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~演劇とアイドルと何かと~

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ユナムセーン問題

*『十二人の怒れる男』 シアターコクーン (2009.11.18)


いちばん有名なシドニー・ルメット版の映画「十二人の怒れる男」が贅肉を削ぎ落とした名作であるゆえ、舞台化にあたって原作に忠実な作りにするというのは理に適った方針でしょう。蜷川幸雄も「『演出家を不要とする』作品」(上演パンフレットより)と評していますが、元々が脚本の骨組みをもってあらかた完結している作品ではあります。脚色を要するリメイクではなくオマージュとしての派生作品の方が制作されやすいのも、この傑作の性質をよく表している事柄といえましょう。


で、今作。陪審員たちの会話だけでストーリーが展開してゆくという原典に忠実な骨組みが露わになるとき、違和感が目立ってくるのが翻訳にまつわる問題でした。
海外戯曲の翻訳では多くの場合、外国語の言い回しを翻訳したことによる「日本っぽくない」言い回しが出てくるもの。これは、ごく自然なことです。劇が進むにつれその要素が気にならなくなってくるのは、場面展開あるいは視覚的要素などで観客を引き込むからなのですが、今作の場合、観客を引き込むための要素はことごとく「言葉」です。感情的にがなり立てる、あるいは論理的に説得しようとする。いずれにしても動きの少ない中で台詞によって情勢の変化を伝えてゆくため、興味の持続には必ず翻訳された言葉が付随する。その時に、原典に忠実な訳には多少のうるささも覚えました。

各陪審員が主張を繰り広げる際、日本の会話では通常見かけないほどに「わかるだろ」という言葉が頻出します。「you know,」なのか「you know I’m sayin’?」とかなのか、原典の表現はわかりませんが、そうした同調を促す軽い言葉が逐一「わかるだろ」と置き換えられる。
当該国語では馴染むのであろう表現が日本語に訳されて発話された際の居心地の悪さ、これはいわゆるアメリカンジョークが言語的性質も会話習慣も異なる日本の言語に翻訳された時に感じるのと同質の問題ですが、この違和感が終盤までたびたび表れるのは惜しいところでした。


それから、翻訳されるということは必然的に、オリジナルが上演された国の社会とは別文脈の場で上演される、ということになります。オリジナル版(1950年代アメリカ)の社会でならば容易に連想できた設定も、そのままでは説明不足になる恐れがある。たとえば被告の少年が黒人で、スラムに住んでいることから生じる差別的視線などについては、陪審員の性格づけにも関わってくるところなので、多少膨らましてもよいのかなと。


説明不足といえば、やはり映画と違ってカット割りやクローズアップができません。各人の表情を強調するようにカットが割ってあれば、それぞれが心境を変化させてゆく様を比較的スムースに見せることができますが、舞台演劇はすべてフラット。それゆえ人物の激高や心境の変化が唐突に感じられる箇所もあって、「十二人~」はまずなにより映像媒体にとっての優れた脚本なのだなと思い知らされます。
西岡馬演じる三号が最後に無罪を宣言するに至るまでの感情の動きは、やはりフラットな見せ方では食い足りない感はありました。自身の息子に重ね合わせて頑なに被告の少年を責めている、という過程はもう少し説明的であってほしかったなあ、と(ルメット版映画では、キーになる三号の「息子との写真」がクローズアップで写される等の強調がある)。


とはいえ、中井貴一をはじめ俳優陣も手堅く、各陪審員のキャラクターは非常に魅力的に作り込まれています。陪審員長の石井愃一、陪審員六号の岡田正らはこの脚本の世界にうまく溶け込み、言語的違和感のない人柄を構築していました。


そしてなにより、観客があの十二人の陪審員の作り出す複雑な連帯感に同席できる。これこそ、映像作品に対して舞台演劇が勝ることのできる最大の魅力です。蜷川版「十二人~」は翻訳にまつわる問題やカット割りで説明できない困難がありながら、単純ではない彼らの人間関係をしっかり観客に共有させることができている。これは演出、俳優によって構築された作品クオリティの高さの証左でしょう。そもそも日本語で舞台にかけることにある種のハードルがある作品なわけで、陪審員室の内側に観客を引き込めたのだから、ある程度それで成功といっていいのではないでしょうか。
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歌劇団男役・宮澤佐江の成功

*AKB歌劇団『∞・Infinity』(宮澤佐江・柏木由紀ver.) シアターGロッソ (2009.11.7)


いつしか小さな箱庭の外側へもそれなりの訴求力を持つようになったAKB48。コアな支持層にCD多数買いを促すいわゆる「ドーピング」的手法が象徴的に表にあらわれていることから、物量&マスメディアへのゴリ押しのようなスタイルが槍玉に挙げられることも多いのですが、歌モノのアイドルグループが少なからず軽く見られがちな世間にあって、それだけで勢力拡大がうまくいくはずもなく。過去の多人数アイドルグループに比しても、戦略自体の周到さこそ注目すべきでしょう。

メンバー単体でマス媒体に、それも女性層向けメディアに売り込むことで非アイドルヲタの特定層に、まずAKBというトータルイメージよりも当該メンバーの「個」を認知させること(板野友美とか)。あるいはメンバーをテレビ番組等に出演させる際、あえて「AKB48の」という肩書きをテロップに施さないという手法。主要メンバーを必ずしも「AKB48」という属性のみに回収させない見せ方は、対世間ということを考えるとき、箱庭の内のみで先細ってしまわないための戦略として、無効ではないと思います。もっともAKB自体が、各種タレントへのステップの場として設定されてもいるわけで、この戦略は当初より織り込み済みのものなのかもしれませんが。
それから、「多すぎて誰が誰やら……」と揶揄気味に言われがちな、多人数グループゆえの特徴も(まあ、そういうことを言いたがる人は大概クサす対象として話題にしているだけなのですが)、各メンバーが「AKB48」以外のアイデンティティを獲得する上で、今のところプラスにも働いているのではないかと。なにより手駒が多いことで、各媒体に適した人材を登用することができている。
もちろん、現在のAKB48のメインの面白さは「総選挙」「再組閣」に象徴されるプロレス的な展開の巧さであって、それこそ『ASAYAN』のお株を奪う、というところなのですが。


今回の企画『AKB歌劇団』は、それらに比べればきわめて箱庭的な、コア層をターゲットにしたものです。そもそも舞台演劇経験者ではないメンバーたちによって、ごく限られた創作時間で展開される公演はあくまで、アイドルの名前ありきのミュージカルといえるでしょう。

本公演の構成・台本・演出の広井王子について秋元康が「限られた条件の中で最大値のものを生み出す天才」(劇場パンフレットより)と評していますが、まさにこの公演はクオリティ追求に関しては多方面において「限られた」ものになっています。舞台セットは比較的チープでシンプルだし、脚本の作り込みも不足点は大いにある。劇の構成として上出来かといわれたら、首肯できない部分は非常に多い。


けれども、舞台制作に専心できる仕事環境も経験値も持たないアイドルを看板に据える演劇にとっては、この方針は決して間違いではない、と思います。現在の経験値と知名度を前提として彼女たちを映えさせるサイズを考えると、きっとこれでいい。キャパ1000人程度の劇場で全14公演という上演規模も、無理をしない適正規模。AKB48本公演のコンセプトにも似つかわしいものだと思いますし。


高校のダンス部部長の麻里亜(柏木)の夢に、毎晩謎の男性が現れる。ある日の学校からの帰り道、不良に絡まれた麻里亜を、夢に出てきていた男性・村雨ルカ(宮澤)が助ける。彼は250年前から生きるヴァンパイアだといい、かつて彼と結ばれた女性の魂が転生したのが今日の麻里亜であるという。麻里亜は次第にルカに惹かれていくが、ルカの求めるまま二人で永遠の命を手にする(ルカに二度噛まれると永遠の命を得る)ことは、今生きている現世と別世界を生きることになる。現世をとるかルカをとるか、逡巡する麻里亜。そこに、ヴァンパイア・ハンターが現れ、ルカの心臓に銀の釘を刺すことでルカを消滅させんと目論む。


全部で20曲以上歌われる劇中歌も大半はAKBの持ち歌なので、半分演劇、半分はメンバーを限定したAKB公演のような体裁。ただし、それなりにシーンに合わせた曲調、歌詞のナンバーをセレクトしているので、ストーリーと歌パートの乖離は特に感じない。この辺りは広井王子の手際というべきでしょうか。

既視感のあるストーリー展開や演出に驚きはないのですが、少年っぽい凛々しさ溢れる宮澤佐江の男装は舞台全体の核になって、それだけで画をもたせてしまう。存在感に特別重みがあるわけではないけれど、演劇としての規模がチープゆえに彼女のボーイッシュさが丁度良く活かされています。

ダブルキャスト公演でもう一方は秋元才加・高橋みなみペア。画面的に宮澤・柏木ペアの方が気になったのでこちらの上演日を観たわけですが、その期待に違わぬ(期待以上の驚きもないのだけれど)ビジュアルで、アイドルありきの舞台としては、そこが成功すれば及第です。未見の秋元才加版は確実に「男役」としての性質が異なるでしょうが、少年的な宮澤に対し「漢」なイメージの秋元もまた、「歌劇団」の男役としては適役。先に書いた多人数グループゆえの、媒体に適した人材登用のひとつの成功例でしょう。たとえばモーニング娘。×宝塚の舞台公演等に見える、人選の幅の狭さゆえの無理な配役と比べると、ある種の的確さは達成されています。


もちろん、劇の構成としてみれば不徹底なところはすくなくありません。
ダンス部員の歌子が「貧乏」だからアルバイトをして、それを皆に隠しているため、練習をサボって遊んでいると誤解されてしまう、という伏線的エピソードに特に回収はなく、また彼女たちダンス部が目指すラストシーンの「最後の大会」が大した意味を持たないままぼんやり終演してしまったり。主役二人の関係にしても麻里亜がルカに惚れてゆく描写が淡白なのでいつの間にか両思いになっている印象だったり、あるいはルカに惹かれる麻里亜を自分たちの側に引き戻そうと、危険を省みず健闘する部員たちに、そこまで強い友情を裏付ける描写がなかったり、と構成がシンプルな割に(シンプルにしたゆえに、か)、半端にストーリーを広げた箇所が放置されている場面がしばしばあります。

しかし、あくまでクオリティ追求の「限られた」中での作劇、壮大さを目指しても装ってもいないのだから、そこは結果としてさほど害になっていない。手持ちの環境で、はじめから実現可能な規模を目標にする。このディレクションは現在のところ、支持できます。「AKB歌劇団」としてはこれから成熟していけばいいのだから。


9月の亀梨和也『DREAM BOYS』が風呂敷を広げすぎて散漫になり、また帝国劇場で12000円を取って見せていたことに引き比べると、むしろこの簡素さに好感さえ持てるような(『DREAM~』が悪かったという意味では決してないけれど)。ジャニーズの舞台公演とは比較にならないほど簡素だけれど、宮澤あるいは秋元の「歌劇団男役」としての成功、それだけでこのジャンルが維持される価値は十二分にあるかと。

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