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~演劇とアイドルと何かと~

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テンションと微細さと

*『太陽2068』 シアターコクーン (2014年7月7,8日)

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 ごくごく日常的な暮らしの中にSF的な設定が静かに浸透していき、やがて世界が致命的な事態に向かって加速する。イキウメという劇団は、しばしばそうした世界を描きます。特にそのような設定を用いて、イキウメの主宰・前川知大が巧みに描くのは、異物である他者と共存することの困難さや、理解し合うことができない絶望を前にした人々の葛藤です。

 2011年に上演された『太陽』もまさに、先進的で理性的な人々と、過去の遺物としての立場に置かれた人々との、互いに対する分かり合えなさを繊細に描いていました。(2011年の『太陽』レビューはこちら

 本作『太陽2068』は、その作品の蜷川幸雄演出によるリメイクです。
 この作品は、先に述べたようなSF的な設定が日常に浸透してしまい、世界が一旦破綻を迎えたのちの状況から始まります。


<バイオテロによって人口が激減、現在あるような社会基盤が破壊されたのちの世界。生物兵器感染から奇跡的に回復した人々は、通常の人間を遥かに上回る能力を持つ身体に変異していた。彼らは頭脳明晰、肉体は若く健康なまま維持できるが、吸血鬼のように太陽光のもとでは生きられない体質をもつ。徐々に人口を増してゆく彼らは自らを通常の人間と区別し、「ノクス」(ホモ・ノクセンシス=夜に生きる人)と名乗るようになる。
一方、生物兵器汚染から逃れた通常の人間は、人口的にも政治経済の担い手としてもノクスの周縁に追いやられ、ノクスに依存しながら小さな集落を作り生活している。彼ら通常の人間は「キュリオ」(骨董品の意)と呼ばれている。>


 キーとなるのは、進化形の人類であるノクスと、旧来型の人間であるキュリオとの断絶が単なる排除や敵対の関係ではないことです。
 日本を実質的に掌握するノクスは、キュリオとの間に「共存」を掲げていても、その温情的な眼差しの下には、感情的で今や非文明的な存在でもあるキュリオに対する差別意識も見え隠れする。ノクスは、自身が「理性的」であり、またその理性的であることを美徳として自負しているゆえに、自身の中にある欺瞞や、キュリオへの差別意識という、「感情的」な不完全さを自覚せざるを得ず葛藤します。

 他方、キュリオもまた、ノクスに反発を覚え断絶状態を維持しようとしながらも、キュリオからノクスに変異する施術の権利を我が子のために得ようとします(若者に限り、ノクスに変異できる方法が発明されている)。つまり、ノクスを嫌悪し拒絶する一方で、できるものならばノクスとしてこの先の人生を生きた方が人間として「幸せ」である、という認識も持ち合わせている。それはまた、自分たちキュリオが、旧世代として滅びていくほかないという諦念とも隣り合わせです。
 この細やかな関係性の描写によって、対立しあう二者という構図が生む単純でない感情のありようがえがかれていく。


 さて、この基本的な設定やストーリーは、2011年のイキウメ版を継承していますが、蜷川演出になったことで、その手触りや強調されるものは大きく変わりました。

 イキウメが日常性を保ち、落ち着いた明晰な発声で会話するのに対し、蜷川演出では言語をより劇的に発し、テンションも高く強烈になり、その身体も日常的な静かさというよりも、より劇的なものになります。そのことで、イキウメ版のような我々と地続きの世界とは異なる、ひとつ異世界の出来事になった、独特のリアリティの水準が生まれます。

 その蜷川演出のテンションによってこそ可能になったのは、「スター」の個が放つチャームの強調です。
 蜷川版のリメイクでバランスに手が加えられ、大きくフィーチャーされるようになったのが、断絶するノクス-キュリオ間の個人的な友好関係の象徴である、ノクスの森繁(成宮寛貴)とキュリオの青年鉄彦(綾野剛)のやりとりです。
 抑制の効いた言葉で意味を伝えることよりも、個の感情の応酬の方を泥臭く引き出すことで、成宮寛貴、綾野剛という二人のスターのチャームを強く見せている。またその中に、ともすれば役柄以上に、二人の若手スターのパーソナリティの交流を見るようなじゃれ合いを頻繁に差し挟む。
 これは、高い有名性をもつタレントを揃えるという、シアターコクーン的なキャスティングに対して効果的に働き、この二人によって担われるラストのカタルシスも、イキウメ版とは対照的な高揚感になっていました。
 少しずつ距離感を詰め、仲を深めていく二人の可愛らしさを最大限に引き出せたことが、後半のある悲劇、それを経てのラストの解放へと繋がり、本作随一の魅力になっていたと思います。


 また、変異の権利を得るチャンスを持ちながらもキュリオに留まることに希望を見ようとする娘・結(前田敦子)も、その一例でしょう。彼女の前半~中盤の感情表出の強い演技は、終盤の表情の変化に効いてきます。
 芝居中盤までの彼女は、座組に馴染んではいるけれど、演技に自身の色がさほど強く出せてはいないかなと見えていました。しかし終盤の展開を経て再び姿を現した時、彼女はそれまでの流れと断絶した、「別人」の表情を正しく作ります。一種特異な存在感をもつ前田敦子という役者の片鱗は、この終盤の表情に集約されていました。
 ここで彼女が見せる表情は、ごくごく穏やかで台詞も落ち着いたトーンで語られるのみです。この、ごく普通のテンションをきちんと体現できたからこそ、彼女が演じる結の決断がもたらした哀しさが強烈に響く。感情を強く叩きつけるような演技のあり方ではないこの場面にこそ、彼女の手柄はあったように思います。これから先、もっと舞台で成長する姿を観続けたい役者の一人です(ちなみに、伊藤蘭さんのようなキャリアを持つ俳優が「母親」役としてそばにいることも、彼女に良い効果をもたらしそうな気がします)。

 前田さんがここで見せた、断絶を体現した曇りのない表情は、結の父親草一(六平直政)にとっては、肩の荷が下りた安堵の種であり、同時に娘と完全に分かり合えなくなったことを思い知らされる絶望です。彼女の表情が強いからこそ、草一がここで見せる泣き笑いの表情が活きる。


 これら、若手スターの魅力の強調こそが、蜷川版がこの『太陽』にもたらした大きな効果でした。

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 一方で、それと引き換えに薄れたのは、この戯曲が持つ静かで微細な描写ではないかと思います。
 イキウメのSF的設定が秀逸なのは、その設定自体の新奇性に寄りかからず、その設定を介した語りを通じて、「人間」の感情を単純化せずに描ききる点です。本作でいえば、断絶した二者の相互に対する拒否反応と無理解が、単なる疎み合いだけで成り立っていない複雑さでしょう。

 それは、設定を説明したり論理を積み重ねたりする台詞の中で獲得されるものです。イキウメは役者陣の演技水準の高さが毎回、作品に大きく貢献していますが、その演技は抑制的で明晰な発声であるため、細かなやりとりに含まれる設定までを受け手が理解することができる(これはもちろん、「演劇」的な面白さを損なうものではないと思います)。

 蜷川演出によるエモーショナルな芝居は、個の強さを提示して劇的な言葉や身振りを引き出す一方で、そうした静かな細やかさをいくらかスキップしてしまうことにもなった気がします。それは役者個体の劇的な言葉や身体を大事にするならばある程度は不可避のことであったかもしれません。


 また、もう一点、蜷川版の特徴に、イキウメ版にはなかった追加登場人物・拓海(内田健司)の存在があります。己の欲求のコントロールが下手な若者としてのこの役を創出したことで、舞台上に「生」の匂いも、「性」の匂いも不穏なかたちで付加され、蜷川版オリジナルの空気を作ることに貢献していたと思います。

 しかし一方で、新たに追加されたことの余波かもしれませんが、ストーリーの中ではやや中途半端になっていたように見えました。後半の拓海の「ある行動」が、その後にどう繋がるのか。結の絶望の引き金のひとつと捉えられなくもないですが、あまり決定的なものにもなっていないような。
 拓海の存在は、特に「性」の匂いに関する生々しさをもたらしましたが、同時に、戯曲に歪さを加えることにもなったのかもしれません。特に、ともすれば「前田敦子さんにあやういシーンを用意する」という、俗っぽい芸能トピックに回収されてしまう可能性も考えると、あんまりうまくないかなあと感じました。


 ただし、エモーショナルさの強調に関して言うならば、それは戯曲から何かが「失われた」と捉えるべきではないのだろうと思います。
 2011年のイキウメ版では、相互についてイメージし受容することの困難さが抑制的に描かれるからこそ、そこに断絶についての普遍的な示唆がありました。たとえば欧米地域とアジア地域、原発にまつわる錯綜、あるいは世代間の断絶、また部分的にはハンディキャップをもつ人々とそうでない人々といった、数々の「断絶」。

 本作ではそのうち、「世代間」の断絶というものが、特に視覚的には色濃くあらわれます。これは、もとの戯曲に比べて何かイメージが限定されてしまったのではなく、そのように幾重にも意味を投影できる脚本から、演出・脚色の段階で、「世代」の割合を強めに抽出したということかと思います。

 優秀な脚本が、演出家によってある面を強調されること、新たに色付けられるということ。そのことによって、オリジナルからは想起できなかった役者の個のチャーミングさの強調を堪能し、また翻って、オリジナル版の持つ微細さをあらためて噛みしめることができる。脚本の強靭さ、演出による肉付けの凄み、往還するように双方を楽しむことができたかなと思います。
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人のセックスを笑うな

*ポツドール『恋の渦』(2006年上演:viaシアター・テレビジョン) (2014年2月11日)



 2013年公開映画『恋の渦』の原作となる、ポツドール上演版(2006年)を映像で観ました。順序としては、昨年映画版を先に観ていましたが、その時に感じていたことを含めて、ちょっと通常の演劇レビューとは違う雑感です。

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ポツドールHPより)

 映画版を観た際、素直に面白いと思いました。
 その面白さとは、小さな食い違いが雑なままに温存されて流れていくことから来る、人間のコミュニケーションの齟齬に対する視線の細やかさでした。それらを体現する役者の表情や佇まいを含めて、提示してくるものは非常に自分好みの描写がされていました。


 一方で、観た後そしてそれ以降しばらく経っても、ある種の居心地の悪さをずっと感じ続けていました。映画版の「ゲスで!エロくて!!DQN♡」というキャッチコピーに象徴されるように、この映画は「DQNの生態」を覗き見するかのようなプロモーションがされていたように思います。端的にいえばそこに、安全圏から自分とまったく違う世界の人間たちを戯画化して嗤っているような気分を感じていました。つまり、己とは性質や習慣の隔絶した人々としての「DQN」像を設定してそれを観光するような、ともすれば見下しの視線の混じった居心地の悪さです。そしてまた、その作品に面白みを感じている自分を持て余してもいました。


 今回、ポツドール版を観たことで、その何かが少し整理されたような気がします。
 まず三浦大輔という作家がやろうとしているのは、コミュニケーション(の齟齬)の真摯な観察と描写であって、決して「DQNの生態」観察などではない。

 冒頭の、彼女なしの男性オサム(古澤裕介)に女性を紹介するパーティー。一見して感じるのは、初対面の男女を紹介する際の周囲の人々のデリカシーのなさ。グループの中心的存在であるコウジ(米村亮太朗)をはじめとする彼らは、オサムに女性を紹介する流れでTVの際物ネタなどの「ノリ」をオサムに強要し、当のオサムと相手女性のテンションをないがしろにしている。
 ここに描かれているのは、つまり友人に異性を紹介してあげるという体裁をとりながらも、場の主役も主導権も無意識に手放そうとしないコウジたちの論理です。彼らにとって、男女を引き合わせるというのは自身たちのための肴であり、あくまでも自分たちの気分を良くするためのイベントです。同時に、コウジたち自身はそうであることに気づいていない。主観としては、オサムのためのイベントを「開いてあげている」。その自らの錯誤ゆえの権力性にコウジは無頓着です。


 コウジは自宅で開いていたそのパーティー終了後、己の無自覚な権力性を同棲している彼女トモコ(遠藤留奈)に向けます。コウジの弟ナオキ(河西裕介)が連れてきた彼女サトミ(小島彩乃)が所在なさげにしていたことに目を留め、なぜトモコがケアしなかったのかと問い詰める。よく聞けばコウジの論理にも破綻はあるにもかかわらず、彼の高圧的な態度に屈して謝ってしまうトモコは、半ば論理的に負けてしまったような錯覚と腑に落ちなさを覚えつつ怯える。そしてまたコウジも、その場の権力関係によって、自身が論理的に正しいと錯覚する。このもどかしさとどうにもならなさの描写がまず見事です。


 他方、コウジらの先導でオサムと引き合わされた女性ユウコ(白神美央)はなし崩しにオサムの部屋に押しかけます。とはいえパーティーがコウジらの「ノリ」に占拠されていたため、ろくに打ち解けていない二人は、部屋にぎこちなく座ったのち会話が弾まない。それでも、互いに異性を紹介するといわれてパーティーに足を運び、その異性と部屋を共にしている以上、その水面下に相手へのエロティックな期待を忍ばせて、ついにはその期待が噴出してセックスへと流れていく。あからさまな性欲先行の交わりの中で、それでも自身の行動を正当化するような場当たり的な言葉を並べて、相手に対して取り繕おうとする不格好さが滲む。


 他者との関わりにおいて無数に生じる、コミュニケーションのささくれた部分が、本作では丁寧に描写されていきます。ナオキとその彼女サトミの間の、表向きうまく行っているようでいて互いに「裏切り」をしている、それでいて相手との結びつきをありがちなやり方で確認しようとする関係、あるいは一見奔放にセックスをしているように思えるカオリ(内田慈)をめぐるタカシ(美館智範)とユウタ(鷲尾英彰)の、友人関係の内にある小さな苛立ち。それに、「恋人」に無様に依存してすがりつく登場人物たち。


 それらは我々の生活にいくらでも転がっていて、それをやり過ごしたり先送りにしたりして、小さく不満をためながら日々は過ぎていく。そんな大小の齟齬の集積を浮き彫りにする設定として若くてチャラい男女が登場人物に設定されてはいますが、それは彼らのような社会的属性に特有のものではない。間違っても、「DQNだからこのような思考回路や行動をとる」といったような、「DQN」ではないと自認する者が対岸の火事のようにみなせる事柄ではありません。


 セックスを伴う「裏切り」は彼ら彼女らのような人物に特有のものではなく、恋人でない者同士のセックスも観客の生きる日常世界にはいくらでもある。そんな「普通の」セックスが俯瞰されれば皆たいがい滑稽だし、一時的であれ思い入れた相手にすがりつく瞬間はたいがいみっともない。自身の心情の伝え方なんて常に雑で、そこから生まれる誤解もささやかな上下関係も放置しがち。当の我々が生きているのはまさにそんなみっともなさです。

 そうした人間のコミュニケーションへの、真摯で細やかな視線こそが、『恋の渦』のなによりも優れた点です。


 これらのエピソード描写は、実は映画版『恋の渦』でも忠実に再現されています。映画でも、こうしたコミュニケーションに関する齟齬はやはり細かに描かれている。つまり、この映画においても見るべきは、「DQN」の戯画ではなく、その人間同士の関わりへの繊細な視点なのです。

 冒頭で述べたような居心地の悪さとは、映像作品単体というよりは、その繊細で普遍的な人間への視線によって支えられた面白さが、「DQNの生態」のような印象に置き換えられてプロモーションされ、受容されることへの違和感だったのかもしれません。緻密に描かれているのは我々が日々体験し続けているみっともなさや苛立ちの種、セックスにまつわる滑稽さであって、それは「DQN」特有の何かではない。ともすればその「DQN」を「他人」として嗤ってしまえるような誘導は、映画版の魅力のあり方をややねじれさせてしまうようにも思います。


 それでも、そうしたイメージに引っ張られて、「DQN」の戯画化そのものをエンタメにしたようなプロモーションは、さしあたり成功しているように見えますし、そのことの利点は小さくないと率直に思います。この映画の面白さが「DQNの生態」みたいな印象に回収されてしまうのはちょっと惜しいと感じるのだけれど、そこはプロモーションとの諸刃なのかな……。映画が多くの人に届くことは良いことに違いないですし。


 セリフなども含めておおむね進行の共通した舞台版、映画版を観たことで、両者の媒体上の利点もまた鮮明になりました。映画版で強く印象に残っていたのは、コウジ(新倉健太)をはじめとした役者の表情が皆良いこと。それはもちろん自在にカットを割ることのできる映像特性によってもたらされるものですが、各キャラクターの立ち方という面では、やはり映画版に利がありました。舞台で群像として観ていると、ともすると似た印象に見える瞬間もある人物たちを、映画版では微細に切り取り、また役者陣もいい「顔」で応えている。

 一方でオリジナルの舞台の強みは、それぞれの部屋でパーティー後の同時間帯に並行して起きるやりとりを一覧させるダイナミックさです。三浦大輔作品に頻出する、舞台上に複数の部屋を割ってみせるセットの面白さが、ここではねじれた男女関係の進行や、各部屋でそれぞれの事情で苛立ちを爆発させる様がほぼ同時に描かれる際の盛り上がりなどに有効に用いられている。舞台でしかなしえない機構の面白さを、映画版を踏まえて観ることでまた再確認させてくれる。
舞台版、映画版いずれにも、正負入り混じった刺激に溢れているゆえの収穫かなと思います。

「あのころの未来に」

*月刊「根本宗子」第9号『夢も希望もなく。』 下北沢駅前劇場(2014年1月17日)


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 根本宗子という作家の真骨頂は、どうにも拭い切れない人間の「甘さ」「弱さ」を繊細に、辛辣に描く点にあります。その「弱さ」は時に社会に対する根拠のない優越感としてあらわれ、時に自身の報われなさの原因を外部に押し付けるみっともなさとしてあらわれる。そうした舞台表現のひとつひとつは、他者を安全圏から笑うためではなく、観る者が自身を省みざるを得ないような痛々しさとしてあります。

 そうした根本作品の目を背けたくもなるような魅力は今回、観る者以上に根本宗子本人に、そして演劇をする者自身に直接返ってくるものになっています。すなわち、そこで冷徹な目をもって観察されているのは、クリエイターワナビー同士が温存し続ける「甘さ」にほかならない。


 作家志望の優一(水澤賢人)は己の才能に自信を持ちつつ、アルバイトをしながら執筆活動をしている。優一の恋人ちひろ(福永マリカ)は劇団に所属し、やはりアルバイトをしつつ演劇やオーディションに勤しんでいる。お互いに「芸術」的な道を進んでいることを好き合い、関係は良好のようにみえる。ちひろの幼なじみで看護師という「普通」の道を目指す絵津子(根本宗子)らもちひろの活動を応援し、ちひろが映画のオーディション一次選考通過の通知を受けるなど順調に日々が流れている。そんな光景が繰り広げられる舞台下手の一室とは対照的に、上手では会社員の女性と半ば無職状態の恋人との力ない同居生活が行われている。


 根拠も実績もない、自らの才能(があってほしいという希望)にすがる男性が恋人に見せるみっともなさは、過去の根本作品『根拠のない余裕』(2010年、タイニイアリス)の主人公に通じる設定です。本作は、『根拠のない~』でもがいていた作家志望男性の過信の描き方がさらに磨かれている。
 他者が世間話的にこぼす会話に対し、日本語がわかりにくいとダメ出しをするさまに滲むのは、作家志望の優一の繊細さ以上に、そのようにダメ出しすることで他者の「才能のなさ」を確認するような自己防衛です。ちひろの所属する劇団の公演にも批判的な感想を述べながら、それは芝居を作っている主宰の責任であり、自分はちひろにそんな才能のない人たちの作品に関わってほしくないと主張する。「才能のある」自分(同時に審美眼もあることになっている)が、ちひろの「ためを思って」するダメ出しに、ちひろもまたほのかに違和感を持ちながらも感謝する。
 二人は互いに「芸術的」な道を歩むことにアイデンティティを見出しますが、それは社会の「普通」に対する見下しによって成立しています。アルバイトを適当な理由で休み執筆のための時間をとる優一にじゃれるような言葉を投げるちひろ。そしてそれに応じて自らたちを「社会不適合者」と自称する優一は、その言葉に明らかに優越感を託しています。また、「芸術的センス」がゼロだと自ら述べながら素直にちひろを応援する絵津子を優一はあからさまに見下している。優一に引きずられるように、優越感を伴ったアイデンティティに浸っていくちひろは、彼女を長年見てきた絵津子の心配をはねつけ、優一への思いに傾斜していく。ここでちひろは、優一のパーソナリティが好きなのか「才能」が好きなのか判然としません。というかそれはどちらかだけが好きと決められるものではない。とはいえ、その優一の根拠のない「才能」はちひろを駆動し、他方で優一の心理にも抑圧的に作用していく。

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 それが大きな軋みとなるのが、ちひろのオーディション一次通過です。「芸術」を志すうえで、他者に公的に認められるステップを踏んだちひろに対し、優一は苛立ちを隠しきれなくなっていく。優一の自らの「才能」への自信は、ちひろが道を切り拓いていないこと、自分よりわずかでも上にいないことが拠り所になっています。その軋みを、やがてちひろは自らが「社会不適合者」から降りることで解消しようとする。しかしそれは、それまでも許していた優一の甘えをさらに許し、生活的にも精神的にも優一を依存させていくことになる。そして、優一の「才能」が駆動因だったちひろの優一への依存心が、くすんでいく契機でもあります。


 ところで、そうした関係が繰り広げられる一方、舞台の反対側ではもうひとつの男女関係が進行しています。会社員として働く女性(大竹沙絵子)と、たまに夜勤に出るのみでほぼ無職の男性(郷本直也)との、もはや惰性と情のみで結びついたような関係です。昨年の根本作品『今、出来る、精一杯。』(2013年、下北沢駅前劇場)に通じる男女の関係といえるでしょう。女性は男性に経済的な期待をせず、依存することを許し続けている。友人の杏奈(梨木智香)との、小さな生活感のあふれる会話に、彼女の静かな諦念と不安が垣間見えています。彼女の名はちひろ。つまり、次第に明らかになるのは、舞台上手で進行している男女の物語は、優一とちひろの10年後の姿をうつしたものだということです。


 創作をやめ、かといってあまり働きもせずにちひろの家に同居する優一は、クリエイティブな道を歩む他者へのシニカルな視線のみを残したまま、自堕落な日々を過ごしている。その優一とちひろの10年後と同時に、舞台下手ではまだ22歳で拠り所のない自身の才能を信望することのできる優一と、劇団を辞めそれを支えることにしたちひろの、無軌道な日々の始まりが描かれていくことになります。それが無軌道に見えるのは、すぐ横に10年後の「生活」が描かれるため。このきわめて舞台的な仕掛けによって、根本はこれまでもテーマにしてきたような人々の「甘さ」の成れの果てを描くことに成功しています。若いちひろたちのストーリーが展開している時、上手にいる10年後のちひろは過去のある岐路を思い返しているようでもあり、10年後の日々が進行していく時、それは下手の若いちひろのゆく道が暗示されているようでもある。
 彼女ら彼らの最悪にどうしようもなく甘くて弱い姿の丁寧な描写は、観る側にとっても遠くにあるものではない。そしてこの作品は、なにより根本や出演者たち自身にとってこそ、自らに対するドライな批評でもあるのです。


 しかし優一の甘さを許したまま過ごしてきた10年後のちひろに、根本は否定的な未来を突きつけてはいない。優一に傾倒するあまり自身の俳優としてのチャンスを自ら絶ち(そのことが本当にマイナスの判断だったのかはもちろんわからない)、優一のためにと始めた「普通」の生活から、「優一のため」という駆動因は消失してしまった。それは何かに賭けてきた日々の終わりではあるけれど、その感傷に浸り続けることすら許さない目の前の生活は、それはそれで自分を否応なく駆り立てる。優一が出て行った瞬間から、もうその次のせわしなさは動き出している。何も達成できなかった10年後が「末路」ではなく、日々の連なりとして肯定されていることは、作品の終盤の完成度に貢献していました。同時に、ちひろがかつて優一のために切り捨てた昔からの友人、すなわち「普通」の人として人生を送る絵津子が過ごしていた10年が最終盤で優しく扱われることで、どうしても甘くて弱い人物たちに注目が当たる根本作品に奥行きをもたらしていたように思います。


 相変わらず根本作品得意の、恋愛沙汰をめぐる人々の気恥ずかしさみっともなさは容赦なくも面白い。誰にでも心当たりのある、それ自体たいした悪でも失敗でもない、不完全な者たちの恋愛へのそれぞれのアプローチを描く繊細な筆致は、根本作品にとって大切な武器でしょう。それを支える、もはや根本作品のキーともいえる梨木や、梨木の10年前を演じる長井短、ちひろと優一の最終的な破綻の鍵となる莉奈(杉岡詩織)、そしてもちろんちひろを演じた福永・大竹らキャストの細やかさも頼もしい。そろそろもうひとつキャパを広げた場で根本作品を観てみたいと思います。

モンスターを飼い馴らせ

*NODA・MAP『MIWA』 東京芸術劇場プレイハウス (2013年10月16日


 実在の事象、それも近過去に生じた事象や現在にまで引き続く事柄が作品に織り込まれるとき、そこにはある緊張感が生じざるを得ません。それはまだ、その事象や出来事が「歴史」化されていないためです。つまりそれらは、すでに「歴史」の一部になって評価が定まったものや、あるいは今日とはさしあたり切り離して考えられるようなものではない。それを描くことは、否応なく現在世界で生起している個別具体的な何かに対して作り手の見方を表明することになる。その最たるものが、2001年のアメリカ同時多発テロを扱った作品群であり、また2011年の東日本大震災をテーマにした作品群でしょう。

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 とりわけその解釈が問われるのは、再現VTRやルポルタージュ形式のもの以上に、フィクションとして制作されたものです。フィクションであることで、その事象に対する作り手の解釈がより強く反映され、またフィクションであることで、それがエンターテインメントとして、すなわち楽しまれるためのものとして存在することがより明確になる。

 本作『MIWA』は実在の、それも現役でメディアに頻出する人物を題材にしています。しかも劇中に登場するというレベルではなく、タイトルに名前が冠されているように、「美輪明宏」そのものを大テーマとしている。そして何より大きいのは、その美輪明宏という人物のセクシュアリティを作品最大の駆動因として配置し、その内面が語られることです。それは明らかに美輪明宏という人物についての、劇作家・野田秀樹の解釈であり、美輪明宏の言葉ではない。作家の解釈と創作によって美輪明宏という人物の性ないしは愛に肉薄しようとするかたちで、エンターテインメントをつくりあげていることになります。そこには相応の覚悟と倫理が必要になる。

 しかしまたそのような、ともすれば不遜でもあるような試みをも不思議に飲み込んでしまうものとして、実在の美輪明宏はある。美輪のあり方は、そのかたちを掴んで描ききることがきわめて難しいし、同時にそうして描いたものを許容してしまうような特異さも併せ持っている。


 野田は本作で美輪を、ひとつの肉体に二つの霊が宿ったものとして表現しています。美少年としてのMIWA(宮沢りえ)の背後には、常に化け物的な存在としてのアンドロギュヌス(古田新太)がいる。ここで宮沢の演じるMIWAは、男ではない魂を表現しています。それは冒頭、現世に生まれ落ちる直前を描いたシーンに明示的にあらわれています。男に生まれ落ちるか女に生まれ落ちるかを決める「最初の審判」で、MIWAは男性器を模した「踏み絵」を踏めずにいる。これはここでは男性器を否定できない=男性として現世に生まれることを意味しますが、MIWAは男性に生まれることを拒み、かつ「踏み絵」を踏むこともできないでいる。与えられた性を拒絶し、生まれ落ちることの許されない存在として審判がくだされるところ、それを強引に破りMIWAの手をとって現世への導きをするのがアンドロギュヌスです。つまり現世に生まれ出たこの人物は、男性であるMIWAの肉体に、女としての魂であるMIWAと、男としての魂であるアンドロギュヌスの二つが同時に入り込んでいることになります。


 とはいえ、MIWAの肉体はMIWAのものです。ひとつの肉体を分け合うパートナーとしてアンドロギュヌスと対話を繰り返しながら、ある時ふっとアンドロギュヌスが姿を消す時が訪れる。それは劇中、MIWAに好きな男の子が出来た時、つまりMIWAの心が「女心で澄み切った」ときです。

 幼年期から青年に至る過程で、MIWAの前には幼恋繋一郎、初恋繋一郎、赤絃繋一郎(いずれも瑛太)の三人の恋愛相手があらわれます。彼らとの関係に没頭できる瞬間、MIWAの中にアンドロギュヌスの影は見えなくなる。しかし、MIWAにとってアンドロギュヌスは飼いならすことのできる存在ではなく、またアンドロギュヌスはMIWAの「歌声」を司るような役割を負っているために、エンターテイナーとしてのMIWAと不可分の存在としてある。劇中を通じて、ひとつの肉体がはらんでいるこの二重性はたびたび、MIWAという人物の一代記的な物語に大きなゆらぎをもたらします。


 こうした二重性はまた、本作では登場する各人物にも付与されています。MIWAの居るソドミアンバーに通う作家・オスカワアイドル(野田秀樹)は、最後にその姿を見せる時、MISHIMAすなわち三島由紀夫をモデルとした人物としてあらわれます。そしてオスカワアイドルが彼のアンドロギュヌスであったことを告げ、そのオスカワアイドル=MISHIMAは自衛隊市ヶ谷駐屯地へと赴く。MISHIMAを突き動かす怪物としてオスカワアイドルは彼の内にいた。あるいはソドミアンバーのマスター・日向陽気と他店を統べる日影陰気(ともに池田成志)との反転など、それぞれの人物に大小の二重性を垣間見せ、作品総体のテーマにリンクさせています。


 大切なのは、それら二重性を用いた演出、演技が、明快に観客を楽しませる明るさを持っていることです。美少年であるMIWAのアンドロギュヌスを演じる古田は、登場時から我々が普段メディアで目にする黄色の頭髪の、あの「美輪明宏」に扮しています。それは登場時には、コントのようにさえ見える明らかな陽性のパーツとして機能している。また甲高い声を持って演じられるオスカワアイドルも、池田が受け持つソドミアンバーのマスターの役柄も、明確に笑いを意図した演技とテンポで劇を推進している。本作「MIWA」でまず印象に残ったのは、この作品が非常にわかりやすく笑わせ楽しませるエンターテインメントであることでした。MIWA=美輪明宏という人物のセクシュアリティを描き、また彼の半生を描く途上で戦後を描き、三島由紀夫や赤木圭一郎といった昭和のスターのエピソードをにじませ、そして何よりも、美輪自身の体験に重なる長崎の原爆の記憶を描く。それらひとつひとつに重みを持たせながら、NODA・MAPの近作に比しても簡明な笑いを基調として強く持っているように感じられました。このバランスは頼もしかった。

 MIWAの二つの魂を演じる宮沢と古田はコンビネーションが良く、特に古田の、笑いと哀感の間を一瞬で往還してしまうような巧みさで、アンドロギュヌスの面白さと哀しさが十二分に表現されていました。冒頭に現れた時にはコントのようでしかなかった「美輪明宏」の扮装が、ほどなくして違和感なく、そしてその見た目でなければいけないように思えるほどになっていました。
 またソドミアンバーのマスターを演じる池田も、このエンターテインメントの空気作りに大きく貢献していました。MIWAのサイドを固める役として、特筆すべきは池田の演じた役々でしょう。


 ラストにアンドロギュヌスを失ったMIWAは、自らをアンドロギュヌスの姿に似せて扮装していきます。それはすなわち、我々が今日見かける、あの「美輪明宏」の似姿です。その、他人がやればチープなパロディでしかないはずの扮装が、宮沢=MIWAの身体を通じて実在と地続きの「美輪明宏」になっていく。ここまで野田の解釈によって展開されてきたMIWA像が、現実の「美輪明宏」へと集約していくような感覚がそこには訪れる。
 これは、実在の人物・事象を解釈しようとするならば、倫理的なあやうさをはらんだ明らかな錯誤です。実在の人物に、明らかなフィクションを通して感情移入してしまっているのですから。しかし、それすらも許容してしまうような美輪の特異な存在感は、そんな倫理観を小さなものに感じさせてしまう。「美輪明宏」の扮装を終えたMIWAが若手女優に「大好きです」と声をかけられ、「一生、言われ続けている。飽きちゃった。」と返す時、そこにいるのは虚でも実でもいいような、あの「美輪明宏」です。野田秀樹という作家が真摯に向き合ったフィクションの「MIWA」と実在の「美輪明宏」、舞台上に体現されたその二重性は、次第にそのどちらが真であるといったような、シンプルな捉え方を無効にしていくようでした。

甘えなんてお互い様

*月刊「根本宗子」『今、出来る、精一杯。』 下北沢駅前劇場 (2013.3.8)


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 おそらくは根本宗子さんという作家が一貫して保ち続けているのは、人間の「甘さ」「弱さ」あるいは「大人になれなさ」といったものへの繊細な視線です。
 根本さんがこれまでも度々題材にしてきた「弱い」登場人物たちは、環境に甘え、肯定されるべき根拠を持たない自分を受け入れてくれる(ように見えている)他者に甘え、自分が弱いことの「仕方なさ」を理不尽に主張して暴発する。本作もまた、決して当事者にはなりたくないような人物たちが互いの感情の受け止め方に齟齬を孕みながら甘え合い、求め合うことの不格好さが容赦なく描かれる。


 些細なことで仕事に就くことに対する意欲を保てなくなり職を得られずにいる安藤(加藤岳史)を、経済的にも精神的にも優位にいる恋人のはな(早織)は優しく受け止めながら、表向き慈しみ合う恋人関係を保っている。仕事を得られない安藤を甘えさせているはなの身辺にある日生じる重大な喪失をきっかけに、安藤に精神的にさえ頼ることのできないはなの絶望と、はなが求めるものを圧倒的に理解できない安藤が膨らます劣等感と他者不信によって両者の関係は破綻をきたす。
 他方、安藤が一度は働き手として採用されたスーパーでも、その従業員たちという限定されたコミュニティ内での男女のカップリングとそのほころび、なし崩しに持ってしまった性関係にからめとられて状況を打開する策も持てない人々の弱さが連鎖を生じさせている。さらにスーパーに厄介な客として訪れる長谷川(根本宗子)と従業員金子(野田裕貴)の過去に刻まれた傷が、それぞれの形で周囲を巻き込んでいく。


 根本宗子という作家の真骨頂である、社会への適応できなさや認知されなさの原因を外部要因に求める人間のどうしようもない甘さの描写、またその甘さの発露が自分を受け入れてくれる異性に向かう際のみっともなさは、まず職を得るバイタリティを持てない安藤を通じて痛々しく描かれます。中盤、経済的にも精神的にも恋人のはなに頼っていることの後ろ暗さを歪んだかたちで彼女にぶつけながら、同時に彼女に対する、また自分に優しくしてくれるはずの女性たちに対する不信も吐露して、責任の所在をかき回す。相手もまた自分と同じく受容を求めている人間であることに思い至らない安藤がはなに対して向ける言葉は、ことごとくはなが求めているものとは齟齬を起こしている。安藤の抱える屈折と、はなが今まさに経験した喪失との重さの落差によって、その安藤の不格好さはいっそう情けなく残酷に際立つ。

 またスーパーの従業員コミュニティの中でも、突発的な性関係が後を引き、それを断ち切ることができずにいびつな力関係と性交渉を引きずってしまうみっともなさ、それをいかに受け止めるか、拒絶するかといった人物それぞれの対応、それぞれの不完全さが描写される。恋人の目の前で、他の異性に対して明らかな不貞に見える行為を自ら進んで“仕方なく”やりながら、傍らでそれを目の当たりにする恋人に対して「僕は君のことだけが好きなんだ」と必死で弁明する姿は、滑稽さと人間の情けなさが最高潮にあらわれていて中盤のスーパーのパートの白眉となっています。


 働き口の見つけられないことや働く口にありつけそうでも何か外的な言い訳を付けて逃げることでさらに働きづらくなる悪循環、それの鬱屈や劣等感が自分を受け止めてくれる人に対しての幼稚な攻撃性としてあらわれてしまうこと。あるいは一時的に流されてセックスをしてしまった相手と、その後の関係を清算できず性交渉を継続し、恋人に自分の「誠実」さ、置かれてしまった環境の致し方なさを説明しようと繕うさま。こうした人々を前にして、たとえば“メンヘラ”等の言葉で切り捨て、己との無関係を決め込むことは容易です。もっといえば、そうやって面倒臭さをある程度遮断しなければ生きていけないケースだって往々にしてある。
 しかし根本作品において、こうした人々の時に常軌を逸した甘えを容赦なく描く表現は、その弱い人たちを突き放すためになされているのではありません。それらのみっともなさは、観ている我々にとっても、おそらくは作者自身にとっても他人ごとではなく、人間が皆否応なく持ってしまっているものです。

これまでも彼女が鋭敏に表現してきた、うんざりさせられながらも自身を省みてしまうような登場人物たちの見苦しいあがきは、根本作品において強い物語推進力となります。 今作では、そのみっともなさを個別の登場人物のエキセントリックさの水準に留めるのではなく、人間が人間にコミットすることは、そもそもがそういう見苦しい面倒臭さを引き受けること、そしてそれとひきかえに自分も持っている見苦しさを相手に託すかたちで甘えているのだということまでが語られている。以前から根本さんが描き続けてきた人間のどうしようもなさについて、今作はしかしまたその面倒臭さを受け入れていかなければしょうがないということにまで明確に目が向けられているように思います。とはいえ、そう一口に覚悟できるものではないというしんどさも覚えるほどに、人間というものの幼稚さ甘さが容赦なく描かれているのですが。

 月刊「根本宗子」は、人が恋人などに甘える際の具体的な仕草や甘え方を繊細に描き、それが傍から見ていかに気恥ずかしく、時に理不尽であるかを突きつけます。それが根本作品の大きな魅力でもありますが、それを支える役者陣の演技水準も安定していて頼もしい。本作も社会に適応できない恋人を受け入れ、絶望(し、そして最後に再び大きな受容を)するはなを演じた早織さん、コメディパートを引き受けるゆえにリアリティのレベルの変換が難しくもあるはずのスーパーの従業員利根川役の梨木智香さんをはじめ、駒が揃っている。演技のリアリティがやや異なる安藤とはなのアパート場面と、コメディ要素の強いスーパーマーケットのパートとの接続も、全体としては分断されずうまくできていました。
 月刊「根本宗子」がさらなる知名度を獲得する準備は、整いつつあるように思います。
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