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~演劇とアイドルと何かと~

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映画化なんていらない

*ヨーロッパ企画『曲がれ!スプーン』 紀伊国屋ホール (2009.12.18)


同時期に上映されていた映画版『曲がれ!スプーン』(本広克行監督、長澤まさみ主演)を観て持ち帰ってしまったもやもやを晴らすために原作舞台版を観に行った次第なのですが。


簡潔に言ってしまえば、映画化するにあたって付け足した要素が劇全体を壊しているし、その追加要素によって浅薄な科学観、超常現象観までも劇に持ち込んでしまっている、ということだと思います。


超能力を持つ人々がしばしば通う喫茶店で、超能力者だけのクリスマスパーティが行なわれている。普段、無用な騒ぎや疑念を避けるために能力を隠して暮らしている彼らにとって、このパーティは他人に見せられない(ので喫茶店は表向きclosedにしている)。そこに超能力者ではない「ビックリ人間」の男と彼を取材に来たテレビ番組のADが紛れ込んでしまい、超能力者たちは慌てて能力を隠そうと奔走する。


というのがこの原作舞台版のあらすじなのですが、まずこの舞台で特筆すべきは「超能力者」たちの関係性の描写でしょう。彼らは恒常的に密なコミュニケーションをとっているわけではなく、職種も普段の行動圏もばらばら。時折、この喫茶店で顔を合わせても親しげにしないようにして、超能力を匂わせる可能性を周到に回避している。ゆえに彼らの間には、特殊能力者という超マイノリティゆえの連帯意識と、社会的には密接な関係ではないという距離感が同居しています。
彼らが一堂に会して歓談できるこのパーティは、もちろん同胞としての親しみに溢れているのですが、一方でそれほど話す機会のない相手同士の、丁寧語も織り交ざった遠慮も生じる。探り探り距離をはかる彼らの人間関係が、今風の部分的に崩した言葉遣いと適切な速さのテンポで描かれてゆきます。この親しみと礼節の入り混じった関係性は、社会生活のリアリティを戯画化してみせるという意味で、イッセー尾形と小松政夫の二人芝居を少し思い起こさせるものかも。なにひとつ重いものを突きつけるわけではないのですが、彼らの関係性の提示が巧みであるため、仕掛けの限定された状況が続くこの物語を飽きずに観ることができる。


こうした超能力者たちの素晴らしいバランス、テンポが映画版では度々阻害されてしまいます。
それは映画版の主役となるテレビ番組のAD(長澤まさみ)のバックグラウンド描写によるもの。映画では長澤演じるADは「超常現象」的なものを信じたい立場の人間として造形されていて、彼女を主役に据えるため、カフェ内のシーンの合間に度々彼女のADとしての活動シーンが挿入されます。

同一シーンが続く映画は息苦しくなったりもするものだし、長澤パートの挿入自体は問題ではありません。ただし、長澤パートに反映される映画製作側の価値意識が、言ってしまえば杜撰であるために、話の推進にあたってはノイズになっているのです。この映画が前提している、「科学」と「超常現象」を対置して、「科学」側を「夢がない」ものとし、「不思議なことの存在」を信じることを良しとする二元論は陳腐に見えるし、そもそも両者を相容れない二者と捉えることはやはり浅薄であるかと。科学者は超常現象を「否定する」目的ありきで研究をしているわけではないし、「不思議なこと」に関心が強いからこそ科学的思考に傾斜もするわけで。科学者=夢がないという図式は、あえて悪役として設定するにしても無理のあるものでしょう。


それから、すでにいろんなところで指摘されていますが、この映画の作り手は「超能力を信じる」ことと「UFOを信じる」ことと「サンタクロースを信じる」ことを同一のものとして扱っています。科学者を悪役として設定するにしたって、一方の「夢のある」側の価値観がここまで雑だと結局作り手自身も「不思議なこと」に対する感覚があまりデリケートではないのかなと思わされます。
念のために言えば、原作舞台版には上記のような陳腐な二元論もないし、異なる性質の超能力やらサンタやらを一緒くたにして「信じる」などという発想はない。むしろ、超常現象が手詰まりになってビックリ人間やらサンタやらを扱いの範疇に入れてしまっているテレビ制作側の情けなさを垣間見せたりしている。


このことに関連して。超能力者たちがクライマックスでADに「サンタクロースを見せてあげる」作戦は、映画版、原作舞台版双方に共通する筋書きですが、見せる意図はまったく異なっています。
原作舞台版では中盤以降に脇役として登場するAD、彼女は「不思議なこと」を信じるとも信じないとも色づけされているわけではなく、自分の担当しているサイキック番組(ネタ切れから、方針がぶれてビックリ人間やらサンタクロースやらが範疇に入ってきている設定)で割りふられた作業をこなしているのみ。彼女は上司からの指令で急遽サンタクロースの末裔を撮るためにロシアに行かなければならなくなる。ロシアに行きたくない彼女の心理を読み取った超能力者たちがちょっとしたプレゼントとして、彼女に近場でサンタクロースをカメラに収める機会をつくってあげるわけです。

これはサンタに仕立てられたビックリ人間のチープさとも相俟って小さな笑いのシーンとして成立するのですが、映画版では「不思議なこと」を信じたい長澤まさみ演じるADに「夢を持たせてあげる」ための方法としてサンタクロースを見せてあげています。上述したように、彼女が幼少から信じてきた「不思議なこと」の範疇が雑に形成され、それを支えるのが粗雑な価値観であるため、サンタの件りは非常に陳腐なものに感じられてしまって後味が悪い。
カフェ内での小品としてまとまりがあった舞台版のテンポのよいやりとりは映画版でも引き継がれていて(役者も一部舞台版の人が演じている)そこは変わらず面白いのですが、長澤に照準するたびその浅薄な価値観に支えられた気持ち悪さが顔を出してしまう。結果として、完全に余計な発展をさせてしまったのが映画版といえるでしょう。


ヨーロッパ企画の今作が優れた舞台作品であることは間違いありません。しかし、これに映画興行として堪えうる(と作り手が考えた)要素を足して映像作品にすれば、舞台の面白さが維持されるというものではない。
マスに訴える目的ゆえ長澤まさみを主役にし、無理に設定を広げたことでバランスを欠き、カフェ内の秀逸シーンたちもぼやかされている。さらに補足したシーンの設定がことごとく浅薄な科学観、超常現象観に基づくため、作品全体のトーンが醜悪なものにもなってしまった。それらの取り払われた(というかもともとなかった)舞台版はまとまりのある、会話芸の非常に巧みな良作でした。


映画の出来がこのようなものだったことで、逆にヨーロッパ企画の名前並びに作品の優良さの認知度を世に周知する効果は多少なりともあったのではないでしょうか。加えていうと、この劇団が見せつけたテンポのよい今風の会話芸は、映像作品化にも相性のよいものです。会話芸の畳み掛けの笑いですが、エキセントリックさを抑えた「普通っぽさ」が胚胎されるため、たとえば阿部サダヲを前面に出したクドカン映画のような難しさ、危うさはあまりなく、映像媒体でも優れた作品を残し得る人たちかと思います。舞台原作の台本をもとにした超能力者たちのやりとりは、映画版でも充分に魅力を放っていましたので。

あと、やっぱりタイトルは元々の『冬のユリゲラー』の方が格好いいですよ。『曲がれ!スプーン』って映画化に合わせたタイトル変更みたいなのだけど、そこまで悪い意味でわかりやすく改変するのはダサいというか観る側の想像力も軽く見てるっていうか。
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つくり損ないのレトロモダン

*『東京月光魔曲』 シアターコクーン (2009.12.17)


昭和初期の東京・銀座のモダン。
今日から思いを馳せるならどうしてもファンタジック風味が強くならざるを得ない時代設定を前にして、ケラリーノ・サンドロヴィッチは方向性を掴みかねているように見えます。日露戦争後~太平洋戦争前という時期の東京を描くことに台詞、立ち居振る舞いの制約を設けているのか、ケラにしては台詞の応酬がおとなしすぎる(というか冗長)。ではその制約の結果、レトロモダン東京が現出したかというと、これには首をひねらざるを得ません。

夜の銀座の賑わいにせよ、その裏面としての推理・探偵小説的怪しさにせよ、おそらくその本質は小手先の立ち居振る舞いの制御ではないのでしょう。銀座の賑わいと雑誌『新青年』的怪しさの両面いずれにも必要なのは、退屈な間を埋めてしまう喧騒、それにある種の緊張感であろうかと思います。それがあれば、いつものケラ作品の登場人物でも全然よかった。
ナイロン100℃のテイストが強くなる犬山イヌコ、大倉孝二、山崎一らのシーンに昭和初期風味を感じ取ることができなかったかといえば、そんなことはないので。むしろ本来ストーリーを推進していく役割の、松雪泰子、瑛太姉弟中心の場面の冗長さこそが、風味を消してしまう原因ではなかったかと。


物語を観客に浸透させる目的なのか、他の場面に比して松雪、瑛太のシーンは落ち着いた語り口で展開されます。しかしそれが「シリアス」ではなく、「平坦」に見えてしまうため緊張感を高めるものになっていない。ゆえに、松雪と不倫関係を結んだ者が惨殺されるという興味を引きやすいフックがあるのに、サスペンスたり得ていません。


この、サスペンスになっていないということは全編を通しての弱点で、山崎一扮する男が戦時中に誤って味方を射殺してしまったトラウマ、前述した惨殺事件、動物園の爬虫館での探偵と犯人の攻防、松雪演じる娼婦が招く事件や鍵のかかった部屋にあったという大曽根夫人の裸婦画、松雪・瑛太の近親相姦的関係など、いくらでも妖しげな要素はあるのに、それらがことごとくぼんやりとして際立たないため、散漫なまま効果を生んでいません。重点を置く要素を数個に絞って、それらだけでも太い線で描けていれば、列記したようなサブストーリーも雰囲気の補助として光ってくるのでしょうが。結局は作品の最大部である松雪・瑛太パートの味のなさによって、その他のサブ要素も、ストーリーはしっかりあるのに推進力が生まれず消化不良になっています。


瑛太は夏の牡丹燈籠の頃に比べると、役柄の変化もあってか立ち姿の存在感は増しています。しかし、彼の売りであろうナチュラル感は、やはり現在のところ舞台的演技にはもうひとつ不向きであるかと。舞台でナチュラルさを出せる俳優は多くいますが、複製媒体向きに形成されている彼の「ナチュラル」は、舞台においては味のなさになってしまうようで、上述している松雪・瑛太パートの冗長さの一因はここにもあるのではないでしょうか。とはいえ、彼らのパートに関しては台詞のやりとり自体の平板さもあるので(近代につくられた歌舞伎の長々した説明台詞を聞いているような感じも少しあるかと)、そこにあまり押しつけるのはよくないのでしょうが。瑛太の舞台慣れというか成長も見られたように思うので。


探偵助手・犬山イヌコと推理小説家・大倉孝二のやりとりはさすがにケラのナイロン。話の展開を密にするし、興味を持続させます。間合いを上手にはかったケラの笑いとはこれであったな、と思い出させてくれる。このテンポをメインにすればよかったのに。テーマ的には盛り上げきれなかった今作品中、ケラの面白さをもっとも堪能することができたのは彼らのシーン。プラス山崎一が主体となった、序盤の満州での軍小隊場面でした。


まとめっぽく全体的にいうと、時代設定できた。ディテールそろった。サブストーリーそろった。でも、色がついてねえ、という感じでしょうか。あの、サブストーリーが消化不良っていっても、各要素を投げっぱなしで終わってる、とかじゃないんですよ。話の流れはひとつひとつある。でも、起伏というか話のキャラ立ち、とでも言おうか、それがないので平板になっていて、レトロモダン東京も探偵小説風妖しさも具現できてないんですよね。あとひと月くらい熟成期間かけてつくったらよくなるのかもしれません。そういう意味では、前回のクドカン歌舞伎に続いて、時間がない中でのアウトプットって絶対顕著な無理がくる、ということのサンプルであったかもしれません。三部作構想もあるようなので、じっくり時間をかけて、ぜひとも。

小ネタ of the Dead

*歌舞伎座さよなら公演 昼の部『大江戸りびんぐでっど』 歌舞伎座 (2009.12.3)


台詞回しにちりばめた小ネタと、演技の落差ないしは大仰さ。
宮藤官九郎がマスに愛されたのは、そうした今日の小劇場演劇的ともいえる特徴を、テレビというメジャーカルチャーに織り込むことに成功したためでした。その象徴がジャニーズ勢と組んだ『池袋ウエストゲートパーク』『木更津キャッツアイ』『タイガー&ドラゴン』等のドラマだったわけで、そこでは“今時”な日常風の世界の中で、小ネタを駆使しながら日常をズラす笑いと立ち居振る舞いを体現していました。それらは、確実に2000年代のテレビドラマを充実させたもののひとつではあったでしょう。


小劇場的な小ネタは性質上、往々にして際物的な要素が強くて、それゆえ現代の「日常」的空気感の中でこそ効果的に映えるものです。「近世」を舞台にして台詞回しに制約を設ける歌舞伎の場合、小劇場的小ネタ感をそのまま移植すると、少なからぬ違和感が生じる。クドカン初歌舞伎の第一印象はその違和感でした。

第一場の、くさや売りのシーンから多用される小ネタや台詞のトーンの切り替えはクドカン的、なのですがそもそもそれが笑いになるのは「日常」との落差があってこそ。現代劇であれば、身振りや話し方そのものが「日常」をあらわすため、小ネタを織り込むことは比較的容易です。
しかし、冒頭から歌舞伎の世話物言葉とギャグと現代的口調の台詞がミックスされたやりとり(あと落語からの引用もごたごたと)が続くと、物語のトーンの落ち着きどころがなかなかつかめないため、ギャグがギャグとして、小ネタが小ネタとして活きてこないのではないかと。平常状態との落差こそが笑いなので、まずその平常を観る側に前提させた方が良いだろうと思うのですが、すべてがバタついた印象になってしまう結果、その落差を味わうことがなかなかできませんでした。

宮藤官九郎が歌舞伎を作・演出という謳い文句で期待値が上がるだけに、始めからカマしてゆきたい送り手の気持ちはわかりますが、冒頭の場面はあまり弾けずに始めて空気を落ち着かせた方が、後の笑いにとっても有効ではなかったかなあ。とりわけ「りびんぐでっど」の集団が舞台上に出てきて以降の画面は面白いので、彼らの異様な存在感を際立たせるためにも、導入は普通でよかったのでは。

あるいは、台詞に半端な制約を設けないで、すべてクドカンの書きやすい言い回しで脚本を作ってしまってもよかったかもしれません。彼の映画『真夜中の弥次さん喜多さん』は時代設定と台詞や風俗の乖離を気にしないことが成功だったわけですし(その志向が妙な時代劇映画を量産することにもなっているけれど)、笑わせたい部分と台詞回しへの気遣いとが『大江戸~』では今ひとつうまく噛み合ってないように思われます。その点、野田秀樹の『研辰の討たれ』は、台詞回しの制約をうまく回避しつつ作劇していたのですね。昨年の『愛陀姫』はその制約に絡めとられていた感がありますが。


話が落ち着く中盤の「はけん屋」以降、ゾンビを人々が「活用」するようになって話は面白みを増してきます。とはいえ、おそらく宮藤官九郎という人は、入り組んだ重いテーマ性を鋭く突きつける作家ではないように思います。どちらかといえばシンプルな話を紡ぐ人なのではないかと。

彼がトリッキーに見えるのは、今風の感覚をあくまで小ネタレベルでちりばめるゆえで、それは充分に演劇としての人気を成りたたせる武器なのですが、先に言ったようにその「今時」感に制約がある場合、話の骨組みが前に出て来ざるを得ない。その骨組みが思いの外あっさりしていて、今日の若手現代劇作家の話としてはいささか食い足りなさも覚えました。


半助(市川染五郎)が生きた人間なのかゾンビなのか、あるいは生きていた時とゾンビすなわち屍になってからと、どちらが「人間らしく」活き活きとしているのか、という問いが終盤のテーマになってくるわけですが、素朴なストーリーの骨組みが目立つぶん、話の回収されなさが浮き上がってしまうような。ゾンビの性質にまつわる劇中のもろもろの不整合が説明されてないし。そういう回収不足などどうでもよくなるほどのインパクトを突きつけることがクドカンにできないはずはないのですが、歌舞伎というフォーマットに寄り添おうとした結果なのか、演出者の特異性が今ひとつ活かせていなかったかもしれません。舞台絵にしりあがり寿、衣装に伊賀大介、音楽に向井秀徳を配した割に、若い世代の新鮮さが見えないのが惜しい。


とはいうものの、やはりクドカンの試行錯誤がある程度まで実を結んでいるのも確か。坂東彌十郎演じる奉行は、官職としての固さとクドカン的落差の笑いをうまく体現していて(彼がいちばんよかったかも)、ほんのり古田新太風味も垣間見えていたし、このチームにもっと時間をかけて宮藤スタイルを浸透させれば、それからクドカン本人にしっかり時間をとって作劇してもらえば、整理されたハイレベルのものが出来上がりそうな気はします。そういう意味で言えば準備期間が短かったのかな。クドカンはもっとうまく順応できるはずだし、もっときちんと遊べるはず。余裕あるスケジュールで、第二作が実現するといいですね。


あとゾンビの人材派遣を行なう「はけん屋」については、今時らしいキーワードゆえ風刺が期待されるかもしれませんが、そういうものではないです。「派遣切り」がテーマに入っている、と言っていた人もいましたが、あくまで今日的な言葉として入れ込んでいるだけなので、そこに社会批評を期待するのは作者の本意ではないと思います。少なくとも派遣「切り」の切実さは扱われていないように思うし。派遣という形態を持ち出してきて遊んでいるだけなので、そこは時評だと思って観ないように、軽く受けとるのが宜しいかと。

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