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~演劇とアイドルと何かと~

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俺は団地のスーパースター

*劇団鹿殺し『スーパースター』 青山円形劇場 (2010.1.26)


他人と違うことをしたい、なんていう夢想は多くの人がするもので、またそうであるだけに、特別でありたいという志向自体がきわめて凡庸なものでもあったりします。自分のことを「変わっている」と考える人がもっとも普通っていう話でもあるんだけど。

で、そういう人間がくすぶり続けるさまというのは、わりと怠惰と紙一重だったりもします。それは傍からみれば余計にそう見えるものなんですが。くすぶっている本人も主観的には精一杯でありつつも、どこかで己の怠惰に気づいていて、そのことが余計に気持ちをくすぶらせる。


今作『スーパースター』の主人公、漫画家志望の輝一(ぴかいち)が抱えるのはそういう種類の鬱屈です。自分の近くにいたあいつは「星を持って」いてスターになっている。自分には「星」はないのかもしれないけれど、星を渇望してこうやってあがくしかない。低空飛行の日々は続く。劇場配布チラシから察するに、この視点はある程度まで、小劇場系の劇団という「食えない」世界で生きようとする自身たちの投影なのでしょう。そうしたものの吐露は、下手にやってしまうと、実に凡庸な仕上がりになってしまいます。しかし、そこはさすが鹿殺し、自分たちの武器を今回も存分に見せつけながら、「スーパースター」への思慕を直球過ぎないやり方で提示しています。


輝一は漫画家を志しヒーローものを描き続けているが、どの作品も中途でやめてしまい、出版社に送付することもできないまま、職にも就かない日々を過ごす。弟の瞬一はプロボクサーを志し、こちらは世界チャンプまであと少しのところまでこぎつけ、すでに有名人になっている。また、幼いころから住んでいる団地は幹線道路建設のため立ち退きを迫られている。輝一は地上げ反対を訴えつつ(漫画執筆のため)自宅に籠っているため、「団地防衛軍」などと呼ばれ、瞬一からも乱暴な扱いを受けている。
輝一の漫画を弟瞬一が勝手に出版社に送り、編集者に酷評される輝一。これで実力がわかっただろうと諭されるところに、編集者から再度連絡。輝一の描いた、団地の超人ブッチャーの漫画が最高だというが、輝一はそんな漫画を描いた覚えはない。しかしブッチャー、というのは幼少期に団地にいた友達で、確かに輝一にとってのスーパースターだった。


団地の棟が徐々に地上げに屈服してゆくさま、それに団地のノスタルジックな風景を織り込みつつ、過去のブッチャーとのエピソードを語る回顧パートと、輝一の棟のみがいまだ立ち退きを拒否して居座る現在パートが手際よく入れ替わり、2時間程度ある芝居をダレさせない。もともと鹿殺しは展開の切り替えやテンポが上手いから中だるみは少ないのだけれど、今作では展開がわりときれいに整理されていることもあって、その水準はまたひとつ上がっているように思いました。


過去の要所要所で輝一にとっての「スター」として目の前に現れるブッチャーはしかし、多くの人の目には「スター」に似つかわしい人物ではありません。小学生の頃からの、輝一とブッチャーとの関わりが描かれるのですが、ブッチャーはどちらかといえば「おみそ」として扱われるタイプ。誰の目にもわかりやすいスターとしての階段を上りつつある瞬一とは全くタイプを異にします。ブッチャーがやっていることもその当時の輝一の立場からすればスターでも、一般的にはとるに足らないことであったりする。
終盤、久しぶりに輝一の前に姿を見せるブッチャーは、初めて多くの人の面前に登場しますが、単純なヒロイックはやはりそこにはない。むしろ惨憺たる姿をさらす。けれどブッチャーの存在が輝一にとってのなにがしかの駆動因になっている。スターボクサーである瞬一と主人公との対比ではなくて、ブッチャーという項を中核に据えた構成にすることで、単純な愚痴ではなく、もちろん単純な希望でもないものを見せています。


ちなみに「星」を掴みたいというモチーフは、鹿殺しの前作『赤とうがらし帝国』とも繋がるもの。『赤とうがらし~』では、「主役」になることを渇望して周囲を犠牲にしまくるタエの業を最後まで見せつけて、爽快ながら安易な希望を持ったハッピーエンドにはせずに終えていました。締め括りの爽快感の内にも、すっきりと整理できないものを残すのはこの劇団の得意とするところ。


しかしまあ、なによりこれらのストーリーテリングを魅力的に見せているのは、鹿殺し最大の武器である音楽と舞踏。腿を高く上げて踏みならすストンプ的でもある彼らの躍動は、何度見てもキレがあって格好いい。
以前にも言及したことがありますが、彼らのダンスにせよ歌唱にせよ、いわゆる「巧い」ものではありません。音楽始めて日の浅い人が、初期衝動と勢いで新鮮に見せているような、基本的にはそんな方向の格好よさ。けれども、それをずっとキープして、その方向性のまま高レベルに水準を上げている。この武器があるからこそ、2時間がダレないし、明らかに勢いで持って行ってしまっているような展開があっても、受け入れることができてしまう。ブッチャーノックアウト後の輝一のあの展開は、なんだそりゃっていうものであるし(ちょっと『大日本人』思い出した。映画『大日本人』の方のあれはまったく成功ではなかったけどね)、後半のブッチャーの位置づけは今ひとつはっきりしないところがあったような気がするけれど、躍動の魅力がそれを上回るからさして支障がない。本当に、音楽と舞踏を使うのならこのくらいまでやってしまわないと、小劇場において「星」にはなれないでしょう。


この作品にある「星」への思慕やら羨望やらは、ある程度劇団自身の試行錯誤と同化しているもの。とはいえ、小劇場の世界では鹿殺しは他と一線を画すキラキラした存在です。それを可能にしたのは、自身の内面吐露を凡庸にならないように見せることのできる、自己への的確な距離感でしょう。それはまた、己の格好よさの種類を見極めて提示することにも繋がる。それをできる頭の良さが鹿殺しにはあるのだと思います。
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舞台の新人、ライブのプロ

*『血は立ったまま眠っている』 シアターコクーン (2010.1.21)


1960年代を体感しえない世代、環境の人間にとって、寺山修司のインパクトを把握することは簡単なことではありません。いわゆる「新劇」が日本の近代演劇のメインであった時代背景を抜きにして当時の寺山が放った特異性は掴めないし、まして題材として60年安保と分かち難いこの戯曲は、なにより初演された時期(1960年)に具現されることにこそ意味があったものでしょう。
2010年に上演される『血は~』は、同時代的でない、ある程度「歴史」になりつつある「政治の季節」を、現在いかに提示しうるのか、という側面も持ちます。


ともすればアナクロに、あるいは実感と乖離して響いてしまいかねない1960年の革命家ワナビーのセリフ群が浮いてしまわなかったのは、まずは灰男を演じた窪塚洋介の手柄でしょう。
映像媒体での彼の最大の魅力は過剰なほどの独特の臭気ですが、その強い臭気がまた時にクドくなり、彼を一本調子に見せてしまうこともあります。そうした彼のキャラクターは舞台演劇という、「過剰」が許容される場ではちょうどよいおさまりを見せているように思われました。
加えて、しばしば過去の言動が引用され嘲笑のタネにもされる彼の青臭いイメージ(あくまで流布してしまったイメージでしかないのでしょうが)は、灰男の能書きが必然的に持ってしまう青臭さとよくマッチしていて相乗効果を生んでいます。灰男というキャラクターを立たせるのに成功したことで、作品全体に感じる「頼りがい」のようなものは確実に増しています。

もちろん初めての舞台ゆえ、「巧さ」というのとは違うと思うし、まだ演技の方向を探っているようにも見えましたが、クセもキャリアも豊富なキャスト陣にあって、初舞台で存在感が希薄にならなかったことは評価されるべきかと。コクーンという劇場は、映像媒体の人気俳優を舞台に上げる、ということをしばしばやります。その中で近年、妻夫木聡(『キル』)や瑛太(『牡丹燈籠』、『東京月光魔曲』)などの存在感の薄さに接して、舞台キャリアのない人間が主役級を演じることの困難さを感じざるをえませんでした。窪塚洋介の強い臭気はそうした困難を、さしあたって回避することに成功しています。


恋人となる夏美(寺島しのぶ)と初遭遇する場面、


「あの戸口のなかから
 びっくりするようにやさしい女の声がきこえてきたとき、
 それが母の声だと知らずに胸おどらせていたおれだった。
 だがおれには女はいつも隣の室の笑い声でしかなかった。
 おれには
 どうすればいいのか、
 どうすればいいのか、
 どうすればいいのか。
 きみらのガソリンくさく風にはためく疾風のようなシャツの旗にくらべて、
 おれはまるで昨日の空壜みたいにいつもひっそりと
 窓際に立っていたんだ。」

という台詞を、立ちバックでセックスしながら吐くのですが、これが浮かないようにするのはなかなかに難しい。特に「どうすればいいのか」のリフレインがしらじらしい言葉にならずにはまったとき、彼の舞台への適性が強く感じられました。今後の舞台出演継続を強く望みます。


窪塚洋介に並んで特記すべきは、灰男を尊敬し行動を共にする良を演じた森田剛。「革命」にも「頭の良さ」にも憧れながらくすぶる青年役を、小汚く愛らしく見事に務めていたと思います。ジャニーズの人たちは、時折「ジャニーズ臭」みたいなものを消し去って役に化ける姿を見せてくれますが、今回の森田剛も然り。だからジャニーズの舞台がおしなべて良い、ということには勿論なりませんが、あの集団が優秀な役者たちを輩出していることは間違いありません。彼の場合はすでに大きな場での舞台演劇も経験済みではありますが、いずれにしても映像媒体でのイメージが強い人物ではあり、そのような役者たちが舞台で秀逸な存在感を見せたことは今作の大きな収穫です。


映像媒体での、と繰り返してはきましたが、しかし窪塚洋介も森田剛も「ライブ」の素人では全くありません。窪塚は卍LINE名義でのミュージシャン活動で多数のライブをこなしているし、森田は言わずもがな、V6です。それこそ数万人規模の観衆の前には何度も立っている。いずれも眼前の客に対して身体をさらすことにかけてはプロなのです。
先に挙げた妻夫木、瑛太との違いに関しては、そのあたりの環境も要因として小さくないように思います。窪塚、森田がライブのプロとしての強い存在感を提示し、同時に青臭さを表出しうる若手として革命家ワナビーを体現したことで、諸々のいびつさはありながらも総体として魅力的な舞台になったと思います。


あ、あと窪塚洋介の「舌出し」はもう、立派な「見得」になっていますね。ちょっと前にCMでKムタクがやってた舌出しよりずっと可愛いし格好いいよ。

妄想アテレコエンドレスエイト

*シベリア少女鉄道スピリッツ『キミ☆コレ~ワン・サイド・ラバーズ・トリビュート』 新宿タイニイアリス (2010.1.8&12)


シベリア少女鉄道が帰ってきました。

前半に展開されるドラマが壮大なネタ振りになっていて、最後の数十分にまったく位相の違う視点をそのドラマに被せてネタ的な笑いだけで疾走し、それまでのシリアスな道筋を心地よいまでに無意味なものにしてしまう。上演が終わる頃にはそのバカバカしさと、それを裏支えする緻密な構成に唸る、と。シベ少の魅力を端的に表せばそのようなことになると思います。


前半のドラマそれ自体も一定の尺があるので、興味を持続させるつくりにしなければならず、つまりネタ振りとはいえそこでのストーリーテリングもおざなりにはできないし、その中で後半の笑いに向けてネタの種をふんだんに蒔いておかねばならない。水準の高いバカバカしさだけのために、頭のよい人が全力で捻り出した良品が、毎度毎度提供されています。
もとよりこのような脳を使い倒した作品を短期間に次々生み出せようはずもなく、また演劇のカテゴリーに居るとはいえ「戯曲」として評価される類のものでもなければ、諸事情からソフト化も相当に難しい。シベ少のここ数年の沈黙に近い停滞は、さびしく思いつつも仕方がないのかな、とも。それゆえまず素直に復活が嬉しい。


とある漫画家の仕事場。3人のアシスタントたちと女子大学生のアルバイト、疲弊しつつアイデアを捻る漫画家に編集者の計6人が、場を共有する者同士の緩やかな連帯感を持ちつつ、それぞれの作業をこなしている。他愛ないやりとりのうち、アルバイトの子がアシスタントのひとりに淡い恋心を抱いているような独白がナレーションで入ります。片思いの日常風景。

暗転後、日常風景の続き。アルバイトの子の心情を語るナレーションが増える。日常風景の続きであったかと思いきや、途中からさっき見たのと同じ冒頭のシークエンスが繰り返される。つまり時間軸が冒頭に戻ります。ああ、そういう時間編成で見せているのか。
しかしその日常風景に妙な違和が差し込まれます。一回目のシークエンスよりもアルバイトの子のナレーションが増え、また一方では舞台奥のモニターが点き、彼らのやりとりを切り取った写真が時折表示される。この時点では意味はわからない。けれど映像・スクリーン使いに長けたシベ少の特徴が現れ出す、これは同時に後半への畳み掛けの合図です。

再度の暗転後、先ほどまで見ていた日常のシークエンスがまたも繰り返される。3回目。そしてナレーション。
「気がつけば、いつも君ばかり見ていた」
違う。このナレーションはさっきまでの子ではなく、女性アシスタントの椎名だ。彼女の見つめる先には、アルバイトの子。「なんであの人はいつも、自分のことじゃないのにびくびくしているんだろう。」編集者が電話で部下に怒鳴る。「山岡ー!」。びくっとするアルバイト。途端に場内に流れ出す音楽!中村由真の『Dang Dang 気になる』!『美味しんぼ』だ!椎名はアルバイトの行動に逐一、山岡(美味しんぼの主人公)のアテレコを始める。
と、今度はその椎名を見つめる、編集者・兼田のナレーションが。
「気がつけば、いつも君ばかり見ていた」
あのしきりに耳の脇の髪をかき上げる仕草。スポットは椎名の挙止動作に向けられる。そういえば椎名は冒頭から、髪をしきりに、だけどさりげなくかき上げていた。流れ出す音楽。『贈る言葉』!つまりあれは金八先生!
先ほどまでに二度繰り返されていた動作、言動ひとつひとつに、兼田のナレーションが金八的なフレーズを被せてゆく。一度目のシークエンスではなにげない日常風景であった一連の流れが、実は妄想アテレコのために無数の種が仕込まれたものだったことに気付く。同様に、登場人物のそれぞれが特定の誰かのこと「ばかり」見つめ、古畑やらドラえもんやらをアテレコしてゆく。


一回目には漫画家の仕事場のそれぞれでしかなかったものに、各キャラクターがアテレコされていって、それでもシークエンスは一回目と一切変わっていない。さらには舞台奥のモニターにとある名作アニメが映し出され、二回目のシークエンスで映されていた写真群ともリンク、妄想アテレコにさらにもう一層加わる。観る側の処理能力を追い越してネタを詰め込み、ぶつ切りのように唐突に終演していました。


メタ的ななんとか、みたいな枠組みを持ち出して解釈してみせることも大いにできそうなのだけれど、シベリア少女鉄道ほどそうやって「論じる」ことが無粋に思える劇団もないのではないでしょうか。
やってることって毎回、言ってみればすごくメディアアート的なのではないかと思うし、土屋亮一(作・演出)の頭の良さと緻密さは感嘆ものなのだけれど、その緻密さの目的地が清々しいほどのバカバカしさだから、最後に生じた笑いに身を委ねるほかないのではないかと。土屋亮一は充分な批評性を持った作家なのでしょうが、「批評性」なんて言葉で表現する端から、もう無粋。


今回は上演規模が小さいのと、終盤は元ネタを観客が記憶しているか否かが重要になるので(毎回そういうとこは多いけどさ)、つくりとしてはより内向きのものかも知れません。今回、一度観劇後、大ネタとして用いられている名作アニメをDVDで観直したうえで、後日もう一回劇場に足を運んだのですが、それでもラストは非常に唐突にぶちっと切れた感じでしたし。その意味で、2006年上演の『残酷な神が支配する』はとても綺麗な作品だったな。いずれにせよ、今回も絶対にソフト化して一般流通させるのは不可能。立ち会っておくべき。

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