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声の快楽

*維新派『ろじ式~とおくから、呼び声が、きこえる~』 にしすがも創造舎 (2009.10.30)


もともと維新派の何が圧倒的かといえば、パートを割りふって並行させた舞踏と声の構成力であろうかと思います。それが物語パートと効果的に噛み合えばそれがいちばん幸福なのだろうけれど、昨年のびわ湖公演(『呼吸機械』)ではストーリーテリングがあまりうまくなかった印象があって、その腑に落ちなさとかが劇団全体のパフォーマンスのインパクトをいくぶん曇らせてもしまいかねないなあ、とも。


で、今回。幹になるストーリーは、ない。構成からいえば、舞踏&声がメインをなすシーンが10個、オムニバスになっているような感覚でしょうか。それぞれは物語として繋がっているわけではないのだけれど、すべてに通底するテーマはたぶんフィジカル、あるいは地球上の生の営みとかそういうもの。

それを象徴的に提示するのはステージ上のセット。立方体型の標本箱が舞台を囲むように大量に配置されている(あのキューブの数は600個だとか)。それぞれに動物や魚類の骨格標本が入れられていて、開演前の暗いステージに元動物であった骸骨たちが浮かび上がる。蛙などの小さな生物からカジキやゴリラと思われる大型のものまで。何も始まっていない舞台上のそれらに繰り返し目を走らせているだけで飽くことがない。今回の公演はまず、このステージセットの段階で勝ち、であったかもしれません。


ステージ全体を貫くストーリーを排して、まとまった会話的セリフも前半の電話の件りを除けばほとんどなし。モチーフを替えてオムニバスで展開される各シーンでは、維新派の真骨頂、群舞(広い意味でのね)と多重な声のたたみ掛け。類人猿を思わせる序盤の舞踏から、家庭での食事や工場作業をモチーフにした人間の営み、さらに地球規模の生までを一貫してフィジカルに突きつける。そういう身体の提示に強度を持たせるうえで、今回のように統一的な物語を持たないことは効果的であったように思います。毎作ストーリーなしでやったりするのはもちろん違うのだけれど、たまにこうやって維新派の骨組みだけを前面に出してみせるのは面白いのでは。


骨組みだけを見せられて改めて認識するのは、維新派の強さというのは群舞である以上に多声の、声の快楽であるのだなということ。リズムと音の響きをこそ聞かせる多重な台詞が、身体の動きと複合してたたみ掛ける。

「見ててん」「見てたん」
「捨ててん」「捨てたん」
「とれてん」「とれたん」
「掬くてん」「掬くたん」
「もろてん」「もろたん」
「もろてもてん」「もろてもたん」

金魚掬いでもらってきたと思しき金魚を見せつつのこうした掛け合いが生む音楽的心地よさ。ラップで想定するそれとは異なるけれど、このセリフもまたライムなのだと思います。ライムとはそもそも、こういう音的な快楽に身を委ねればよいもの。というか、まずその快楽自体の価値を前提にすることを忘れてしまうから、安易な日本語ラップ批判みたいなものがいつまで経っても繰り返されるのだ。「オヤジギャグだ」という指摘が批判として的確だと思ってみたり、ジョイマンを見て喜ぶことで揶揄した気分になってみたり。『アジアの純真』とかに対してそういう嘲笑はしないでしょうに。まあ、ラップの方はより具体的な文章の流れで多種の言葉同士の韻を強調しなきゃいけないからツッコミたくなる空気は生まれがちだし、そもそも維新派の言葉の方が言葉を「音」として響かせる完成度・精緻度は高かったりするのだけれども。

話が横滑りしましたが。

そうはいっても、維新派のそれらは決して無機質な音、というわけではありません。関西弁を基調にしたセリフは生活感をほのかに見せるし、M3「可笑シテタマラン」で食材調理を体躯の破壊になぞらえて表現した「ニンジン・首切り」「ピーマン・腹割き」のような言葉は、リズムとテンポを前に出しつつも底の暗い生々しさを後味に残す。リズムが重視され、文章的なセリフが排されながら、到底無機質ではない生っぽさの提示に成功しています。
維新派の言葉にあっては、説明的なリリックとはまったく方法論の違うライム表現が達成されているのです。公演の種類としては、レギュラー的にするべきタイプものではなく時々こういうシリーズをやるのが効果的でしょうが、維新派の骨組みの強さをわかりやすく縁取って皆に提供する意味でとても良い公演であったかと。

維新派特有の屋台村の濃密さは今回も良し。まあ、23区内だし車通りの多い車道沿いの敷地なので、都市から離れた場で演る場合とは現出するものが大きく違いますが、東京公演ということを考えれば悪いスペースではないかな。
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明智小五郎、森田健作化のお知らせ

*『京乱噂鉤爪―人間豹の最期―』 国立劇場 (2009.10.22)


もともと昨年の『江戸宵闇妖鉤爪』で原作のストーリーは終えてしまっているので、その続編となる今作はある程度までもう「乱歩」歌舞伎ではないし、原作ストーリー上の制約からは逃れられる一方、「原作がこうだから」というエクスキューズもしにくくなる。言い換えれば、現場キャスト・スタッフのストーリーテリングで勝負する機会である、ともいえるわけです。

江戸川乱歩の原作において人間豹・恩田の生い立ちや詳細などは明かされず、明智小五郎との決着もないまま物語は幕を閉じています。昨年の歌舞伎版第一作では恩田の出自にオリジナルの設定を足すことで、人間豹の鬱屈や行動原理を説明しようとしていました。そのスタート地点は悪くなかったはずなのに成果が芳しくなかったのは、人間豹が理屈を言ってる割に行動が伴ってなかったり、明智の人物造型が薄っぺらかったり、ということが原因であったかと(詳しくは昨年のエントリーを)。
乱歩の原作から離れることになる今作は、京都に犯行の舞台をうつす人間豹に、彼を操ろうとする陰陽師、人間豹を追って京都へ向かう明智、明智が若い頃師事していた人形師一家を巡る話に、陰陽師に騙される公家の恋物語…。それ、「人間豹の最期」ってテーマの話にまとめきれるのか?というほどにオリジナルの要素を足しています。


まとめきれませんでした。

面白そうなとっかかりになる設定をいくつもチラ見せしてはいるのですが、それが効果的に後々まで繋がったりはしないので、ことごとく未消化になっています。
世に動乱を起こしそれに乗じて国を我が物にせんとする陰陽師・鏑木(中村梅玉)に人間豹・恩田乱学(市川染五郎)が操られているらしく、明智小五郎(松本幸四郎)も恩田に向かって「お前は鏑木に操られているのだ」と叫んだりしてその設定を説明するのですが、肝心の「恩田が操られている」ように見える描写がないのです。操られていると指摘された恩田はそれを否定し、自身が繰り返す殺人については自分の意思で「殺したいから殺すのだ」と反駁する。見る限りその恩田の言い分の通りであるようにしか感じられないため、「操られている」という明智の指摘はさしたる根拠もないことを力説しているようにしか見えません。
命を狙われる公家・実次(中村翫雀)も「お前(恩田)も鏑木の一味だな」と叫び、終盤には鏑木自身も、俺が恩田を操ってやるんだ、と言い恩田もそれに応じて再び反論します。それら一連の説明台詞に対応する場面がないため最後まで鏑木と恩田の関係は腑に落ちないままでした。言葉でのみ説明して演劇描写が伴わない、というのは昨年も同様だったため、このカンパニー自体の課題かもしれません。


今作オリジナルの人物パートを膨らませた結果、人間豹の存在を描写する隙間がなくなってしまった、ということもあるのでしょう。オリジナルのキャラクターで随一の存在感を示すのは陰陽師・鏑木です。彼の人物造型も初期設定の段階では面白い。
ピュグマリオン、と言ってしまうのは乱暴でしょうが、簡単にいえば生身の女より人形の方が好き、な男です。江戸川乱歩作品でいうなら『人でなしの恋』です。だから名工の細工した人形を偏愛し、自分が世の天下をとった暁には人形に魂を吹き込んで后にしようと目論む。悪役の設定としてはなかなかに引きがあります。

しかし、やはり偏愛している描写に乏しいのが惜しいところ。あまつさえ、人形に悋気する部下の綾乃とは直接的にセクシャルなシーンがあるのです。しかし綾乃がその行為をもって「人形に勝った」と呟くと鏑木は激怒し、この人形に勝る女などいない、と言い張ります。それなら人形の方とはもっと濃密に体を交わさないと。この設定で、生身の女性とのシーンがいちばんエロくちゃいかんよなあ。この後、結局彼の偏愛っぷりは見ることができないため、最後にその人形が絡んで鏑木が死を遂げるところがそれほど生きてこない。設定はよかったんですがね。


あとはやはり、昨年同様明智小五郎の「正義」が薄っぺらいことが全体に大きく影を落としていますね。前作でも建前的正義を人間豹からバカにされると、「それでも自分は人間の心を信じる」等言い返してさらに建前的な言葉の上塗りをしていましたが、今年も人間豹に「お前にはまだ穢れのない魂が残っているはず」という、思考停止のような説得を試みています。
一方の人間豹ですが、今回は一作目に語っていた能書きを繰り返すこともなく、「殺したいから殺す」という原理のみを口にするため(去年の人物造型を引き継いで描写するほどの尺の余裕がなかったんだと思います)、明智の独りよがりで、気持ちこめて伝えれば何とかなるっしょ!的な浅薄な正義を批評する存在としては効果的になっています。それならばとことん建前的正義に対する皮肉としてこの作品を成立させても面白かったはず。実際途中まではそう受け取ることも不可能ではないんですが、人間豹が華々しく死んだのち、明智に「お前は人間豹のまま死んだのか、それとも人として…」とエモーショナルな調子で言わせているラストシーンからするに、たぶん明智の浅薄さを意図した話ではないでしょう。この明智小五郎は、俳優が損する役回りのように思われるのですが。


ただ人間豹の最期はとても良い、と思います。自分の望む「大空」が現世にないと悟って恩田は、如意ヶ岳(京都の大文字送り火の山です)の火床に火を放ち自殺を遂げる。自らの体を燃やして時期外れの送り火と化すその最期は、『パノラマ島綺譚』のようでもあって乱歩的世界としても優秀。このシーンを終盤に用意できたことで、劇の感触はぐっと良くなります(だからこそその直後の明智の能書きが余計に……)。


あと人間豹自身も死に際して、「この国がどう変わろうと、俺みたいな不幸な奴は、百年、千年先もいなくならない」と、思い出したように前作の屈折を叫んでましたね。今日に繋げたいのであろう前作の社会批評を引っぱるなら、劇の中盤でもそれは描いておかないと。いや、描く意志はあったのかもしれませんが、入れ込めなかったのか。新たなエピソードを盛り過ぎて、前作以来のメインストーリーが薄まっていたように思います。人間豹、影薄かったからなあ。

うしろめたい

*大人計画『サッちゃんの明日』 シアタートラム (2009.10.9)


身体障害者を特別扱いせず、隠す(登場させない)でもなく、日常に在るものとして舞台に描き出す、というのは、大人計画の特徴が語られる際、はずせないもののひとつになっています。「日常にいるものとしての身体障害者」という事柄については、ある程度まで松尾スズキ自身がインタビュー等に応じて語っていることでもあるので、他者によるそういう言及は往々にして当人による発言のトレースであったりするのですが。

あやういのは、この松尾スズキの身体障害者への視線が、一歩間違うと、「これこそ平等」みたいに捉えられてしまうこと。平等でもなんでもないのが日常なわけで、世間なわけで、それを丸出しにして見せつけているのが大人計画なのですが。


今回の公演ではそういう、大人計画に対して過度に「平等」を見ようとする人々の欺瞞性について、自らのパブリックイメージを利用しながら批評しています。

劇中、脳性小児マヒを持ちながらサラリーマンとして社会に順応している沼田(小松和重)が、思いを寄せるサチコ(鈴木蘭々)に観劇を誘う(どうやら大人計画1998年の『ヘブンズサイン』のチラシを手にしている)。チケットを取ったんだ、この劇団はね、障害者を特別扱いしないで描いて云々…、と。
びっこひきであるサチコにも共感してもらえるであろうと説明を続ける沼田に、サチコは「そんなの二重の偽善みたい」じゃないか、と言い放つ。このセリフは劇団自らへの批評でもあり、大人計画に過剰に「平等」性を見ようとする人々への批評でもあります。このセルフパロディが内輪的なものに終始せず、毒のある諧謔として成立するのは彼らの築いてきたポジションの賜物、それに作者の自らに対する適度な距離感のなせるわざでしょう。


そもそも非常に水準の高いコメディをつくる劇団ゆえ、中村勘三郎ファン的な「笑い待ち」の観客も一定数はいるわけで、キャストが何をやっても(笑いを意図しない言動をしても)笑いたがる人々が生まれてくるのは致し方ないところ(そこには言いたいこともあるけどもさ)。ともあれ今回も、動きも発話もエキセントリックにならざるを得ない沼田の言動で観客は大いにウケるわけですが、そこでは「身体障害の不自由さゆえに妙な行動や発話をしている人を皆が笑う」という、意地の悪い構図が生じてもいるわけです。小松和重による沼田のオーバーな挙止動作はややクドい感もあって、ストーリーを滑らかに追うためには雑音でもあるのですが、彼がそのクドさで笑いを取り続けるほどにその空間が意地悪さを増してもいくのです。


蕎麦屋を切り盛りするサチコの日常性と、薄皮一枚下にある後ろめたさ、それにシャブが破壊していく平穏。サチコに噛み付いてびっこにさせた犬の飼い主から多額の慰謝料を受け、それを食い潰しながら生きる父・三千男(松尾)、夫・三千男の父親と不倫関係になり駆け落ちしていた出戻りのれい子(加納ジュンコ)それぞれの抱える後ろめたさ、そしてサチコ自身も有料エロサイトを見ているうちに慰謝料を使い込み、自分がちゃんと生きれば自分の葬式で皆は「正しく泣いてくれる」のかと、爆発できない鬱屈を溜めている。

痴漢で服役した過去を持つヅケヤマ(皆川猿時)が、その履歴ゆえに敏感な観察眼で時折サチコに向ける指摘は、彼女のささやかな八方美人性を暴露します。また、三千男が娘・サチコに向かって「(いい加減びっこの真似やめて)普通に歩いてもいいんだぞ。父さん、体裁悪いことないぞ」と呟くシーンには、他所の金を食い潰して生きることへの慢性的なバツの悪さが滲み出ている。これらが描くのは、触れなければそれなりに忘れていられるような、日常の中に織り込まれている後ろめたさ。表に晒してみたとき、それらの積み重ねは人を鬱々とさせるに充分なものであるのでしょう。

身体障害者の扱い方や、騒がしいシャブのパートとは対照的なこうした日常性の中の細かな暗さはこの芝居のトーンを語る上で重要で、その視線の繊細さもまた松尾スズキの演劇を良質たらしめている大事な要素であるかと。一方で、シャブパートとの接続は今回、いくらか滑らかでないようにも感じられました。


テレビのニュースで、某国(劇中では明示されていますが)からのミサイルが日本の地方都市を襲い、最後の一発が東京へ向かっている、との速報。それが実はニュースではなく…、というラストシーン。そこまで極端な宣伝はないだろうという展開なのですが、あれは先の衆議院選で実際に某党が作って流していた映像のパロディなのですよね。某党は劇中、あからさまにパロディ的な変名で描かれますが、彼らが実際に行なっていた宣伝活動が舞台にかけられると創作的なほど現実から遊離しているようにも感じられてしまうわけです。そしてまた、それがラストシーン最大の肩透かしとなることで、ある種のカタルシスとして終わらずに、続いてしまう日常(周囲は明らかに非日常的な凄惨現場ですが)。この状況で日常が続いてしまうことは、残酷さと対峙することでもあるし、けれど希望もあるといえばある、のでしょうね。

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