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~演劇とアイドルと何かと~

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変化球とか投げないと

*ミュージカル『天翔ける風に』 東京芸術劇場 中ホール (2009.8.24)


本人が高邁だと思い込んでいる信念は、もちろんそんなに絶対的なものではないし、受け身的な言動をしているように見える人たちだって、その人たちなりのしたたかさを秘めている。本公演の原作となる野田秀樹『贋作・罪と罰』は、主人公たちの血気盛んさや「罪と罰」的な主題の背景に、そんな「単純じゃなさ」をも見せる芝居でした。

今作『天翔ける風に』は、『贋作~』の脚本をある程度忠実に踏襲しているため、セリフの多くが重複しています。もちろんミュージカルであるため楽曲パートが多く、セリフもしばしば歌われる、という大きな相違点はありますが、基本的に同様の設定で描かれているといえるでしょう。とはいえ、演出者の力点の置き方で、当然ながら何が見えるか、何が見えないかは大きく異なるわけで。


演出の謝珠栄が主眼に置くのは、主人公・三条英や登場する志士たちの熱情です。すでに上演を重ねられた作品(今回が再々演)でもあるゆえ、俳優たちの身体と歌によって、躍動する若い人間の群れはまとまりよく、大きな劇場にも堪えうるスケールと格を獲得しています。ミュージカルでも舞踊劇でもない野田版の『贋作~』では見ることのないこうした要素ですが、歌と振付のボリュームも丁度良く、成功しているといえるでしょう。


しかし、志士たちの熱情、信念を前面に押し出すことで、逆に失われてしまったように思うのは、冒頭に書いたような各登場人物が持つ性質の複雑さです。主人公・英は己の信念のために人を殺すという一線を越えてしまい、逡巡しながらも自分は正しいと思い続けなければならない。群像として表現される志士たちは、信念のために人を殺すという発想に対してもっと迷いがない。そういう「まっすぐ」な彼らに有効に疑問を投げかけるには、スタンスの違う人々が、彼らを根っこから煙に巻くぐらいの存在感を見せねばならない。その役割が才谷梅太郎(=坂本竜馬)であり、英の母や妹であるでしょう。

2005年のNODA・MAP公演時の『贋作~』では才谷を古田新太が演じていました。古田演じる才谷は隠密裏に計画を進めながらも、それが一方向的な熱情や硬質さとしてはあらわれず、時にふざけているだけのように見え、時に単純にエロや金のことに頭を奪われているように見えました。それら性格の各側面を自在に行き来し、飄々と構えている才谷は、なるほど最初から最後まで張り詰めっぱなしの英にとって、救いになりうる、と納得できる懐の深い存在でした。

翻って、今作の才谷(山崎銀之丞)。非常に上手いし安定感のある俳優であることは間違いありません。おそらく演出意図をしっかり体現しているのでしょう。しかし、『天翔ける~』版の才谷は、他のキャスト同様、常に気を張っているように見えて弛緩するところがありません。そうなると、志士たちや英との根本的なスタンスの違いが明確に見えないし、野田の脚本で笑いをとるために作られているくだりも、笑いとして成立しなくなってしまいます(それは演出家が自覚的に笑いじゃなくしているのかもしれませんが)。緊張しっぱなしのテンションでは笑いの「間」をつくることが困難なのです。


また、英の妹・智は置かれた状況に流されるように母の横に沿い、悪い噂の絶えない溜水石右衛門との結婚を承諾する、ある種受動的に見える人物といえるでしょう。もちろん、単に受動的とのみ描いては人物像も膨らまないわけで、たとえば2005年『贋作~』では、美波の演じる智は、受動的なスタンスをとりながら、その結果を打算的に見据えているような、受動性ゆえのしたたかささえ見せつけていました。

今作で演じる剱持たまきも存在感の弱い役者ではないし、受け身的な存在でいることに、当人なりのロジックも説明できています。ただ、やっぱり性格のあらわれ方がストレートに過ぎるようです。受動と能動、という点では姉の英と対照的な存在といえるのかもしれませんが、性格表出が直線的、という意味では、才谷同様、トーンは英と同一なのではないかと。


その結果、英や志士たちの熱情はとても太く表現できていますが、彼らに相対的視点を投げかけ、その思想の是非を問いかけるような立体的な機能には乏しくなっているのではないでしょうか。
そもそも、『贋作~』の脚本は説明不足なところもあるわけで(英が殺人に至るまでの段階で、英や志士の思想が充分に説明しきれているか、とかもそうだし)、脚本の余白部をいかに豊かに肉付けしてゆくのかがトーンを決定する大きな要素です。若者の直線的で血気盛んな熱情、を前に押し出そうとした今回の演出は結果として、志士たちの直情が全体を覆い過ぎていて、それに対する効果的な弛緩が足りていなかったように思います。


もうひとつ加えると、演出者がおそらく強調している「若い人々の強い情熱」というのは、このように直線的に描かれるほど単純な表出をされるものではありません。アイロニカルな態度をとりながらも食らいつく、というやり方もあれば、相対的な見据え方をすること自体がその人にとっての誠実さの表現である、ということもある。ストレートな熱情のあらわし方というのは年齢云々の問題でもないですし。
もちろん、演出者がこの舞台で強調したかったのは今回表出されたような、直線的で見た目にも感知しやすい類のパッションであることはわかるのですが、才谷を古田新太版のように弛緩したキャラクターに仕立てても、彼の熱や意志の強さが失われることにはなりません。人物群に深みを出すためには、基本的なテンションの高低をもっとつけてもよかったのではないか、という気はします。


ただ、俳優の基本レベルが高いことは間違いなく、彼らの巧みさによって野田秀樹の書くセリフの鋭利さを再確認する瞬間が多々あったのも事実です。歌パートと芝居パートのバランスも良い(龍馬が暗殺され倒れているところに、それを知る由もない英がポジティブに歌い上げる姿が重なるラストシーンは『贋作~』のラストよりもいいかもしれない)。全体的なレベルはさすがに高いのです。
硬質すぎるテンションゆえに、人物造型に複雑さが消えて過度に直球になってしまったこと、同様の硬質さによって野田のセリフの笑いを殺してしまっていたことがやはり残念でした。
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鹿のフェス

*劇団鹿殺し・回帰『赤とうがらし帝国』 下北沢駅前劇場 (2009.8.19)


演劇を観ないわけではないけれども、ミュージカルは苦手、という人は少なからずいるはずで、そうした人たちにとっての大きな違和感はたとえば、セリフ(会話)が唐突に「歌われる」ということなのではないかと。何がその違和をもたらすかというと、芝居と「歌われる」という表現スタイルとが、観る人にとって有機的にかみ合わない、つまり「芝居を歌って伝える意味がわからない。変だし。気恥ずかしいし」ということだと思います。

劇団鹿殺しのスタイルはミュージカルとは違うでしょうが、ともあれ、ロック調の楽曲と芝居とが密接につながり合って、そのどちらも格好良く見える彼らの方法論は、芝居×歌&ダンスの提供法として秀逸、かつ敷居の高くないものです。「会話が歌われる」ことに拒否反応のある人は、こういうあたりから入ってゆけばよいのかも。


この劇団の歌&ダンスパフォーマンスは、「巧げ」なスキルを見せつけるタイプのものではありません。けれども劇全体を通して運動量は多いし、華がある。この華とは、たとえば歌舞伎など有名人の存在で成立するスターシステム型の場合にいう華とは性質を異にします。小さな体躯の座長・菜月チョビ自身には異様な存在感があって、劇団にその存在は不可欠なのだけれども、それ以前に彼女たちにはまず、面白く見せる動作をつくるセンスがあるし、音楽と連動させて身体をどう使えばそれが具現できるのか、よく練っているのだと思います。つまり優秀な振り付け師たちでもある、と。

何より俯瞰した上で自分たちの売りをよくわかっているし、それを信じることができている。劇団の魅力を明確に理解しているから、ストーリー展開と歌&ダンスとを有機的に組み合わせることにも長けてゆくのでしょう。小劇場系で歌、ダンスを取り入れる劇団はしばしばありますが、何を見せたくてやっているのかがここまで明快だと強い。添えものではなく、歌を主にしても格好良く見せることができている。歌が主になる瞬間、歌にストーリーの膨らみを持たせるための従として演劇パートは存在します。


とはいえ、彼らが何より劇団であることは疑いようがない。小劇場空間において、歌って踊るだけを押し出して二時間持たせるのはきついはず。演劇としてある程度の強度を持つからこそ、歌に背負わせるストーリーにも説得力が出る。


己が「主役」になることを渇望し、想像上の「赤とうがらし帝国」に願懸けをする辛島タエの一代記的ストーリー。タエを導く周囲の人々は、彼女にその先のきっかけを与え、途上で事故死してゆく。いじめられっ子で友達のいない幼少のタエが「主役」になるべくサポートする、プロレスラーの父親。卓球に打ち込む高校時代のタエを見守るライバル・シュウジ。シュウジの兄で、タエが陶酔するバンドのヴォーカル・シンタ。彼らは死ぬとタエの骨の一部となって、主役を求めて生き永らえ続けるタエを支える。衝動と才能のままに彼らを振り回し続けたタエはシンタの面影を追いつつ、マスクマンバンド「東京ゴスニーランド」としてデビュー、武道館公演にまでこぎつける。バンドをスキャンダラスに売り出そうとするプロデューサー・ケイン浅沼にナイフで刺されながらも、武道館公演を遂行。

公演中に東京を大地震が襲い武道館倒壊、タエは意識不明のまま10年間眠り続ける。タエは眠り続け、その間に世界ではウィルスの伝染でタエの傍にいた人々も死に絶える。周囲を掻き回し、置き去りにしながらタエはどこまでも死なない。周囲に支えられながら誰も幸せにできない自分を嘆くタエは、それまでなおざりにしていた息子・アユムを思い出し、自分はアユムの「骨」にならなれる、と考える。

のですが、皆に苦労かけたぶん、最後に息子のために、なんていう小さいまとめ方をせず、最後までタエの業を見せつけて終わったことで、単純でない後味を残すことに成功しています。そこを直線的な感動で着地させてしまってはダサくなることに、たぶん作り手も気づいている。ラストに「今度は何で主役とろう」と言うタエの業は、どこまでも迷惑なはずなのに、嫌いにはなれないし心地いい。


ここではストーリーに関して興味を持続させるためにアクションや歌があって、その意味で歌&ダンスは非常に効果的な従でもありうる。というか、歌と芝居は、はっきりパート分けされながらも(だからミュージカル嫌いが敬遠するであろう、なし崩しに会話が歌われるような感じもない)、互いにもはや不可分になっているから、どちらも主になりうる。小劇場で芝居に歌を絡ませるなら、楽曲に関してもこれくらいの本気度がないとただの添えものになりかねないのです。楽曲に対してそこまでの配慮があるからこそ、オリジナルでなく既存の曲を使用する際にも、決して単なる「流用」には見えません。「必要」だから、既存曲を用いていると納得できる(『おゝ宝塚』の使い方とか良いなあ)。


上述した武道館倒壊にしてもそうだし、小学生時代のタエが学芸会で脇役をやらされるところで、父が乱入、主演の子供たちをなぎ倒してプロレスに持ってゆき、タエを無理やり主役にしてしまう場面にしても、舞台演劇でなければ説得の難しい類の展開でしょう。舞台でやったからといって必ずしも説得できるわけではないのですが、彼らの身体駆使によって、その展開がアリになってしまう。アクションを多用しても、総体として表現が雑になっていないのです。雑に見えがちなバタバタ感ではあるけれど、雑然をきちんと伝えるには細やかな神経が必要なはず。加えて、これも細やかさと通じるのですが、「笑い」をしっかりやれる劇団であることも強い。(あと、鹿殺しってプロレスのリテラシーある人たちだと思う)。


たとえばプロレスラーである父親の事故死のくだりがちょっと簡単に進んでしまった結果、時事ネタを追ったようにも見えてしまう点とかはあるのだけれど(今年はプロレスラーの死を考えるということについて、とりわけ重要な年であるだけに)、そうした部分も劇のつくり全体から考えるとき致命的な欠点とはならないでしょう。


歌やダンスを見せればエンターテインメントとして幅が広がる、くらいに考えている小劇場系の劇団たちに対する、率直なアンチテーゼにもなっている。当人たちはそんなこと考えていないかもしれないけれど。
関西のロックフェスにも参加していたらしいけれど、そういう空間には間違いなく似合うでしょうね。サマソニのミッドナイトとかに出てたら、絶対行くよ。

説明しすぎの怪談

*シス・カンパニー公演『怪談 牡丹燈籠』 シアターコクーン (2009.8.12)


怪談というのは、本質的には驚かすのではなく、怖がらせるものなのではないかと。もちろん、話芸、ストーリーテリング上の一手法として、不意をついてびっくりさせるような「驚かし」を否定するものではまったくないのですが、衝撃的なシーンを「衝撃的ですよ!」とばかりに煽って大仰にしてしまうと、却って「怖さ」を際立たせることには失敗してしまうことが少なくありません。

『牡丹燈籠』は、前半は心霊的な怖さ、後半は主に人間の業に怖さをみる話です。煽って大仰にしていけないのは、後半のストーリーも同様、むしろ人間の業の怖さこそ、静かに表現されて引き立つものでしょう。
いのうえひでのり演出の本作には、怖さを表現するのに必要な静かさがいくらか欠けていたように思います。象徴的なのは、一幕目の萩原新三郎(瑛太)がとり殺される場面、それから二幕目のお峰殺害の場面。いずれも人物の死に際して、その衝撃性を煽るようにエモーショナルな音楽が流されていました。
音響・照明で煽る、というのはいのうえが劇団☆新感線で見せる手札のひとつです。大げさなイメージ作りを行なうことの多い新感線の場合はともかくとして、舞台上での話の展開自体が既に「怖い話」である今回の場合、雰囲気をさらに肉付けして盛り上げようとする演出は過剰なものであったように思います。ともすれば現実感から乖離してしまうような特殊効果は、まったく「効果」的でない追加説明のようになってしまいます。登場人物同士の交渉や怖がっているさまだけで充分、不吉な気分は伝わっているのですから。


これら各幕のクライマックスに配置される人物の死が引き立たなかった原因としてはもう一点、その場面に至るまでの各シーンにも多少、演出の過剰があったということが挙げられます。
そもそもこの脚本には、幽霊と直接的な関係のない、フェイクの驚かしシーンがいくつかあります。幽霊を見てきたばかりの伴蔵が怯えながら家に帰り、あたりを見回して「あ、出た!」と言う場面(「蚊が出てきやがった」というセリフに繋がる)や、海音如来の尊像を仕舞うために羊羹の箱を開けると虫が湧いて出て驚く、という場面などがそれです。それらの演出なども多少大げさになってしまったために、ストーリーテリングがいくらか落ち着かない印象になっていました。シンプルにやりすぎると冗長な時間が生まれてしまう、という危惧もあるのですが、伴蔵役の段田安則、お国役の秋山菜津子ら、芝居の核となる役者が巧みであるだけに、彼らの技芸に委ねて音響・照明は抑えてよかったのでは。


今作で用いられた大西信行脚本の『牡丹燈籠』のうち、現在もっともアクセスしやすいのはおそらく歌舞伎版でしょう。同時期に東劇で映像(2007年10月歌舞伎座上演のもの)が上映されていましたが、そこではいのうえ版よりもずっとシンプルに怪談を紡いでいます。主要役者が巧みであるのは今作と同様ですが、歌舞伎の場合さらに有利なのは、そもそも役者のチャームを見せることが明確な目的のひとつである点です。いわゆるスターシステムはこの場合、確実にプラスに働く。
技芸も華もある片岡仁左衛門が伴蔵、坂東玉三郎を妻お峰に配したこの時の上演では、いのうえ版に比べれば演出もぐっと抑えられてはいるものの、二人のチャームを見せることが前提になっているから、ただの会話シーンも退屈にならない。華のある二人がやりとりしているだけで充分に場が持つ、というか役者の色を隠してしまいかねない大きな特殊効果はこの場合邪魔になる。役者自体のチャームはそれだけで興味の持続をもたらすし、怖がるシーン、じゃれあうシーンを表現するのにも役者のチャーミングさは相性がよい。華のタイプは違えど巧みな役者を起用したいのうえ版も、もう少し抑えた演出で、俳優の身体を目立たせたかたちで今一度観てみたいところ。


華という点についていえば、今回の注目俳優は瑛太であったでしょう。世間的な知名度なら今回のキャストの中で目下、随一。けれども、結果的に存在感を見せることなく出番を終えてしまいました。NODA・MAP『キル』(2007年版)の際の妻夫木聡も同様でしたが、映像作品(主にテレビという媒体)に乗った際の存在感と、舞台上の存在感とは大きく作りが異なります。その当たり前のことを確認する舞台でもありました。
イメージとしては若く人気もある彼らの方が大きな華を持っていそうなのですが、『キル』ならば勝村政信に、今回の『牡丹燈籠』ならば段田安則に、完全に食われてしまう。ただでさえ巧みな段田の前で瑛太は、「動けていない」感が強くありました。瑛太演じる新三郎が、死んでもお露と一緒になりたいのか、死ぬのは嫌なのか、その間で逡巡しているのか、それははっきりさせない描き方でもよいとは思います。けれど、同一人格としてスムースに演じられていないため、新三郎の本心がわからない、というのとは別次元の見づらさがあります。

逆に秋山菜津子のお国は最高に存在感を強くしています。秋山自身の巧さがもっとも大きいのですが、恋人の源次郎とともに初めて登場するシーンをセックスから始めたことで、お国を印象づけ、また彼女のしたたかさを表現するくだりにも効果的な接続をしている。お国が源次郎への思いを強く見せる後半、彼女の存在はいよいよ強度を増し魅力的な人物になってゆきます(それゆえにラストで伴蔵とお国が待ち合わせしているようなシーンは、それに至るメンタリティがちょっと説明不足な気はしましたが)。


伴蔵、お国に段田、秋山が配された、この時点で、話の骨格さえ追えば見ごたえのあるものにはなったと思います。それだけに、冒頭に書いたような過剰な特殊効果は、今回は余計でした。現実感とは乖離した、特殊効果と相性のいい大げさな世界観を作り上げてしまったら、それはもう怪談の成立しづらい環境になってしまうのではないでしょうか。

リア充になりたい

*歌舞伎座さよなら公演 八月納涼大歌舞伎 第三部『お国と五平』 歌舞伎座 (2009.8.11)


『お国と五平』が今日語られるときに、その現代性(普遍性?)が評価されるというのは正当なことでしょう。けれども、その場合に言及される「現代性」が、どうしても登場人物・池田友之丞の人間性(への批判)に集約されがちなのは、いささか窮屈なように思われます。
確かに友之丞は己の境遇も性格の弱ささえも全部「俺のせいじゃない」ことにしてしまうし、お国への、良く言えば一途、普通に言えば一方的な恋慕も常軌を逸している。

本作演出者の福田逸は1997年の上演時にはこの友之丞をストーカーになぞらえ、今回の上演に際しては2008年に起きた秋葉原通り魔事件の犯人の心象風景との相同性を見ています。そうした「現代性」へのすり合わせ自体はまったく的外れではないし、今日上演するのであればそうした想定は正確なものです。

とはいえ、「現代性」をその点に集中させてしまうと、現代社会における友之丞サイドの人間を外側から批判、糾弾する方向にばかり傾斜してしまう。それは彼らをますます息苦しくさせかねない思考なのではないかと。
さらに言えば、90年前に作者の谷崎潤一郎がこの戯曲に託したのはそんな単純な「現代人」批判ではないはず。というか、谷崎はむしろ友之丞にこそ最大のシンパシーを注いでいると思うのです。


お国の夫・伊織を殺害した友之丞は、その仇討ちを果たそうとするお国と対峙し、お国への積年の想いを訴える。そもそもお国と友之丞はかつて許嫁だったのだけれど、友之丞の人格、評判が悪く、先の見込みもないと見切ってお国は許嫁の縁を切り、伊織に嫁いでいた。剣術の腕もない友之丞は、不意を狙って伊織を闇討ちにした。

人間的評価が乏しいためお国に見限られ、許嫁を解消されていた友之丞は、

「いいよな、(死んだ)伊織は。人格も立派、剣の腕も立派、男らしいって誉められて。羨ましくてしょうがない。俺なんかそんなのひとつもないもん」

恨み言をつぶやく。応えてお国は「だったらあんたも男らしくすればいいじゃんよ。それに、夫のいる私にいつまでも惚れてるってどういうことだよ」と返す。友之丞はそれに対し、

「いやそれは、俺が生まれつきこういう屈折したダメな性格なんだからしょうがないでしょ。生まれつきなんてどうしようもないでしょ。たとえばあなたは生まれつき、きれいな顔してますよ。それと同じ。そもそもがそういう性格に生まれてきちゃったんだから、そんなの俺自身のせいじゃないじゃん」

ええ、最低の言い訳なんですけど、友之丞のメンタリティを世の中の皆が「最低だ」と切り捨てられるなら、「リア充」なんていう蔑み半分、羨み半分の単語が生まれたりしないわけで。確実に友之丞サイドの人間が言い出した単語ですよね、リア充って。
で、この戯曲、ここからはどちらかといえばリア充のお気楽さと欺瞞を糾弾する話だと思うんですけれども。いや、谷崎の時代にネットはないけれど、同質のルサンチマンが吐き出されていることは間違いない。

「そんなに自分の醜さを自覚してるなら、どうして人の恋路を羨むのか」っていうお国の友之丞への見下し方もすごいのだけれども、さらにお国は、

「それほどまでに自分を慕ってくれるのなら、それを私は憎いとは思いませんよ。だから覚悟して死んでくれ」

と言う。これはまあ、仇討ちという大義名分からすれば致し方ない論理展開なのかもしれないけれど、お国は正直なところ、殺された伊織を根っから引きずっているわけではなく、むしろ気持ちは、共に仇討ちの旅を続けている自分の家来・五平へと傾いている。お国を想うあまり、姿が見明かされぬよう密かにその旅を尾行していた友之丞は、お国と五平がすでに肉体関係にまでなっていることも知っている。仇討ちの大義名分なんてもう形骸化しつつあるわけです。友之丞がそれに言及するとお国は、

「お前を殺して仇討ちを果たさないと、国へ帰れない。はやく帰って、晴れて五平と夫婦になりたいんだよ」

本音が出ました。もうこうなると二人が仇討ちを済ませたい理由は、大義などではなくて、早く公認のカップルになりたいから。正当性と私欲がごっちゃになった二人に友之丞は斬り殺されます。

手負いの友之丞は、「でもな、お国は俺と寝たこともあるんだぞ」と、あまりに小さい最後っ屁をかまし、対して五平は「恋の敵!」と言い放って友之丞にとどめを刺す。最終的には完全に色恋の私怨になっています。「恋の敵」っていう動機で殺しちゃったら、あなたも友之丞を責められないでしょうに。


生まれつきの性質ゆえに世間に認められ、立派な侍として誉めそやされる伊織に対し、友之丞は生まれつきの良くない自分に対して世間は同情もせずに疎む、と嘆く。お国が自分を見捨て伊織に乗り換えたときも、皆よくやったと言うばかりで見捨てられた我を哀れむ者もなかった、と。そういう世間が恨めしく、それに楯突くつもりで伊織を殺したのだ。友之丞はそう訴えました。

明らかに身勝手ですし、伊織が殺されるに足る理由などそこにはなにもない。秋葉原の事件になぞらえられやすいのはこのあたりの心情吐露でしょう。けれど、この話を彼の「身勝手さ」に収斂させる解釈は、やはり鬱屈した人間への理解を放棄することになるかと(「共感」などする必要はないけれど、それと相手を理解することの重要性とはまた別)。

つまり友之丞の吐露は、ルサンチマンを溜めた人間にとって世界がどのように見えがちであるか、ということの顕示でもあるわけです。

あいつだったら何でも受け入れてもらえるし認めてもらえる。自分みたいな存在は受け入れてもらえない。実際にお国と「不義密通」をはたらいたのは五平の方なのに。めぐり合わせさえ違えば、自分が五平を糾弾できるのに。不義をした五平は誉めそやされ晴れてお国と夫婦になる。自分は伊織を殺したゆえに追われる身となったが、五平は自分(友之丞)を殺すことがお国と結ばれる足がかりになるし、あまつさえ立身のための道具にもなる。

発端からいえば友之丞が悪いことに違いはないけれども、私欲と大義を混同している、そしてその混同を「仇討ち」という正当性で丸め込もうとするお国と五平の欺瞞も、友之丞の鬱屈から照射される。友之丞は(基本的には彼自身に非は大いにあるのだけれど)貧乏クジを引き続け、一方でお国たちの欺瞞さえも世間は美談にしてしまうのであろう、その理不尽さに更にルサンチマンを溜め込む。友之丞という人格を通してこそ、リア充の無自覚な、それゆえに厄介な残酷性を突きつけることができるのです(未見ですが、鈴木忠志演出版は、その残酷性が拡大提示されているのかな)。

斯様に提起するものは強いし、話の展開も良いのだけれども、基本的に地味で尺も半端なこの戯曲は、たとえば現代演劇としてどこかの劇場に出すには、引きが弱いものではあります。こういう作品を自然に興行に配置することができるというのは歌舞伎の強みでしょう。それにまた、歌舞伎座の観客にこうした精神的アンダーグラウンドの主張を見せつけることができる、というのも爽快ではあるし。性質上、上演頻度が多くならないのは仕方ないけれども、古典とは多少違う意味で、こういう演目は忘れられないようにしないと。

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