのカンパニーの姿勢には頼もしさを感じました。おなじみの手札のみで固定化しない、そのスタンスがある限り、やっぱり彼らのことは信頼せざるをえないのです。

「わかりやすさ」の難しさ

*『染模様恩愛御書 細川の血達磨』 日生劇場 (2010.3.17)


さて、いわゆるBL歌舞伎。

衆道をBL(ボーイズラブね)として再解釈する、という方法は、歌舞伎に縁の薄い客層とのパイプをつくるための、ひとつの方策でもあります。高麗屋一門はしばしば一見さんに向けた回路作りを試みますし、この作品でも端々に古典特有の「わかりにくさ」を回避する、補助輪的な演出がされています。

個人的には、外部とリンクするためのこういう姿勢は買っています。古典芸能をいじることには様々意見があるでしょうけれど、まずは目を向けてもらわなければ、その先もありませんので。事実、歌舞伎を見慣れてなくても充分に入っていきやすいつくりになっている。


けれども、「わかりやすさ」をつくるのって難しいですね。

基本的に台詞を平易にしてありますし、立ち廻りも通常の歌舞伎の時代物などよりもスピーディになっている。いずれも歌舞伎の現代的アレンジとしてしばしば見られる対処法ですし、特に立ち廻りに関してはこのテンポで見せることは正解だと思います。

とはいえ、そうすると芝居全体のトーンが古典歌舞伎とは異なったものになる。古典と違う性質のものになること自体は全然結構だと思う(だって現在系の作劇なのだから)んですが、ここに古典歌舞伎的な作法を入れ込んだとき、トーンの差異がすくなからず違和感になることがあります。
いちばん象徴的だったのは終盤、ヒールである横山図書(市川猿弥)が斬られる場面。それまで半ばTV時代劇を観るようなテンポでスムースに見せていたところに、図書が斬られて息絶える最期にきて、立ったまましばらく手をばたつかせて悶える、古典の時代物的な断末魔動作になります(斧定九郎とか『先代萩』の仁木弾正の最期とかと同型の)。一貫して歌舞伎のテンポならばこれも自然に受けとれるのですが、それまで時代劇テンポだったところに唐突に大仰な「やられ」演技があらわれると、その断末魔がギャグっぽくもなってしまいます。笑いを意図する場面ならそれでもいいのですが(コント55号とかがかつて、まさにそういう演技法のギャップをギャグにしてました)。
たとえば見得とか「決まる」瞬間というのは、割合現代劇的なテンポにも合わせやすいのですが、斬られる場面が古典歌舞伎的になるとコントっぽくなってしまいやすいのですね。わかりやすさのためのこうした試行錯誤は、実際に舞台にかけてみないと実感しづらいものなのかもしれません。


それから、設定や状況説明には義太夫等ではなく、講談師が起用されています。確かに、歌舞伎を見慣れない人にしてみたら義太夫は理解の補助にはなり難い。旭堂南左衛門の明朗な弁は状況を簡潔に把握させてくれる。ただ一方で、先ほど書きましたがそもそも芝居自体がわかりやすくつくられています。そこにさらに説明をかぶせてゆくのはやや情報過多な感がして残念だったかなと。
半分BGMとしても機能する義太夫と違って、講談はそれ自体が主役になり得た方がいいのかもしれない。目の前に十全な情報量を持ったわかりやすい生の芝居そのものがあると、やや食い合わせが良くないように思いました。
特にクライマックスの火事場シーンは、演出自体が派手で具象的でもあるので、講談による説明とセットにすると却って臨場感が薄れてしまうような。話芸は、いかに聞き手のイマジネーションを喚起させるかの芸なので、充分な視覚情報のもとではいまひとつ活きなかった気がします。火事場演出は見た目にインパクトがあるだけに、言葉の説明がない方が劇世界に没入できたのではないでしょうか。


作り手も多分に意識している「BL」要素。「恋愛」場面に大幅な時間を割いていますが、現状、これで持たせるのは難しいように感じました。コメディ要素を増やして客席を沸かせるものになっていたので、まずまずの成果はあったかもしれません。ただ、その笑いは少なからず「オカマコント」のそれである、ということも事実かと。
見初めの場面やセックスシーンで、薄紫(ピンク?)の照明を殊更に使う、あるいは腰巻を解かれてくるくる回る演出等々、彼らの「熱愛」場面の多くには意図的な笑いが伴っています。恋愛とコメディとの相性は悪くないのですが、全編のバランスとして二人の恋愛が主題となっているので、コメディを伴う恋人描写、というだけでは物語としてしんどいかなあ、と。序盤から中盤にかけて、それほど二人の恋愛の障害ってないですし。
つまりは「BL」ということの特殊性のみでひっぱろうとする気分がちょっと強い気がします(あえてここでは「特殊性」と言いますけれども)。BLは前提で、そのうえで二人の関係や物語の起伏をいかに出すか、がもう少し必要になるのでは。同性愛をただのコメディ要素としてじゃなく、メインに据えるのであれば、余計にそう思います。あと、BLって別に「同性愛である」ことそれ自体が本質なわけじゃないし。


しかし、いずれも「古典」と無縁な層に歌舞伎を届かせるための試行錯誤であることは間違いなくて、それが続けられることは大事なことです。こういう蓄積がこの先の高麗屋一門に完成度をもたらすと思いたい。


野田秀樹とか三谷幸喜が初めて歌舞伎を作・演出しても成功したのは、歌舞伎を「わかりやすく見せる」とかいう発想ではなくて、完全に自分の演劇をつくろうとしたからなのだよな、ということもあらためて感じました。結局はそのほうが、観客には届くのですよね。

馬を呑む

*藤山新太郎手妻公演「元禄の幻術」 日本橋劇場 (2010.2.9)


 公演タイトルの「手妻」っていうのは、まあ手品という意味で、江戸時代以来の手品をやりますという興業なんですが、なにせ今回の呼び物は「生きた馬を呑んでみせます」という「呑馬術」です。なんだそれ。

 チラシに載っている「舞台に生きた馬一頭を挙げ、馬の顔をチューインガムのように伸ばして、徐々に呑み込んでゆきます」という説明書きは、説明になっているというかなにひとつわからないというか。ともあれチラシとしての効用は充分だと思います。己のことを知らない他者に向けて、なにかひっかかりをつくるのがチラシの大きな役割ですので。


 メインを務める藤山新太郎は、近世以来の古典奇術を得意にしているマジシャンですが、彼の一座はこの手妻興業を持ち芸にすることで、「日本古来の伝統芸の継承者」という位置も確保するわけで、マジシャンシーン(には自分はまったく明るくないですが)における差別化という意味では手妻を強調する戦略というのは正解でしょう。
古典芸能の要素が入ることで、通常のマジシャンとは半分違う土俵で戦うことができる。呼び物である「呑馬術」からして、元禄時代の見世物である、っていうことに価値が見いだせるからあのハッタリが成立するわけで。


 ええ、呑馬術に関しては、ありていにいえばハッタリなんです。といっても、そもそもマジシャンとしてのスキルは持っている人たちであって、呑馬術以外はマジシャンもしくは職人としての腕を存分に見せつけるものだったのですが。
 ともあれ、古典芸能という付加価値を伴うことで、「こんな手品ができます」以上の「奥行き」を感じさせてくれることは確かです。「伝統」というのは実態が見えないゆえにこそ、観客側のイマジネーションを膨張させてくれる装置になりうるわけです。


 そういう「歴史」と、手品師としての彼らのテクニックとを同時に考えるうえで興味深いのが、ラストに演った「一里四方取寄術」。会場(水天宮前)の一里四方であれば、観客の要求した物品をなんでも取り寄せて、舞台上に置かれた空箱から出してみせます、というもの。
 これは実は手品の仕掛けとしては、空のはずの箱から物品を出す、ということの技術があればいいわけです(それだけだから簡単なこと、といってるわけじゃないですよ)。で、あとはそこからいかに「観客の要望通り」の品物を取寄せているように見せるかという話術と段取りの芸になってくるんですね。


 観客の要望をさも受けたように見せて、ひとつひとつの台詞で「取り寄せ」る品物を限定する方向に引っ張ってゆく(そこには明らかに観客に紛れたサ●ラの存在もあるわけですが)。←こういう書き方良くないですね。というかご本人に確認したところ、サクラなんてのは事実ですらなかった。失礼致しました(追記)。
 観客の何人かに紙を渡して、箱から出してほしい品物を「自由に」書かせ、その紙をシャッフルしたりして、ランダムに混ぜ(るように見せ)、さらにそれらをその紙に書かれた品物をひとつひとつ読み上げ(てるように見せ)る、という流れの中で観客をその一連の手順のうちに参加、加担させてゆきます。観客が参加している、という土壌と文脈を作ったうえで「空のはずの箱から物品を出す」というマジックを披露するから、クライマックスの盛り上がりを用意することができるわけです。これはもう正味のマジックテクニックだけの勝負ではなくて、観客を取り込んでいかにストーリーを周到に紡いでゆくか、という作劇の問題なんですね。そのことの面白さを見せてくれるという点で、藤山新太郎と弟子の晃太郎の掛け合いは非常に興味深かった。マジシャンにトークスキルってほんと大事。


 この術は明治15年に名古屋で演じられて大当たりをとった、とのことです。つまり明治期の手妻師はすでに、このクライマックスに向けての作劇法を作り上げていた、ということ。喋りの段取りに自覚的であらねばならないし、初見の人々をたらし込んでゆかねばならない。実演を見ながら、100年前の芸人のそのような図を想起することはやはり心躍ることではあって、こういうふうに観客が過去に思いを馳せることができるというのがすなわち手妻という「歴史」を手札にすることの強みです。


 正味の奇術テクニックに、観衆を加担させるストーリー作りとさらには「伝統」という装置とがまぶされて、小品ながら奥行きを持ったものに成ってゆく。マジックというものの要素とその組立て方のエッセンスを気持ちよく垣間見せてくれた演し物であったように思います。


 それから一応、「呑馬術」にももう少し触れておきます。
 まあ当たり前ですが、「本当に」馬を呑んでいるわけではありません。それは見ている誰の目にも明らかだし、こと完成度に関してはこの演し物だけどう見ても低い。けれど、第一にこれは本興行自体に目を留らせるためのカマシであること。見に来れば、彼らの実際的なテクニックや魅力はきちんと目にして帰ることができる。
それに加えて、呑馬術は完成度より何より、元禄以来途絶えていたものの300年ぶりの復活、という古典復興要素があって、それはそれで正当化として機能しています。どんなものだったのか試しに実演してみる、というのは意味のある試みでしょうから。あ、でもあのやり方を精緻にしていけば、もっと呑んでるっぽく見えるとは思います。


 カマシとしての「呑馬術」が入口となって、入ってみたらば「呑馬術」はともかく、全体としてはそれなりのマジシャンスキルに、人たらし型作劇術と「伝統」というイメージ喚起装置が絡みつくさまが見られる。ハッタリに引き寄せられたうえで、損した気分にならない見世物小屋だったといえるでしょう。というか、そういう立ち位置の「呑馬術」自体が非常にチャーミングなのでした。

小ネタ of the Dead

*歌舞伎座さよなら公演 昼の部『大江戸りびんぐでっど』 歌舞伎座 (2009.12.3)


台詞回しにちりばめた小ネタと、演技の落差ないしは大仰さ。
宮藤官九郎がマスに愛されたのは、そうした今日の小劇場演劇的ともいえる特徴を、テレビというメジャーカルチャーに織り込むことに成功したためでした。その象徴がジャニーズ勢と組んだ『池袋ウエストゲートパーク』『木更津キャッツアイ』『タイガー&ドラゴン』等のドラマだったわけで、そこでは“今時”な日常風の世界の中で、小ネタを駆使しながら日常をズラす笑いと立ち居振る舞いを体現していました。それらは、確実に2000年代のテレビドラマを充実させたもののひとつではあったでしょう。


小劇場的な小ネタは性質上、往々にして際物的な要素が強くて、それゆえ現代の「日常」的空気感の中でこそ効果的に映えるものです。「近世」を舞台にして台詞回しに制約を設ける歌舞伎の場合、小劇場的小ネタ感をそのまま移植すると、少なからぬ違和感が生じる。クドカン初歌舞伎の第一印象はその違和感でした。

第一場の、くさや売りのシーンから多用される小ネタや台詞のトーンの切り替えはクドカン的、なのですがそもそもそれが笑いになるのは「日常」との落差があってこそ。現代劇であれば、身振りや話し方そのものが「日常」をあらわすため、小ネタを織り込むことは比較的容易です。
しかし、冒頭から歌舞伎の世話物言葉とギャグと現代的口調の台詞がミックスされたやりとり(あと落語からの引用もごたごたと)が続くと、物語のトーンの落ち着きどころがなかなかつかめないため、ギャグがギャグとして、小ネタが小ネタとして活きてこないのではないかと。平常状態との落差こそが笑いなので、まずその平常を観る側に前提させた方が良いだろうと思うのですが、すべてがバタついた印象になってしまう結果、その落差を味わうことがなかなかできませんでした。

宮藤官九郎が歌舞伎を作・演出という謳い文句で期待値が上がるだけに、始めからカマしてゆきたい送り手の気持ちはわかりますが、冒頭の場面はあまり弾けずに始めて空気を落ち着かせた方が、後の笑いにとっても有効ではなかったかなあ。とりわけ「りびんぐでっど」の集団が舞台上に出てきて以降の画面は面白いので、彼らの異様な存在感を際立たせるためにも、導入は普通でよかったのでは。

あるいは、台詞に半端な制約を設けないで、すべてクドカンの書きやすい言い回しで脚本を作ってしまってもよかったかもしれません。彼の映画『真夜中の弥次さん喜多さん』は時代設定と台詞や風俗の乖離を気にしないことが成功だったわけですし(その志向が妙な時代劇映画を量産することにもなっているけれど)、笑わせたい部分と台詞回しへの気遣いとが『大江戸~』では今ひとつうまく噛み合ってないように思われます。その点、野田秀樹の『研辰の討たれ』は、台詞回しの制約をうまく回避しつつ作劇していたのですね。昨年の『愛陀姫』はその制約に絡めとられていた感がありますが。


話が落ち着く中盤の「はけん屋」以降、ゾンビを人々が「活用」するようになって話は面白みを増してきます。とはいえ、おそらく宮藤官九郎という人は、入り組んだ重いテーマ性を鋭く突きつける作家ではないように思います。どちらかといえばシンプルな話を紡ぐ人なのではないかと。

彼がトリッキーに見えるのは、今風の感覚をあくまで小ネタレベルでちりばめるゆえで、それは充分に演劇としての人気を成りたたせる武器なのですが、先に言ったようにその「今時」感に制約がある場合、話の骨組みが前に出て来ざるを得ない。その骨組みが思いの外あっさりしていて、今日の若手現代劇作家の話としてはいささか食い足りなさも覚えました。


半助(市川染五郎)が生きた人間なのかゾンビなのか、あるいは生きていた時とゾンビすなわち屍になってからと、どちらが「人間らしく」活き活きとしているのか、という問いが終盤のテーマになってくるわけですが、素朴なストーリーの骨組みが目立つぶん、話の回収されなさが浮き上がってしまうような。ゾンビの性質にまつわる劇中のもろもろの不整合が説明されてないし。そういう回収不足などどうでもよくなるほどのインパクトを突きつけることがクドカンにできないはずはないのですが、歌舞伎というフォーマットに寄り添おうとした結果なのか、演出者の特異性が今ひとつ活かせていなかったかもしれません。舞台絵にしりあがり寿、衣装に伊賀大介、音楽に向井秀徳を配した割に、若い世代の新鮮さが見えないのが惜しい。


とはいうものの、やはりクドカンの試行錯誤がある程度まで実を結んでいるのも確か。坂東彌十郎演じる奉行は、官職としての固さとクドカン的落差の笑いをうまく体現していて(彼がいちばんよかったかも)、ほんのり古田新太風味も垣間見えていたし、このチームにもっと時間をかけて宮藤スタイルを浸透させれば、それからクドカン本人にしっかり時間をとって作劇してもらえば、整理されたハイレベルのものが出来上がりそうな気はします。そういう意味で言えば準備期間が短かったのかな。クドカンはもっとうまく順応できるはずだし、もっときちんと遊べるはず。余裕あるスケジュールで、第二作が実現するといいですね。


あとゾンビの人材派遣を行なう「はけん屋」については、今時らしいキーワードゆえ風刺が期待されるかもしれませんが、そういうものではないです。「派遣切り」がテーマに入っている、と言っていた人もいましたが、あくまで今日的な言葉として入れ込んでいるだけなので、そこに社会批評を期待するのは作者の本意ではないと思います。少なくとも派遣「切り」の切実さは扱われていないように思うし。派遣という形態を持ち出してきて遊んでいるだけなので、そこは時評だと思って観ないように、軽く受けとるのが宜しいかと。
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