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箱庭を俯瞰する箱庭

*マッスル 『マッスルハウス7』 後楽園ホール (2009.1.3)


長めの前置きから。

プロレスという、かつてメジャーな文化であった(その頃から充分に胡散臭いものとされていたにせよ)ジャンルが否応なく周縁的位置に押しやられてしまった理由は複合的であるでしょうし、ひとことでまとめてしまえるものではありません。しかし少なくとも今日、「ガチ」か「八百長」かという偏狭な二元論が、その明快さゆえに世間の価値観のメインとなっている(ように見える)状況下では、プロレスが屈折のないかたちで覇権を奪還するのは相当に困難であるはず。


その安直な「ガチ」「ヤオ」枠組みの思考に対し、とりわけ俯瞰的で知的な返答、というか模索を提示した代表格の一人にマッスル坂井がいると思います。2~3時間の一プロレス興行全体について、緻密に台本を練り、総体として一本の演劇のようなものとして整えてみせる。つまりあらかじめ台本がなければ遂行不可能な木目細かい展開を見せることで、「ガチ」「ヤオ」二元論に正面から反論することなく、それでいて、この二元論の偏狭さ(というか存在の小ささ)を明らかにするような方法をとっています。また、一日の興行全体がここまで統一感を持ったドラマとして完結するうえで、台本の存在の公表というのは必然でありましょう。


ただ、それは「どうせ筋書きとか勝ち負けははじめから決まってるんでしょ?」という世間からの視線に対する卑屈な開き直りなどでは決してないわけで。また、アメリカのプロレスのように「すべてはショーですから」という明るい開き直りでアイデンティティを明確にするのともけっこう違う(そのアメリカのプロレス自体をパロディ化したトレイラーが『マッスル』興行でスクリーンに流れる)。
そもそも、単に開き直った姿を見せてもそうそう面白くなるわけではありません。その姿勢自体が面白い芸当になっていないと、開き直ってみせる意味などないのですし。


台本の存在を公表することは、世間で言われる意味での「ガチ」じゃなかったとしても展開が面白ければ充実した気分になるでしょ?という、実は本来のプロレスが胸を張るべきシンプルな強みの再確認ともなっています。また、台本があるからといって100%予定調和であるはずもなく、この場面はこの人物の暴走ではないのか、段取りが違えられたゆえの緊張感ではないのか、という観客の深読みを誘う構造も、その台本の緻密さゆえに浮き彫りになっています。


プロレス、ことに日本のプロレスにおいては、これは予定通りなの?ハプニングなの?という虚と実の狭間こそが重要な醍醐味であるはずです。村松友視氏が、プロレスの魅力を虚実の皮膜として提起したのはもう30年近く前のことですが、それで世間からの認知が曇りないものになったわけではまったくなく、プロレスを説明するときに伴う困難は引き続いています。そういう、既存のプロレス好きが抱え込んでいながらも他人にどう説明していいかわからなかった魅力を、現在の『マッスル』はこれまで発想されなかった角度から見せている、ともいえるかと。そうはいっても、これなら他人に明快に説明できる、という簡単なものでもないのだけれど。


さて、結果的に『マッスル』がプロレスの持っている魅力を再提示することになったとしても、手法としては、これまでプロレス界内部では(おそらく)語ってはいけないとされていたような領域(勝敗とか段取りとか)を開示する、というものではあるわけです。その「語っちゃいけなさ」とプロレスに対する率直な考えとが、マッスル坂井という一人の演出家/レスラーの中でせめぎ合い、具現化したものが『マッスル』の興行である、と書いて、そう的外れではないでしょう。
菊池成孔氏は『マッスル』の興行をマッスル坂井の「箱庭療法」と呼んでいますが、この箱庭の内でマッスル坂井の問題意識や病理が吐露されればされるほど、それが非常に知的なものであるゆえに、興行全体、団体全体とは別次元のところで、「マッスル坂井」という演出家個人が目立っていってしまうという状況が生まれています。2008年刊行のマッスル関連書籍『八百長★野郎』(『kamipro』編集部・編、エンターブレイン)はある程度まで「マッスル坂井」本といっていいものでした。
『マッスル』は演劇的であるゆえに、座長であるマッスル坂井の作家性にどうしても注目が集まってしまう。プロレス団体として見た時に、単なるエースなどではない彼の存在の肥大は、ほのかな危うさを秘めたものであるかもしれません。



前置きが長すぎましたがここからが正月興行の話。
オープニングでスクリーンに映される映像は今興行の前日譚。練習場でレスラーたちが手渡された台本の読み合わせを始めるくだり、を興行用に撮影していますという体裁の映像。つまりプロレスの段取りをメタ化して提示しているマッスル、という自分たちをまた俯瞰したつくりになっています。いかにも『マッスル』らしい自己呈示。

興行企画を投げ出して失踪したというマッスル坂井が不在のまま興行が始まると、リングに『マッスル』総合演出家の鶴見亜門(という体裁のキャラクター。劇団「双数姉妹」の俳優・今林久弥が演じている)が上がり、坂井が残したメモをもとにタッグマッチトーナメントの開催を発表。その最中にマッスル坂井から亜門に携帯メールが届く。「自分がメモしていったものは、箱庭療法の一環でやっていたものです」等々、先述したような世間の「マッスル坂井」個人への世間からの視線が読み込まれています。その後もなにかスピリチュアルっぽい言葉を並べて、なんだかくよくよ悩んでいるような様子が描かれる。『マッスル』の成功に応じてプロレスマスコミ周辺でクローズアップされるようになった、作家・マッスル坂井の病理を自ら俯瞰して全面的に俎上に上げています。

この病理ネタがもっとも表にあらわれるのは終盤、「失踪」していたマッスル坂井自身がようやくマット上に登場して、自身の言葉で心情を吐露する場面。曰く、自分は台本を練ってリングで上演するスタイルでないとダメなのである、しかし台本を細かく書けば書くほど自分に限界をつくっている気がする、と。また、これは『マッスル』が話題を集めるようになって以降、目立ち始めたゆえに発生した揶揄であろうけれど、「つまらない」「調子に乗ってる」「(マッスルは)もう終わった」と囁かれることにも言及。もうテンションが上がらないから引退するのだ、という。これに対し亜門は「この人にテンションを上げてもらえ」と、大仁田厚をリング上に呼び込む。登場した大仁田、坂井を始めとした主要レスラーにビンタ&説教。坂井に対しては「これだけのファンが支持しているのになぜやめるのか。自分ひとりでプロレスやってると思ってるのか」と叱咤。周囲のスタッフとの協調、観客の支持があってこその『マッスル』であることを坂井自身も悟るにいたり、大団円。


今興行の主題は、ひとつのブランドを確立してしまった『マッスル(坂井)』への世間からの視線に対する返答、なのだと思います。先述したように、マッスル坂井の際立った作家性が目立つようになった現状は、団体としての危うさを秘めてもいるわけです。『マッスル』が、坂井を教祖的な主宰とする劇団のようなものになってしまっては、プロレス内部の団体がメタ的にプロレスにまつわる議論を批評するというアイデンティティを失ってしまう。『マッスル』はその本質に、プロレスラーがプロレスを見せる(プロレスラー独自やり方で己の肉体の強さを披露する)という要素を孕んでいればこそ、説得力が付随するという部分もあるわけです。世間の注目が『マッスル』の持つ、笑いを含んだ批評性ばかりに収斂すればするほど、坂井の作家性のみが本質であるかのように受け取られてしまいかねません。現状ではまだそれを憂うほどの環境ではないけれど、地上波テレビなどに注目されてしまったら、その恐れは大いにありうる(というか地上波に注目されたら、コミックプロレス的な部分だけを切り取られて、従来のプロレス揶揄の焼き直しが生じるだけかもしれないけれど)。


そうした危うさや周囲からの視線に対しマッスル坂井は、他レスラーやスタッフと共に、また観客と共に『マッスル』をつくっているのである、というアンサー(いささかオーソドックスすぎるけれど)を提示してみせます。回答としては平板な言葉であるためインパクトは大きくありませんが、マッスル坂井という個の存在がさらに肥大化しかねない状況の中で一応の睨み返しである、とはいえるのかな。


 また、加えて重要なのは大仁田厚の登場です。前回興行(2008年5月『マッスルハウス6』)で蝶野正洋が登場した際も同様でしたが、クライマックスに姿を表したカリスマ性の高いベテランプロレスラーの存在感に会場が支配され、そのベテランレスラーに流れをすべて持っていかれてしまう。彼らのキャリアが持つ説得力に比べれば、緻密な台本を練った『マッスル』側の策も(あえてこう書きますが)凡夫の小賢しさに見えてしまう瞬間がある。これは『マッスル』においてけっこう重要な瞬間なのではないでしょうか。もっとも、大仁田や蝶野がそのように見えるべく流れをも織り込んで坂井が台本を書いているとするならば、『マッスル』側を単純に凡夫と表現することもできないわけですが。

つまり、プロレスラーに対する素直なリスペクトが表明されていることが、『マッスル』の清々しさに繋がっているのです。笑いをもってプロレスを批評するということをしても嫌味にならないのは、これまでプロレスの歴史を築いてきた先人への敬意が明瞭に見えるからに他なりません。マッスル坂井という知性が彼らにひれ伏すように敬意を払うさまを見せることで、蝶野正洋や大仁田厚の存在感の大きさを観客もあらためて感知する、というポジティブな空気の伝播が生じているのは嬉しいところです。


本興行はマッスル坂井自身が、マッスル坂井の「箱庭」及び彼個人に集まる注目を俯瞰して捉え、それをネタ化しようとしたものでした。それは結果的に、この確実に恵まれ出した、しかし少なからぬ危うさを孕んだ状況において自身はどう振舞っていけばいいのかという、現在の彼自身の悩みに対処するセラピーとして機能するものに、やはりなっていました。

この先、ブランドイメージが確立されゆく中で、やりにくさもまた増大してくるでしょう。しかし、この恵まれた「箱庭」が置かれる状況に対してその都度、優れた批評を加えるのであろう、と期待させるのがこの団体の強みではあるのです。
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