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夏フェス感が大事

*『コースト・オブ・ユートピア――ユートピアの岸へ』 シアターコクーン (2009.9.19)


妻ナタリー(水野美紀)は浮気をしてしまうわけです。それも夫アレクサンドル・ゲルツェン(阿部寛)の友人と。知ってしまった夫は怒り喚きたてます。妻は夫に言います「愛の純潔なのだ」と。「愛に満ちた自分を受け入れてくれ」と。
何言ってんのお前?という至極まっとうな怒りで夫ゲルツェンは引き続き妻を責め立てる。妻の言い分「私はあなた(夫ね)を愛している。あなたは私の拠りどころです」「彼(浮気相手)は赤ん坊みたいなものなの。繊細なの。彼が繊細に愛を求める気持ちは大人のあなたにはわからないの」

絶望的です。何が絶望的なのかというと、妻の言い分は浮気がばれたために取り繕った「言い訳」などではないのです。自分の思想は完全に正しいと信じていて、それを夫の考える浮気という尺度でのみ測られても困ると考えている。だから、お互いに説得のしようのないすれ違いが生じている。その意味で、絶望的なのです。
妻ナタリーのこの言動は「ロマン主義に影響されて」ということらしいですが、斯様に主義とか思想というものは自身の感覚を疑うことを忘れさせてしまったりする。それゆえナタリーは「彼(浮気相手)はあなたのことを崇拝しているのよ」と、だから受け入れてあげてよ、と夫ゲルツェンの立場からすれば無神経極まりないことが言えてしまう。とはいえ夫もまた妻を見限ることはできない。一方、ナタリーの浮気相手ゲオルグにも妻がいて、その妻はナタリーとの状況を知りながらゲオルグに尽くそうとする。ゲオルグとその妻が、お互いにどれだけ分かり合えているのかもよくわからない。

立場を異にする人々の絶対的なわかりあえなさはもう、如何ともし難くて。けれど、互いの主張の筋道などわかり合わないまま、人は一緒に居続けるしかなかったりするわけで。


3部構成、トータルで9時間かけたこの芝居で描かれるのは、それぞれの登場人物の理念とか思想とかによって派生する人々の衝突、とそれを踏まえて、背負ったうえでどう乗り越えるのか、ということです。19世紀ロシアのインテリゲンツィアが時代と格闘する話なので、冒頭の例はこの芝居のモチーフを典型的に示すものではないのですが、思想、立場の衝突と煩悶という大きなテーマをもっともむきだしのかたちで伝えたのは、上記したゲルツェン夫妻のエピソードであったと思います。


なにせ9時間あるしロシアの社会制度の変化や政治活動が活発な時代を扱っているゆえ、はじめは丁寧な説明を試みていろいろ書いてみたんですが、ただの概説みたいにしかならなかったのでやめます。全体の見取り図的な記述は端折ります。

ストーリーの大きな軸となる社会の変化、第二部における共和制政府の実現や、第三部の農奴解放(それぞれ主人公ゲルツェンを失望させるものではあります)そのものの視覚的な描写は大きく時間が割かれているわけではなく、社会制度の変化、政治論議は登場人物の頭の中の見せ合いによる表現が基本になります。結果として相当量が観念的なモノローグ、ダイアローグになってしまうことは致し方ない。
共和政府の圧迫的政策、あるいは農奴解放をしたはいいものの、整備不徹底のために結局、土地を私有できるわけでもなく使用料を搾取され農奴が「解放」されてなどいない現状等々、現実の社会制度の重さは、ゲルツェンとバクーニン(勝村政信)を主とした対話が浮き彫りにしてゆくスタイル。それはそれである程度成功しているように思いますが、インパクトの強さ(と、そこで突きつけられるどうしようもなさ)でいえば、ゲルツェン夫妻にはやはり敵わなかったかもしれません。


ここまででも予想されることですが、登場人物たちは男も女もおしなべて、政治を語るにも恋愛を語るにも、難しい単語を弄したり書物を参照したりせずにはいられない、あえてこういう言い方をしますが頭でっかちな人々です。それが、たとえば第一部一幕で若い男女のやりとりにおいては、すべて半端にペダンティックなフィルターを通さないと自己表現できない森見登美彦の小説のキャラクターみたいなチャーミングさにもなったりもしています。そういう見方をしていいと思います。この場合、彼らの話している内容にいちいちコミットする必要はなくて、その(今日から見れば)不器用なチャーミングさを微笑ましく見ればよいのではないかと。


開演前に既に舞台上に出演者は現れており、口の字型に組まれた長机について各自稽古着姿で新聞を読んだり雑談をしたりしていました。開演を知らせる合図と共に衣装をあてがわれて19世紀のロシアが始まるわけです。まあ、あざとさも感じる演出ではあるんですが、これだけ大人数の、しかもスター揃いのキャストで行なわれれば壮観であることも否めないわけで(サトエリって恐ろしくスタイルいいのな)。うん、楽しめます、これは。

その楽屋的状態から開演して19世紀ロシアに移る間に、場内に政治家のスピーチやら銃の連射音やらが鳴り響いて、政治の時代への幕開けを告げます。が、ここで流される音声のチョイスがいささか安易かな、とも。鳩山由紀夫とかバラク・オバマ(Yes, we canて言ってる箇所)とか。とりわけ後者はいろいろな意味の熱狂が混じる素材であるだけに、きわめて表層的な「政治っぽい」イメージをスクラップしたようにも見えてしまうわけで。同じ表層的なら、意味わからなくてもロシア語の演説とかでもよかったんじゃないかなあ。
(これは観劇前日に松本人志監督作『しんぼる』を観に行ってたのに若干引きずられているかも。そちらでもオバマの演説が使用されていたのだけれど、…あの歴史に対する薄っぺらい意識とか。テーマが壮大だと踏んでるんだろうけれど凡庸だったりとか。あと海外向けとか半端に考えないで、日本人向けのコントを丁寧に作ればいいのにね。日本的文脈の中でこそ天才性が発揮される人なんだから。)


話戻します。ともかく、勝村政信はじめ達者な俳優がそろっているし、何より12時に開演して22時半に帰路に着く、っていうバカなスケジュールで観劇できるのだから、このちょっとした夏フェス感こそ、この企画の最大の魅力ではありますね。9時間も見せること自体がまず価値なのですから、その心意気は買わねばね。
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