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~演劇とアイドルと何かと~

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「わかりやすさ」の難しさ

*『染模様恩愛御書 細川の血達磨』 日生劇場 (2010.3.17)


さて、いわゆるBL歌舞伎。

衆道をBL(ボーイズラブね)として再解釈する、という方法は、歌舞伎に縁の薄い客層とのパイプをつくるための、ひとつの方策でもあります。高麗屋一門はしばしば一見さんに向けた回路作りを試みますし、この作品でも端々に古典特有の「わかりにくさ」を回避する、補助輪的な演出がされています。

個人的には、外部とリンクするためのこういう姿勢は買っています。古典芸能をいじることには様々意見があるでしょうけれど、まずは目を向けてもらわなければ、その先もありませんので。事実、歌舞伎を見慣れてなくても充分に入っていきやすいつくりになっている。


けれども、「わかりやすさ」をつくるのって難しいですね。

基本的に台詞を平易にしてありますし、立ち廻りも通常の歌舞伎の時代物などよりもスピーディになっている。いずれも歌舞伎の現代的アレンジとしてしばしば見られる対処法ですし、特に立ち廻りに関してはこのテンポで見せることは正解だと思います。

とはいえ、そうすると芝居全体のトーンが古典歌舞伎とは異なったものになる。古典と違う性質のものになること自体は全然結構だと思う(だって現在系の作劇なのだから)んですが、ここに古典歌舞伎的な作法を入れ込んだとき、トーンの差異がすくなからず違和感になることがあります。
いちばん象徴的だったのは終盤、ヒールである横山図書(市川猿弥)が斬られる場面。それまで半ばTV時代劇を観るようなテンポでスムースに見せていたところに、図書が斬られて息絶える最期にきて、立ったまましばらく手をばたつかせて悶える、古典の時代物的な断末魔動作になります(斧定九郎とか『先代萩』の仁木弾正の最期とかと同型の)。一貫して歌舞伎のテンポならばこれも自然に受けとれるのですが、それまで時代劇テンポだったところに唐突に大仰な「やられ」演技があらわれると、その断末魔がギャグっぽくもなってしまいます。笑いを意図する場面ならそれでもいいのですが(コント55号とかがかつて、まさにそういう演技法のギャップをギャグにしてました)。
たとえば見得とか「決まる」瞬間というのは、割合現代劇的なテンポにも合わせやすいのですが、斬られる場面が古典歌舞伎的になるとコントっぽくなってしまいやすいのですね。わかりやすさのためのこうした試行錯誤は、実際に舞台にかけてみないと実感しづらいものなのかもしれません。


それから、設定や状況説明には義太夫等ではなく、講談師が起用されています。確かに、歌舞伎を見慣れない人にしてみたら義太夫は理解の補助にはなり難い。旭堂南左衛門の明朗な弁は状況を簡潔に把握させてくれる。ただ一方で、先ほど書きましたがそもそも芝居自体がわかりやすくつくられています。そこにさらに説明をかぶせてゆくのはやや情報過多な感がして残念だったかなと。
半分BGMとしても機能する義太夫と違って、講談はそれ自体が主役になり得た方がいいのかもしれない。目の前に十全な情報量を持ったわかりやすい生の芝居そのものがあると、やや食い合わせが良くないように思いました。
特にクライマックスの火事場シーンは、演出自体が派手で具象的でもあるので、講談による説明とセットにすると却って臨場感が薄れてしまうような。話芸は、いかに聞き手のイマジネーションを喚起させるかの芸なので、充分な視覚情報のもとではいまひとつ活きなかった気がします。火事場演出は見た目にインパクトがあるだけに、言葉の説明がない方が劇世界に没入できたのではないでしょうか。


作り手も多分に意識している「BL」要素。「恋愛」場面に大幅な時間を割いていますが、現状、これで持たせるのは難しいように感じました。コメディ要素を増やして客席を沸かせるものになっていたので、まずまずの成果はあったかもしれません。ただ、その笑いは少なからず「オカマコント」のそれである、ということも事実かと。
見初めの場面やセックスシーンで、薄紫(ピンク?)の照明を殊更に使う、あるいは腰巻を解かれてくるくる回る演出等々、彼らの「熱愛」場面の多くには意図的な笑いが伴っています。恋愛とコメディとの相性は悪くないのですが、全編のバランスとして二人の恋愛が主題となっているので、コメディを伴う恋人描写、というだけでは物語としてしんどいかなあ、と。序盤から中盤にかけて、それほど二人の恋愛の障害ってないですし。
つまりは「BL」ということの特殊性のみでひっぱろうとする気分がちょっと強い気がします(あえてここでは「特殊性」と言いますけれども)。BLは前提で、そのうえで二人の関係や物語の起伏をいかに出すか、がもう少し必要になるのでは。同性愛をただのコメディ要素としてじゃなく、メインに据えるのであれば、余計にそう思います。あと、BLって別に「同性愛である」ことそれ自体が本質なわけじゃないし。


しかし、いずれも「古典」と無縁な層に歌舞伎を届かせるための試行錯誤であることは間違いなくて、それが続けられることは大事なことです。こういう蓄積がこの先の高麗屋一門に完成度をもたらすと思いたい。


野田秀樹とか三谷幸喜が初めて歌舞伎を作・演出しても成功したのは、歌舞伎を「わかりやすく見せる」とかいう発想ではなくて、完全に自分の演劇をつくろうとしたからなのだよな、ということもあらためて感じました。結局はそのほうが、観客には届くのですよね。
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懐メロじゃないように

*『上海バンスキング』 シアターコクーン (2010.3.3)


往時を知っている方々にとっては、大きなプラスにも大きなマイナスにも転びうる舞台なんでしょうね。


人気演目の16年ぶりの再演、初演から数えれば30年を経ているわけですが、吉田日出子、串田和美、笹野高史といった主要キャストは往時を知る人にとってはお馴染みの顔ぶれ。その座組みの再結集となれば、それだけで演者も古くからのファンも高揚することは想像に難くありません。一方で、そういういわば同窓会的な盛り上がりに飽き足らないという感想も見聞きしたりはしていまして。


時を経て、役柄年齢と大きく離れたキャストの老け具合や体型の崩れ具合等々、往時とは舞台上での存在のあり方が違うことは確実でしょう。その落差が目につく方々にとっては、やはり「同窓会」ゆえの高揚だと感じられるのかもしれない。実際、同窓会ゆえの熱狂である、というのはある程度まで正しいと思います。往時を体験していない私にとってそれは「他人の同窓会」なわけで、そうした内輪的な盛り上がりに終始しているとすれば、到底乗れるものではありません。串田和美+笹野高史(+中村勘三郎)がたまに見せる内輪的な笑いのイメージもあって、開演時には危惧のほうが強かったと記憶しています。


端的にいいますと、一見さんを乗せてゆく力のある、レベルの高い舞台であったと思います。

日中戦争下の上海を舞台にした日本人「ジャズメン」たちの話。楽曲が大きな見せ所、聴かせ所になるわけですが、歳とっただなんだといってもやはりシンガーとしての吉田日出子の強度は並ではない。場の一体感を統べる存在として説得力があります。
ところで芝居としては、もちろん演技のうまさもあってこそ、その歌唱力に意味が出てくるというもの。吉田の演じるまどかは、波多野(串田)ら男性キャストにとってみれば、波多野が苛立ちながら言っていたように「鈍感」なわけですが、その「鈍感」な彼女が中盤、終盤に至って、はっきりと芯の強さを持った存在に見えてくる。この役を完全に自分のものにしている彼女の巧みさです。

吉田日出子を中心に、手練れの俳優陣は劇中世界の雰囲気をつくるのに長けています。この劇にはインチキなカタコト日本語が飛び交うし、楽屋オチ的に観客をくすぐるようなタイプの笑いもしばしば出てきます。こういう要素は観客を和ませる一方で、劇世界の緊張感を削いでしまったり、弛緩し過ぎの原因にもなってしまうのですが、劇中の空気がしっかりしてるから、舞台上が日中戦争下の上海であることは揺らがない。この点、さすがです。


劇中のショーは、俳優陣がそのまま演奏家となって楽器を演奏する。これは『上海~』において、外すことのできない特徴です。もちろん初演時などは、ただの「俳優」でしかないキャスト陣が、舞台にかけられるレベルにまで楽器を演奏すること自体にもスリリングさがあったのでしょうし、演奏できることが前提になり、演目自体がクラシック化した現在とは持つ意味がまるで違うはず。とはいっても、円熟することで信頼できるショーになる、という面もまたあるわけで、演奏パートはライブとして素直に楽しかったです。それから、楽曲が終わるごとに観客から拍手が起きても、それがストーリー上、直後の展開邪魔にならない、途切れた印象を与えない。戯曲としてもそのあたりのメリハリがよく整理されているのだな、と。


終盤、阿片中毒で意識も覚束ない波多野の寂寥感と対照的な、夢パートのセッションからエンディング、カーテンコールへの流れ。現実パートの波多野の姿があるからこそのラストの大きな波を、充分な強度で創出できていたと思います。カーテンコールを単なる挨拶以上のエンターテインメントにできることも、この劇の魅力です。


歳月を経て、俳優自身の年齢と劇中年齢が大きく乖離していくこと。そこには成熟も幻滅もあるのだと思います。長い期間の内に役柄が自分の手の内に定着していくと同時に、その役柄に対して外見的肉体的な不都合が生じることもある。今回の吉田日出子に後者を感じる方々もおられるはずだし、それはそれで正しい反応。それでも、往時を投影して「同窓会」を楽しめる人にとってのみ通用するような、そんな軽い水準の舞台ではなかった、と考えます。吉田日出子は、充分に「正岡まどか」でした。

自分は二十歳を過ぎてから、歌舞伎を窓口に舞台演劇に触れるようになった人間です。役柄と俳優の年齢との乖離は、歌舞伎には恐ろしいほど存在していて、正直自分はそうした配役に違和を覚えることも少なくないし、歳を経ることを「円熟」として容易に受け入れる立場にはありません。しかしそれでも、歳を経ても若い役を演じ続けうるということを、けっこう信じているのかもしれません。

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