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~演劇とアイドルと何かと~

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種蒔いてみたけれど

*innerchid 『星合(ほしあい)』 シアタートラム (2010.4.22)


大手事務所所属とか、商業演劇のキャリアって、やっぱり侮れないよなあ、と。
いや、侮るつもりは一切ないのですが、本作のいちばんの手堅さは、役者陣の安定感だったのであらためて。

作・演出を務める主宰・小手伸也を含め、本作のキャストには大きな劇場公演のキャリアを積んでいる俳優が少なくありません。宝塚に所属していた俳優もいるし、キャラメルボックスの人もいるし、ナレーションも担当していた双数姉妹の今林久弥は『マッスル』の鶴見亜門だ(『マッスル』についてはこの時のエントリーを)。場慣れしてないわけがない。あと、声量が出ないわけがない。開演直前に前説に出てきた主宰の振る舞いを含めて安定感があって、信頼できる俳優陣であるな、と。それだけである程度、観続けられたりはするものです。逆に言うと、面白さってけっこう俳優の基礎能力にかかってたりもする。


七夕伝説と所縁の深い「星合島」(沖縄付近の設定)を舞台に、島に施設を置く民間宇宙開発団体のロケット打ち上げ計画や、団体と一部住民との軋轢を軸に、島に伝わる神事や伝説、また、かつての種子島宇宙センターのスタッフであり、原因不明の昏睡状態が長く続いていた男性技術者の「身の上」等が交錯してストーリーが展開していく。


祭りの中、一度目の打ち上げへとムードを高めてゆく場面は引き締まっていて、だからこそ、その直後の悲劇の衝撃度は高いし、鳥肌の立つ劇場体験になっていました。エンディングに向かうあたりも含め、段々にテンションを高めるシーンは全体的に手際が良くて、レベルの高さをうかがわせます。キャストの人選にしても演出にしても、大きく質を落とすことが少なそうな安心感があります。


残念だったのは、せっかく序盤で種をまいておいた色々な設定が、ことごとくあまり膨らみを持たずに終わってしまったこと。
元夫婦の男女が、開発団体側と地域住民側に分かれて微妙な距離感にあることや、その二人の娘が大学のサークルのイベントで島に帰郷していること。大学サークル内にいる双子の姉妹の性格のちょっとしたズレ。それに序盤で大きな鍵になるかに見えた、宇宙開発団体と地域住民との確執めいたもの。それらが準備されているにもかかわらず、あまり物語上活きないままに、ほとんど天女の羽衣の「七夕伝説」と、その伝説にまつわる人々の輪廻転生という話のみに乗っかってしまったような印象でした。序盤の「何か起こる」感の醸し出しには成功してたのになー、と。打ち上げ失敗、宇宙飛行士死亡が突きつけられて悲嘆にくれるタイミングで女の子にプロポーズするよくわからない神経の男性のエピソードも、その意図がわからないまま終わってしまうから、良くない意味で妙な後味だったし。


あ、それから、地域住民に「彼」の姿が見えた理由が明かされたのちに、じゃあ外部から訪ねてきた民俗学者にも「彼」の姿が見えたのはなぜか、っていう問題に対して、民俗学者曰く「私にはもともと人の魂の在り方が見えるんです」って。そんな後出し、ありなのか?また、民俗学者=超常現象的な伝説を追う人、ってイメージはいろんなところで散見されますが、本作の彼女も、話を転がすためなのでしょうけれど、それに準ずるキャラクターではあります。なんか安易な駒の設定の仕方、には見えました、多少。実体としての民俗学者って別にそういうことを得意にしてる人々ではないような気がするので。


ラストシーンは、事前に観客に配られていた小型ライトを使っての観客参加型演出。生の舞台として良い試みでしたが、正直闇の中で皆がライトを灯している画は客席からはよくわからない。舞台背景をそのときだけ反射のいい素材にして、観客が自分たちの創る「星空」を鏡に映すようにして見られたりしたら、もっと高まる終わり方になったのじゃないかなあ。
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団地の下の異界

*Project Nyx『《美女劇》伯爵令嬢小鷹狩掬子の七つの大罪』 芝居砦満天星 (2010.4.16)


寺山修司を知らない世代が彼の演劇を体感することが難しいのは、「新劇」という言葉が強い意味を持っていた時代を実感しようがないから、ということもあるわけですが(1月にも書きましたが)、それ以上にやっぱり、戯曲レベルでは感知しようのないインパクトがあまりに多かった(ように思われる)からです。彼の魅力だけは語り継がれるし、写真等の断片情報はそのごく一部を垣間見せてはくれる。それだけに、後の人間にとっては掴みがたいものだったりして。


とはいえ金守珍演出の本作は、寺山のインパクトのなにがしかを、確実に伝えてくれるものであったのではないかと思います。少なくとも、寺山の特異性を想像するための、手掛かりの一端を与えてもらえるような仕上がりなのではないでしょうか。作り手が寺山原作に託しているものを、きちんと現出できているということなのかな、と。


寺山の原作と今日の我々とを綺麗に橋渡ししてくれたのは、まずなにより劇の要所要所で演奏する黒色すみれのパフォーマンスです。他の演劇に出演していた際にも感じたのですが、この方々は劇の世界観に己を当てはめつつ、しかもマニアックになり過ぎないように外部にも届かせるのが実に達者。客演として理想的な存在だと思います。彼女たちが導入役となったおかげもあって、観る側としても一気に乗ってゆけました。


貴族邸で留守番を任された女中つぐみが、一人きりの部屋で雇い主たちの悪口を吐きつつ、おめかしをしてその家の令嬢のように振る舞い空想に遊んでいる。実はその空想的振る舞いの一部始終は雇い主である貴族一家の女性たちに見られていた。嘲笑する女性たち。うろたえるつぐみ。
と、ここまでの一連の流れはすべて、女中に妄想癖があることを知っている伯爵令嬢たちの演じる「女中ごっこ」だった。本当の女中である「もう一人のつぐみ」は猿ぐつわをされ縄で縛られた状態で令嬢たちに弄ばれながら、その寸劇(つまり己の妄想癖)を見せつけられていた。


日常的なリアルとは大きく違う設定、演技で展開してゆく話だからこそ、演出も宇野亜喜良による美術もよく映える。登場人物たちのドレスアップされた服装や、端々に異様さ・過剰さを感じさせる持ち物、それに大時計からあらわれる妄想のキャラクターたち等の要素は、特有の異空間作りに大きな役割を果たしています。

しかしまた、忘れてならないのは役者陣の演技が確かであるということです。作り込みの強い演技法があっても、視覚的なインパクトがちりばめられた演出が活きていても、演じ手に安定感がなければストーリーを展開させていく上ではつらい。基礎的な舞台演技力の豊かさを持つこともまた、「肉体の強さ」を提示するひとつのすべなのです。


貴族邸とは別次元のシーンであらわれる少女の娼婦・便所のマリアは人形で表現されます。マリアの「赤い花」、マリアの話し相手として登場する金髪のジェニー(中山ラビ)の妙に大きな存在感など、このエピソードは全体としてとてもいい。抑制のきいた便所のマリアパートと、装飾された多色な貴族邸パートとのちょうどいいコントラストの内に、便所のマリアと女中つぐみが重なる。


混沌とした要素も強いはずの舞台なのですが、黒色すみれが流れをつくる良いアシストをしていることもあってテンポがよく、また視覚的にも意外にまとまりをもっています。混沌としているようで、各要素を配置するための計算はしっかり成功している。ラストシーン、舞台床に水があふれ、背景に昇った月が水面に映り込んで輝き、月下では貴族邸の登場人物たちが楽しげに「花いちもんめ」を遊ぶ。隙のない締め括り方がさらに後味のキレを良くしてくれます。


座席は100席規模。このレベルの高さはもっと多くの人々に届けるべき、と思うのですが、公演の場となったこの芝居砦満天星という作り込まれた空間でこそ、本作の「異形」性もトータルの完成度も最高潮に達するわけなのです。住宅街の地下には、完全なる異界がありました。

コントは丁寧に

*演劇サムライナンバーナイン『ジェノサイド~ボクとカノジョと春と修羅』 中野テアトルBONBON (2010.4.15)


津山三十人殺しという大ネタを基盤に、終盤それをはるかに凌ぐ超大ネタを重ねた本作。
第二次世界大戦前夜、事実上日本の支配下にある満州。津山事件の犯人が生きて逃走、満州に逃げたとの報。禍々しさとワイドショー性の高さを備えた、キャッチーな題材のチョイス。


シリアスなテーマを軸にしつつ、ギャグでたたみかけてテンポを作るというのがこの劇団のスタイル。そのたたみかけの末に黒い重さを突きつけられればインパクトは大きいはず。そして、それを達成しうるストーリーに仕上がっているように感じました。


とはいえ、「ギャグでたたみかけて」というのはそんなに簡単なことではない。ガチャガチャとギャグを多用することは、一方でストーリー展開をぼやかしてしまうことにもなるからです。昨年のコクーン歌舞伎などにも感じたことなのですが、興味を持続させるためのはずのギャグが、かえって話をいつまでも落ち着かなくさせてしまう。そのため、津山事件という話題が終盤に至るまで、軽い、というか影の薄い存在になってしまっていて、なんとももったいない。話の展開上、津山の犯人と目される登場人物にあからさまな血なまぐささを背負わせることはできないし、舞台は満州であるため直接的に事件を説明する場面はない。けれども劇の根底に津山事件の不吉さをキープしておかないと、終盤の大ネタと有機的に繋がりにくいのじゃないかな、と。

ではギャグの応酬が悪いのか、というとまったくそうではないわけですね。それこそ大人計画とかは恐ろしくハイレベルでギャグと黒さを絡ませているわけで、食い合わせの悪いスタイルではないはず。要は、ギャグパートのシークエンス全体が荒い、ということに尽きると思います。
体を大げさに使うボケであったり、くっきりとしたツッコミであったりが頻出する劇なのですが、発声や掛け合いのタイミングが荒いのでギャグ自体を咀嚼しづらい。そこのまとまりがないので、ストーリーを説明するパートにもすんなり入っていけないのではないでしょうか。逆に言うと、シリアスなストーリーにギャグを詰め込んで、その双方の要素が面白く感じられるようにつくる、というのは団体としてとても高度な技量のいることなのだな。


この劇団の笑いのとり方というのは、率直に言うと若干の古めかしさがあります。エッジのきいた言葉選びやエキセントリックさというのではない。だから面白くないというふうには直結しませんが、そうであるならコントとしての完成度が高くないとなかなか笑えない。雑な勢い先行でオーディエンスを掴めるタイプの笑いではないので、コントとしての演技を丁寧に構築することが課題なのかなあと思います。多羅尾伴内を下敷きにした(キャラはまったく違う)登場人物とかもコントの上ではいいアクセントになるはずなので、あのキャラも作りが荒いのは残念。


あと、昨年のレビューで書いたのですが、ネットで頻出する用語は人間の声として発すると妙な違和感がある(今作では台詞に「どうみても○○です。本当にありがとうございました」が引用されている)。あからさまにメタ視点でネット語を使ってますよ、という目配せがないと、そこもなんだか妙なズレに見えてしまいます(昨日、「twitterドラマ」を見た人もそんな感想言ってたね)。


どちらかといえば、静かな場面の演出にこの劇団の手堅さを感じました。前半、谷口(大野晃紀雄)と静絵(ウチダアキラ)二人きりの会話シーンとか。両氏はそれぞれ、とてもいい役者に見えた。適役だったこともあるんでしょうね。役者陣でいえば、小名木美里さんという方は、もっと普通に色気の出せる人なんじゃなかったかな。いまひとつその良さが見えなかったのは、舞台全体のばたつきのせいかも知れません。


ケレン味のあるキャラ設定も、引きの強いモチーフも、悪くない。ただどうにも演技の雑さ、まとまりのなさが全体のトーンをすっきりしないものにしているような。「津山事件の背景にあったのは実は…」というオチはなかなかに「おいしい」題材なわけですし、終盤のインパクトはわりと良かったと思います。磨かれれば急に完成度が上がることもありうる。現状のこのどうにも抜けきらない荒さが、「原石」感なのかこの劇団の限界なのか、それはまだわかりませんが。

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