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~演劇とアイドルと何かと~

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客席の笑いと饗宴性・再考(何回でも)

*芸術祭十月大歌舞伎 『恋女房染分手綱』『奴道成寺』『魚屋宗五郎』『藤娘』 歌舞伎座                                                  (2008.10.20)


歌舞伎のいわゆる「時代物」に登場する子役は、言葉の意味や文節など考えていないような棒読みの台詞回しで演技します。それはもちろん上手いか下手かというようなことではなくて、それが伝統芸能としての定式なのであって、どの子役にも同じように台詞を語らせる。時にその表現法は、「物事がわかってなさそうな幼児」を現出させる効果を生むし、演目によってはそれは周囲状況の凄惨さや哀しさを際立たせます。

とはいえ、その甲高い棒読み演技は、新たに歌舞伎を見ようとする人が引き受けなければいけない前提事項の中でも、煩わしいもののひとつではあるかと。固定化された長々とした棒読みは聞き取るにも意味を追いづらく、耳慣れなければ我慢して聞くものになりがちです。
また、内容如何ではなく、子供が棒読みながらがんばって演技している、そのことに対して観客が「温かい」笑い声を立てることはお馴染みの光景ですけれども、これもまたストーリー展開を追おうとすれば不可解な笑いに感じられることが少なくありません。


『恋女房~』(通称「重の井」)では、姫君の乳人重の井(中村福助)の生き別れの息子として11歳の馬子(坂東小吉)が登場します。密通により生んだのちに立場上生き別れ、主君の配慮により乳人として仕えることになった身としては、再会した息子を受け入れることはできず「私を母であるなどと言うな」と泣く泣く突き放す、という場面。突き放し突き放され、互いに詮無い事情を飲み込んで別れようとするとき、母の重の井が名残惜しく息子を呼ぶ。諦めて出て行くほかない息子も、呼びかけられるとたまらず大きく返事をして駆け寄る。劇中もっとも涙を誘う、泣かせのシーン。ところが、呼び止められた息子が「アイ」と返事をして母に駆け寄ると、場内はけっこうな量の笑い声に包まれるのです。「がんばっている」子役の甲高い返事と、踵を返して母に駆け寄る姿に笑っているわけです。これはつまり、物語上の展開よりも、子役の姿そのものの「微笑ましさ」を求めている、対愛玩物の眼差しであるかと。

前から書いてますけれど、このような歌舞伎の見方を否定する気はないんですよ。歌舞伎は多分にアイドルを見に行くものなのだし。芸を見る、というのもひとつの姿勢だし、アイドルそれ自体の魅力で満足することも同等にひとつの姿勢です(そもそも「芸」と「アイドル的魅力」は峻別しがたいのだけれど)。玉三郎や海老蔵がアイドルであるのと同様、歌舞伎の子役もやはりアイドルなのだから。

じゃあなんでまた書くかっていうと、一方で歴然と劇でもあるから。たとえば歌舞伎の劇評はその劇とか演技を評価するわけですよね。少し上に「芸を見る」と書きましたが、その姿勢。時代物の子役の演技だって評価対象なわけで、劇中の無邪気やけなげさは、哀切や凄惨を対照的に際立たせる機能を持ったりするんですよね。子役の演技法が棒読みであることは、役としての「物事のわかっていない子供」を創出し哀切を際立たせる効果を含んでいたりもする。

子役たちの「がんばり」を「温かい」笑いへと回収してしまう客席の姿勢はこのとき、子役たちが際立たせるはずだった物語性をしらけさせてしまう可能性を持つことになるのです。それでまた、棒読みであることは観客が当の子役その人自身を(役柄としてじゃなく)「物事のわかっていない子供」として眼差すことにも繋がりやすく、容易に「微笑ましさ」を読み取ってしまうことにもなっているのです。


結局、何がひっかかっているかというと、劇としての感情の展開と、客席の笑いという反応とが、えらく乖離していないか、ということなのだと思います(いや、たとえば映画とか観てて泣かせのシーンで苦笑することはあるだろうけどさ、それともちょっと違うし)。

ちなみに今回の坂東小吉は、子役としては台詞、動き共にスマートさがあり、時代物の子役を見慣れない人にとっても、比較的だれずに観ることができたタイプなのではないかと。自分のやっている役をある程度理解しているように感じられました。一方でそれは、「何もわかってない子供」に見えないゆえに、物語の上で哀切を殺いでしまうことになるのでしょうか。わかりませんが。


物語があまり意識されていない笑い、ということで言えば、三演目めの『魚屋宗五郎』もしかりでしょう。
武家の磯部主計之助に見初められて屋敷に奉公(まあつまりは妾として)していたお蔦が、讒言によってあらぬ不義密通の疑いをかけられ、磯部(見初めた本人ですね)に手討ちにされる。妹お蔦を殺された魚屋宗五郎は、「妹を奉公させる見返りに一家は磯部から恩義を受けているから」と、はじめは怒りを押し殺して家族をなだめたりしている。そのうちに妹の同僚が見舞いの酒を持ってあらわれ、その同僚の話によって讒言のことや磯部がきちんと詮議をせずに妹を手討ちにしてしまったことなどが明らかになると、ついに宗五郎は冷静でいられず酒に手をつけて、勢いにまかせて角樽一本分を飲みきってしまう(禁酒していたので、久しぶりの飲酒であることも手伝って)。


この、酒を飲む場面が宗五郎役の見せ場となっていて、久しぶりの酒を勢いよく飲んで徐々に酔ってゆくさまをたっぷりと見せるのですが、この酒を「リアル」に飲み酔っ払うシーンもまた、客席に大いに笑いが生じる場面です。しかし、禁酒を破ることにしろ、酔って恨み言をいって暴れることにしろ、このあと当の磯部の屋敷に乗り込むことにしろ、ここでの宗五郎の行動原理は、実の妹を理不尽に殺された悲しみであるはずです。ドラマとすれば、やりきれない悲しさが前面にあらわれるはずの場面かと。しかし、悲しみゆえの自暴自棄的な飲酒が、ここでは純粋に客を沸かせるための爆笑のシーンとして形成されているわけです。客席の爆笑という反応は、役者が酔っ払いの演技をリアルに見せる、そのことだけに集中している。これまで幾度も繰り返しているように、このときの笑いという反応は、舞台上のアイドルへの眼差しであるので、否定するべきものではない。それはそうなのだけれど、本来のストーリーに付随しているはずの悲惨性が放置されたような反応に出会うと、やはり何か居づらさは覚えてしまいます。


最終的に、酔って磯部の屋敷に乗り込んだ宗五郎は、酔いがさめると恐縮しきり、出てきた磯部が謝罪し、宗五郎家族に経済的保証と讒言した家来の成敗を約束して、宗五郎が喜びハッピーエンドな空気で幕。
磯部はものわかりのよい人という役柄で描かれているのですが、磯部の、上司としての安易な判断で宗五郎の妹は殺されたわけで、謝った上で「経済的保証するから」「讒言した犯人は殺すから」でハッピーエンドでは本当は納得がいかない。安易に部下の嘘を信じ込んで、拙速に宗五郎の妹を殺したのは「磯部」、あなたなわけですよ。この磯部のことを「いい人だなあ」って、だまされてますよ、それ。


ストーリーにこだわれば、そういう不可解さがひっかかるのですが、歌舞伎はなにせ「饗宴」です。虚構(物語)と現実の未分化、舞台上と客席の未分化の状態の中で、観客が各場面の趣向やら華やかさやらに酔うための場でもあるわけです。そういう視点で見れば、ここまでつらつら書いてきたようなことを指摘するのは野暮なのかもしれません。マスメディアで歌舞伎が初心者に紹介されるような場合、歌舞伎は理屈抜きに感覚で楽しむものだ、みたいな言い方がずっと前から常套句として定着しているのですが、そうした表現もまた、理詰めで見るのは野暮だという見方と同様の姿勢のものでしょう。


だけれど、その楽しみの規定の仕方は、かえって歌舞伎を見くびっているんじゃないかというような気がしてしまうんですね。そもそも、ドラマの不合理とか盛り上がり方の不条理をを指摘したところで、それ自体の魅力が減ずる、というほど歌舞伎は単純なものではないのだし。不合理を指摘するのは野暮、で思考をとめる必要はなくて、腑に落ちないなら、その腑に落ちなさも含みこんで考えていけばいいんじゃなかろうか。現代の社会の中で、演劇として(高すぎる代金をとって)上演しているものなのですから。
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現代とは溶け合わず、でもうまく織り込まれつつ

*「現代能楽集」シリーズ 第四弾 『THE DIVER』 シアタートラム (2008.10.12)


女性情報誌が積極的に自己顕示のツールとして伝統芸能をとりあげて消費者を高尚な気分に酔わせる一方で、伝統芸能が国の保護を受けて(あるいは高い価格設定で)“大きな顔をしている”こととかに対して疑念がつきつけられることもまた、ないわけではないですね。

そもそも、一見で内容を理解することが難しかったり、原理的に現代的なセンスをいちいち採用することのできない「伝統芸能」がどういう状態で現代を生きていなければいけないのか。
この問いに現実的に解答しようとするのは、当然のことかもしれませんがいつも実践者です。自己顕示のために歌舞伎や落語を「嗜む」人々はそこまでシビアに捉えないでしょうし、専門家・評論家は当該の芸能ジャンルそのものにフォーカスしすぎる傾向があるので、現代社会との兼ね合いという観点を主題にすること自体があまりありません。古典だけやってても骨董品になる恐れがある、ならどうすりゃいいのよ、という疑問は、自然なことですが演っている当人の中からもっとも湧き上がるものでしょう。


さて、「伝統という縦糸に横糸を通す」コンセプトを提示した本シリーズは、野村萬斎の発案であるようです。彼自身は狂言師として『山月記』で、狂言を演劇に溶け込ませてみせました。というより、狂言の身体技法のエッセンスを抽出して、そこを起点に演劇をつくったというひとつの発明がそこにはあった、と表現できるかもしれません。能・狂言は、現代演劇との融合が、歌舞伎に比べて困難であるように思えます。歌舞伎は、たいがいなんでも歌舞伎になる、という都合のよさを持っているため、他ジャンルの演出を利用したアイデアは豊富に出せるし、ごくごくわかりやすい(台詞とかが)劇をつくることが可能です。翻って能楽は、形式が固定されがちになる。もちろん能楽にも新作というものはあります。マンガなどを題材にした新奇な企画もある。しかしそれらは結局、「能」「狂言」として扱われる際、能舞台で古典的な演出フォーマットに合わせて行なわれるのです。題材が新しくてもそれはこれまでの古典演目に入ってなかった話、というだけであり、一見さんがとっつきやすい演劇形態のものに変容するわけではありません。歴然として、敷居の高い古典芸能であり続けます。

野村萬斎の世田谷パブリックシアター/シアタートラムにおける試みは、そのフォーマットを外すかたちでの模索なのでありましょうし、それは狂言師自身による、現代と狂言との関係に対する批評であるともいえるでしょう(※古典的形式のみを認め、萬斎の試みを邪道視する実践者もいると思うけれど、そういった人々が、ただちに、現代社会と対峙していないということにはならないでしょう。古典的形式のみを守ること自体によっても、現代に対する姿勢を表明することは可能であろうと思います)。

「現代能楽集」シリーズは萬斎の手によってではなく、現代劇作家及び俳優による、能の演目をモチーフにした演劇となっています(これまでのものは未見)。第四弾とされた今回は野田秀樹の作・演出。


殺人被疑者であるが、精神分裂的な状態ゆえ責任能力の有無が争われている一人の女を軸に、精神科医、検察官、警察署長が彼女の精神分裂の真贋(→責任能力の有無)を解き明かそうとするストーリー。女はそもそも妻子ある男性と愛人関係になり、男性の子を身篭る。しかし男性の妻にも二人目の子が産まれることになり、彼は妻と別れようとはしない。女は絶望の内に子供を堕ろし(二度目らしい)、呪詛の念から男性が妻と外出している最中に男性宅に放火、夫妻の子供二人を焼死させた(実際にあったそういう事件を下敷きにしたらしいです)ことで逮捕され取調べを受けている。

精神科医と面談する度に分裂的に複数の人格を見せる女。ある人格においては、我が子を救うために自分の身を犠牲にして海に潜り宝珠を獲る母性を表現する(能の『海人』に取材したエピソード)。またある人格では源氏物語の夕顔あるいは六条となって、光源氏と葵上に嫉妬心を燃やす(もちろん『源氏物語』からとったエピソード。六条の、賀茂祭での葵上との衝突など)。それら古典に取材した、母性、愛人としての嫉妬心、本妻に二人の子が生まれ自分はやむなく二回堕胎する絶望といった妄想(別人格)は、本人格である殺人容疑者の女の人格に収斂してゆきます。刑事事件としては二人を殺した案件であるけれども、女は「四人死んだ(殺した、とは表現していない)」と繰り返しているため、精神科医は事件に関して彼女に正常な認識力はないと主張するが、死刑判決が下され絞首台に(四人、というのは、放火で殺した子供二人に加え、自分と男性との間の子供を二度堕ろしたことを意味しています)。


劇中、般若の面による女の呪詛表現や、能楽的な身体技法など、しばしばライブ劇としての能楽の要素が織り込まれます。ただ、それが現代演劇と継ぎ目なく溶け合っているかといえば、必ずしも首肯できるものでもありません(継ぎ目なく溶け合うようなやり方があるのかどうかもわかりませんが、『山月記』はわりとできていたのでは)。とはいえ、うまく織り込ませている部類だとは思うので、評価したい点です。とはいえ、現代演劇ベースの中にスパイスとして入る能楽要素は、やはりオリエンタリズムとしてのスパイスであることは否めないのですが。


数少ない道具(椅子、ソファ、布など)を、様々に小道具に変える場面が多々ありますが、その見立ての柔軟さは野田秀樹らしいな、と。落語であれ狂言であれ、手持ちの扇子という武器を何にでも見立てるわけですが、野田は逆に、扇子の形から見立てるアイテムの方を発想しているかのよう。九割方閉じた扇子をシャンパングラスに見立て、開いた状態をピザのピースに見立てるやり方は鮮やか。


腑に落ちなかったところ。源氏に見初められた喜びを夕顔の人格が語る際、その表現としてアメリカかイギリスのTVバラエティショー仕立てになったシーンについて。モテる男性がクイズに答えてさえない女性を魅力的に仕上げていく権利を得て、なんだか女性を魅力的なものにする番組になっている。と書いてもわからないと思いますが、そのとおり、番組の意図がわからなかったです。初演したイギリスでは通じる設定の番組なのかなあ。源氏の男性的魅力の強さとそれに見初められた夕顔の嬉しさを表現するのに、あのシーンは少し通りがよくなかったのではないかな。あと、そもそもこのシーンは、そういう過剰なテンションの海外バラエティショーに対する批評であって、野田はその手のショーを突き放したところから提起して見せています。ところが、そのショーのバタくさいテンションにベタに同調するような笑いが客席から起きていたのでちょっと気になりました。そういう、西洋っぽいテンションに(ちょっと西洋を志向するとき特有の気取りが入りつつ)安易に同調する人たちに対して、「それ、ほんとにそんなに面白いかよ」とクリティカルな視線を投げているシーンだと思うんだけどな。


キャスト4人のうち野田秀樹を除く3人はイギリス人俳優、ほぼ全編英語台詞。今年6月にロンドンで初演したものを、舞台上両脇の電光掲示板に日本語字幕を映して上演する形式。この形式が、余計に能楽的要素をオリエンタリズムに見せていることもあるでしょう。もっとも、イギリスで上演する、という環境であれば(皮肉とかじゃなくて)オリエンタリズムをそれとして、より素直に楽しめるのではないかと思う。実際、日本で見てもひどく気になるわけじゃないし。それはまあ、日本人にとっても、伝統芸能というのは多分にオリエンタリズムであるということなのだよね。

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