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~演劇とアイドルと何かと~

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何者でもないことの眩しさ

*「16人のプリンシパルdeux」 赤坂ACTシアター (2013年5月3,4,12日)


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 アイドルの存在ありきで成立する演劇企画というのは、その演出や脚本よりも「◯◯役をやっている誰々」を見るという側面が常に先行します(詳しくはBerryz工房主演『三億円少女』の項参照)。

 もっとも、スターシステムを旨とする演劇においてはそうした視点の重要性は周知のことでもあり、それはたとえば宝塚歌劇や歌舞伎などでも同様です。上演中に、スターの登場に合わせて拍手が起きたり掛け声が飛んだりする場合、それは往々にして劇中の「◯◯役」よりもステージにいる「スターとしての誰々」が先行していることが多い。
 そうしたスターシステムの演劇とアイドル演劇とを分かつものはなにか。それは、前者が演劇をさしあたりの本業としていること、換言すればその背後に演技者としての一定水準の技術を信頼できる裏付けがあるかどうかです。

 芝居を本業としない、すなわち一般的にいえば演技力には期待できないアイドルが、なおかつその有名性、スターとしての存在そのものとして舞台を成立させるためには、「役者」としての単なる演技力の水準のみならず、各アイドルがその舞台作品に対して見せる、意気込みの強さや葛藤など、「アイドル」としての当人のパーソナリティが垣間見えることが不可欠となるでしょう。アイドルはその技術水準にもまして、パーソナリティそのものがファンの享受の対象となるためです。


 本作「16人のプリンシパルdeux」は、乃木坂46各メンバーが舞台において否応なく背負う、役者/アイドルの二重性を、興味深いバランスで具現化しています。
 二幕構成の第一部がメンバー全員によるアピール=オーディション、第二部が第一部のオーディションで観客投票により選抜されたメンバーのみがステージに立てる演劇という大枠は昨年も行なわれた「16人のプリンシパル」と変わりませんが、今回は二幕目の演劇に脚本・喜安浩平(ナイロン100℃)、演出・江本純子(毛皮族)を招聘し、オリジナル性の高い演劇となっています。
 また各メンバーが各公演で演じたい役に立候補するために公演回ごとに競争相手も異なり選考の条件が異なってくる(同じ役に4人、5人立候補することもあれば、1人しか立候補がいない=事実上その時点で役を獲得できるケースもある)。これにより、比較的に公演ごとに出演するメンバーの流動性が高くなっています。

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 このように第一部は演劇ではなく、観客が選考権をもつオーディションになるわけですが、そのオーディション自体が舞台上で示される以上、その選考過程におけるアイドルたちの姿もまた「見世物」となります。審査を受けているメンバーのみならず、その後ろで審査を眺める、順番待ちのメンバーの姿さえも、消費される。これは先に述べた、パーソナリティが享受対象となる、ということですが、しかしここには多少の虚構性の高さが混ぜ込まれています。


 その象徴となるのが、演出家ローズ・パープル(江本)と演出助手ムーン・シャドウ(柿丸美智恵)です。乃木坂46各メンバーが本人そのものとして舞台に立つ第一幕において、『ガラスの仮面』にインスパイアされた役名・風貌を有するこの二人だけは、虚構、芝居の中だけの人物です。彼女たちが演出する「乃木坂歌劇団第156回公演『迷宮の花園』」のオーディションを、乃木坂46のメンバーは受けているという体裁になっている。ここで第一幕には、その劇内設定としての芝居オーディションを受ける人々の姿こそが描かれる、ミュージカル『コーラス・ライン』のような構造が生じてきます。この虚構と現実の距離感は面白い。


 江本演じるローズ・パープルは虚構の人物ですが、しかし彼女とメンバーとの間には、稽古期間を含めて常に「演出家と演者」として築いてきた関係も垣間見える。『コーラス・ライン』構造の中で「オーディション受験者」が「演出家ローズ・パープル」に受ける指導には、そのまま乃木坂46メンバーと演出家・江本純子との関係が張り付いている。ローズ・パープル/江本は、メンバーのキャラクターや演技の方向性を見ながら、注文をつけて演技を繰り返させて審査を先導していく。

 ここで興味深いのは江本の、オーディションを方向づける審査者でありつつ、「ローズ・パープル」として審査する姿(声)自体が「劇」として観客に見られる役者であり、なおかつオーディションを統べる立場でありながら、それに基づいた選抜を行なうという最重要の権限だけを持っていないという、複雑な立場です。逆に観客はその最重要の権限だけを持っているが、オーディションの細部に介入することはできない。権限のねじれが起きています。

 そうした構造の中で、最重要の権限を持った演劇の素人(観客)たちによって審査されるのは、明確に「役者」ではないアイドルとしての乃木坂46メンバーです。圧倒的に演技で選抜されるわけではなく、乃木坂46というアイドルグループの中での立ち位置も否応なく影響してくる。その中で、通常のグループ内での人気・知名度序列とはまた別の基準で選ばれるメンバーを見るとき、そこにはやはり新鮮な驚きがあるし、彼女たちの新たな活路を垣間見せる。

 しかし一方で、まだ明確に「役者」ではない、もっといえば芸能者としてまだ何者でもない彼女たちの演技における「巧い」はきわめて中途半端なものです。役者としては手札も少なく、改良の余地も山積した、まだ隙の多い存在です。さらに、そのような半端な存在なのに、ひとつの役に専心できるわけではなく、どの役が充てられてもいい準備をしなければならない。
 まだまだ「過程」の存在だからこそ、うまく行っても行かなくてもそのすべては中途半端で歯がゆい。しかしまた、「過程」の存在だからこそ、メンバーが時折見せる光には彼女たちにまだすべての可能性が開かれているようで眩しい。
 アイドル演劇はどのような水準でこそ最も楽しめるものなのか、そもそもが困難さをはらんでいます。「16人のプリンシパルdeux」はアイドルを享受することはどういうことなのか、その演劇構造をもって浮き彫りにするものかもしれません。

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 喜安脚本による第二幕。本土から遠い離島に建つ屋敷で起こる怪死事件に、遺産相続や本土からやってきた探偵などの要素も含まれた45分程度のミステリものです。もっとも、各配役はその役に専従してきた役者ではなく、前述のように直前の第一幕で決められたメンバーたち。額縁的な演劇を観るというよりも、その役々をどのメンバーが演じるのかという、各演者に収斂した見方が強くなります。これは必然的に、毎回誰がその役を演じるか自体がアトラクションのひとつとなる。その意味で、先に挙げたスターシステム演劇のジャンルである、歌舞伎や宝塚歌劇と遠からぬ部分もあるでしょう。


 柿丸を除く演者すべてが「役者」ではない以上、演技力のみによって舞台を推進していくことには限界があります。その点、他の江本演劇にもみられる、歌と映像、ダンスによるタイトルロールで序盤を開始させた運びはとても秀逸でした。アイドルたちが歌い踊る姿、さらには配役として充てられる女中1~6の各役のように、衣装によって目を引くことができる点もすばらしい。女性アイドルが演じる前提でキザな男役が配役中にあるのも好相性でした。


 一方、ファンによるリピートをいやがうえにも促すこの仕組みは、上演期間中に芝居の緊張感を変質させてしまう危うさを持っていると感じました。回が重なり、リピート観劇が多くなることで、演者と客席との関係において、また演者同士の関係においても、もうこの劇構造やディテール、これまでのオーディション風景を多少なりとも皆が共有していることが前提になっているような、初見者への説明的な箇所がいくらか飛ばし気味になっていくような。東京公演終盤で再見した際にはそうした印象もありました。
 これはこの仕組がはらむ必然でもあるため、演出サイドによる手綱の調整が必要となるところなのでしょう。第一部の江本/ローズ・パープルの振る舞いを見る限り、そうしたバランスは持ちうるように感じられたので、大阪公演でさらなる熟成がされれば良いなと思います。


 ともかくも、まだ何者でもないアイドルたちの身体の躍動と、その先の道への、まだ踏み出していないゆえに開かれた可能性の眩しさとを浮き彫りにする「16人のプリンシパルdeux」は、アイドル演劇の企画の可能性としても示唆の大きいものです。乃木坂46自体がまた、この公演をフィードバックして継続的にこんな景色をみせてくれればと思います。
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欲望もレベル上げれば

*DOCUMENTARY of AKB48 NO FLOWER WITHOUT RAIN 少女たちは涙の後に何を見る? TOHOシネマズ有楽座 (2013.2.1)


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 封切りを待って映画館に足を踏み入れた観客の脳裏には、ほぼ例外なくひとつの、吐き気をもよおすような“茶番”が刻印されています。
 映画公開前日にYouTube上にアップされた峯岸みなみさんの坊主頭。スキャンダルの責任をとって自ら頭を丸めた(という体裁の)その映像は、自分の体感的にはこれまでにAKBがマッチポンプ的に生成してきた「劇薬」の中でも、とりわけ非ファンの反応を含めて最も目に見える波風の大きいものだったように思います。
 同時に、どこまでが誰の差配なのかわからなくなるほどにスキャンダルを自前の「物語」に取り込んできたAKBの、きわめてAKB的な露悪性のひとつでもあるように見えました。


 それは、劇薬に慣れすぎて劇薬とさえ感じなくなってゆく身体を、ある時ふと俯瞰で見るような気色悪さ。
 処分から収拾に至るシナリオまで画を描いて雑誌記事掲載の可否を判じ、その処分がAKBファンは勿論、AKBに関心を持たない、あるいは普段少なからぬ反感を持って見ている人たちまで巻き込んで世間の倫理観に訴えかけることを算段に入れ、嫌悪感の拡散や糾弾の嵐と引き換えに、絶大な話題性を獲得することを見込んだうえでの映像公開なのだろう。それをエンターテインメントとして峯岸さん自身が謀って発信しているのであれば、まだ幾分救われるのだろうか。AKBが劇薬を投与し続けるシステムであることに慣れきった自分の頭で即座にそこまで考えてはすべて打ち消して、という不毛な思考を繰り返す。


 けれどまた、思い知るのは、こういう露悪性をも孕みながらエピソードを無数に生成する装置に魅了され、それに乗っかることで、自分はAKB48というものにはまり込んでしまったのだということ。公開された動画に対して向けられる世間の圧倒的な正論に同意しながら、自分自身もまたひどく嫌悪感をもよおしながら、一旦依ってしまった楽しみの足場すべてを否定する正しさも潔さも持てずに、ファンとしてAKBを追うことを辞めない自分を持て余して、どこに頭を下げているのかわからないような後ろ暗さと、真っ当な批判に対する同調と、その批判の声に混じった文脈の齟齬をうまく消化もできず返答もできないまま口をつぐんでいました。
 日付が変わる頃、初期メンバーに囲まれて笑顔を見せる峯岸さんの写真がメンバー、また峯岸さん自身によってネット上にアップされました。
 それを見て、何を感じていいかわからないまま朝になっていました。


 そのまま目の当たりにしたAKB48ドキュメンタリー第三弾は、最初から最後まで、常に余計なフィルターに覆われながら鑑賞しているような、やりきれない手触りのものでした。
 さいたまスーパーアリーナ公演、総選挙、東京ドーム公演から秋葉原の最終公演へと、AKB48のシンボル的存在だった前田敦子さんの卒業に向けた日々が綴られてゆく。その経緯はいかに嗚咽にあふれていようと、すでに周知の過去となっている。また前田さんの卒業そのものはきわめて前向きなステップアップです。昨日までに起こっていたリアルタイムの醜悪な波乱を受け止めたばかりの自分にはそれは、気を落ち着かせていられる悠長なものに思える瞬間さえありました。できることなら、こんなふうに悠長にだけ見ていたい。

 そう考えてぞっとする。自分はここに映っている彼女たちの疲弊と同じものを一年前に観て、面白さの裏に伴走する、彼女たちの感情の起伏を消費している己のグロテスクさに折り合いをつけられずにいたはずじゃなかったのか。劇薬であることは重々知っているのに、それにどれだけ自分が慣れてしまっているのか気づかなくなっている愚かさと恐ろしさ。そのことを、総選挙直後のシーンで映されたある研究生の姿でようやく思い知る。

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 そんな劇薬としてこの映画で、冗談のようにルーティーン化してあらわれるのが、恋愛スキャンダルです。AKB48が発信するこの映画は、AKB48の恋愛禁止ルールが不毛であるという、自明すぎる事柄を自ら、うんざりするほどに見せつけてきます。ファンの前での釈明、それを見守り、また顔を背けるファン、それにメンバー。映されるメンバーの人選(半ば偶然的にカメラが押さえていたものであるにせよ)が無言で突きつける、恋愛禁止という檻の醜悪さ。

 実質的に誰が望んでいるのかさえわからなくなった恋愛禁止という檻は、もはやそれを梃子にして残酷な「サプライズ」を内部生成するためだけに機能しているような無意味さを呈しています。ステージで見せるアイドルの身体の躍動とは関わりのない場所で恣意的に描かれる波乱は、もはや本体を失っているように感じられました。


 前田さんの旅立ち、板野さんの新たなステップ発表、研究生で始まり研究生で終わる構成に象徴される、AKB次世代の躍動。AKBを旅立つ者に向けても、AKBをこれからつくる者に向けても、明確に希望を託したはずの今作。AKBが自家中毒的に生じさせているリアルタイムの波乱に呑まれ、咀嚼することができないまま観終えていました。


 自分はアイドルのパーソナリティを身勝手に解釈して遊ぶ、何千何万のファンの一人。よくあるファンの一人。その心理を最大限にスリリングに、最悪にグロテスクにくすぐり続けるのがAKBであることなんて、前からわかっていたはず。それでも安心させてくれる何かを求めて、その何かにすがることで身勝手な遊びを続けられる。安心できる確証じゃなくていい。けれど明確に致命的な危うさに踏み込むことはお願いだから避けてほしい。

 言葉にしたくないすべてが杞憂でありますように。

来夏への祈り

*TOKYO IDOL FESTIVAL 2012 お台場・青海特設会場 (2012.8.4・5)

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 TOKYO IDOL FESTIVAL(以下TIF)が会場規模も参加アイドルも拡大させて当たり前のように今夏に帰ってきてくれたことが本当に嬉しい。
 昨年のTIF2011は前年に引き続いての継続開催が実現するかどうかすらも覚束ない中で、しっかりレベルアップをしてフェスとしての体裁を整えて実施してくれたことに大きな喜びがありました。今年は、気がつけばTIF開催を半ば当たり前に待ち望むことができている。そのことに素直に感謝したいと思います。

 今年の会場運営で感じたのは、想像していたよりもずっと、導線やインフラにストレスを感じずにフェス空間を楽しむことができたということです。昨年も基本的に会場の立地や使用設備は同じでしたが、各会場への出入りや入場規制等には少なからず要改善の箇所もあったように思いました。今回、参加アイドルの数を増しながらも、大きな混乱を招くことなく二日間のフェスが遂行できたのは、TIF運営のフィードバック能力と規模拡大にあたっての事前準備が奏功していたということだと思います。

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 新たなエリアとしてZepp DiverCityを中心とするダイバーシティ東京の一部が使用されていましたが、ここに最大規模のステージを置き、フェスエリア全体を拡張させたことで、各々が広いスペースのどこで楽しむかの選択肢が増えて、うまい塩梅の分散に繋がったのかもしれません。TIFが定着してゆけばまた来場者数やもろもろの規模等も変動するはずで、そのたびに機に応じる必要はあるのでしょうが、今回のエリア設定は過去3回のTIFのうちでもっとも良く、このエリアをベースにしていけばよいのではないかと感じました。


 入退場にもっとも時間がかかったのはおそらく、フジテレビ湾岸スタジオ屋上のSKY STAGEでしょう。二機のエレベーターのみ使用という方針は昨年と変わらずのため、時間帯によっては30~40分かかることもありました。たとえば混雑時の想定所要時間を掲示する等の対策は今後考えうるとしても、基本的にはこれは致し方ないと考えます。
 建物直下のSMILE GARDENからライブの音が漏れ聞こえる中、仮に階段を開放した場合、来場者が先を急いで階段を駆け、転倒事故などに繋がるリスクを考えれば、事前の策としてエレベーター移動のみに限定する方針は支持します(7階から上へ繋がるエスカレーターが閉鎖されていたのも、節電はあるにせよ、どちらかといえば安全上の理由かなと思いました)。
 高層の屋上に設えられた天空の舞台、SKY STAGEはロケーションとしてもひとつの呼び物なわけで、トラブルなくこの舞台がこれから先もずっと観られるためと思えば、安全策をとってくれることはむしろよいことかと。

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 やはりこのステージは壁面も地面も感じさせず、俗世からちょっと浮き上がったような不思議な心地があって、その上でアイドルたちが躍動する光景は本当に素晴らしい。昨年、初めて観たSKY STAGEについて「中央のテレビ局というある種の「俗」を強く感じさせるものでありながらまた一方でそれ以上に、ちょっと「俗」から切り離されたようにも思える不思議なバランス」と書きましたが、青空と高層建築が借景になったこの景色はやはり格別。来年も再来年も、夏になったらあそこに登れる、と思える場所であってほしい。

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 ところで今回の参加アイドルのうち、自分が最も足繁く通っているのは、先頃tengal6から改名したlyrical schoolです。もともと彼女たちの出演時間を中心にスケジュールを組むつもりでいましたが、出演する予定のステージの設営問題で、初日の夜の出演が中止となってしまいました。ステージ使用中止の経緯はいささか波紋を呼んだトラブルでもあり、要因も単純にどこかに負わせられるものであるとも思いません。それ自体は決して幸いな出来事ではなかったでしょう。しかし、それゆえに実現した臨時の“夜のお散歩”は、フェスでこそ堪能できたサプライズでした。

 一日目深夜のイベントIDOL CLUB NIGHTまではまだ少し時間のある22時台、疲れた体を休める来場者たちが芝生に座り込んでいたSMILE GARDEN付近で、夜のライブが中止となったlyrical schoolによるアカペラが始まります。彼女たちがエリアを練り歩きながらアカペラでラップを続け、それを囲うように連なって来場者たちがクラップやコールをしながら行進してゆく。夏のたびに、TIFのことを考えるたびに思い起こせる稀有すぎるひととき。
 そんな、夢か現かと言い表したくなるような時間をつくって、やがて彼女たちは走って控え室に帰ってゆきました(メンバーはこれを「夜のお散歩」「幻」等と表現しているので、ここでも自分が体験したことはそうであったとしておきます)。ここから深夜のZeppでのライブ、翌日のライブと次々クオリティを高めていったように見えるlyrical schoolの動きは目覚しく、二日目夕暮れのDiverCityガンダム像前でのライブでは、一回りランクアップしたような彼女たちの姿がありました。
 思い入れの強いグループがTIFで残した痕跡は格別に嬉しく、これからもっとたくさんの人の目に触れればいいなと。

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 出演グループのことでいえば、今回のTIFには大きな話題を呼ぶ招聘がいくつかありました。最大のものはSKE48の登場でしょう。目下の勢いと知名度を考えると、どれほどのファンが集まりどのような空気が生まれるのか、予測のつきにくかったのがSKEだと思います。しかし今回は、先に書いたエリア設定や導線確保等の改良もあり、考えるほど混乱する事態にはなっていなかったというのが個人的な印象です。無料開放エリアのSMILE GARDENにあらわれたSKE48の「降臨」感には説得力がありました。何より存在としての説得力。大きな有名性をもつアイドルについては、来場規模を考えてこれからも探りながらの招聘になるのだとは思いますが、ここまでの知名度のアイドルも同時に呼び得たことも、小さからぬ成果のひとつだったと思います。

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 自分の管見の限りですが、今回は過去2回のTIFよりも、事前からの懸念や否定的な見解が各所から多く表明されていたように見えました。目についたものを大別すると、ひとつには人選問題、もうひとつにはアイドルのギャランティー・交通費等の問題であったかと思います。

 人選については、当初よりも格段に多くなったであろう参加希望にいかに応えてゆくかということ、またイベントとしての存続を考えた際、いかに各方面に開催意義の理解を取り付けるかなどのバランスのもとに動いていることは間違いない。その中で、ある種の知名度をもった人選が求められたり、要望に十全に応えられない面はあったでしょう。いつしかTIFはアイドル合同イベントにおいて最大手と目されていて、そうなると少しの偏りにもクレームや野次馬的な詮索があらわれることは避けられない。満点の正解をとれる人選などないので、そのあたりの舵取りは難しいところ。


 もう一点、目にしたのは参加アイドルがノーギャラであることへの批判です。気持ちとしてはこれはよくわかる。TIFの門澤清太プロデューサーが「皆さんノーギャラ、ノー交通費ですよ」(「週刊プレイボーイ」2012.8.13)と明言していることから、少なくともギャランティーであると胸を張れる額の見返りはないのでしょう。在京でないアイドルグループの参加も多い中、願わくは各グループに出演料が保証されてほしい。今年でいえば各アイドルの運営スタッフを含めなくても700人を超えるアイドルが参加する中、どのようにしてその保証が可能なのか、皆目わからないのが正直なところですが。

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 ただ散見した批判の中で疑問があったのが、このノーギャラ問題をすぐさま運営の私腹を肥やす、あるいは搾取といった話に接続させる議論でした。プロデューサーがフジテレビの人間であり、使用施設がフジテレビ関連施設であったことで、TIF運営の費用を安く見積もる算段をしているということかもしれません(あるいは「フジテレビ」という中央テレビ局の名前があることで、“体制”的なイマジネーションを膨らませやすいのかもしれません)。

 内部事情を知らない人間の想像ではありますが、仮にスタジオ使用料が無料であったとしても、本格スタジオ規模の音響照明映像設備は二日間回し続けるわけで、そこには相応の出費は必要なはず(今年はフジテレビの施設ではないZepp等も使用している)。人件費はまたその二日間のみに還元できない額が発生する。3回目を迎えても「フジテレビ」のイベントとなっていないTIFが、フジテレビ本体にどれだけの理解を得られているか、あるいは協力体制がとられているのかもわかりません。一日あたり4500~5000円のチケット料で、数万人規模が各日有料参加したとは考えにくいイベントが、それだけで収益に膨大な余裕を生むと軽々に予測することはできない。であるならば、ノーギャラ問題において考えるべきは、大規模フェスというものがいかにして運営に経済的余裕を生みうるのかということではないかと。ここではギャランティーが満足に支払われないということと、「上に立つ者」がイベントの知名度をエサに搾取していると考えることとは別問題として捉えないと、話が雑になりそうな気がします。また、それでもTIFに参加して何がしかを作ろう、何がしかを得ようとするアイドルのモチベーションを、搾取構造を前提にした詮索にばかり還元するのもな、ということもあります。


 という擁護をここでわざわざしたのは、現在アイドルイベントの最大手的に目されるTIFは、それでもなお存在として安泰ではないと考えるからです。来年も開催されるだろう、と当たり前に思い込むことはまだできない。無邪気に「体制」を想定して、安心して叩けるような存在ではないんじゃないか。TIFを失うことは、きっと思っているよりもずっと簡単。ならば、単純過ぎる否定よりも、継続のための改善箇所探しにしたい。提起されるものが、TIFというフェスが続くための指摘であればいいなと(たとえばアイドル、来場者双方にとっての救護設備の充実は次回以降必須の課題だと思います)。

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 今年も、グランドフィナーレを終えた後の、SMILE GARDENでのジャンボリーは野外フェスの夜の楽しさを最大にたたえたものでした。ステージ上のアイドルたちは、来年のTIFへの希望を口々に叫んでいました。昨年の形態を継承しつつ拡大して、TIFのかたちが定着し始めた今年。それでもまだ、「来年もここで会いましょう」という言葉は、実現を切に願う「祈り」としての気分が強い。自分もまた、ささやかに祈りを捧げつつ来夏を心待ちにしたいと思います。

罪悪感。をプロデュース

*映画『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る』 新宿バルト9 (2012.1.30)


 今日、多くの女性アイドルグループにとって、「物語を紡ぐ」ことは余録ではなく、メインコンテンツのひとつとなっています。しばしばそれは形式上、歌やダンスをメインとした演者の“裏側”を追うサイドストーリーかもしれません。とはいえそのストーリーないしはステージから半歩降りた場所で垣間見せる“素(とされるもの)”や人間関係の読み込みは、アイドルを受容するという営為において歌・ダンス等のパフォーマンスに比肩する重要度を持っています。

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 そのような文脈や枠組みは、当該アイドルグループを運営するブレーンによって仕掛けられるわけですが、受容する側もこの「運営」の存在に無批判無頓着ではありえませんし、アイドルのサイドストーリーの受容には、「運営」とメンバーとのせめぎ合いや運営方針の是非も内包されます。こうした物語性、仕掛けと読み込みといったエンターテインメントのスタイルは、現在のアイドルグループにあっては前提とならざるを得ませんし、その前提の乗りこなし方に、それこそ「運営」のセンスが垣間見られる(たとえばこうした状況に対する自覚を方法として強く意識したコンテンツに、吉川友主演映画『きっかけはYOU!』が挙げられるでしょう)。

 2000年代後半以降のアイドルグループにおける物語前景化の先鞭をつけ、また自ら拍車をかける第一人者となったのは、いうまでもなくAKB48です。モーニング娘。等、時代的に先行するアイドルがひとつの武器としていたドキュメンタリー性を単にアップデートしたばかりでなく、プロデューサー秋元康を中心とした運営陣はそこにシンプルな音源リリースやライブのスケジュールには本来不必要な“事件”を殊更に挿入してゆきます。「総選挙」然り、「じゃんけん選抜」然り。あるいは、時に残酷なほどに、メンバー間格差やパーソナルな苦悩を露悪的に提示して見せます。

 それらはAKB48の音源やライブパフォーマンスに対してではなく、AKB48メンバー間、あるいは彼女たちが紡ぐストーリーに対して地殻変動を与えるものです。つまりここでAKBは明確に、提供するエンターテインメントが歌やダンスにのみ特化するものでないことを示している。素朴な「歌手」観、「アーティスト」観では、AKB48というプロジェクトの発するコンテンツの性格は掴みえません。
 このストーリー作成の周到さはAKBが長期にわたって注目を集める上で多大な寄与をしているでしょう。AKBのドキュメンタリー映画第一弾となる2011年の『DOCUMENTARY of AKB48 to be continued 10年後、少女たちは今の自分に何を思うのだろう?』は、ドキュメンタリーと銘打ちながらも、AKBが平素発信しているコンテンツよりもその“ドキュメンタリー”性は薄く、それが作品としての訴求力の弱さでもありました。その作りは幾分穿って見れば、行儀の良いインタビュー主体のドキュメンタリーを大掛かりにパロディ化したかのようにも思えるくらい、ある種のフィクショナルな雰囲気を帯びていました。そのような穿ちを起こさせるのは、AKB首脳が日頃、秀逸で残酷な「ドキュメンタリー」を提示してみせているゆえです。


 一方、このように音源リリースやライブといった、体裁上の本分からすれば必然性のない起伏を設けて「ドキュメンタリー」を推進してゆくことで、AKBが提供する物語はどんどん過剰になってゆきます。本作『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る』上映に先立つ予告VTRは、メンバーがフィジカル、メンタル両面であからさまに“傷つく”さまが映し出され、彼女たちの感情やオフステージの身体を煽り気味に見せる作品であることが暗示されました。このわかりやすく且つ過剰な見せ方は、AKBというドラマに新規客層を呼び込む明快な強さを有してきたことも確かですが、他方でアイドル主体を追い詰め、疲弊させるさまがパッケージ化され続けることはまた、食傷や嫌悪感を呼び起こしやすくもあります。恣意的なドラマが産出され続けそれがすべてに先行してゆくことが、殺伐とした閉塞に向かいはしないだろうか。物語に慣れすぎた受け手の身にはコンテンツのスリリングさよりも、物語が供給過多になるなかで擦り切れていくアイドル主体の悲愴さに対する危惧が頭をもたげます。

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 果たして、映画本編が始まってまず目に入るのは、AKB48という大掛かりで過剰で周到な恣意のドキュメンタリー的コンテンツが、圧倒的な現実を前に「物語」推進の主導権をあっけなく失う姿でした。
 ここで「圧倒的な現実」と表現したものは二つあります。
 ひとつは、東日本大震災。AKB48を取材対象にするしないにかかわらず、2011年を追ううえで、東北地方太平洋沖地震とそれに引き続く災害は、具体的な言葉を継げずとも、影響されざるをえないものです。本作においても、全編を通じて基調となっているのは震災と、その震災に対して己の職能(とその無力さ)に対峙するAKBメンバーの姿です。もちろん2011年が終わったから何かが片付くわけでも終わるわけでもなく、彼女たちの被災地支援活動を映す映像は決着のついた活動報告などではない。そしてまた、この圧倒的な現実は、被災地支援活動をAKBのプロバガンダとして繰り込むことも容易に許しません。


 被災地の風景が映された直後、本当に簡素な設備で行われる彼女たちの野外パフォーマンスの映像は、彼女たちの存在の小ささを否応なく強調します。AKB48はここで、目に見える実行策もなければ卓越的な超人でもない。紡いできた「物語」によって何かを制御できるわけでもない。有名性を背負っただけの存在です。
 昨年、AKBの被災地支援活動を繰り返しカメラが追いかけ、どこそこがその資金を援助しているという噂をもとにして、AKBは震災をイメージ操作に利用しようとしているという旨の批判記事をネットで目にしました。慈善活動を売名や印象戦略として批判するのはたやすいですが、少なくともこの映像を見る限り、東日本大震災はそんな「利用」に易々と応えるようなものではありません(そもそも有名性を前提とした慈善活動を売名・印象戦略か“純粋”なチャリティーかのいずれかに峻別することは不可能ですし、分類することによって気に入らない有名人を批判しようとするのであれば、その振舞いこそが震災を「利用」しているのではないかとも思います)。AKBメンバーはここで、「訪問する」ことしかできません。


 しかしAKBにはまた、上記と相反するようなもうひとつの「圧倒的な現実」が随伴します。それは、このAKBというプロジェクトが当初の目論見をおそらくは遥かに超えて絶大な有名性を獲得していることです。被災地訪問で披露される『ヘビーローテーション』は近年稀な、リアルタイムでわかりやすく「皆が知っている」歌です。普段の公演からすれば比べものにならない頼りない装備で、装飾に頼ることもできないなかでの『ヘビロテ』は、それでも初見の人々を踊らせる。続いて行われた現地での握手会、サイン会の映像では、メンバーの名を呼びながら泣き出す中学生の姿が映し出される。ポップアイコンがまどろっこしい文脈を取っ払って観衆を掴む力はやはり軽んじられるものではない。

 もちろん有名性とはポジティブ/ネガティブ両面の印象を否応なく背負い込むもので、その存在は両義的です。そこに集ったすべての人間が肯定したと考えることはできない。その有名性ゆえにその場に召喚されたメンバーたちは、被災地で歌い踊ることの怖さを表明していました。メンバーの柏木由紀は、5月の第一回目の被災地訪問の折、バスからステージに向かう際に観衆の笑顔を見て、拒絶されるわけじゃないのかもしれないと、やっと少しだけ思えたと振り返っています。
 いつしか日本のポップアイコンとなったグループが是も非も引き受けて被災地訪問で歌い踊るにあたって、自前の物語などさしたる意味を成さない。現実状況の中に放り出されたAKB48は、どうしようもなく小さくて途方もなく大きい存在でした。


 絶大な有名性の獲得は、AKBの通常活動であるステージや、おなじみとなった「物語」にも影響せざるを得ません。2011年7月に3日連続で行われた西武ドームライブの鬼気迫る映像素材が映すのは、大きすぎる舞台に対応する心身の能力を持たず、立つこともままならない疲労困憊、失策をさらけ出すメンバーの姿です。
 また報道レベルではもはや恒例となって世間が幾らか慣れてしまった感もある「総選挙」も、上位2名の得票が13万を超える規模となった2011年の第三回選挙は、明らかにメンバーの肩にかかるものの大きさが桁外れになる。


 もっとも、この制御できなくなった存在の大きさをもまた、自身の物語として吸収しコンテンツとして見せてしまおうとするのが、AKBのもつ本来的な性質であり、この「ドキュメンタリー映画」自体がまさにそのもっともシンプルな試みなわけです(震災についても、地震当時地元の仙台にいた12期研究生・岩田華怜をフックにすることでAKBに引き寄せている。まだキャリアのごく浅い彼女の振舞いは凛々しく素晴らしかったです)。そして自身のその存在が絶対的に大きいゆえに、そこで示される物語は、強い。


 西武ドームライブという大きすぎる舞台で前日の“失敗”を取り戻す使命も意識していたであろう前田敦子が過呼吸で倒れ、通常出演も覚束ないコンディションの中、それでも総選挙一位の自身がいなければ意味を成さない『フライングゲット』のセンターに位置すると一瞬にして表情を変え、痛々しく眩しい笑顔を作ってみせるシーン。
 総選挙順位発表直後にすっきりとした余裕さえ感じさせるコメントを残した大島優子が、バックステージで近寄ってきた篠田麻里子の胸に顔を埋め声を上げて泣くシーン。
 あるいはこのドキュメンタリーでもっとも「内輪」の物語といえるチーム4の大場美奈と島田晴香の関わりもまた、彼女たちの属している器がAKB48という絶大なものであるだけに外に向けた力は強い。
 これらのシーンは、AKB48がこれまでも繰り返し提示してきたドキュメンタリー的手法に連なるもので、常套の絵面といえばそうなのですが、それでもこの感情の起伏の物語は抜群に訴求力を持っています。AKB48の紡ぐものの強大さをこの映画は繰り返し繰り返し見せつけます。


 ただし、このコンテンツを楽しめば楽しむほど、ある種の罪悪感が常にちらつくのも否めません。各所で指摘、批判されることですが、彼女たちの感情を徒にすり減らせることで成り立つエンターテインメントを自分は消費しているわけですから。
 そのことをもって即座にこのプロジェクトを一切否定する立場には与しませんし、多かれ少なかれ感情の消耗が売り物に結びつくというスタイルはAKBに特化することでもなく多くの場で見られるものでしょう。また、この手法によってある種現在もっとも「売れる」肩書きと経験を手にした彼女たちが、それぞれの目標や社会の中での位置取りに向かうことができるという点を踏まえるとき、安易に頻出する「搾取」等の言葉でそれを批判できるとも思いません。
 けれども、抜群の面白さとその裏に伴走してしまう、彼女たちの感情の起伏を消費している罪悪感に、自分は折り合いをつけられない。この清濁併せ呑む揺さぶり方がプロデューサーである秋元康という人の真骨頂でもあって、折り合いをつけられないという感情こそが、このエンターテインメントに乗っかっているということの証なのかもしれません。面白さも折り合いのつけられなさも否定しないまま、あと何回かは映画館に通うことになりそうです。

偉大な第二歩目

*TOKYO IDOL FESTIVAL 2011~Eco & Smile~ お台場・青海特設会場 (2011.8.27,28)

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 「2回目」が実現したこと、そして“フェス”としての成熟度が確実に増したことがなによりも祝福されるべきことではないでしょうか。

 昨年の8月に行われたTOKYO IDOL FESTIVAL 2010の際、再びこうした機会が実現してほしいという声は各所で耳にしましたし、個人的にも毎年の恒例になれば理想的だと考えていました。しかし、先例もなく、動員数や会場運営の仕方も手探りの感が強かった前回興行時点では、皆願望はあっても「来年がある」ことへの期待に強い手応えは持てなかったはずです。AKB48やハロー!プロジェクト関連、あるいはPerfumeといった、現在のアイドルシーンで最大級のネームバリューと動員力を誇るグループを招聘せず、会場も品川駅付近に点在する複数の施設を使用するというスタイルで開催された昨年のフェスはまだその位置づけが明快に見えづらい部分もありました。また一方でその招聘グループのセレクトと入場料の高さにより適度にゆったりした観客数となったゆえに結果的に実現したある種の快適さは、2010年限りのものでしかないのではないかという予想もされました。

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 しかし形がどうであれ(といっても2010年のフェスはとても素晴らしいものでしたが)、先例を作ったことで、2011年開催にとっての大事な足場になったことは間違いないでしょう。昨年のAKB48やハロプロ、Perfumeに加え、今年になって知名度、存在感の格段に大きくなったももいろクローバーもフェスに参加しないことが早々に判明していました。しかし昨年、招聘グループの基準が示されていたことで、少なくとも現状のTOKYO IDOL FESTIVAL(以下TIF)に関してはこのくらいの規模で開催される、ということが自然に了解される素地ができていたように思います(それはまた昨年のTIFが、それでも充分に楽しい空間であったという実績によってもいるのですが)。

 また昨年のTIFの快適さの大きな要因であった、来場者数が多すぎないゆえののんびりした空気が、アイドルシーンの変化やもろもろの環境(ラインナップや実質昨年の数分の一の値に設定されたチケット価格、会場変更等)によって悪い方向に一変してしまうのではという危惧も、蓋を開ければほとんど杞憂でした。確かに昨年と同じ空気ではあり得ませんが、祭的な開放感と高揚感を大きく強める方向に進んだことは、フェス的空間を作る上で良かったと思います。


 フジテレビの門澤清太プロデューサーがTIFの総合プロデューサーを務めていることから、今年の会場はフジテレビ湾岸スタジオ及びスタジオ前の広場(湾岸スタジオとゆりかもめ「テレコムセンター」駅と日本科学未来館に囲まれたスペース)。屋外の広場に設えられたステージは無料開放されてチケットなしでも観覧自由、チケットの必要な湾岸スタジオ内は収録スタジオと屋上ステージ等が設けられました(TIFのクレジットにフジテレビの名前はなく、主要事業の位置づけではないのでしょうが)。

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 ステージごとに比較しての評価でいうならば、会期中随一の高揚感、音楽フェス的な空気の創出に貢献していたのは、無料で観覧できる野外ステージでした。ステージから遠く離れた後方まで広がった芝生の上で、あるいは飛び跳ねあるいは芝に座りながら終日ライブを堪能できるというのは、やはり最高に心地良い。陽も落ちた二日目のグランドフィナーレ後、アンコールとして無料ステージで出演者たちのうち数十人が揃いライブを行いました(各アイドルの持ち歌ではなく『雨上がりの夜空に』『睡蓮花』『One Night Carnival』などを生バンドで)が、この最後のステージが真にフェスらしい高揚感に溢れたものになったのは、夏の夜を感じられる屋外の広場という立地によるところが大きいでしょう。この野外のフリーな空間は次回以降の開催でもぜひ大事にしていただけたらと。

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 また他方、テレビ局の所有する施設を使用できるという条件ゆえに成し得た舞台として特筆すべきは、湾岸スタジオ屋上につくられたSKY STAGEです。アイドルたちが躍動する舞台の背後には壁や地面を感じさせるものはなく、高層階からの台場の眺望があるばかり。青空とフジテレビ社屋を借景にした高層階のステージは、中央のテレビ局というある種の「俗」を強く感じさせるものでありながらまた一方でそれ以上に、ちょっと「俗」から切り離されたようにも思える不思議なバランスの空間でした。天空のステージに登場したTwinklestars、東京女子流、DOROTHY LITTLE HAPPYらのパフォーマンスはその不思議なバランスの空間の中で、まさに「地上」とは確実に異なる時間を演出していました。


 もちろんフェスとしてはまだ粗も目につきます。テレビの収録スタジオをそのまま使用した二つのステージに向かうまでの道程はフジテレビの倉庫の内部が装飾もなくむきだされていて、ステージへの誘導看板も幾分のおざなり感は否めません。それら収録スタジオのステージへの出入りは、普段の収録で人間が使用する小さなドアしか開放されておらず、千人単位の人間が移動するには出入口が狭すぎることも課題でしょう。またスカイステージや物販エリアへのアクセスがエレベーター二機のみであるゆえに利用するまでに長い列を作らねばならず、物理的にはすぐ近くにありながら移動に時間と手間がかかるのも難点ではあります(来場者数的に、階段を使用可にすると事故のリスクも増えるので今回のこの措置については理解はできます)。

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 とはいえ、フェスらしさ、開放的な楽しさという面で昨年から格段の進歩をしていることは疑いようがありません。アイドルが集うことそれのみの豪華さという要素だけではなく、そのことによる祝祭空間を現出できるようになったことの意義は本当に大きいと思います。アイドルのパフォーマンスを大事にすると同時に、この場所を大事にしたいという機運が高まる契機に、今回がなってくれれば良いなと願います。

 先に、今回のフェス随一の高揚感が無料エリアにあった、と書きました。このことは、こと今回に関しては来場者に「無料のエリアだけで充分だ」と思わせるものであったかもしれません。けれども長期的に見て、無料エリアであれ堪能することでこの幸せな空間を維持してほしいと考えるアイドルファンが増えるのならば、そのためにチケットを買って貢献しようという向きも増えるのではないかと思います。こうしたアイドルシーン活況の象徴が開催されることの楽しさはチケットを買った買わなかった問わず、少なからぬ人々に届いたのではないでしょうか。
 「誰々が出るから行きたい」よりも「アイドルフェスという空間に寄り添いたいから」会場に赴きチケットを買う。毎年の開催を経ることでそうした習慣付けができるのならば理想的です。
 アンコールステージの最後、風男塾の青明寺浦正が「来年も再来年もTOKYO IDOL FESTIVALで会おうぜ!」と叫びました。昨年には実現度の覚束ない希望であったその言葉ですが、今年はよりはっきりと「次回」を見据えることができる。完全にプロトタイプであった昨年に続いて、空白を置かずに、また格段のレベルアップをもって第二回が開催できたのは素直に喜ばしいことだったと思います。

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