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~演劇とアイドルと何かと~

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ハッタリがきくというのはこういうこと

*歌舞伎座さよなら公演 三月大歌舞伎『元禄忠臣蔵』 歌舞伎座
昼の部『江戸城の刃傷』『最後の大評定』『御浜御殿綱豊卿』 (2009.3.23)
夜の部『南部坂雪の別れ』『仙石屋敷』『大石最後の一日』 (2009.3.2)


今更ですが、忠臣蔵は「仇討ち」ではないわけです。

このことのいちばん簡単な説明としては、大石内蔵助たちの主君・浅野内匠頭は、自分が刃傷を起こした責任で切腹(将軍から下された処分)することになったわけで、別に吉良上野介の手で死に至ったからではない、ということですね。自分が悪いんじゃん、ということ。これが表面上の道理としての、「仇討ちでない」端的な理由。

それから、当時の将軍綱吉により理不尽な理由で大名家が取り潰されていった(のに吉良には「喧嘩両成敗」的なお咎めがなかった)ことに対する社会のフラストレーションとか、浅野家への同情とかが討入りを後押しする、というような空気があったんだろうとしても、それもやっぱり吉良上野介が奇襲をかけられて殺されることには繋がらない。

だって吉良自身は殺されなきゃならないほどの社会的理由を持っていないわけですから。


それでもこれを「仇討ち」、堪え忍んだ者の溜飲を下げる話に仕立てるのであれば、吉良が殺されるための道のりらしきものをなんとか拵えなければならないのですね。まず、吉良を基本的に性悪の人物として描くという方向。これは古典歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』でもやっているし、今月の『元禄忠臣蔵』でもその方向は維持されている。吉良から耐え難いほどの「散々の辱め」を受けた結果の刃傷である、という筋道に代表されるものです。

けれど、それはやっぱり「仇討ち」として吉良が討ち果たされることには直結しない。少なくとも「仇」として目される正当性はどこにもない。吉良は簡単にいえば浅野に礼儀作法を教授する役目を当時していて、「辱め」もその文脈でのことみたいですが(事実としては明らかじゃないみたいだけれど、かりにそうだとしても)、知らないことを教わる側がその過程で、単なる無知ゆえにある程度恥ずかしい経験をするのは、自然なことじゃないかなあとも思います。それでいちいちキレて切りつけられたら、教える側はいい迷惑だよなあと。


で、そういう意見に対して、「それは現代の感覚でいうからそうなんで、当時は浅野及び大石たちの感覚が正当であった」というような説得法があるかもしれません。でも、それなら面子を潰されたことを理由にしての刃傷なんてもっといっぱいあって、それが大々的に肯定されているべきでしょう。『元禄~』でも大石自身に主君・浅野の刃傷に関連して「生まれついての短慮」だといわせています。浅野の行動は時代的に見て当然、という解釈がされているわけではなくて、それはあくまで「短慮」なわけですね。


浅野の刃傷が「短慮」って大石自身が思うなら、吉良をわざわざ殺しに行く理由はないんじゃないの?と思います。討入り後に大石らを尋問する仙石伯耆守(せんごくほうきのかみ)もそう訊きます。こたえて大石がいうには、

「いや、そういう、理屈とかじゃないんすよ」と。


「短気おこしちゃって、とか批判もされてますけどね、部下から見たら、そんなにダメな人じゃなかったんすよ」と。


「もう全部投げ打っちゃうほどの気持ちがなにかあったんでしょ、主君には(←それが何かはわかっていない)。それがね、殺したかったのに殺しもらしちゃった。残念でしょうねえ。だから、俺らが代わりに殺してやったんです」と。


えぇ?いいの?そんなので。結局、吉良が何で殺されたのかは「理屈じゃない」、っていうか不問にしているんですね。主人は殺したかった人を殺せないまま、死んでしまった。だから俺らが代理で殺してやる、ということなんですね。もう「吉良を殺す」は絶対的な到達点としてあって、なんで吉良が殺されなければならないのか、そのことの正当性は疑われない。熱情を持って主君への思いを語れば、それですべて肯定されてしまう。論理的に尋問していたはずの仙石も聞きながら、「そうだよねー」と同情していく。吉良上野介の、被害者としての人間性を無視しないと、この話は成立しないわけです。



今日この理不尽が通用する、あまつさえ「仇討ち」の代名詞になってしまうというのは、もう「忠臣蔵」が皆の思考停止を許してしまえるほどブランド化しているということなのでしょう。義挙である、耐え忍んで仇を討つ話である、というラベリングに寄り添えば、そこに見る側の新しい判断はなくてもいい。話全体を追い続けなくても、見せ場の断片から「仇討ち」的メンタリティを容易に想像してしまえる。情緒的に大石内蔵助が心の内を畳み掛ければ、吉良の立場とかは置いといて「そうだよねー」と感情移入が簡単にできる。そういうことがブランドの強さなのだと思います。


それから、何十年、何百年とこの「忠臣蔵」のエピソードが引き継がれたという事実は、なんであれ強い。時間的長さに言及するだけで「日本人に愛され続けた」みたいな常套句に妙な説得力を持たせてしまうし、もうこの古典に疑義を挟むことはない。というか、疑義が挟まれたとしても、「仇討ち」の代表としての立場が揺らがないほどの存在に、もうなってしまっている。こう書いている自分が浅はかなのかなあ、とぼんやり思わされてしまっているので、これはもう私自身も「なんとなく」でしかないはずの権威に説得されているということなのでしょう。
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オタ芸の形骸化

*サムライナンバーナイン 『7つのQを放つ夜光劇場は存在するか?』 サンモールスタジオ
(2009.3.16)

たとえば「アキバ」的と称されるような「オタク」のざっくりとしたイメージは、ここ数年、地上波のテレビを中心として、表層的に(また揶揄的に)、それはもううんざりするくらいに提示され続けています。「アキバ」的なものへの理解や共振ではなく、遠巻きに「オタク」をからかう意図の滲み出たそれらの中にはしかし、オタクたちの過剰な自意識を端的に批評するような模写も確かに存在したと思います。

とはいえ、それも繰り返されれば容易に「模写の模写」になってしまうし(今日ビートたけしやアントニオ猪木の物真似がおしなべて「彼らを真似した誰か、を真似する」ものになっているように)、それが続けば当初見えていた批評性からも遠ざかって、後味が悪く、かつステレオタイプな「オタク」への悪口だけが残ってしまう。そのことへの無自覚は、現在もなお継続しているといえるでしょう。


本公演でもっともひっかかったのは、そういうきわめて表層的な「アキバ」解釈が色濃くあらわれてしまっていることでした。テレビ的なネタとしてももはや新鮮とはいい難い「オタク」解釈を後追いでなぞるような表出を、小劇場系の劇団が屈託なく上演してしまうのは非常に残念な感じがします。

象徴的にそれがあらわれるのは、地下系っぽいアイドルのアヤとそのファンたちとのかかわりのシーン。ファンたちの「オタ芸」にせよ、「ツンデレ」という今更なワードの使用にせよ、それらに対する批評や再解釈が明示されるでもなく、消費され尽くした表層的なイメージをトレースしているような場面が続きます。「ウッーウッーウマウマ」とか「ググレカス」(これはオタク的なものではないような気がする)とかの引用も同様、「オタクってなんかこういうのでしょ」という、雑なイメージ付けが見えてしまう。ひょっとしたらアイドルヲタとアニメヲタと、あとネットの掲示板に書き込む人たちのそれぞれを区別すらしていないかもしれない。全体的に、「オタク」を模写したコントか何かを、さらに単純化して模写し直したようなものになってしまっていました。「オタク」への批評としてやっているなら有効なものでは到底ないし、そうではなくテレビ等で見たオタ芸などを無邪気に面白がってやっているだけならもっと傷は深い、かと。


ストーリーの本筋とは別に、上述のようなオタクものや小コントが挟み込まれていて、企図としては場面場面に勢いを与える機能を担わせています。


同窓会のためかつてのクラスメイトが営む喫茶に集まったはずの男たちが、いつの間にか警察・自衛隊に包囲され、喫茶だと思い込んでいた場所は首相官邸、彼らは首相官邸に立て籠もったことになっていた。実は彼らはかつて「革命」を目指した自衛隊幹部の部下たち。彼らに革命を託した上官により、記憶障害の出る薬品で記憶・行動操作され、特定の期日に首相官邸に乗り込み占拠するよう誘導されていて、彼らは次第に革命の志士としての記憶を取り戻し…。

という、書き出してみるとなんだか疑問点が複数出てきそうなメインストーリーも、ストーリー上どういう位相の話なのかがよく見えない上述のオタクコントも、生の舞台という環境では、本来勢いで説得してしまえるはず。その力業が可能になるのが、映画等とは異なる舞台演劇の利点でもあるでしょう。

ただ、その勢いを成立させようとすれば、今度は役者個々人のパフォーマンスの如何が問題になるわけですね。演技に関していうと、男性キャストの幾人かにバタついている感があって、ちょっと入っていきづらかった。演技力というのはコントにも同様に必須な条件なわけで、笑いを丁寧につくるうえで、このバタつきは多少問題がありました。


コントの方向性やボケのあり方自体も、パターン的な反復が多く、ありがち感は否めない(それならなおさらカギは演技力ですね)。それから、警視正役の俳優が多用していた「出てこいや」という高田延彦の物真似(の物真似)も、テレビで幾度も繰り返されてきたものではあります。「オタク」への解釈同様、流布しすぎたステレオタイプに対する批評眼や再解釈(そうでなければステレオタイプを自然に織り込める演技力)がほしいところです。


コント的なパートをシリアスなテーマ性に織り込むという劇全体の意図は、うまくいけば見応えのあるものにはなるはずです。少なくとも、そういう劇作の方向性は伝わるものになっています。ただし、それを成功させるために超えるべき、丁寧な「笑い」の創作と、「今」的なものに対する批評性(「アキバ」が「今」的、というのはもういい加減違うかもしれないけれど)という二つのハードルは、けっこう高いものかもしれません。

贅肉のない見立て

*演出 サイモン・マクバーニー 『春琴』 世田谷パブリックシアター (2009.3.10)


舞台装置は抽象的なのですが、場面背景を表現するのに用いられる道具(畳と竿)の使い方、およびそれらを場面に合わせて即座に変形させていく黒衣たちの動きに、見事なまでに無駄がありません。茫とした薄闇の空間の中に、場面に応じて必要最低限なだけの見立てを手早くつくり、そこに照明が集中して、不思議と具象性の高い(ような気がしてしまう)セットが出来上がる。
春琴と佐助の環境が畳の間、廊下、屋外と移るに合わせて、道具たちが的確に表情を変えるのですが、あくまでシンプルな形状の畳と竿の連なりでしかないので、ストイックな機能美こそあれ、一向うるさく感じることもないのです。


抽象的な舞台装置というのは、どうにでも見立てられるぶん、「ここに○○がありますよね」と観客の想像に多くを委ねてしまえるわけです。もちろん、今回の舞台も基本的に具象を排した装置であるので、その例に漏れるものではないでしょう。ただし演出者はその茫漠とした薄闇の中に、少ない道具と照明で明確な方向性のイメージを与えるシェイプをつくろうとしている。そして、それに成功していると思います。最低限、必要充分なだけのモノと黒衣の動作で、実に贅肉なく遂行している。この手柄が、劇全体を締めているといえるでしょう。


少女期から若年期の春琴は人形によって表現され、このとき、のちに春琴役になる深津絵里は春琴の声と半身の操縦を担当しています。文楽の主遣いが台詞も担当しているようなものといえばよいでしょうか。この時期の春琴の声は少女性を強調するため、大人が作り込んだ子供の声色、になっています。ともすればアニメ的ともいえるこの声色は、春琴の年齢、それに我儘さを伝えるには良いアプローチなのかもしれませんが、コミカル色が強くなりすぎる難点もあって、一長一短なのかなあと。そうそう他のアプローチがあるわけでもなく、また声色を作れば「声優」的な発声に近づいてしまうのは致し方のないことなのですけれども。


春琴の姿が操り人形から深津本人、人間の顔を持つ生身の肉体へと移る契機は、春琴に習いに来ている弟子の女の子と佐助との距離感に春琴が嫉妬するシーン。嫉妬心の発露の瞬間に春琴は生身の人間(深津)によって演じられ、佐助を叩く。しかしまた、春琴の人形→演技者への転換は、佐助への執拗な嗜虐性が解消してゆく契機とも重なっているようです。以後の春琴は佐助を受け入れるやり方が確実に穏やかになっている。逆にそれは、少女期の春琴のある種のモンスター性が、冷たく固定化した人形のマスクによって効果的に描き出されていたのだな、ということの確認でもありました。こと春琴抄に限っていえば、どちらの時期の関係性の方がよいのかわかりませんが。


晩年の佐助と思しき男が冒頭から登場し、舞台の中央近くに位置してほとんど動かず、ときおり語り部として回想の台詞を口にします。しかし彼が語りの大部分を引き受けているわけではなく、メインストーリーの春琴と佐助(晩年の佐助とは別役者)の営みが進行している際には晩年の佐助はサブとして機能、あるいはまったく光が当たらず存在があるのかわからない場面も多い。
それでもその存在を薄くしたり濃くしたりしながら居続けていることで、この話全体が、晩年の佐助の回想を現前させているもののようにもとれるわけです。回想の中だけであろうとも、佐助にとって、春琴との営みはあくまで引き続いていて。「生きている相手を夢でのみ見ていた佐助のような場合にはいつ死別れたともはっきりした時は指せないかも知れない」という文章が印象的に重なります。それは別の言い方をすれば、いまだに明確に死別などしていないわけで。自ら視覚を失った佐助は「夢でのみ」春琴と添い続けているわけですね。


もうひとつの位相として現代パートも並行しています。中年女性のナレーターが、スタジオで春琴抄を朗読し、現代目線で俯瞰するようにスタジオサブとの雑談を交え、張り詰めた舞台上にほどよいブレイクを提供しています。彼女は小説内世界に耽溺するというよりは、その本を、あるいは登場人物たちを、一歩引いたところから優しく慈しんでいるようなスタンスで、その入り込まなさが心地よい。ラストで彼女がスタジオを出て行く際にかける「おつかれさま」の台詞は、たった今まで彼女のナレーションとともに現前していた春琴たちに向けられたもののようでした。
メインストーリーと、晩年の佐助という二つの位相でもきれいに完結しただろうとは思いますが、この第三の位相は決して蛇足でない。緊張と弛緩のバランスがきれいにとれていると思います。

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