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~演劇とアイドルと何かと~

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いつかの伝統芸能

*『Endless SHOCK』 帝国劇場 (2009.2.14)


ディテールを変えながら毎年再演が繰り返されているこの『SHOCK』 シリーズは、すでに定番レパートリー化しつつある、さらにいえばジャニーズという組織の中で、数十年先にも継承される可能性をもった企画であるのかも、と思います。
というのは別に、脚本が素晴らしいとかメッセージが普遍的だとかそういうことではありません(脚本とかちょっとした演出にはむしろ難があると思う)。主役(堂本光一)の「スター」としての身体的魅力を舞台上で栄えさせることに向かって創作がなされているため、後の代にもスターシステムの演劇として伝承させやすいのではないか、ということです。ダンスミュージカルなので、そもそも歌とダンスでパフォームするジャニーズのタレントとの親和性も高いように思われます。とりわけジャニーズという、アイドル再生産のシステムを磐石にした組織が興行している以上、一定の水準で繰り返し上演されることが期待できるわけで、後世の伝統芸能がつくられる過程というのはこういうものなのかもなあと考えたりもしました。

もちろん、たとえば東京ドームクラスのライブに比べれば、その性質も興行形態もより内向き、コアなファン向きなものであることは間違いないでしょう。つまり、この種の興行を丁寧に追いかけようとするのは、ごく一部の客層に限定されてしまうのは必然であるかと。とはいえ、コアなファン向きの空間をつくっても毎年帝国劇場で2ヶ月近くの興行が打て、しかもチケット入手困難なほどの盛況を実現できることは、ジャニーズの(現在のところの)大きな余裕の証ではありますが。


ストーリーとしては、オフブロードウェイで活動する有望劇団のリーダーかつ主戦俳優・コウイチ(堂本光一)を中心に、劇団内の衝突、葛藤を描いているわけですが、あくまで劇団内は日本人の風俗として人々が描かれ、舞台となるブロードウェイの描写も日本人がこちら目線で記号的に受け取ったブロードウェイのイメージとなっています。個々の役を現地の住人として作りこんでいるわけでもありません。つまり、全体に漂う「まがいもの」感は覆いようもない。
コウイチ率いる劇団がブロードウェイ進出を果たし、ブロードウェイの舞台でパフォーマンスする場面も、セット背景に『レ・ミゼラブル』、『ラ・マンチャの男』『ミス・サイゴン』等々、わかりやすすぎる看板がいくつも並べられ、『ウエストサイド・ストーリー』的なダンスを取り入れるなど、安直、とも思ってしまうような記号の羅列が続きます(サンプリング、というほど気の利いた使い方でもないと思う)。ともすればこれは、ただの気恥ずかしいアメリカへの憧憬や、杜撰な記号的イメージになりかねません。


それを救っているのはなにより、これが堂本光一というスターを見せるための舞台である、という事実だと思います。最終的には光一が中心に立って輝けば、テイストはブロードウェイだろうがジャパネスクだろうがよいわけで、舞台背景などの世界観は仮のものでしかない。そう受け取って見るならば、この「まがいもの」感あふれる世界も機能としてはサブでしかなくて、きわめて表層的、記号的なブロードウェイの描き方も、まあいいかという気にさせられます。


ただ、黒人の描き方、起用の仕方が幾時代か前のステレオタイプをいまだに継承しているのは少し気になりましたが。ラップという歌唱法を今日のアイドルが歌うものとして高水準に消化することのできるジャニーズの姿を見ているからこそ、年寄りの考える黒人の風俗みたいなのはもう少しなんとかならなかったかなあ、と。このタイミングでバラク・オバマをネタに使うのであれば、なおさらもう少し考えてほしいところではありました。まあ、上に書いた記号的なブロードウェイの「まがいもの」感と同じ感覚でつくっているというのはわかるんだけれどね。


我の強い劇団ナンバー2という設定のヤラ(屋良朝幸)が、コウイチと衝突する役としてカンパニーをかき回します。ヤラの利己的な行動により劇団のアンサンブルは崩れ、コウイチに悲劇をもたらすのですが、気になったのは、ヤラに対するコウイチが始めから終わりまで一貫して正しい、よく出来た人間であること。
コウイチの志向は最初から大概正しく、人間としての揺れがないのです。我の強さをセーブしきれないヤラや、コウイチに盲従することしかできないヒロイン・リカ(佐藤めぐみ)など、性格的な難点を持て余す登場人物を、一段高いところから諭しているような。たとえば、そこにコウイチの傲慢さが生まれて…、とかになってくるとストーリーも人間像も起伏に富むのではないでしょうか。常に上から教え諭すことのできる安定した人、では主人公として物足りないかな。


逆にドラマ上の展開に限っていえば、ヤラこそが主役といっていいのかもしれません。コウイチに追いつけない焦燥と劣等感、想いを寄せるリカはコウイチのことしか見ていない悲しさ、コウイチに対して取り返しのつかない仕打ちをしてしまった絶望。ここを膨らますのが、ドラマとしてはたぶん正しい。

それらコウイチへの劣等感を吐露するシーンはドラマパートでは最大の見せ場でしょう。なにより巧みなのは、ヤラがコウイチにぶつける劣等感を、ジャニーズ内のパワーバランスになぞらえるような、セルフパロディとして受け取ることも可能な点です。
技量が認められ、スターとして称揚されるコウイチと、研鑽を積んでいるつもりでもそれに追いつけずトップに立てないヤラ。すなわちその劇中の設定を、KinKi Kidsとしてデビューし、ジャニーズのトップアイドルの一人として君臨する堂本光一と、CDデビューを果たせずバックダンサーとしてジャニーズJr.に留まる屋良朝幸の二者にそのままあてはめることも、見る側としてはできるわけです(つくる側も狙ってると思うけどなあ)。これはジャニーズでこそ有効に活きる芸当でありましょう。安易にやろうとしても、組織に余裕がないと本当に痛々しくなってしまいますからね。

過去公演ではヤラの役は今井翼や錦戸亮がつとめたこともあるようですが、これはCDデビューできずにジャニーズ内でキャリアを重ねている人がやった方が絶対いい。この演目が伝統芸能化するのならば、今後もこのキャストバランスは継承してほしいなと。


ドラマ上の難は他にもいろいろあるわけですが(ヒロインが見事に何もできない人物として描かれている、とか、『シックス・センス』的なオチ?をしっかり消化できてない気がするとか)、ラストのショーは充分に見応えのあるものでしたし、最終的に堂本光一を大きなスターとして輝かせることにも成功していると思います。このフォーマットは、客を呼べるものとして継承しやすいですね。結局、客を呼べる伝統芸能はスターシステムが前面に出ているものなのだよなあ、とかも考えたりしました。
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逆に松竹って(ずるいほどに)すごいよね

*第三回 歌舞伎ルネサンス公演 『萬夜一夜先代萩』 浅草公会堂 (2009.2.10)


「誰でも自由に参加し創造し発表できる歌舞伎」をつくる、というのが、この企画のスタンスであるようです。
より具体的には、まず松竹系の大歌舞伎(歌舞伎座とかで公演される、いわゆる本職の歌舞伎役者たちがやってる歌舞伎)を敵視、というか少なくとも批判対象にしています。門閥の俳優ばかりがやっている、今の時代に合ってない歌舞伎に対し、民衆的で創造的な歌舞伎を取り戻す「ルネサンス」である、と(いや、これは私の見解じゃなくて、この公演の企画者の志向です。念のため)。
しかし、いまや「伝統芸能」というブランドを自覚的に武器にして多様な策を打ち出してみせる松竹歌舞伎を批判するには、それ相応の発想力が必要。カウンターとして立つ側に、松竹と伍するだけのだけのブレーンがあるのか、ということがここではポイントになるでしょう。


公演プログラムやチラシに載せられている企画者の理念を読む限り、彼らのいう「ルネサンス」は残念ながら的を射たものであるようには思えませんでした。要約すれば、

「いまや大きな興行会社(松竹ですね)による歌舞伎だけが生き残った結果、門閥的でお上品な歌舞伎しか存在しなくなり、人々の支持を得るような歌舞伎がなくなった」

といいたいようです。

興行会社に映画製作部門があることを指して、GHQの文化施策の象徴みたいに言い表していたのもどうかとは思うけれども、なにより、生き残った大企業による歌舞伎をつまらないものと想定、消滅したいわゆる小芝居(官許の芝居ではない、いってみればインディーズの集団)の歌舞伎劇団を、大衆の支持を得る「創造力あふれる」ものと想定する発想に無理を感じます。
企画者がいうには、企業による歌舞伎のみが生き残ったことによって「現在の我々は行儀がよく、品格を重んじる歌舞伎しか見ることができなくなってしまったのです。社会を正視し、諷刺した歌舞伎。時代のニーズに合った歌舞伎。自由な競争を勝ち残り大衆の支持を得た歌舞伎を見ることはできません」(公演プログラムより)のだそうです。


「時代のニーズに合った歌舞伎」といいますが、そもそも近代に入って歌舞伎そのものがもう時代に合わないんじゃないのか、と言われ続けてきたわけです。西欧演劇を志向する人々からはいくらでも叩かれてきたし、もう歌舞伎自体消えるんじゃないの?っていう議論は戦後もしばらく続いていたわけで。
それでも政府主導だろうが大企業だろうが、ともかく興行としての歌舞伎を捨てなかった人たちがいて、それで命脈が繋がれたので今日の歌舞伎の隆盛に偶々結びついている、と。小芝居の歌舞伎が消えたのだって、それこそニーズが問われたという側面はあるはずではないでしょうか。

「行儀が良く、品格を重んじる家柄の歌舞伎」という松竹歌舞伎についての説明をもって、それは時代のニーズではない、といいたいのだと思いますが、いや、いま『和楽』とか読んでる人が求めてるのってまさにそういう雰囲気なんじゃないかと。「門閥」という言葉が「封建」ではなく、「伝統」と肯定的に読み替えられがちな現在、その論拠でカウンターを演じるのはいくらか無理があります。


ところで、近世の形式を継承せざるを得ないゆえに、門外漢に届きづらいものになっている、という課題は歌舞伎には常につきまとうものです。形式の継承と格闘しながらも、今日的な提起を歌舞伎の中で具現してゆこうとしている人々は少なくありません。中村勘三郎が串田和美や野田秀樹とともに続けている試行錯誤はまさにそれでしょうし、その中で一定の支持を集めている(それは今日のニーズに「合う」というよりも、もっと能動的に潜在的ニーズを刺激している作業かもしれません)。演出を行なう野田も串田も、何を外したら歌舞伎じゃなくなるのか、どの形式を守ることが必須なのかという、明快な枠組みなどあるはずもない問いの中で、伝統継承と現代的提起力との折り合いをつけようともがいている。伝統芸能として何がしかを「継承」せざるをえないという問題に切実にあたればこそ、その試行錯誤は生じ得るし意味を持つのでしょう。
で、まあ、古典的な歌舞伎とそれに対する上述のようなカウンターと、両方が対峙して活性化する構図を、ひとつの会社が抱える興行の中でやってしまっているところが、松竹のずるいところ、かつ非常にうまいところなわけですが。


そのことでいえば、今回の企画はまず、歌舞伎というフォーマットを使って何をやりたいのかがよくわからないものになっていました。無理のある論を用いてまで門閥歌舞伎を批判し、自身たちが歌舞伎を演じる権利を主張してまで(っていうか、誰も一般人が歌舞伎をやることを禁止してないけど)、歌舞伎にこだわった理由がいまひとつ見えてきません。

演目は『伽羅先代萩』の「御殿」の場、プラスその数十年後を描く「老後の政岡」のふたつですが、基本的には従来の歌舞伎をなぞったもので、演技法も演出もとりたてて新奇というわけではない。「男女の区別なく誰でも自由に参加」させるという理念もあって、朝丘雪路をはじめ女優も登場していますが、特に「女性が歌舞伎に出ている」以上のものではなく、総体として松竹の形式を批判するまでの新しい何かはありません。
「ルネサンス」の理念は声高なのですが、歌舞伎のかたちをなぞったようなものに落ち着いていて、「創造」「ニーズ」「自由な競争」といった彼らの言葉を想起する要素を看取することはできませんでした。むしろ、実践としては歌舞伎を安易な記号性でとらえてしまっているような、そんな気さえします。

当人たちにそんな意識はないと思いますが、歌舞伎俳優が身内にいなくても歌舞伎を企画上演したい、という歌舞伎好きの道楽の実践に、あとから理屈だけ盛り付けたもののようにも見えました。企画者たちが善しとする小芝居の「諷刺」「創造性」を旨とした歌舞伎をつくりたいのであれば、小劇場とか、ちょっと前ならテント小屋とか、そういう空間で始めて支持をつけていく方が、見え方としても良いのではないでしょうか。今日、近世の小芝居に近い環境があるとすればそれは小劇場かもしれないし。


何度も書いていることですが、歌舞伎はアイドルを見にいくものです。今日にあっては、門閥的な家柄さえ、それ特有の魅力を付与させるスパイスになっているわけで、その時代に松竹歌舞伎を否定して、「これが本当の歌舞伎だ」と提示して支持を得るのは容易なことではないでしょう。創造的な芝居を見せたい、というのは正論かもしれませんが、そのための手段としてなぜ歌舞伎にそこまでこだわるのかがわからない。それが「歌舞伎好きの道楽」に見えてしまう一因でもあります。
近世には各地方にも歌舞伎の小芝居があって創造的な芝居をつくっていたから我々はその歌舞伎を取り戻すんだ、という理由付けかもしれませんが、そのころには歌舞伎以外の演劇技法がまだ流入してなかったのだから、今日のように数ある演劇ジャンルの一形態として「歌舞伎」という言葉を指し示すことにも難があるでしょう。


あと、主役に招聘したのが朝丘雪路と林与一って、なんか結局役者の家柄、とはいいませんが、「やんごとない」感じに頼ってるような(林与一って元歌舞伎役者だよね)。言葉で並べ立てる理念(自体も非常に古いが)と、舞台上とがけっこう乖離しているのも印象的といえば印象的。朝丘がカーテンコールで話していたのは、「昔から大好きで見ていた歌舞伎を私がやれて嬉しいー」という、ひとりの歌舞伎好きの素直すぎる告白でした。
そうそう、だからこれは理念が余計なのだ。単に「朝丘雪路・林与一特別公演」と銘打って、内容は歌舞伎をやります、とそれだけの方がすっきりしていいんじゃないでしょうか。そうやって歌舞伎役者じゃない人が、しれっと当たり前に歌舞伎をやってしまう方が、企画者がやりたいのであろう歌舞伎の脱構築になると思います(別にその脱構築を支持するものではありませんが)。

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