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~演劇とアイドルと何かと~

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諸悪の根源は全て私にあるもので

*『遠山桜天保日記』 国立劇場(2008.12.9)


場内で売っているプログラムにあらすじ変更の訂正紙がはさまっていて、直前まで演出、ストーリーに試行錯誤を重ねていたのであろうことが察せられます。改訂に至る経緯や書き直しの過程は知るべくもありませんが、結果としてストーリー全体の効果上、小さくない改変であったように思います。さらにいえば、訂正前後のあらすじを見比べると、結果的にあまり良い効果を生んでいないのではないかと。


プログラム内の俳優インタビューでは尾上松緑が自身の演じる佐島天学を、「諸悪の根源」と表現しています。改訂前のあらすじを読む限り、三人登場する悪党のうちで確かに佐島天学は、手を組んだ他の二者に比べて、より根源的な性質として悪であるように描かれます。仲間になった悪党生田角太夫(尾上菊五郎)を見捨ててでも己の欲を通そうとし、角太夫の妻さえも非情に殺してしまう(とはいえ、かつて角太夫に濡れ衣を着せられた恨みが彼の行動原理になっているところがあるので、不条理なまでの悪とはいいがたいのですが)。ともかく、ある時点で改心することになる他の二者に比べて、良心を見せることがない。その性質をもって松緑は「諸悪の根源」と言い表したのでしょう。と、ここまでは上演版でない、改変前のプログラム上での話。


改定後では、角太夫の妻は天学に殺されるのではなく、自らの夫である角太夫により刺し殺される、というように変更が加えられています。これは結果として、天学がはたらくはずだった悪事がひとつ減った、ということに留まらず、角太夫が改心するきっかけが失われてしまったことにもなります(改訂前、天学に斬られ瀕死の状態となった妻とのやりとりの中で角太夫が改心する筋になっていたため)。
つまり上演バージョンでは、良心を見せない悪、という存在は天学と角太夫二人が受け持つことになり、「諸悪の根源」であるはずの天学の悪人ぶりが際立たなくなってしまっている。結局は角太夫も天学によって殺されてしまうので、改定後も作り手の意図としては、天学を最大の悪役として造形したかったのだと思います。であれば、天学の手により角太夫の妻は殺され、角太夫は改心した上で殺害される、とした方が、角太夫の哀れさないしは無念さ、そして天学の「諸悪の根源」っぷり、ともに引き立ったのではないでしょうか。人物のキャラクター分けをそこまで明確にすることで、より魅力的なコントラストも生まれ得たのではないか、と思います。


 この演目はいわゆる「遠山の金さん」です。天学の悪事の一部を「侠客の金次」が見ており、お白洲で天学を裁く遠山左衛門尉景元が刺青を見せて「実は金さん!」という、あれです。ワンパターンだし、筋があらかじめわかっているといえばこれほど皆が繰り返し目にしてきた締め括りもないのですが、テレビで幾度も見続けたそれを、生舞台で他の観客と共有してみると、大詰で展開されるおなじみの「形式」というものの強さは感じざるを得ません。「実は金さん!」となれば客席も舞台上も正しく盛り上がるし、クライマックスは晴れがましく納まる。


ワンパターンで皆がその先の展開を予想できているという状況は、とりわけ歌舞伎においては条件反射的な客席の笑いを呼び込んでしまったりという難点(ここでは難点としておきます)の温床でもあります。とはいえ、それだけで着地点を定めてしまえる、これをやれば確実にクライマックスに向けて盛り上がる、という定番の道筋を持つという点で、この「形式」というものは、最高の強みでもあるわけです。


そもそも、この形式の継承がなければ、それを逆手にとったり脱構築したりする面白みとかっていうものも生まれ得ませんしね。うがった目で見がちになって忘れてしまうこともあるのですが、形式に則った正統派の締め括り方というのは、やはりそれなりに快感なのですよね。
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「面白げ」なキャラクターの成功

*KinKi Kids緊急全国ツアー 『KinKi youコンサート。』 東京ドーム (2008.12.1)


 タレント個々のキャラクターに合わせた、売り出し方の方法論を考える。
 などといってもありがちな言葉を並べているようにしか見えないのですが、ジャニーズのライブを見るたび、その月並みな言葉に対し誠実に対峙することの重要性を思い知ります。
キャラクターの棲み分けは、音楽的特徴やメディア露出における方向性を明確にするということですし、それは直接にどの層の受け手にアピールするかを定めることでもある(これもまたごく当たり前の説明ですが)。


 KinKi Kidsの、「おっさん臭さ」的なものをまとったキャラ提示は、KAT-TUNなどの「今どき」感を敬遠しがちな、主に彼らよりも歳上の受け手層に訴えやすくなっていると思います。あるいは、関西弁による彼らの「面白げ」(面白い、ではない)なトークは、「男子が面白いこと喋ってる」さまに引き寄せられる女性層を取り込んでいるでしょう。

 SMAP以前のジャニーズにここまで「面白げ」なトークを前面に押し出すグループはいなかったのではないでしょうか。これはアイドルのあり方について旧態依然とした定型に拘泥することなく、時代ごとに男子の「格好良さ」を提示できるスタイルを嗅ぎ当てる、ジャニーズというシステムの優秀さでありましょう。KinKi Kidsの台頭する1990年代後半以降、男性アイドルが外見上“能動的”に「笑い」をとる様子を売りにしたテレビ番組(『SMAP×SMAP』『LOVE LOVEあいしてる』など)が定着していった流れにその一端を見ることもできるのではないかと。


 KinKi Kidsのライブは、アイドル「歌手」のライブとしてはトークに割く時間が圧倒的に長いのです。きれいどころが歌をうたう、というアイドル像の定型が完全に解体されているわけではないのですが、KinKi Kidsというアイドルの総合力において、トークが決して従の役割ではないことがはっきり自覚されています。テレビ番組等で広く世に認知させた、彼らの「面白いこと喋ってる」さまを、ライブという特権的な場で増幅して見せているのです。
 二人が立ったままの状態で喋り続けるために多くの時間を割いている分、KAT-TUNのライブに比べれば構成の入り組みは少ないしシンプルなものとなります。けれどそれは演者、スタッフの策が異なるだけの話で、どちらがよりトータルとして精緻である、ということではないでしょう。加えていえば、二人というメンバー数はトークに向いているのですね。他のジャニーズグループ(五~六人)であれば分散してしまう話の流れが、完全なダイアローグにおいては凝集されます。この凝集力ゆえ、「ここはトークを聞く時間」という統一した空気を、客席が自然と共有しやすくなるのです。


 先に、KAT-TUNなどの「今どき」感との対比を少し述べましたが、KinKi Kidsにはアップテンポの曲というのがそれほど多くありません。20代前半くらいの他のジャニーズのグループのようにラップを用いるわけでもないですし(昨今のアイドルはラップの質がすばらしく向上してますよね。桜井くんとか。まあこれはまた別の話ですけれども)。もちろんテンポの速さが即世代差と結びつくわけでもないですが、歳上の受け手層にアピールしやすいテンポや、松本隆、筒美京平らによる楽曲提供が、「今どき」を追うことに抵抗を覚える人々から受け入れられやすいとはいえるでしょう。この意味では、中高年から支持が高いであろう吉田拓郎や坂崎幸之助とKinKi Kidsが親交を持っていること(メディア上でそう提示されていること)も、彼らの方向性設定の上で都合のよい相関を持っています。


 斯様にキャラクターを定めること、さらには「きれいどころ」である以外の特性を明確にすることは、歳を重ねてそれぞれがアイドルであり続けるための、不可欠な施策であります。そういう必然に対して、自覚的に舵を切ることができなかったのがハロー!プロジェクトの「エルダークラブ」なのではないかと思います。

 毎度ジャニーズとハロプロを比較するのも芸がないけれど、ジャニーズのような王国を築こうとしたハロプロの目論見が頓挫した(と一応表現します)理由のひとつに確実にこのことはあるので続けます。

 数年前からハロプロはモーニング娘。、Berryz工房、℃-teなどのグループを「ワンダフルハーツ」、それ以外のモー娘。卒業組やソロ、キャリアの長いグループを「エルダークラブ」という名称で分類しています。あまりに無策なその名称が示すとおり「エルダークラブ」とは、ハロプロ内で「年寄り部」に分類された人たち、ということになります。ある意味では、ギリギリの「処女幻想」を保ち得なくなったハロプロメンバーがこちらに括られている、ともいえるかと。

 つまり、彼女たちはまず「非処女」というキャラ設定(レッテル)で乱暴に括られている、という図があるわけです。女性アイドルの価値を、幻想の上での処女/非処女(幻想の上での)に求めようとする事務所(とファンもかもしれない)の姿勢は、絶望的に不幸な回路を生産し続けているのですが、そのように男性アイドルよりバージン幻想に絡めとられやすいからこそ、個々のアイドルについて、より「きれいどころ」以外の方向性の明確化が必要だったはず。
擬似恋愛対象として「処女幻想」が大きな売りであることは目下の現状として否定はできないにせよ、近い将来、確実に破綻をきたすようなその幻想に寄りかかることしかできないゆえに、破綻後は彼女らに「非処女」のレッテルを貼り、箱庭から排除するという方策(策じゃないけど、そんなもん)が繰り返されてしまうのです。


 メロン記念日のサバイブは奇跡的な経路だったとしても、女性アイドルが「幻想」以後の着実な成長を見せ続けるという、まっとうであるべき道はつくられなければならないでしょう。彼女たちが不可解な「謝罪」を繰り返さなければならないのは、やはり残酷で不条理です。

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