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~演劇とアイドルと何かと~

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伝統芸能としてのハロプロ

*モーニング娘。コンサートツアー2009春 ~プラチナ 9 DISCO~ 大宮ソニックシティ 大ホール
(2009.4.25)


この期に及んで、「物語」を背負っていた頃、そしてその「物語」性を背景として世間と強いリンクを保っていた頃のモーニング娘。との比較をしても意味はない、のは承知なのですが。しかし、それでも今なお、「モーニング娘。」は誰もが名前は知っている(旬は過ぎたにせよ)大看板であることは間違いなく、その看板の大きさは「物語」期に獲得したものに違いないのです。

ということを今更書いてみるのは、先週の『週刊新潮』の中吊りでアップフロントエージェンシーを表現する際に「『モー娘。』『松浦亜弥』事務所」と記述されていたのを見たため。ハロー!プロジェクト内の実質的な覇権が、より下の世代、ユニットに移行して久しい今日においても、通りのよい名称は「Berryz工房」や「℃-ute」ではなく、モー娘。ではあるわけです。だからいまだに週刊誌の批判的記事の矛先にもなるのでしょう(上述の当該記事は直接的なモー娘。批判ではないですが)。


「世間」にとってモーニング娘。とは、『LOVEマシーン』『恋愛レボリューション21』あるいは『ザ☆ピ~ス!』の頃のそれです。その当時の社会とのリンクの強度に引き比べた今日の状況を、「落ち目」「凋落」等々と表現されてしまう。
もちろん、そういったワイドショー的「世間」とは関係なくモーニング娘。は歴史を刻んでいるわけで、『LOVEマ』当時ベースで近年のモー娘。を語ろうとするのはナンセンスとしかいいようがありません。


テレビ番組『ASAYAN』で描かれたサイドストーリー込みで補完されるかつての提示法はプロレス的と評されることも多かったわけですが、ともあれそうした環境で育まれた「物語」、そして『LOVEマ』後の黄金期の中心人物たちは、いまやモー娘。にはいません。ハロプロ内にさえいない。であるならば、今の彼女たちに「物語」の残滓を背負わせてしまうのは適当ではありません。


それでも、「物語」期の歴史を背後に想起せざるを得ないのは、彼女たちが今なおライブで『LOVEマ』『恋レボ』を演るため。そしてまた、彼女たちも「あの」モーニング娘。である以上はそれらをレパートリーに組み込まないわけにはいかないのでしょう。当時のモー娘。を時代の寵児にしてしまったそれらの曲の強度は、どうしても黄金期モー娘。ブランドの継承を感じさせてしまうものではあります。

しかし、ライブ全体を通じてみれば、ごくごく当然のことながら、今日の彼女たちしか持ち得ない魅力をこそ拾い上げることこそ正しい。今日のモーニング娘。とは、決してパフォーマンスや楽曲のレベルが低いグループではないのですから。


かつての『ASAYAN』によるサイドストーリーが鮮明にしたのは、人間ドラマを追うことで見せる、人物性、キャラクターの魅力というものの強さでした。そして初期メンバーにはその物語を際立たせるにふさわしい、人物の凹凸、過剰性や異端性があって、そのいびつさこそが当時のモー娘。という集団の魅力でもありました。

現在のモー娘。にそこまでの異様な凹凸はありません。草創期に比べれば平準的というか、物理的な意味でなく背丈が似通っている。また、素材が潤沢であった黄金期(『ザ☆ピ~ス!』の頃とか)にメインを張ったようなメンバーも皆無(その時期の尻尾にサブ的な役割で加入したために、存在感が希薄になってしまった第5期メンバーが現在の最長老である、という巡り合わせもある)だし、絶対的センターとなる人物もいない。ただしこれは、誰もが部分的にセンターになれる、という状況でもあるのです。

それは一方で、誰もがセンター的になることを可能にする、平均値の底上げが達成されているということでもあります。このバランスの良さは、群舞を行ううえでもプラスに働いているのではないでしょうか(ハロプロは、個々のスキルはよくわからないけれど、群舞に関してそれなりのレベルをキープし続けていると思う)。かつてのいびつなキャラ立ちのありようではなしえなかった均整が達成されているのです。


キャラ、ということでいえば、今日のモーニング娘。において随一の爆発力を有するのは久住小春でしょう。別名義の「月島きらり」における活動以降、彼女のデビュー当初の惹句であった「ミラクル」という言葉がようやく的を射た表現に思われてきました。「月島きらり」のアイドルデフォルメ感を逆輸入したような『グルグルJUMP』で見せつける破壊的なパワーは他メンバーが決して持ち得ないものですし、同曲中、カタコトを逆手にとったジュンジュンの歌い回しも、センターに久住あってこそ豊かに響くものです。彼女がグループの歴史に強烈なインパクトをもって名を刻むメンバーであることは間違いない。


「歴史」といいましたが、たぶんどうしても、この歴史性からは逃れられないところまで、彼女たちは時を紡いできたのでしょう。過去の一時期を黄金期として振り返るような、往時と「凋落」時の一対一の比較ではなく、より長いスパンの「歴史」を意識せざるを得ない段階に、モーニング娘。は来ているのだろうなあと思います。ハロプロの前々からの強みとして、楽曲のアーカイブの豊富さということがありましたが、『LOVEマ』等々に関しても、単なる往時の名曲という位置づけでなく、膨らみ続けるアーカイブ中のクラシックのひとつ、として捉える方がよい。


これは別の観点からいえば、「モーニング娘。」が「伝統芸化」しているということでもありましょう。つまり、「モーニング娘。」という単語が意味する正味の内容は、常時定まった特定のメンバーたちではなく、「モーニング娘。」という名称であり、たとえば『LOVEマシーン』という楽曲である、と。これは「継承」ですよね。つまりどちらかといえば、いちアイドルグループとして語るよりは、「ジャンル」として歴史を語った方がまだ似つかわしいかもしれない。時代は移る。メンバーは変わる。けれど、名称も名曲も受け継がれる。


ハロプロ内の楽曲をオリジナルとは異なる配役で見せる、ということはハロプロのライブの常套ですが、この日も『The 美学』(オリジナル:松浦亜弥)を田中れいなが、『香水』(オリジナル:メロン記念日)を久住小春とジュンジュンが歌っています。とりわけ田中のヤンキー感と『The~』のややぞんざいな雰囲気の歌詞との相性は良く、虚構を虚構として提示する(当時の)松浦には出せなかったリアリティを体現していました。
この継承の繰り返しは、間違いなく伝統芸能です。たかだか10数年の歴史しか持ち得ないゆえ、そしてまた「アイドル」という、軽視から逃れられないジャンルに置かれているゆえ、現在まだ「伝統芸能」という呼称はぴったりくるはずはありません。しかし形式としてそうなりうる回路はつくられていると思います。処女幻想(昨年のメロン記念日の項とかを参照)に絡めとられて自滅とかしないで、小さくても残り続ければ、きっとなる、伝統芸能に(新派みたいな残り方かもしれないけど)。


で、あるならば、現在の彼女たちの作品として『LOVEマ』も『恋レボ』も丁寧に仕上げてもらいたいなあという希望は出てきます。ハロプロを代表するクラシックであるのですから、メドレーで流すのではなく、オリジナル版とは別個の独立した作品にしてもらえたらなあ。オリジナル版のインパクトが強いから見る側もそちらに引っ張られてしまうのだけれど、まだもっと、今のモー娘。のものにできるはず。


あと、特にCDジャケットとかに顕著だけれど、ヴィジュアル的に格好いい見せ方はもう少し考えてほしいかなあ。AKB48の方が明らかに女性ファンはつくと思う(狙い方がクドかったりもするけれど、なんだかんだであそこは上手いんだなあ)。アートワークに関わる人におしゃれな人がいないのだろうか、という気にもなってしまいます。草創期のダサさは、それをあえてそのまま見せる、というメタ・ダサ的視点があったけれど、それをメンバーに均整のとれた今それをやったら、本当にダサいだけに見えてしまう。誰にとって格好よく見えるのか不明な現在の(もう何年もだけど)アートワークは本当にもったいない。
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ちょうどいい異形

*音楽劇『三文オペラ』 シアターコクーン (2009.4.15)


「異形の者」であること。
米良美一はまず、そこで勝っているのです。

演出者(宮本亜門)は、米良を単に歌手役として招来しているのではなく、ストレートに「異形の者」として扱っています。これは米良を俳優として活かす上で最良の方法のひとつでしょうし、米良の持っている特異性をフルに用いようとするのは、誠実な姿勢でもあるでしょう。ともあれ、この「異形」としての米良が、異世界への導入役として優れた立ち廻りを演じています。


キャストは皆、顔全体、あるいは一部を白く塗り、現実離れした衣装を纏う者も少なくない。というように、ビジュアルイメージはさほどリアリズムではなく、いくぶん大げさな世界設定となっています。このとき、観る側をその異世界に導入するにあたり、米良という存在は非常に適性が高いといえます。そもそも異形として日常性(といっても我々はテレビ等で接するのだけれど)の中に存在する米良は、この異な舞台と観客(日常性)との橋渡しとして、実に具合の良いところに位置する人物なのです。

米良と同様に、冒頭に登場するデーモン小暮閣下もまた異形のまま日常に溶け込んでいる存在。この二人が歌い、立ち廻るというオープニングは、舞台上の大げさな世界性へ観る側を誘い込む手法として成功しているのではないでしょうか。

デーモン小暮閣下の顔のメイク(っていうか「素顔」っていうか)は我々が普段知っているあの化粧のままなのですが、そうであってもこの異世界では、彼のパーソナリティがきちんと劇中の人物のそれに見えます。この大げさな世界性と食い合わせが非常に良いということもあるのでしょうが、何にも溶け合わないように見えて案外その場に順応してしまう、閣下の器用さなのかもしれません。加えて、さすがベテランのヴォーカリストというべきか、ステージングが巧い。画になるポーズを心得ているのだと思います。


あと、安倍なつみ。まあ、シンガーとしてはプロなわけで歌に関して心許ないなんてことはないわけです。ミュージカルに出た時のソニンみたいな、新鮮な驚きはないけれども。発声も歌声も、ハロプロファンが知っているなっちではなくて劇内に溶け込んでいたし、よくやっているのだと思います。

ただ、この人のモー娘。にいた頃からの特徴なのですが、表情に豊かさが出ないのですよね。硬直した無表情とかいうことではなくて、ごくごく平準な愛嬌らしいものはあって、それは可愛い女子の明るい表情に違いないのだけれど、そこに深さとか陰影が出ないような。
ハロプロ時代は、他のメンバーがシャッフルユニット等の外部活動に借り出される中、モー娘。のマザーシップとしてアイコン化されてしまったので、何をやっても「モー娘。のなっち」という固定的なイメージから脱しにくいという困難があったと思います。この舞台でも課題としては同質のもので、声だけ聞いていればうまくこなしているようなのですが、表情はやはりあの「なっち」でしかない。一応白く塗ってはいるのだけれど、無理に異形界にいるような精一杯感が見えてしまう。表情の深さについては、ハロプロを離れ、年齢を重ねることで解決していけばいいなあ、と。
そのことでいうと、デーモン閣下はどう見てもテレビに登場する時の閣下そのもののメイク(「素顔」)なのに、はっきりと劇中人物になってしまっているのはすごいことなのですね。


主人公メッキ・メッサーを演じる三上博史を見て、ヒース・レジャーの演じたジョーカーを連想する人は少なくないでしょう。ヒース版ジョーカーに似ているというのは、まず単純にメイクや輪郭に負うところが大きいのだけれども、社会規範とされるものから逸脱する者としての立ち方、あるいは「善人」たちの無関心(とそれに付随する偽善性)を指弾しようとする存在、という意味でもジョーカーを連想させる要素はあるのかな。あとは牢屋内でも飄々としている場面とか。
ただし、ジョーカーと違うのは根本的な安っぽさ(もちろん演出者の企図したものです)かもしれません。社会規範から外れた上で明らかに資金力豊富なジョーカーとは異なり、メッキ・メッサーは決して資金繰りのうまいストリートギャングではなさそうだし、恋人とベッドで歌うシーンなどでも安っぽい物悲しさは免れない。それでも、ちゃんとこの主人公が複数の女性に惚れられるに足る人物に見えるのは、三上の巧みさに尽きるでしょう。メッキのトリックスターっぷりを、格好いい逸脱者として演じ切れているので説得力があります。ジョーカーメイクにカラスの羽みたいなマント、総柄のスーツという異な格好でありつつも、それに呑まれるでも浮き上がるでもなく馴染み、その上で自身の存在感の強さを的確に伝えていました。


今回は人物に関して羅列するかたちで書いているわけですが、彼らそれぞれが宮本亜門のつくった異形界の中で自身のキャラクターを充分に提示できたか否か、がポイントになるのかなあ、と。米良やデーモン閣下が魅力的であったのは、用意された場と彼らの平素持ち合わせている異形性との相性が良い、ということが大きいでしょう。三上博史は異形に「なる」ことができる凄さというべきでしょうか。逆になっちはその平準的な可愛さ以外の表情を持ちえずに、面白みが生まれなかったということかもしれません。


ただし、ここでつくられた異形界は、胃にもたれない、具合の良い異形性、とでもいうべきか、ついていくのも疲れるほどの破壊力があるという類のものではありません。どこから手をつけていいかわからないほどの混沌を描くでもなく、またリアリスティックなものに寄りすぎるでもない、ほどほどの異形性が丁度良く、あまり観客を選ばないものになっているのではないかと。


現代日本とのリンクをダイレクトに示すシーンはあまりスマートではなかった気がします。登場人物のひとりが『BIG ISSUE』を売ってみたり、第二幕で安倍なつみが女子高生の制服姿だったりと、現代の我々をとりまく環境との相同性を「今」っぽい記号で提示してみせていましたが、正直、そこまでの直接的な説明はいらないかな、と。「今」っぽい状況とリンクさせているんだ、ということは、本筋の運び方で充分伝わるはずだし、あえてそのような記号をネタにしてしまった結果、なんかダサく見えてしまったかなあ。


あと、ラストのシーンはキャストが簡易的なハローキティの面をつけて踊っていたのだけれど、以前に宮本亜門がサンリオのショーを演出してましたよね。そっちは観たことないのだけれど、あれは演出家のセルフパロディってことでいいんですかね?

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