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~演劇とアイドルと何かと~

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偽ダークナイト

(追記:っていうか「偽ジョーカー」ですね、正しくは)

*『江戸宵闇妖鉤爪』 国立劇場(2008.11.14)


過去の有名作品をリメイクするという場合、その作品をいま選ぶ意味、それに提示のあり方について、作り手は自覚的であるべきだと思います。映画にせよテレビにせよ、知名度にのみ価値を託した安易なリメイクに見えてしまうものが多いという状況がある以上なおさら、過去の文脈において成立していた作品をいま、現在の社会文脈にの中で新たに作り直すことの意味への配慮は重要でしょう。小説(文字媒体)と歌舞伎(舞台演劇)と大きく創作ジャンルは違うので、今回の場合リメイクとはいわないかもしれませんが、発表された年代が大きく隔たっていることもあり、上述の自覚というのは今回のような場合でも不可欠ではあるかと。


この新作歌舞伎『江戸宵闇妖鉤爪』に関していえば、今日に江戸川乱歩の『人間豹』を歌舞伎として作り直し提示するということの意義をよく考えて制作されているのではないでしょうか。そのことは評価するべきでしょうし、また江戸川乱歩を歌舞伎にするという着想は、直感的なイメージとして期待感を抱かせます。企画として、聞いた段階でわくわくできるというのは良いことですよね。

とはいえ、非常によく考えられたその上で、では大成功か、というとそこは首肯しがたいものでした。端的にいえば、劇の中に今日に繋がる社会批評を織り込んではいるのですが(特に歌舞伎版オリジナルの部分)、それが気の利いた表出法でないために、唸らせるほどのものになっておらず、むしろ安直な印象を与えている、というところでしょうか。


「人間豹」は凄惨な殺人を続ける凶悪犯である一方、世の人々の冷淡さや欺瞞、そこに生じる社会矛盾をシニカルに指摘し、建前的な正義を批評的にバカにしてみせる存在(その意味ではある種、道徳観というものに真摯に向き合った存在ともいえる)として描かれています。今年、『ダークナイト』という映画がありましたが、その中でヒース・レジャーの演じたジョーカーに近いような存在として造形されているのです(ジョーカーよりもその道徳的な性質はわかりやすくて平板なんだけど)。

人間豹の屈折の背景にはその出自からくる社会への呪詛があり(後述)、「人間の皮をかぶった化け物が多い世の中」で「そういう奴らを皆殺し」にしてやる、と自身の行動原理らしきものを明智小五郎に向かって吐露します。連続殺人犯である人間豹により、却って人々の中にある別種の悪や病理が明らかになり、そのことで単なる悪として切り捨てられない存在としての人間豹が浮かび上がる。


という設定はわかるのですが、そのわりに人間豹がやっていることはといえば、惚れ込んだ女性を次々に襲って殺すだけなのですね。人間豹の論理は台詞の中でのみ説明され、彼の起こす行動、犯罪には人々の価値観を揺さぶるようなものが見られない。人間豹がいまひとつ説得力を持った存在にならないのはそこに要因があるのではないでしょうか。


人間豹の、社会に対する呪詛の背景として、自身が捨て子であること、捨て子に対して手を差し伸べもしない世の人々の静かな冷酷さ、そして、見世物小屋に売りつけるために捨て子を拾っては奇怪な人体改造を繰り返す百御前の手によって、自身も半人半獣の姿にされてしまったことが語られます(百御前は人間豹を自分の子供だと言っているので、本当に捨て子かどうかはよくわからない)。
善良であるような市井の人々が、人間豹らのような境遇のものに対しては(無自覚に)冷淡であること。今日にも通底する(っていうか乱歩の原作版には出自云々の設定はないんだけど)社会批評を託すのならこの点なのでしょう。
しかし歌舞伎版オリジナルのこの設定がメッセージとしてうまく反映されていないのは、対峙する「善」である明智の人物造形にもまた難があるためです。人間豹の批評的なスタンスを際立たせるために、明智は「それでも人間の心を信じる」(本当にこんな感じの言い方だった)とベタ過ぎるまでの台詞を口にし、正義の側に立っています。人間豹との対比は対比でいいのだけれど、この明智の信念が極端な建前的正義(にしても薄っぺら過ぎるもの)に寄ってしまっているため、対比項としてはリアリティに乏しくなっています。


明智が「神谷と恩田(人間豹)の見た目、境遇が逆なら運命は入れかわっていただろう」と、社会の「光と影」について言及する件りに関しても、人間豹が台詞で指摘してきたような社会矛盾がその場面に至るまでに効果的に提示できていないため、神谷、人間豹の二役を同一俳優(市川染五郎)が演じていることのみに関連付けたこじつけのように聞こえてしまいます。おそらく作り手の伝えたい事柄の企図は間違ってないのだと思いますが、表現方法に洗練がなかったように感じられました。つまるところ、社会批評というのは、何をいうかよりも、それをどういうかが肝要なのですね。同じような内容でも、伝え方ひとつで説得力もリアリティも、その効果は大きく変わってしまう。


演出的な面について。明智妻の身代わりとして、前の場面で登場していた菊人形を用いる場、あるいはお蘭が踊り最中に殺され、天井から吊られた死体となって落ちてくる場など、着想はよいものが多いです。が、その趣向ほど実際の画が面白くなく、あっさりと流れてしまうのが残念。身代わりが菊人形だと知った人間豹が人形を切り裂く場にせよ、お蘭の殺人場にせよ、足りないのは生っぽさではないでしょうか。せっかくのアイデアが単なる形式になってしまい、本来ならもっと観客をつかめる画になっていただろう箇所が型の記憶として残らないのは惜しいところ。大詰の見世物のシーンも、浅草奥山の賑やかさ、猥雑さの中に凄惨な殺人(未遂)場を持ち込めば、ラストの見せ場としてすばらしかったのではと想像させます。舞台全体が殺風景であるために、目をひきつけるものになりませんでした。たぶん、台本けっこう面白いんだろうな。結局これも、意図はわかる。問題はどう見せるかだ、というところに帰着するのでしょう。


2時間にコンパクトにまとめたゆえの唐突な展開とか、他にも思うところはあるけれど、秀逸な企画を立て、魅力的(になる可能性を感じさせる)な場を創造したことは評価しておくべきだと思います。演出を大きく変えて再演してみる価値があるんじゃないでしょうか。
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ベタもまた悪くないわけで

*演出 蜷川幸雄 『表裏源内蛙合戦』 シアターコクーン (2008.11.12)


キャストや演出家のネームバリューが否応なく先行してしまう、シアターコクーンの人選にはそんな印象があります。その意味において観客からある種の信頼を得ているのだとはいえそうですし、それを実現する資金力も、おそらく俳優・スタッフ側からの信頼も獲得しているのでしょう。蜷川幸雄が芸術監督をつとめ、自身が演出を手がけることも多いため、彼と関わりが深いのであろうおなじみの俳優も少なくありません。勝村政信しかり、六平直政しかり。加えて、テレビ等で名の知れた俳優が主要キャストに配されることも多く、客席に座っていても「あれ、誰?」とか「○○さんだ」と上演最中にひそひそ声が聞こえます。この点、歌舞伎の観客に似ていて、ひとつのスターシステムが形成されているのかなと。


このスターシステムが前提となる本作、端々に織り込まれる笑いはきわめてオーソドックス、ベタな手法で行なわれています。たとえば、寺子屋の先生の見ていないところで子供(という体裁の)役が友人を殴り、先生が振り向くととっさに形勢を変えて逆に殴られるふうを装うシーン。あるいは赤ちゃんという体裁の役では、床からキャストが顔を出して床上に赤ちゃんの体が小さい作り物でこしらえてある、という手法など。期待の裏切りで笑いを取ってゆくのではなく、どこかで幾度か見たことのある、パターン的な笑いのとり方です。正直、期待の裏切りはないので、不意を突かれるほどのギャグシーンはほぼありません。
とはいえ、ベタな笑いというのは基本なので、それは笑いの質の低さに直結するものではありません。キャストはそうしたオーソドックスな笑わせ方をしても面白くさまになるだけの技量を持っているため(特に勝村政信)、飽き飽きするものにはならずにしっかりとコメディがつくられています。それになにより、スターシステムを観る姿勢で席に座る(そのことに自覚的か否かは関係なく)観客にとってはベタこそが快適な笑いなのではないでしょうか。実際、繰り返されるベタは心地よいものに感じました。


スターシステムにおいては、スターが愛嬌を見せることこそが、観客を満足させることになります。そこにエッジの効いた笑いは必要ではありません(繰り返しますがそれは必ずしも、作品として、また笑いとしてレベルが低いということではないので誤解なきよう)。スターを見に来る客は、ベタで大いに笑ってくれる。平賀源内(上川隆也)がちょっとオカマっぽい口調、身振りをしてみればそれだけで爆笑が起きるし、六平直政が少し顔をゆがめればやはり笑い声が響きます。長崎に遊学する場のパートは、挿入歌がことごとく「長崎は今日も雨だった」のサビで終わり、役者がそれぞれ熱唱している風の演技をしてみせますが、ここでもそのたびごとに観客が沸きました。スターシステムに気持ちよくおさまった観客のために、ゆるやかでオーソドックスな手法を用いてコメディをつくってゆく。受容にあった供給を、手練れのスターが提示してみせているのです。両国の見世物場のシーンでは、源内考案の見世物(ほぼ下ネタ)を冗長に延々見せるのですが、それにも爆笑が起き続けていたので、たぶんそのくらいのゆるやかさ、ひねりのない下ネタでちょうどよいのでしょう。そしてやはり、それが心地よいものとして成立しているのには、出演俳優の技量に負うところが大なのです。


さて、ストーリーは平賀源内の一代記です。発明・発案を次々成し、オランダ語に通じる才気を持ちながら、順調に学者として公に保護される道を歩めず、周囲からは才気を正当に評価してもらえず奇人、山師と囃され、ついに失意の中で牢死するまでを描いています。

源内役は上川隆也ですが、「裏」源内として勝村政信が「表」源内に随伴します。源内として生きる「表」に対して「裏」源内は時にナレーション、時に源内の行動を見守る俯瞰的人物、時に「表」の意図に反する行動(同一人物であるのでその行動は「表」のとった行動とされる)で環境を引っ掻き回したり、「表」をそそのかしたりするオルターエゴ。一人の人間の中にある複雑性、屈折性は、「裏」がいることで鮮明に描かれる。

舞台装置背景には一面の鏡。蜷川幸雄が歌舞伎の『十二夜』を演出した際にも用いていたアイデアです(小栗旬主演『間違いの喜劇』の時もやってなかったっけ)。一人の人物の「表」「裏」の二者、主観・客観などを観客側に想起させるように、その一面の大鏡には並んで座った観客の姿が映る。鏡に映った自身(客)の姿は、客観視された己。それを俯瞰するかたちでこちら側の己が見ていて。というように見る側が勝手にメッセージを受け取ってしまう。蜷川は、この便の良い装置を最近お気に入りの武器にしているようです(『十二夜』『間違いの喜劇』はともに、「双子」が入れ違って人々から勘違いされる話なので、そういう意味を持たせることもできますね)。


挿入歌が数多く使用され、意味が伝わりやすいよう、両サイドに電光掲示板で歌詞を流しています。最近この電光掲示をよく見るのですが、ミュージカルは特に合唱になると歌詞がわからないことも多いのでこれは良い策であるかと。


歌の中でとりわけ印象深いのは小塚原の腑分けの場。かつて源内と肉体関係にあった女性(高岡早紀)が斬首刑となり、その体を源内自身が腑分けする。内臓を取り出し説明しながら、はじめは人体組織の生成を讃える歌詞でうたい、中盤、トーンを落としたかと思うと、かつて交わった彼女の体を懐かしみ、ここでは内臓の説明ではなく乳房等外形への執着とセックスを歌う。そのひとときの緊張から最後にはまた、科学者源内として人体組織への礼賛で歌が締めくくられる。芝居中、随一の緊張感でした。


「表」源内の上川は充分に上手いのですが、一人の人間の屈折、複雑さの表現において、やはり「裏」の勝村の存在感はすばらしい。獄中で動かなくなった「表」源内に対し、自ら芝居終わりの幕を引きつつ「死ぬことはねえじゃねえか」と「裏」源内が投げかけるラストシーンの画は秀逸です。

融合とはいうけれど

*Theatre Project Si  『リア王』 国立能楽堂(2008.11.11)



「東西文化融合プロジェクト」と銘打たれています。狂言師とオペラのテノール歌手、ソプラノ歌手をキャストに据え、自らも能楽師の修行を10年経験し英国在住歴の長い演出家(日本人)によるディレクションで、狂言とオペラの要素を融合させる実験的作劇の今回が第二段。おおまかに言えば、そういう企画なのだそうです。


全体としてもっとも引っかかったのは、ドラマ自体の緊張感がないこと。演出・演技プランの軽さのせいか、展開がことごとく簡単に運んでしまう印象がありました。疲れ、やつれた、あるいは狂気めいてわめくリア王(翻案のため役名は「大殿」)にしても、目玉をくりぬかれるグロスター公(「越前守」)とその息子の関係性にしても、そこに至る展開が軽いために、説得力に乏しい。そのため、本来現出しているはずの悲劇の大きさが伝わらないのです。


なぜそうなっているのか。異分野の人々が結集した上で(それゆえに、か)、統一的な基盤のないものを上演してしまった結果ではないでしょうか。どの分野ともつかない、かといってそこに新奇、新鮮な何かが生まれている、ということでもありません。むしろ、断片的な狂言、オペラの要素は端々に盛り込まれています。


装束は基本的に狂言のそれ、あるいは打掛。設定を日本にしてあるため、ともかく和装束が基本になっています。終盤に登場する福山正則は具象的な甲冑姿。リア王の末娘コーディリアと道化役はそれぞれ、ソプラノ、テノール歌手が演じ、ところどころに歌を入れる。歌以外の芝居パートは、時代劇風味の普通の口調による会話。強いていえば狂言に近いのだけれど、「うまくひっかかるか、お楽しみ、お楽しみ」「お前の悪行の終止符を打ちにきた」「~しては大変」など、妙に現代っぽい、あるいは翻訳台詞っぽい言い回しが度々登場するため、全体としてダイアローグのトーンに統一感がなく、でこぼこしている印象です。
歌手組はとりたてて狂言に近寄らない台詞回しで喋り、そうかと思えば「でかいた」や、呼び出される際に発する「は~」という太郎冠者的な長い返事は狂言型でやってみたりと、演技の色が場面場面でずれてゆきます。そのやり方自体は絶対的に悪いわけじゃなくて、それで有機的に面白く重なっていれば良いのですけれども、演技のトーンの違いが強調されるだけになっていて、話が線としてまとまることの邪魔をしているのではないかと。

そして台詞は凡庸で少ないため、切迫感や世界を説明するには要素不足、ということもあるでしょう。それらが、全体としてこのドラマから緊張感を削いでしまっているように思われます。時折歌われる道化やコーディリア(鮎姫)の歌も、それまでの芝居のトーンに耳慣れた直後だと、妙に浮いてしまってなじまない。時代劇調の台詞で物語が続いていたところに、ふいにオペラ的な独唱が入るのは気持ち悪く感じられました。リア王の慰みのため、道化がおどけた歌を歌う場面など、そうしたおさまりの悪さゆえふざけているように見えてしまいます。歌声が悪いわけではないので、歌手組には損な役回りになってしまったのではないかと。


つまるところ、「融合」といったときに何を志向するか、ここのプランは非常に重要なのです。
キャストはほぼ同一分野で統一し、演出面に異分野を導入する、というかたちがひとつ。これはたとえば歌舞伎が野田秀樹や三谷幸喜を作・演出に起用したときに、完成度の高いものをみています。あるいはひとつの分野の身体技法を抽出して、より普遍的ななにか(現代演劇とか)に溶け込ませるというものもありうるでしょう。世田谷パブリックシアターにおける野村萬斎の『山月記』はそれに近いかもしれません。

いずれにせよ、結局のところなにか方向性はひとつに定めないと、演劇としての完成形に近づけることは難しいのではないでしょうか。ある分野の要素と、別の分野の要素と、両方ところどころ入れています、というやり方が必ず失敗するとはいいませんが、それは総員共通して志向すべきベクトルを見失うことになりかねません。ある身体技法でもいいし、演出家個人の独創性でもよいですが、主導するものを決めて引っ張ることの必要性を感じました。「融合」というだけでは、ディレクションにはならないのです。

よくないアマチュアリズム

*Three Quarter 『Big Tree ~世界の果て~』 明石スタジオ(2008.11.1)


友人がこの舞台に関わった縁で公演へ足を運びました。

「社会人を中心とした “芝居をやめられない”仲間が集まる創作集団です」(公式HPより)、「もう一度芝居をしたいけど時間が無い。演劇に興味があるけど趣味でやりたい。そんなあなたを歓迎します」(本公演配布紙より)というのはつまり、我々は本気っていうより、趣味の範囲でやっているんですということの遠まわしな表現ではありましょう。だからといって何かを突きつける力の強い作品がつくれないとは考えないですし、視点のハードルを下げて見る必要もないと思います。だけれど、その劇団の自己紹介的なフレーズが、結果として見事に体現されてしまっていました。


近未来、クローン技術は発達し、国家による実験で次々クローン人間が生み出され、戦争に利用される。研究所から脱走したクローン二人は町のモーテルに逃げ込み匿われる(うち一人は国家元首のクローン)。モーテルに集う売春婦、工員、退役軍人たちの中には、追われる身のクローンたちをかばう者、懸賞金目当てに研究所に突き出そうとするものなど立場さまざま。二人の売春婦と、クローンたちはそれぞれ恋仲になるが、そのうちのひとり(元首のクローンじゃない方)は恋仲になった相手が自分を生んだ代理母であると知り、実験体として誕生させられたことをの恨みを露わにする。また、モーテルで働く女性も、モーテル主人とクローン実験体との間の子であり、母体を破って(殺して)誕生したことが明らかになるなど、クローンという存在が孕む生の葛藤が顕在化してゆく。一方、クローンを作り出していた国家元首たちも、クローンたちによる世界の破壊を止められなくなり、自壊する。戦争と核により人間が地球に住めなくなる状況に対し、モーテルに集う人々は、工員の作っていた宇宙船(唐突にそういう話が出てきた)に乗って脱出を目論むが、宇宙船の定員よりモーテル内の人員は多く、全員は乗れない。自身の人間としての命が長く続かないことを知るモーテルの女性(クローン)らは宇宙船に乗らず、地球に残る道を選ぶ。


大仰な演技プランはこの劇団の好みなのだと思うので、こちらの趣味と合わない点は仕方ないです。ただし、基本的にその大仰さが旧時代的なものであることには自覚的であるべきではないかと。こうした古い演技法に客を乗せるには、その演技者の完成度自体が高くないと厳しい。この劇団は、その完成度に関してあまり追究的でないように見うけられます。「ある程度」まで演技できるようになればそこで良しとしてしまっているような。


たとえば、下手でも何某かの面白さを感じるという場合、それはそこにどういう部分であれ新奇なものを見てとれるから、ということが多いと思います。目指す演技法が古さを感じさせ、大仰なものである場合、それを「そこそこ」のレベルで提示されても見る側が乗っかるのは難しいのではないでしょうか。人々のキャラクターを紹介するための日常風景に(「そこそこ」でよしとする演技の)大仰な台詞回しや笑い方をされてしまうと、なんだか胃にもたれますね。


この「ある程度まで」で良しとしてしまう傾向は他の点にもあらわれます。モーテルの人たちが催す日常的な宴を歌と踊りで表現し、それをBGMに主要人物のダイアローグで話の関係性を語らせる場面、たぶん目論みとしてはお洒落感のある軽いミュージカル調を挿入したいのだろう(退役軍人たちはその場面のみ、他のシーンでは持っていないハットを小道具にして踊る)。これも踊りが、まあ振り付けと段取りは皆覚えている、という程度であるためメリハリもスマートさもなく、やりたいことはわかるけど、それを高いレベルで体現しようとしているのか?(体現できているか、よりも、しようとしているのか、の方)に疑問が残りました。


そこそこでよい、という感覚は音楽選びもしかり。効果的に使用されるのは既成のポピュラーミュージックである。既成の曲を使う場合、どのような曲を選び、どう加工、ないしは劇の中に織り込むのか。そこにセンスとか、発想上のオリジナリティ提示の仕方があらわれるのでしょう。大事なシーンで感動を促すために使用されていたのは「ゆず」の、アテネオリンピックのときにNHKが放送のテーマ曲に採用してた曲でした。すでに「感動させ曲」として使われてる(&全国放送でそういうものとして流布しまくってる)ものじゃん!安直っていうか、それは曲が直接に喚起させるぼんやりとした「感動」イメージに頼りすぎではないか?それと、音的なことで言えば音響のオペレーションが不慣れ。音を大きく出しすぎて急にボリュームを下げるということが(もしも意図的でないのなら)幾度かありました。開演前に練習しておきましょう。

追記:後日、この舞台に携わった友人に聞いたところ、音響オペレートは舞台の演出家が兼ねていたのですが、その演出家が、演技中(本番中ですよ)の役者に喝を入れたい部分の時、流れに関係なく急激にボリュームを上げたりしていたのだそうです。その発想はなかったわ。いや、するなよ、そんなこと。


ストーリーや題材に関しては、クローン、戦争、近未来。面白く発想できそうだし、してる作品はいくらもあるでしょう。いわばおいしい題材であるかと。その題材をつかって、なんだか深みを感じないものを作ってしまったという印象でした。地下工場で宇宙船を作っていたという唐突な設定も「?」だったけれど、宇宙船で地球を脱出して生き延びるために、備蓄用の食材の「買出しをしてきた」ってことは、町にまだいくらでも人はいるわけでしょ。モーテルの中だけが人間世界じゃないわけでしょ。じゃあ、彼らだけが宇宙船で脱出できたところで、人間についての解決にはまったくなってないですよね(脱出したあとどうする、ということもあるし)。宇宙船発射の際の不備で一人犠牲にならなきゃいけないシーンも、新聞配達役の男が犠牲になる必然性はなく、『アルマゲドン』的感動エピソードの簡易劣化版みたいになっていたなあ。全体的に、題材を持ち寄って、話をまとめたはよいが、そこからの詰めがないのかな。あと、地球に残る組が、宇宙船に乗り込む組を一人ずつ見送るところ、皆平等に見せ場を与えたいのか、一人一人順々に立ち上がって言葉を交わさせる金八先生卒業式スタイル。ストーリーのタイトさを求めるならいらないし、あれをやると、皆同じように主役になろうね、みたいな悪平等の学芸会っぽくなってしまいます。


 まとめとしては、各方面において目指すところが「そこそこ」なのだと思います。だから「そこそこ」以下のものにしかならない。本業を別に持った上で劇団をやるという姿勢は、ある意味でまっとうであるしそこに異論はありません。正統なひとつの選択です。しかしそれを、並行ではなく「趣味」と位置づけてしまっていることで、クオリティに対してストイックたりえないことの言い訳になっているのではないでしょうか。ただし、入場料を払い劇場に足を運ぶ以上、そういう前提は観客が気遣ってあげることではありません。もっと目標高く持てるでしょ、というのが端的な感想でした(念のため、結果として完成度が高くなっているか、ではなくて、高くする姿勢が見えるかという話です。ここでは)。たとえば初期衝動の強さがアマチュアリズムの良い点だとすれば、高みを目指さないことの言い訳が成立してしまうという、アマチュアリズムの悪い点が垣間見えた公演であったともいえるでしょうか。

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