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~演劇とアイドルと何かと~

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だからといってエロくはないんだが

ひとつ前のエントリーの続きです

*KAT-TUN TOKYO DOME 2009 『不滅の10日間ライブ』 東京ドーム (2009.5.17&19)


ところでアイドルは異性に訴えかける存在である以上、「性」を歌うことは避けられません。本公演の中で際立ったセクシャルソングというと、前半に歌われた『SADISTIC LOVE』ですが、これはKAT-TUNの獲得した立ち位置を特徴的に表すものだと思います。

アイドルはセックスの「最中」を歌うことはほとんどありません。それを匂わせる抽象的な単語を用いることはある(KAT-TUNのほかの楽曲にも見られる)けれど、『SADISTIC~』にはそれらよりも具体的な描写でセックスの「最中」が描かれています。


「DOGGY STYLE髪掴み寄せる」(「DOGGY STYLE」とは後背位のこと)

「自分で弄らせる」

「手を付き立ちな腰を突き出しな」


と続く流れは、アイドル(じゃないものも含め)ソングで繰り返された抽象的な常套句とは多少性質の異なるものです。抽象化、理想化した「あなたと結ばれたい」的なアイドルソングは数あれど、「立ちバック」の最中の描写をトップアイドルが大観衆の前で歌うことはあまりないのではないかなあと(「食らわすまたもSPANKING」だしね。あっ、引用した歌詞、全部田中聖が作詞担当した箇所だ)。


あえてセックスの「最中」と書いたのですが、これは女性アイドルの性典ソングをみてみるとより際立つかと思います。
たとえば山口百恵。彼女の『青い果実』『ひと夏の経験』はアイドル性典ソングのクラシックですが、そこで歌われるのはセックスの「前」、山口百恵が歌うのは未来に起こるものとしてのセックスでした。
1980年代半ばのおニャン子クラブ『セーラー服を脱がさないで』『およしになってねTEACHER』は一人称女性のセックスに対する姿勢こそ、好奇心の先立つ積極的なものになっているけれど、基本的に女子がセックスに強い「興味」を抱いている姿(男にとって非常に都合のいい造形ではあるよねえ)を歌っているわけで、セックスしているわけではない。

SPEEDというのは割とセックスを匂わせる単語を用いることが多かったグループでした。そういう詞を歌うリードボーカルが低年齢化していることも1990年代的な変化といえばいえるのかもしれません。ただし、デビュー曲『BODY&SOUL』のパンチライン「甘い恋のかけひきは 言葉だけじゃ足りないから 痛い事とか恐がらないで もっと奥まで行こうよ 一緒に…」にしても、ある種のあけすけ感はあるにせよやはり進行中のセックスの話ではない。あと、SPEEDは他曲についてもそうですが、けっこうありがちな抽象的ワードに留まっている(「経験だけが増えていく」とかそういうの)。
「DOGGY STYLE」(体位)はおろか、おニャン子クラブの「友達より早く エッチをしたいけど」「デートに誘われて バージンじゃ つまらない」(セックスを直に意味する語)とかに比べてもはるかに穏当といえるのではないかと。まあ、おニャン子はそのアイデンティティが多少特異だったりはするのですが。

AKB48『制服が邪魔をする』とか、多少の話題になった大堀めしべ(AKB48大堀恵の別名義)『甘い股関節』とか、最近だと先月のライブでも披露していた道重さゆみ(モーニング娘。)『It’s You』とか、近年のそれ系を眺めてみると、女性が誘う姿勢を強めてはいてもやはりセックスに至る「前」の情景が歌われている。


こうなるとまた以前の話に関わってきてしまいますが、女性アイドルを性的な視線で注視しながらも、(他の誰かとの)直接的なセックスを物語ってほしくはない、という受け手の男性のニーズ(あるいはそのニーズを読み込んだ作り手の意図)が反映されたものではあるでしょう。セックスには強い興味を持て、ただし実際に(他の男と)セックスはするな、というアンビバレント、じゃなくて手前勝手な女性への視線がうかがえる。


というと、男性アイドル/女性アイドルとの差異の話のようではあるし、実際その二者が置かれている実際上の社会的制約という部分も大いにあるのですが。

ただ、他のジャニーズの曲、あるいはKAT-TUNの曲で性を想起させるもの(本公演でいえば『DON’T U EVER STOP』とか)であっても、多くの場合、抽象的で常套句的な曖昧表現に留まっています。つまり、普通はそうする、のです。性的なものも匂わせるけど、別にそういう意味ではない、かもよ、というエクスキューズの余地を残しておく。
山口百恵が「あなたに 女の子のいちばん 大切なものを あげるわ」(『ひと夏の経験』)という歌詞の「女の子のいちばんたいせつなもの」とはなにかと問われて、「まごころ」と答えていたというエピソードがありますが、あれと構造としては同じエクスキューズ。

しかし『SADISTIC LOVE』の「DOGGY STYLE髪掴み寄せる」からの流れはそういうありがちな曖昧語ではなく、具体性に踏み込んでいる。「DOGGY STYLE」に他にどういう意味を読み込めるというのか。しかもそれを性的なものとして読むとき、それは未知のものや遠くにあるものとしてのセックスではなく、まさに現在進行形で後背位真っ最中なわけです。


これは田中聖という飛び道具の存在ゆえに実現した稀有な曲ではありましょうし、またこの飛び道具が在籍していることで、「今時」っぽさを周到に体現したKAT-TUNというグループ全体のイメージにもある種の強度を生んでいます。彼らほど「スキャンダル」に関して揺るがないように見えるアイドルグループは他にありません。これはよく言われる「事務所の力」みたいなものとはまたちょっと異なる位相のものでしょう。AV女優との交際が幾度も報じられながらイメージが揺るがないというのは、上に書いた男子の「今時」っぽさの体現が周到なためですが、田中聖はこの体現にとってもっとも重要な鍵であろうと思います。AV女優という職種を反射的に嫌悪、軽蔑しがちであろう10代(だけじゃないか)女性がファンに多いことを考えるとき、この安定感は驚異的なものがあります。


しかしまあ、その曲がじゃあエロいかっていうと、そういうものでもないんですけどね。本公演でもっとも強い色気を見せつけたのは先のエントリーに書いた亀梨和也でしたが、彼がソロ曲で歌ったのが田中聖的歌詞だったらもっとエロくなったか、というと、むしろ逆なのじゃないでしょうか。やっぱり、はっきり見せちゃうとエロくない、ということってあるわけですね。隠されてる、エクスキューズができる、という欺瞞があった方が、却っていやらしさって喚起されるものなので。始めから服というものを着ていなければ、女の子の裸にも興奮しないわけですよ。
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ジャニーズ曼荼羅

*KAT-TUN TOKYO DOME 2009 『不滅の10日間ライブ』 東京ドーム (2009.5.17&19)


東京ドームで公演を打つということ。

ある面ではこれは、良好な音響を期待できないということでもあります。広すぎるし観客は多すぎるし(彼ら彼女らが沈黙しているわけはないし)。別にそのことをとりたてて意識してディレクションしたわけではないと思いますが、本公演はその会場特性にフィットした方策をとっています。一言でいえばスペクタクル性への特化、ということになりましょうか。

冒頭曲『RESCUE』でそのスペクタクル性は実に象徴的に表れます。ステージ背景の巨大壁面をセル状に区切って、200人のジャニーズJr.を各セルに配備。縦にも横にも広い東京ドームですから、高さも幅も相当な規模のセル群(とジャニーズJr.群)が現出しているわけです。この威圧感は大きい。このセットは「マンション」とも呼ばれているらしいのですが、性質的にはあるいは曼荼羅を想起させるものではないかと。大量の人型が平面を埋め尽くすということもそうですし、東寺の立体曼荼羅とか見にいくと、曼荼羅ってスペクタクル効果も絶対あるよなあとか感じるわけで。


ことほど左様に、この演出はKAT-TUN6人だけの姿や歌で場を成立させるものとは異なっています。広すぎるはずの会場を利用して巨大なバジェットと人海戦術で壮観を提示してみせる、KAT-TUNという名を掲げたエンターテインメントであるのでしょう。ここでは「KAT-TUN」というのは単なるグループ名ではなくて興行の名称である、という側面を持っているといえます。


とはいえ、じゃあKAT-TUNが果たすのはただの看板としての機能なのか、というとそういうことではもちろんないわけで。何よりKAT-TUNとは、日本でもっとも説得力のあるアイドルグループのひとつなのであって、生身の彼らをこそ見るために途方もない数の観客が全国から足を運ぶのですね。そのKAT-TUNがこのスペクタクルの主役であるということに(とても当然のことですが)最大の意味があるわけです。

だから偉いのは、KAT-TUNというアイドルの威光に寄りかかった構成・演出になっていないことなのです。彼らが生ライブをやります、というだけで、当座何万人というファンを動員することは可能でしょう。だけれど先に書いたように、KAT-TUNという名称の持つ意味を幾重にも増幅させるだけの演出力を有しているからこそ、「KAT-TUNのライブ」というものにも箔がつく。というかKAT-TUNというグループ自体の説得力を長きにわたってキープするために、これほどまでのインパクトはぜひとも必要なのでしょう。アイドルが長期にわたり覇権を維持することは、おそろしく困難なことなのですから。


さてその現代最強のアイドルグループの、個としての魅力を際立って体現していたのはやはりというか、ジャパネスクテーマでソロパートを演じた亀梨和也でした。
アイドルとジャパネスク的演出の相性がよいことは、たとえば堂本光一『Endless SHOCK』でも確認済みです。
ただし亀梨のパフォーマンスは、KinKi KidsやSMAPといった、ご家族全員で安心してご覧いただけます、的な良品印のついたグループには到底表現し得ない色気に溢れています。女形というか、「女性装の男性」を演じているような亀梨の振舞いは、あえていうなら弁天小僧菊之助に近いかと。唇に紅を引く際にあえて紅を頬の方へはみ出させた、その表情は、KAT-TUNというアイドルの「説得力」を充分に物語るものでした。
彼はこのパフォーマンス中、けっこう長い間宙乗りを披露し、空中にいながら所作や手続きをこなしているのですが、トータルとして印象に強く残るのはそのアクロバットではなく彼のとてつもない色気の方でした。歌舞伎の方で、ああいう弁天小僧を見ることは、きっとないのだろうなあ。

レベルの高い技巧を織り込みながら、それをスマートにこなして見せることができるのがKAT-TUNの格好良さだと思います。宙乗りによる身体の制約を感じさせないパフォーマンスは、演者育成機関としてのジャニーズの水準の高さもうかがわせます。


だからこそ、彼ら個々人の「一芸」を、「一芸」として過剰にフィーチャーする場面がしばしばあるのは、もったいないなあ、とも感じるわけです。
中丸雄一のボイスパーカッションは確かにこなれたものであるのですが、そのボイパの種類ひとつひとつに対して歓声が起こるタイミングをつくってしまうような見せ方をすると、「新春かくし芸大会」みたいな陳腐なイメージが広がってしまう。もちろんそうした芸当をKAT-TUNである彼らがやることにこそ意味があるわけですが、亀梨がパフォーマンスの中であくまで一要素として宙乗りをしてみせたように、楽曲の中で軽いアクセントとしてボイパを織り込むに留めた方がよかったのでは。ビート音、スクラッチ音といった個別要素に対していちいち歓声が生じるとき、ボイスパーカッションとはつまるところ、江戸家猫八の寄席芸と同種のものであるのだなあという感が強くなります。猫八の名人芸はすばらしいものだし、それ自体が良い悪いということではないのです、もちろん。
けれど、そうした芸を格好良くさりげなくパフォーマンスの中に忍ばせることができるグループなのだから、彼らの芸ひとつひとつにわざわざ反応することは、KAT-TUNというグループのクールな格好良さを殺してしまっているんじゃないかなあ、と思うわけです。上田竜也のピアノしかり、田中聖のバイクしかり。個別の技芸に注目しすぎることは、その技芸としての難易度のみで測られてしまう、ということにも繋がるわけですし。


逆に楽曲中や構成の流れの中にさらっと織り込んでしまえば、素の技芸としての難易度はさほど問題でなくなる。今回でいえば田口淳之助のタップ、ジャグリング、あるいは多用される宙乗りなどはある程度そういう方向性が出ていたのではないでしょうか。
繰り返しますがそのような芸当を、アイドルとして最高のパフォーマンス力を持つKAT-TUN自身がやることに最大の意味があるのです。このとき、その技芸自体のレベルの高さ低さのみが評価を受けやすい環境は作らない方がいい、と思います。というのも、たとえばヒューマンビートボクサーやサーカスを専門に興行している団体に比べれば、その技術に卓越した何かがあるわけではないのですから。

ショーの総体を通じて、KAT-TUNの魅力、KAT-TUNという塊が持つエネルギーをこそ堪能するのが生産的なわけで、スキル至上主義的なだけの評価はナンセンスなのです。とそう言い切れるような環境を整備するのが、もっとも彼らを活かす道なのではないかと。圧倒的なスペクタクルでKAT-TUNの魅力を幾重にも増幅して提示することのできる演出陣がいるのだから、別の手法はきっとあるはず。

でもまあ、そういう隙、というか完成しないところも大事なのかなあ、それこそやはりアイドルとしては。

修羅場さえもエンターテインメントなら

*マッスル『マッスルハウス8』 後楽園ホール (2009.5.4)


プロレスへのはっきりとした、時に身も蓋もない批評性を提示すればするほど、彼ら自身のプロレスに対するどうしようもない愛着が顕わになる。しかもエンターテインメントとしての作り込みが浅薄でないから、アウトサイダーまで巻き込める。そういう稀有なスタンスを維持しながら『マッスル』はここまで存在を大きくしてきました(もうちょっと噛み砕いた話は1月の『マッスルハウス7』の項参照)。

それなのに、というかそれゆえにというか、彼らは解消し得ない根源的な悩みを抱えています。ここまで斬新なコンセプトと知性をマット上に提示して支持を獲得してきたはいいが、ではこれから先『マッスル』は何をやっていけばいいのか。何を提示すればいいのか。

「彼ら」といいましたが、ブレーンはマッスル坂井。坂井が悩んで動けなくなれば、マッスルという塊は呼吸をやめてしまいます。今大会の終盤、正味の興行内容があらかた終わったところで、興行への参与の仕方がはっきりしない坂井に対し、総合演出家(という体裁の)鶴見亜門はフラストレーションを隠しません。


亜門: 「(坂井に向かって)どうしたいの?どういうことがやりたいの?『マッスル』で何がしたい?(そもそも『マッスル』を)やりたいのか?」


坂井: 「……やりたいこととか伝えたいこととか、何もない。空っぽです。わかんないんです」


締めのパートを亜門に丸投げしていたらしい坂井に対し、亜門は「もうやめるのか?お前がやめるならそれでいいよ。俺は小劇場で頑張っていくよ」(前も書きましたが亜門の正体は劇団『双数姉妹』の今林久弥)と、今後について問い詰める。坂井は要領を得る返答ができず、目に涙をためている。男色ディーノがこのとき述べたように、「『マッスル』とは坂井である」と、「坂井の周りに自分たちが集まって出来る世界が『マッスル』」なのだ、ということなのです。坂井が止まれば、『マッスル』は止まる。集団自体のこれからについて、ブレイクスルーのないまま修羅場が続きます。台本によって進行する通常の『マッスル』的世界から離れた、彼らの煮詰まった姿を観客は垣間見ることになりました。


しかしながら、そこに至るまでの興行はいつものように緻密であるし、発想力に何ら問題があるわけではないのです。

冒頭のVTRで経済不況を伝え、「スポンサー」の要を説く。パチンコメーカーをスポンサーに、とリング上にパチンコの機械の模型を設置、観客に銀色のカラーボールを投げ入れさせ、モニターにはそれに応じてプロレス技等にからめたリーチが登場するなど、スポンサーへの間違った媚び方で前半終了。登場するパチンコメーカーの名前が「スーパーメガネ」だったり、イメチェンして登場してくる『マッスル』主要メンバーがドラゴンゲート風だったりと、プロレス内部ネタ多めか。
後半は「スポンサーはお客さんである」という話に持ってゆき、「やろうと思っていたアングル」を明かした上で、その先の進行を観客による投票で決めさせる。それに従い選出された選手(趙雲子龍)がその後のアングルに参加してゆく。『クイズ$ミリオネア』や『イロモネア』を踏襲した展開、さらに『スラムドッグ$ミリオネア』を想起させるVTRを絡め、鈴木みのる対メカマミーの戦いを軸にクライマックスを迎える。


これが幾重にも準備を重ねた周到な出来であることは間違いないのです。しかし、客席に居ながら「これだけで終わるのか?」と少々疑問を覚えていたことも事実でした。鋭い知性と批評性を提示し続ける『マッスル』に対し、知らず知らず期待値が上がっているのです。「これだけで」といっても、充分に練られたものであるはずなのに。

この期待値の上昇は、観客だけの感覚ではないようです。その期待値を過剰に意識し、ハードルを上げてしまっているのは、誰よりマッスル坂井その人であるように思います。で、あるからこそ、もう脚本や構成が緻密、というだけでは飽き足りない。

かつてプロレスに対して根源的な批評をしてみせることで支持を得た『マッスル』は、そういう評価が定まった現在、どんな批評をしてみせてくれるのか。そういう周囲の目に対し、マッスル坂井自身の病理を自ら批評してみせたのが前回の『マッスルハウス7』でした。その手すらも使ってしまった上で今回、坂井は本当に着地点を見出せず悩みを悩みのまま会場に運んできたように思います。それが、はじめに記した亜門らのフラストレーションへと繋がってゆくわけです。


確かに、行き詰まっているのかもしれません。とはいえ、行き詰まりから抜け出せない『マッスル』主要メンバーの苛立ちをそのままリング上で見せ、詰問され涙を浮かべる坂井の姿をスクリーンにただ映す、というありようは、図らずも(図っているかもしれませんが)この日いちばんのエンターテインメントになっていました。

送り手の修羅場をエンターテインメントとして見る側に提示する、というのもまたプロレス的なものではありましょう。しかし『マッスル』にとってのそれは、単なる仕掛けとしてのエンターテインメントではなく、彼らの突き当たっているシリアスな問題性に密接に関わっています。自らの煮詰まり、余裕のなさをむき出しにしたある種捨て身の見世物は今回、一応成立しました。『マッスル』の煩悶は決して浅いものではなく、次の一手は容易なものではないはずですが、ラストで観客と入り乱れてカラーボールをぶつけ合った、やけくその明るさに光明を見たい、とは思うのです。

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