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~演劇とアイドルと何かと~

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「野田の歌舞伎」である意味は

*八月納涼大歌舞伎 第三部 『紅葉狩』『野田版 愛陀姫』 歌舞伎座 (2008.8.19)



 野田秀樹×(中村勘三郎の)歌舞伎が過去二作で成功したのはなにゆえだったか。一見の客をつかむという意味では、テンポのよい会話・演出で飽きさせず終盤まで客を引きつけたことが第一。そして問題提起力。特に2001年、2005年の『野田版・研辰の討たれ』で際立ったのは、場の雰囲気に集団がなびいてしまい、その集団を構成する個々が冷酷なムードを醸造していることに気づかない集団意識の怖さにまつわる表現でした。いってみればそれらは、野田秀樹の演劇の優れた点が「野田歌舞伎」においてもそのまま評価されているのであり、それら優れた点を歌舞伎という形式の固まった(と世間的に思われがちな)フォーマットに溶け込ませたことが勝因だったと思います。多くの場合歌舞伎には、現代的な状況を踏まえた問題提起力というのは見出しにくい。あえて古典的演目の中に何か「普遍性」を読み込むことはできるだろうけれど、現代演劇のような当世風のエッジを求めることはできないしするものでもない。そういうものでありがちな歌舞伎に現代的な提起力をミックスさせたことで、普段歌舞伎に馴染んでいる客にも驚きを生んだのではないでしょうか。


今回の新作『愛陀姫』は、武家社会を舞台とした、いわゆる時代物です。通常の歌舞伎であれば、世話物と異なり登場人物の言葉遣いに制約があるわけです。野田もまたその例に従い、基本的に世話物、というか口調にあまり制約を設けなかった過去二作とは違って、砕けた言葉遣いを回避している。そのように歌舞伎のルールに則ったことは、ごく自然な態度であるでしょう。
しかし、テンポ良い言葉遣いはこれまで野田歌舞伎において外せない要素でした。それが失われた結果、言葉のやりとりの軽妙さは消え、とはいっても完全に古典歌舞伎の時代物の台詞回しであるわけでもないから、結果として近代以降の時代物新作歌舞伎の口調のようになっています。それに慣れている、あるいはそこに積極的な価値を見出せる観客(というのは多くの場合演劇、歌舞伎に通暁した人かと思いますが)であれば違和感はないのかもしれません。しかし、そうした新作歌舞伎の口調というのはともすればもっとも平板に、退屈に聞こえやすいものでもあるのです。古典歌舞伎とは当然違うものを期待している観客、あるいは普段歌舞伎を見続けているわけではない観客も、野田×勘三郎の芝居には多く足を運んでいるはず。この点、今回は観客を引き込むことに成功したとは言いがたいのではないでしょうか。普段、過剰に笑い、拍手し反応してくれるはずの納涼歌舞伎(というか中村屋)ファンが、奇妙なほど半端な反応をみせていました。


終盤、ニセ祈祷師が権力を持ったゆえにそこに周囲がなびいてしまい、主人公のまっとうであるはずの主張が聞き入れられなくなって理不尽な事態が生じる。そこに『研辰』にも通じる問題提起があるのですが、その場面に至るまでに見るものを引きつけることに成功していないためか、そうした理不尽の怖さを突きつける力が弱くなり、際立たせられていないように思われました。新作歌舞伎的な武家言葉による説明台詞は、全体を非常に冗長な印象にしてしまうことがあります。今回はそれが生じてしまい、本来もっと鮮明になっていいはずのポイントを決定的にぼやけさせてしまったのではないでしょうか。


もっとも、祈祷師のやりとりなど笑わせる場も盛り込んではいるのです。けれど、過去の野田作のように全体を通じて軽妙な台詞が有機的に芝居に染み込んでいるわけではなく、おふざけで笑わせる以上のものにはなっていない。

それら笑わせるための場面と、新作歌舞伎の持つ(成功するかどうかきわめて予測しがたいという)あやうさ。それはしかし、毎年八月納涼歌舞伎が売りとして有しているものではあるのですね。つまり、今回の『愛陀姫』は、野田秀樹らしいのではなく、「納涼歌舞伎」らしいのでしょう。その意味で、野田秀樹であることの意味がそれほど活きていないように感じられました。


オペラ『アイーダ』の翻案であるゆえ、原作を見たことがない状態で評価するのは不十分かもしれないのですが(事実、オペラのそれとの比較から面白い視点を見出している評論家の方もおられました)、セットで見ないと面白さを噛みしめられない、というものでもないでしょう。木村錦花版の『研辰』を知らなくても、野田版『研辰』の突きつけた力は相当なものであったはずですから。
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ハイカルチャーとは、中身じゃなくて器の問題

*八月納涼大歌舞伎 第二部 『つばくろは帰る』『大江山酒呑童子』 歌舞伎座
                                                 (2008.8.10)



かっちりした着物ではなく浴衣姿の観客も多いのが納涼歌舞伎。15年近く前、中野翠氏(と林真理子氏)が、浴衣で歌舞伎座に来るのはマナーとしてありえない、と批判してましたけど(きちんとお洒落していくべき場所に「寝巻きみたいなもの」を着て行くとはいかがなものか、という理由だった)、現代人にとって浴衣は寝巻きではなくファッションです。かわいいし華やかなのだから、「お洒落していくべき」だとしてもそのコードにはかなっているでしょう。まあ、年配者と若年層の感覚の齟齬なんていくらでもあるから。

といっても発言当時中野氏は30代だから、年寄りの感覚とか言うことじゃなくて、歌舞伎を知っている、大事にしている自分に酔いたかったゆえの発言という気もするけれど。格調高い場に土足で上がり込んでくれんなよ、みたいな。

9月17日追記:先ごろ出た『演劇界』10月号でも中野氏は再度、「寝巻きみたいなもの」説を唱えて嫌悪感を示しておりました。ええと、いや、なんでもない。


さてその格調高い歌舞伎座での一本目は『つばくろは帰る』。昭和40年代の時代小説の戯曲化。生き別れた親と幼い子供、行きがかり上その子供の面倒を見る気のいい独身男、親が子と別れたやむない事情、実の親より面倒を見てくれる男になつく子供。時代小説・ドラマのある種の常套的設定といえましょう。舞台化により新鮮な提起力が生まれるということではなく、おなじみの泣かせ劇を舞台上に顕現する結果になるのはある程度予想されます。それはそれで嫌いなわけではないのだけれど、これを二時間弱かけて歌舞伎にかける意味がわからなかった、というのが正直な感想でした(歌舞伎舞台にかけるのは今回が初)。ありがちな泣かせの時代劇ならば、一時間枠のテレビドラマの方がテンポもおさまりもいい。テレビドラマサイズなら面白く見られるものが、舞台にかけることでお涙頂戴の安いドラマ(で長い)という側面が強調されてしまってはいないでしょうか。古くからある歌舞伎演目にはそのドラマに現代的な新奇性を求めるべきではないのだけれど、にしたって黙阿弥などはもっと仕組み方に手数の多さを感じさせるわけだし、お涙頂戴の安い劇+子役のかわいさと若い男女の恋の痴話で笑わせる、ではあまり舞台として志の高さを感じないのでは(お涙頂戴自体が悪だといっているのではありませんよ)。古典歌舞伎ではない、あえて近代(それも昭和40年代)に新作をつくるなら、それなりの意味はほしい。

と思って飽いていたら、周囲の観客のほうぼうからすすり泣く音が聞こえる。見回したらほんとに泣きじゃくっている人だらけ。
間違ってました。これでいいんです。ここでは舞台演劇としての新奇性が大事なわけじゃない。高い料金を払い、めかし込み、高級なものを見ている気分に浸ること。それが肝要なのだ。そこで見る安いドラマは、テレビで見る安いドラマとは違うのだ。というか安いとかありがちだとか、そんなふうにうがったことをいうのは、すごく場違いなのだ。歌舞伎に行く。それだけで高級趣味とか、ハレの気分とか、自己顕示とかいろいろ満たされるのだ。伝統って怖い。


『大江山酒呑童子』はそもそも能の『大江山』に取材した松羽目もの。元のバージョンは未見。今回はコクーン歌舞伎演出の串田和美が美術を手がける。水墨画(だったと思うけど)で景色を描いた大きな掛け軸型の紙を三枚、背景に配し、舞台は中央に一枚一段高くなった板張り。終盤にその板が垂直に立ち上がり、酒呑童子がその立ち上がった板の高いところから型を決める趣向(見えヅラとしてはがんどう返しに近いもの)。美術はそれなりに面白く、松羽目の舞台に反射的に(退屈かも)と思ってしまわぬための工夫がなされている。退屈かも、という先入観は本当に舞台を退屈に見せてしまう。その意味で串田の企図は成功しているのではないだろうか。
ただ、その美術に比べて踊りそのものはそれほど面白くない。もちろん自分にまだ踊りを見る鑑賞眼など備わっていないのは承知だけれど、勘三郎の酒呑童子にそれほど良さを感じなかった。勘三郎得意の愛嬌で客席はやはり見事に沸くわけだが、童子としての佇まいよりも客受けが先行してしまう表情に見えたかな。後日歌舞伎座で近くの客が「あの童子の表情は本当に子供みたいな愛らしい…」って言ってたけど、すいません、はっきりいいます。絶対にそれはねえよ。

笑いにも狂気にも誠実だからこそ

*作・演出 松尾スズキ 『女教師は二度抱かれた』 シアターコクーン (2008.8.6)


人間の狂気や、社会が安易にタブー視してしまうものに向き合い、それを観る者に突きつけることで、強烈な提起力をしばしば見せてきた作家、とここでは松尾スズキについてそう表現しておきます。狂気、といえば今作『女教師~』の登場人物もまた、痛々しく狂っている。元教師の自称女優・山岸も、その山岸の夫・鉱物も、天久のマネージャー白石も、その恋人のバンドマン・元気も。


本作においてそれらの狂気は皆、根源で一途な恋慕と結びついています。山岸は教え子の天久と肉体関係を持ったゆえに流転、演劇で成功した天久から女優として請われるのを待ち続けて(肉体関係に端を発した因果を直視できなくて、とも言える)発狂し精神病院に入院。地方の名士の家柄出身のコネを使い、その精神病院に自ら入院してまで山岸の面倒を見ようとする鉱物は、山岸への一途な想いゆえに狂気めいた過剰な保護を彼女に与える。狂気(山岸)を狂気(鉱物)が保護する閉じた世界の中で、「女優・山岸諒子」の存在は守られている(二人の主観の中だけで)。気鋭の演出家・天久のスタッフとして軌道に乗りかける白石に対して、無軌道な想いをぶつけ続ける恋人で売れないバンドマンの元気。想いの大きさゆえの無軌道なのですが、それは恋人への、あるいは自身への暴力的な行動となってあらわれます。その暴力に嫌気さすことなく付き合い、受け入れている白石もまた正気ではありません(まあ、共依存関係のDVってそういうものですよね)。

彼らの狂気は皆、一途な想いの大きさゆえ。だから相手への恋慕は最高にピュアなのだけれど、ピュアだからこそ陥っている闇は恐ろしく深い。そして、とりわけ山岸(と元気もか)について言えば、人生の「うまくいかなさ」への「直視できなさ」が、この狂気と強く繋がっているのです。狂気の中で山岸は、「女優でありまた天久と相思相愛である自分」を描いている。だけどきっとどこかでそれが現実でないことへの恐れもあって、それが彼女を狂いへと導いている。悲しいし、でも仕方ないし。「仕方ない」ことにできなかった山岸が天久と共に居る時のうつろな表情は、ぼんやりと嬉しそうで、限りなく悲しい。


松尾スズキは、狂人を顕在化させ観る者に直視させることで、狂人の人格と誠実に付き合っています。それは、タブーにして触れないことにし、気を遣うことよりもずっと、精神異常者に対して「平等」(って安っぽい言葉ですけれど)な態度ではあろうかと。


大人計画がすばらしいのは、笑わせる演劇として当代一級の劇団であるから。笑いを際限なく盛り込みながらでも、重いテーマと向き合うことはできる。否、大人計画を見ていると、笑いは平気で重苦しいテーマ性と共存し、互いを際立たせている。そもそも軸の対極のように笑いとシリアステーマを対比することがナンセンスなのです。取り組みたいテーマがある。笑わせたいスタイルがある。だからそれをやっているだけなのでしょう。このとき、笑いに対する姿勢が一級であることは、非常に大事です。言語でもテンションでも笑わせることができる劇団なのですが(テンション主体の笑いの場合でも、言語的センスはおざなりにしてないけれど)、なにしろ引き出しが多い。それら笑いのポイントは脚本の中に付け足し的に放り込まれるのではなく、それらもまた脚本の流れの一部を形成してゆく。だから三時間の劇が間延びせずに引っ張れる。そのスタイルだけで大きな売りであるでしょう。(部分的におふざけを入れていれば笑いになる、と安易に考えている節がある劇団が小劇場系に散見されるのが残念。いちばん、提起力で勝負しなければいけないのに)。


あとはなにしろ、役者が皆達者。大人計画の役者の水準の高さ、引き出しの豊富さもさることながら、山岸役の大竹しのぶは際立って上手い。狂気の表情には鳥肌。市川染五郎は、松尾スズキの劇の中に入るとそれほど手数の種類が多いわけではないでしょう。やれることの多さでいえばきっと、大人計画の各役者に利がある。ただし、佇まいのだらしなさの表現は秀逸でした。

今年観た中ではベストの演劇になる予感。


11月2日追記:「歌舞伎の伝統はそう簡単に壊せるものじゃない」的な、阿部サダヲ(歌舞伎俳優役)の台詞はちょっとメッセージとして陳腐に見えたかな。あれはやっぱり誰かに対して、何かに対して気を遣った結果生じた展開なのでしょうか。いや別に、気を遣うこと自体は全然いいんですけれど。

手間を惜しまないホストは、そりゃあ最強ですよ

*KAT-TUN LIVE TOUR 2008 『QUEEN OF PIRATES』 東京ドーム (2008.8.4)


日本で最も広く世間に届いているアイドルグループが丹念に創意工夫をしてしまったら、それはもう対抗のしようがないんじゃないだろうか。で、彼らがそういう手間を惜しまずファンに御馳走を提供し続けることで、さらに恵まれた環境が整う、という好循環が生じてもいるような。


まず、演劇的なのです。
メンバーによるMCは曲と曲との単なる繋ぎではなく、3時間の上演時間に起伏を持たせパフォーマンスをぶつ切りにしないための潤滑油として使われていて、序盤から終盤までの流れを継続させる役割を担っています。というより、MCも曲も個々人のテクニック披露も、その全体図の構成上からいえばある程度等価の要素として扱われているのかもしれません。彼らの魅力をアピールするための一連のストーリーを編む、ということが明確な目標であって、しかもそのために繰り出す手数が多いから、平板な時間帯をつくる割合が少なくなるわけです。

加えていえば、そのストーリーを場内全体に届かせるためのスクリーンの配置にも注意が払われているし、モニターのスイッチングも肝を押さえていて、ぶっつけ本番ではできないものだと知れます。曲を聴かせればいい、アイドルの姿を見せればいい、のではなくて、彼らを面白く(必ずしも「笑える」という意味ではない)見せるための時間・空間のトータルプロデュースが整っているのです。ここまで世間的認知の広く浸透したアイドル集団が、(主に頭脳的な)手間を惜しまないでエンタメ空間をつくれば、それはもう最強ですよ。

今ツアーのテーマと関連して、海賊(KAT-TUN)が島の宝である懐中時計を手に入れて新たな航海に出る、という公演中における擬似的なストーリーは一応存在します。けれど、このライブの持っている演劇性はそうした表面的なことではなくて、楽曲、MCなど各要素を有機的に連続させて全体の流れを創造するところにあるのでしょう。


とはいえ、そうした周到なストーリーの存在は、KAT-TUN本人たちの芸の弱さをカバーする、という性質のものでは決してありません。そもそも、そうした演劇性を体現するには相当の勘の良さが必要であるし、MCひとつとっても、技術がなければ「周到なストーリー」など体現し得ない。ダンスなど身体技法はもちろんのこと、話術も非常に達者です。ちなみにこの場合、話術が達者というのは別に気の利いた内容を話せるということではありません。重要なのは、気の利いた話しぶりや間のとり方、要は「面白げ」な雰囲気作りができる、ということです。

さらに中丸雄一のボイスパーカッション、田中聖のラップにしても、レベルは高い(こういう「今」っぽさを、ある程度のクオリティをもってスマートに体現するのって、ジャニーズ本当に得意ですよね)。そうした技術は当たり前に兼ね備えてさらりと見せながら、そのうえであくまで「アイドル」としての魅力をメインに据える。ある種の慎ましささえ感じて、格好いいと思います(ひとつ言えば、今年の1月にやはり東京ドームでNEWSのライブを見ましたが、トータルのプロデュースも手数もぐっと乏しかった。これはパフォーマーの技巧の性質によって盛り込める要素が増減する、ということなのでしょうか)。


アイドルを見ると毎度感じることではあるけれど、男性アイドル(というかジャニーズ)が磐石なのは、ホストになれることの強さであると思います。セクシャルなものを公然と匂わせられるかどうか、ということです。赤西仁も田中聖も、中指を小刻みに動かしてみせるあからさまな性的動作をカメラに向かってしていたけれど、それは彼らのチャームにこそなれ、ファンの幻想を壊すことにはなりません。女性アイドル(主にハロプロ)が自らを処女幻想の枠に押し込めて自分の首を絞めているのを見るにつけ(モー娘。ってそもそも処女幻想を抱かれるようなスタンスじゃなかったはずなのに。完全にディレクションを誤ってしまいましたよね)、セクシャルな匂いをあからさまに表出できる男性アイドル(≒ジャニーズ)は「健全」な成長を可能にする環境をうまくつくったなあと思わされます。アイドルにだっていずれ、絶対に童貞じゃない、処女じゃないといわざるを得ない時期がくるわけで。その後もアイドルであり続けられるジャニーズと、急に(なぜか安っぽさを伴った)アダルト枠に流れざるを得ないハロプロ、という現状が、ジャニーズの「ホストになれることの強さ」を如実に物語っています。


もっとも、処女幻想のことに関していえば、根本的にこれは女性アイドルを見る男性の眼差しの問題でもあるでしょう。女性と見るや、処女かヤリマンかの極端な二者に分別する癖のついているアイドルファン、あるいはアイドルの事務所のブレーンがこの閉塞状況をつくっているいちばんの当事者であるはずです。女性の「成長」に対する想像力及び受容力の乏しさは、そう簡単に排しがたい病理として根付いているような。矢口真里が、藤本美貴が、ファンに「謝罪」をしてモー娘。を脱退させられた(というか左遷的な扱いを受けた)ことの理不尽さに、いい加減気づかないといけないと思うのだけれど(あと最近の加護亜依に対する元ファンの冷淡さとか)。

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