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~演劇とアイドルと何かと~

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もうアイドルなんかじゃないなんて言わないよ絶対

*ミドリ/メロン記念日「イインダヨ!グリーンダヨ!!」 新宿LOFT (2009.7.23)


そもそもライブハウスでのパフォーマンスで支持を集め、アイドル集団内にあって他に類を見ない稀有な地位を築いているメロン記念日にとって、ハロー!プロジェクトからの「卒業」という出来事は決定的な地殻変動をもたらすものではないでしょう。

定期的にワンマンライブを打ち、DJイベントを続けるスタンスに、ハロプロ在籍時との違いはありません。同時期「卒業」メンバーの多くがテレビバラエティで模索を続け、あるいは往時の裏話を拠りどころにせざるを得なくなっている状況と比すれば、大規模とは言えないながらもライブ、リリースを継続できる彼女たちの環境は決して悪いものではない。
テレビ組の卒業メンバーと異なり、時代の寵児になれなかったゆえに現行路線の継続が可能になっている、という皮肉もそこにはあるわけですが。


メロン記念日の適性を考えるとき、ロックバンドとのコラボ連作という今回の企画は、実に自然な、良い食い合わせを期待しうる展開に見えます。BEAT CRUSADERS、ニューロティカ、ミドリと続くコラボバンドのチョイスも悪くない。ロック路線と相性のいい「いつもの」メロン記念日を更に加速させる好企画。コラボ連作の報を受けての感触はそのようなものでした。


いささかの不安要素は、本企画の惹句「メロン記念日ロック化計画」。
楽曲の路線やライブパフォーマンスの秀逸さから「ロック」的な佇まいと評されることもあるメロン記念日ですが、そのスタンスが光るのは彼女たちがあくまで「アイドル」としてのフォーマットにのっているため。むやみに「脱アイドル」的なワードをちらつかせるのは得策ではありません。

たとえば、アイドルが自らをあえて「アーティスト」等と強調する、という振る舞いは、それ自体が悪い意味できわめて「アイドル」的なものになってしまいがちです(大抵の場合、そういう宣言は曲がり角に来たアイドルがするものですし)。「ロック化」と宣言することが必ずしも「脱アイドル」と同義とは考えませんが、それにしてもこのフレーズは少なからず胡散臭さを孕んでしまうし、無用の方向にハードルを上げることにもなる。ハロプロを卒業しても「アイドル」を脱する必要のないポジションにいるのだから、この安易な惹句はやはり支持しがたい。


ミドリとの対バンとなるこの日のイベントでは、まさに「ロック化」することの困難さがあらわれていたように思います。

メロン記念日自体は、不調だったわけでも何かを変えてしまったわけでもないのです。疾走感のある、「いつもの」彼女たちです。対バンゆえ尺は短いながら、定番曲+「ロック化計画」企画の3曲というセットリストで彼女たちの平均点は出していたかと。


しかし、新宿LOFTという場、対バン相手はミドリ。「ロック化」の旗を自ら掲げるにはいささか分の悪い環境でした。

ミドリが演奏を始め、ウッドベースが太く響き出すと、メロン記念日がいかにも「前座」であったような落差を覚えました。そもそもLOFTというハコでは、生バンドであるということだけでもメロンに比べてアドバンテージはあるのでしょうが、この落差は生演奏か否かという単純すぎる要素に還元できるものではもちろんありません。


LOFTのスケールからすれば、メロンのメンバー4人がダンス込みのパフォーマンスを行なうに充分なスペースは到底ない。となると彼女たちは必然的にヴォーカル、マイクパフォーマンスの強度で勝負することになるのですが、対バン相手に伍するだけの強さ、太さが見られませんでした。
この先も「ロック化」志向を続けるのであれば、おそらく以前ならばそれほど突きつけられてこなかったこの課題への対応は必須かもしれません。単に声量などでカバーできるものでない太さ、存在感。それを築かない限りは、この方向性は少々厳しい。アイドルシーンの中にのみ留まるのであれば、「場馴れしている」ことと「MCが上手い」ことがある程度まで同義でしたが、ここから先は場馴れだけではカバーできない。
ハロプロ系でもっとも他流試合に適応できそうな彼女たちがここに留まっては、「所詮アイドル」というステレオタイプな烙印が機能してしまうことになる。遠巻きに冷めた視線を投げかけていたミドリファンを一発殴るほどのインパクトを、時間がかかってもいいので是非、いつか。


後藤まりこ(ミドリ/Vo, Gt)という異常な個性に対峙しなければならない、というのもまた高いハードルではありました。コラボ企画過去二作のビークル、ニューロティカとの交流が和やかに見えるのは、彼らがいずれも「中年男性」バンドであることと無関係ではないはず。女性アイドルであることそれだけで、彼らには出せない類の華を提示することができます。

しかしミドリには、後藤まりこという異様な華が存在する。

後藤まりこがオーディエンスの中に飛び込み、シャウトする。小さな体躯をもみくちゃにされながら、それでもなお、彼女には誰も触れられないような気高さがあります。
「男を強く引き付けながらもその男にズボンのベルトは緩めさせない、いや、そんな気分になること自体が恥ずかしい、と。男がそう思ってしまうよーな」(杉作J太郎/ミドリ『ファースト』帯裏コメントより)彼女の暴力的で強烈な清純性を前にしては、「ロック化」を謳い文句にする女性アイドルは存在として脆弱に感じられてしまう。

処女か否か?などというチンケなアイドル幻想では決して到達できない、後藤まりこの根源的な清純性と孤高性に、小手先の「脱アイドル」的PRが対抗することは難しい。


他流試合をする、とはこういう対バン相手と張り合うこと。メロン記念日がなすべきは、「アイドル」を全うすることであろうと思います。これまでの彼女たちのサバイブはアイドルとしてのパフォーマンスを磨き続けた結果であるのだし、先にも書いたようにこの日のライブも決して悪いものではない。
対バン相手のファンとも幸福な関係を築くためには、フェイクに見えかねない「ロック化」よりも、「アイドル」としてのアイデンティティの提示に自信を持つことであろうかと。アイドルで在り続けながら他流試合で筋力強化をはかる、それが彼女たちの王道だし近道でもあるでしょう。

だとすれば、もはや形骸化しきっている自己紹介MC時の「セクシー担当」「ボーイッシュ担当」等々も、継続してみれば一周回って格好良く見えてくるのか?
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「小劇場系アイドル」とかで

*劇団三年物語シーズンⅡ 『ロボット~遙か彼方の未来の記憶~』 東京芸術劇場・小ホール1 (2009.7.10)


近未来、人工知能ないしロボットと「自我」の対峙、人類の危機といった本公演のコンセプトは、古典的なものといえるでしょう。同様のテーマ設定を持つクラシックは豊富に存在します。

映画『2001年宇宙の旅』あるいは『ブレードランナー』を想起する人は少なくないでしょうし、先行して『鉄腕アトム』ももちろんある。ロボットものの系譜を見ても、アニメーションを中心に(正確には「ロボット」じゃないものも含め)こうしたテーマを有するものはいくらもある。

それらが示していますが、機械が自我を持つということは、欲求する、権利を求めるということ。時に人の意思では制御不能となること。人間外の存在にそこまでの権利を許す気のない人々との相克も生じてきます。
あるいは何を人間と呼ぶか、機械と呼ぶかという問題。さらには思考している主体自身が、人間であるという確信自体まで不安定になる。自我を持った途端、機械は人間が都合よく乗りこなしうるレベルの存在ではなくなり、人間自身の存在の不確かさをも露わにしてゆきます。


本作『ロボット』には、そのようなアイデンティティへの問いは希薄であるように思います。地下都市の中枢コンピュータ「ミライ」も、戦闘用ロボットたちも確実に自我を持っているのですが、存在としての人間との違いに葛藤を覚えるようなものとしては描かれていない。
ロボット・操が人間に恋をする際に感じる困難も、サイズや役割の違いであって、存在や権利としての違いはキーではありません。


「小さな偉大なる人類」というフレーズを繰り返しながら、これら人工知能たちは人間を疑いなく尊敬します。ミライにせよロボットたちにせよ自我を有しつつも、人間を敬うべき存在として認識することは揺るがない。とくにミライは、「人間はウィルス、宇宙生物は免疫抗体に似ている」と話し、人類が地球を滅ぼし、他星に移ればまたその星を滅ぼすような存在であるという、突き放した相対的視点を見せながら、それでも人間を「偉大」であると言い続ける。
このとき、人間を偉大だと価値づけるに至った筋道が説明されないので、意思なく(それこそ「機械」的に)人間に盲従しているように見えてしまいます。ここの示し方によっては、苦い皮肉を込めることもできたと思うのですが。

そのため、自我を持つはずのロボットが人間のために戦い続けること、ミライがクライマックスで身を賭して人類を「救う」ことに、屈折も葛藤も生じない。だって始めからこれら人工知能は、一貫して人間のための存在だったわけですから。
ミライの最後の作戦は、我が身をなげうってそれ以外の大多数を救う、というパターンのエンディングに繋がるわけですが、これは「救われる」側とミライとの間に解消しきれない軋轢があってこそ強度を持ったのではないでしょうか。ミライは常に人間を慕う存在であるため、人間を救うために自身をなげうつ決断に関して迷いがないし、そのことが招く自身への影響について意に介していないように見える。ミライが地球にいる親しい人物を思い出し嗚咽するラストシーンも、それゆえ唐突な感は否めません(「悲しみ」という感情をその時初めて手に入れた、ということであれば、なぜそのタイミングなのか、が腑に落ちるための補助線は必要かと)。


ミライを制御する人間側は、時折ミライの暴走の可能性を危惧し、操縦者に対しても管理の徹底を求めます。確かにここに、自我を持った人工物と人間との葛藤を見てとることは可能です。それならば、ミライの献身のいじらしさを際立たせるために、人間のエゴをエゴのまま、見る側に突きつけた方がよかったかと思います。

人間パートは、「自分より大切な誰かのためなら力が発揮できる」「仲間がいる、ひとりじゃない」というシンプルすぎる着地点でまとめられています。人工知能があくまで人間に忠実なものとして描かれるのならば、せめて人間パートをアイロニカルに終わらせれば、後味の深みは大きく違ったのでは。


以前からのこの劇団の特徴として、「親密な、大切な人との関係って素敵。それって金とか打算とかより大事だよね」的なメッセージが織り込まれる、という点が挙げられます。それ自体、普遍的といえば普遍的なものだし、見せ方によってはきれいにまとまるはずなのですが、悪い意味でベタ、安っぽく見えがちなのは、奥行きのある提示がされないからなのでしょうか。ちょっとの後味の苦さがあれば大きく違って見えるのだけれど。

恋愛の描き方もストレートというか、片思いでどぎまぎしている描写が多く、一方で、たとえばそこに付随するはずの性欲の情けなさなどは表出されない(それは別に良い悪いではないけれど)。平板なメッセージ性含め、結果的に、父兄や小さい子供に見せても安心、なものに仕上がっています。小劇場において多くの場合それは、訴求力が弱くなることを意味するのではないかと。


それでもなお、この劇団に突破口はある、と考えます。以前からこの劇団の主宰は、女性キャストを可愛く見せることにおいては巧みです。キャラクターファン、役者ファンを獲得することは大いにありうるでしょう。客演俳優もまた、可愛く舞台映えさせられるかどうかで選んでいるのかもしれません(全然ありだと思う)。
それから、この劇団はアクションシーンを多用しますが、殺陣をつける人が慣れているのか、それなりにまとまったものに仕上がっています。この劇団がもっとも強く人に訴えることができるのはこれら、つまり「可愛い女の子が躍動する」という要素なのではないでしょうか(アイドルの基本的要素ですね)。

それなら、開き直ってそこをメインに据えればいいのでは。所属俳優には姉役、年上女性的な役割を担える人物も、少年役の似合うボーイッシュなタイプもいる。初めて起用する客演を可愛く見せることもできる。

劇団の方向性として、提起力の強いテーマを見せることは得手じゃなさそうですし、コメディで勝負できるタイプでもない。ところどころ早口で手数の多い台詞量も、役者がまずこなせていないし、こなせても情報が説明的であるため面白さに繋がる内容かは疑問(あと、その早口を観る側が咀嚼できるかどうかもまた別の問題)。

ならば90分くらいにまとめて、可愛いキャストの躍動を売りにしてしまえばよいのではないでしょうか。実は男性キャストで魅せることも苦手ではなさそうだし、いっそ「小劇場系アイドル」みたいなもので、距離感の近いアイドルになってみる、とか(それは初期のAKB48なのか)。


最後に一点、この劇団は観客動員数への執着がなんだか強いようです。
もちろんお金を取って公演を打っているわけで、動員数が経済力に直結するのだから、動員をどうでもいいと考える人はいないのでしょうが、この劇団の場合、作品のコンセプトや問題提起よりも「動員目標」の方が強く打ち出されているようにさえ感じられます。

「多くの人に観てもらう、楽しんでもらう」ことをエンタテインメントの価値だと信じている、と主宰は書いています。まっとうなのですが、それは動員数という「数」を追求することとはいくらか違う。今回の公演ではロビーに動員目標と現状のグラフが貼り出されていました。「現状をファンと共有する」ということみたいですが、だったらその内幕さえも煽って「エンタテインメント」に転化するくらいのひねりは欲しいところです。
配布された手紙でも、カーテンコールでの主宰の言葉でも、「クチコミ」をお願いします、というコメントが来場者に向けて強調されていました。それだけだと、ただの懇願です。数字が欲しいということを開き直って表明しているのだから、その表明さえも捨て身の芸にしてしまえば、外に届きうるものになるかもしれない。そういうサイドストーリーも作りこまない限り、先述の動員数グラフ公開は同情をひくためだけのものになってしまいます。

動員を伸ばす、ということは、この劇団を観たことのない人に足を運んでもらうということです。現状観に来てくれる身近な人に向けてのクチコミ懇願は、あくまで求心力であって遠心力としては弱いような。あとクチコミって基本的にはお願いするものではないように思うし。


動員を気にするならば、この劇団についてまったく知識のない他者に訴えてゆかねばならない。たとえば公演告知チラシが毎度地味なのは、やはり大きく損をしていると思います。数あるチラシの中で、最低限、目を留めてもらわなければならないわけで、穏当にまとめる必要はないのです。鹿殺しみたいなパフォーマンス方向に行けとまでは言いませんが(あれはお巡りさんに怒られやすい活動ではあるし)、チラシや公演の事前情報でインパクトを強くする余地は、まだ充分すぎるほどあるでしょう。

ジェイルハウス・シャイロック

*プロペラ『ヴェニスの商人』 東京芸術劇場・中ホール (2009.7.7)


後の時代の人たちがいくらでも好き勝手に解釈してくれる。「古典」になるというのは、つまりそういうことでもあるわけですね。


いわゆる伝統芸能などと違ってシェイクスピアの場合、継承すべしとされるのは基本的に戯曲のみです。後世の人たちが上演するにあたって、視覚表現やニュアンスの自由度は高い。だから現代風にアレンジされることもあれば、戯曲本体の想定年代に沿って道具が作りこまれることもある。あるいは意味の今様解釈もできる。いろんな人にそうやっていじられるほど、戯曲の骨格が却って浮かび上がってきたりする。

イギリスの劇団「プロペラ」によるこの『ヴェニス~』の場合、まずその骨格の強さを大事に取り出そうとしているのかもしれません。

といってもプロペラの舞台は、古典を古典として行儀よくうつす、というのとは大きく違うわけで。舞台上の人物たちは囚人服、セットが監獄という道具立ての中で、時折バイオレントになりながら(囚人間の閉塞した暴力沙汰のように)、男たちのみによって演じられる『ヴェニス~』。しかし単純な現代風アレンジの環境設定でもありません。公爵は公爵だし、ポーシャに求婚するのはあくまで○○の大公。

なのだけれど、そうした各人物らしき衣装が忠実にあてがわれてもいない。多くの男から求婚を受けるポーシャはハイヒールなど女性的なアイテムを身に着けてはいますが、頭は短く刈り込んだ男性の髪型そのまま。同時期に上演している『夏の夜の夢』でもそうでしたが、この劇団は女性役の男性が女性らしい髪型やメイクを作り込まないようです。首から上は男性俳優のまま、あくまで女として場面に存在しています。

ひとつの世界設定に安易に定位させない、これらの突き放した仕掛けによって、戯曲の骨組みが抽象されて強く前に出てきます。

囚人服、短い頭髪で視覚的には平準化した彼らは、しばしば苛立ちを直接的な暴力行為であらわし(シャイロックは他の人物に暴力を働く折、相手の目玉をくり抜く)、あるいは他者に対していともたやすく冷酷になる。もうこれはシャイロックという特定の個人が残忍なのでもなければ、ユダヤ人を嫌悪している特定の誰々が冷酷なのでもありません。
そもそも誰でもそうやって他者に対して冷淡でいられてしまう場面はあるわけで。囚人服により平準化したルックスによって、この戯曲が含んでいる人間の他者への冷淡さ、という骨格が取り出されて強調されているようです。

安易な現代的環境改変に収まらなかったこの手続きは巧みです。同時にシェイクスピアの原作の強さ、ということでもあるのでしょうが、もとの戯曲に強さや優良さを感じてしまうのは、いくらかはそれがすでに確固たるクラシックだから、でもあるわけです。そういう先入観を強く刷り込ませてしまうのがつまり、「古典」の持つブランドの力ではあるのですね。


シェイクスピアが16~17世紀に演っていた頃に俳優が皆男性だったことに関連して、プロペラのオール男性キャストとの相同性も指摘されているようですが、あまりこの形式的な類似点に重きはおかない方がよいのかなと。そのような説明をしておくことが適切な場合もありますが、プロペラの場合は平準化されたビジュアルを前提に、役柄の骨組みを抽象して巧みに表現してみせていることにこそ注目するべきではないかと思います。国内でいえば蜷川幸雄がオール男性キャストでシェイクスピアをやったりしますが、それらに登場する女性役が具象的な「女形」であるのと比較すると、プロペラのシンプル且つ強度を持った特性が見えます。


何世紀も前の作品であるゆえ、額面通り読み取ると今日の価値意識の前提にそぐわない箇所もあるわけですが、そこに再解釈がなされたり、「本当はこういう意図で書かれたんだ」という説が繰り返しあらわれるのもまた、「古典」。

『ヴェニス~』はそのまま受け取れば人種差別的とも捉えられるものです。プロペラはこの差別的表象もちょっと突き放している。劇冒頭、公爵役の俳優が中央に立ち、「クリスチャンは誰か。ユダヤは誰か(Which is the Christian? Which is the Jew?)」と問いかけ、彼の両サイドにクリスチャンのアントーニオ、ユダヤ人のシャイロックが立つ。ラストシーンも同様の配置で同じ台詞が告げられ幕となる。またこの台詞を告げる公爵役の俳優が黒人であることで、人種差別表現についての安直な結論を許さない仕掛けになっています。わかりやすい方向性を含んだメッセージよりも、回答の容易でない問いを共有するこうした姿勢の方がある種の説得力を持ったりするものです。


付記:この点、静岡芸術劇場で先月観てきたイヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出『じゃじゃ馬ならし』(6月27日)も結構よかったのではないかと。単純なジェンダー的葛藤を超えたところでの視点を提起できていたと思います。
加えて、基本バタバタしつつもシュールなトーンの笑い、常時ドラムがリズムを刻んでつくるテンポ、終盤の「祭りのあと」感等、空気作りは秀逸。プロペラに比べればはるかに小奇麗ゆえスタイリッシュにも見えがちですが、見過ごせないいびつさを孕んでいます。

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