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僕たちの好きな勧進帳

*木ノ下歌舞伎『勧進帳』 STスポット横浜 (2010.5.17)

 正直『勧進帳』って途中で眠くなる、と思っている方に朗報です。とりあえず木ノ下歌舞伎を観ればよいと思います。


 今回の木ノ下歌舞伎『勧進帳』が決定的に素晴らしいのは、「勧進帳はやっぱりイイ」と言ってる歌舞伎の観客たちが肝心の上演中にけっこう寝てるじゃないか!という違和をまず前提として突きつけ、その上でなお、単なる皮肉を表現するのではなく、『勧進帳』へのリスペクト、歌舞伎への愛着に溢れた作品を結実させているところです。そして何より、現代演劇としてタイトな面白さのものに仕上がっているということ。
 歌舞伎を現代のものとして考える、とはまさにこういうことだよな、と。


 歌舞伎を現代のものとして考える、と言いました。つまり歌舞伎の同時代性へのすり寄せですが、これは近代以降ほとんど常に試みられているといっていいでしょう。とりわけ歌舞伎と「大衆性」との距離が空いてきた今日についてももちろん、いくつかのアプローチでそれは行なわれています。少々脱線します。


 まず松竹を中心になされる、いわゆるプロの歌舞伎俳優たちによる試みがあります。具体的にはコクーン歌舞伎、スーパー歌舞伎、あるいは近年でいえば野田秀樹、宮藤官九郎等々の現代演劇作家を作・演出に迎えるという方法。そこには、歌舞伎の本道に位置する人たちによる試みだからこそ起こせる大きさの地殻変動もあるし、同時にその立場ゆえの限界もあるわけで。

 いわゆる歌舞伎俳優ではない人たちによるものだと、有名演目(四谷怪談、曽根崎心中など)の演出をアップデートしたものにしてやるもの。映画なんかでも多いですが。あるいは、歌舞伎の演劇形式を基本的にそのまま取り入れて上演しようとする、昔でいう「小芝居」のようなかたちのもの(昨年のこちらなど)。これは上演者たちの歌舞伎への憧憬をストレートに表すものといえそうです。

 それから、特定の歌舞伎演目の背景にある人間関係や題材を現代演劇として解釈し直すというやり方。このへんを挙げだすと切りがないですが(本ブログで最近とりあげたものだと、勧進帳をタイトルに用いた昨年の『今勧進帳』など)、試みとしては繰り返されているものです。


 こういう歌舞伎をモチーフにした、あるいはなぞった作品の制作者はもちろん、当の歌舞伎や演目に愛着を持っているわけです。それは木ノ下歌舞伎の制作陣だって同様なはずですが、彼らは「歌舞伎の素晴らしいところ、好きなところ」に耽溺したまま制作する、ということをしません。


 彼らはまず現代社会にあるものとしての歌舞伎を俯瞰して、違和感を確認します。先にも触れた「肝心の上演中に観客が寝ているのに、『勧進帳』はやっぱりイイと観客は評価して帰っていく」という状況は、本作で演出をつとめる杉原邦生の指摘です。幕切れの飛び六法くらいしか真剣に観ているようにみえないのに、という。
 ただ、杉原はそれを冷たい皮肉のような目線で捉えてはいない。そういう観客の「歌舞伎」(というイベント)への反応まで含めた環境全体を面白がっている。だから、その寝てしまう観客、という存在まで、実に軽やかに舞台上に現出させてしまいます。


 ストリートっぽい現代装の若者然として登場する富樫左衛門(福原冠)は、名乗りを終えると(ここの台詞は歌舞伎版に忠実)、椅子に座って関を通る人間が現れるのを待つ。そこへやってくる弁慶(John de Perczel)を含んだ義経一行。通常の歌舞伎であれば、このあたりで早くもうたた寝に入る観客があらわれます。弁慶がつらつらと台詞を述べる。と、椅子に座って読み物(歌舞伎の筋書き)をしていた富樫が、ぱたりと筋書きを手から落とす。見れば富樫はうたた寝している。このとき福原冠は富樫ではなく、弁慶一行のシーンの間に「寝てしまう観客」を舞台上で演じています。『勧進帳』と観客との関係の批評なわけですが、これが繰り返すように、歌舞伎というものを突き放した冷たい皮肉などではない。なぜなら、舞台上で彼らが作ろうとしているのはまさに最高に面白い『勧進帳』だから。


 小劇場の凝集した空間の中でビートを重く刻むBGMが、登場する人物たちの関係性をテンポ良く盛り立てる。そのリズムに促されるように、福原は「富樫」に戻り、弁慶と対峙する。演出・杉原の創る、「読み上げ」や「問答」の場面の緊張感はメリハリがあって、そこにあの「勧進帳」の、少なからぬ人々の眠気を誘うような何かは一切ない(富樫役の亀島の表情は本当にイイ)。
 筋立ても台詞も同じなのに、つまり勧進帳のやり取りや筋立てにはある意味とても忠実なのに、それが単なるトレースし直しに終わっていない。現代風の格好をした俳優が、あるいは富樫や山伏として、あるいはストリートの若者として立ちあらわれつつ、逸脱しないバランスで『勧進帳』の筋立てが遂行される。歌舞伎の専門でない人々が歌舞伎の演目を今日創ることの意味とは、まさにこういうことだと思います。少なくとも、この水準で成功しているものはそうそうお目にかかれない。


 主宰・木ノ下裕一は『勧進帳』について、テキストだけ読んでいても正直よくわからない、テキストより演技、演出の比重の方が大きい演目である、と言います。なまじ歌舞伎が好きだったり、歌舞伎に近い場所にいたいと思うと、演目等について「理解している」というふうに振舞いたいものですし、なんとなくそこで描かれている「主人への思いの深さ」とか「それに心打たれる富樫」みたいな部分に納得してしまおうとする。木ノ下歌舞伎最大の歌舞伎ファンと思しき木ノ下が、このように「わからない」と言える、その地点から始められるというのは大事なことです。その木ノ下が、先の演出・杉原のような俯瞰した視点を共有し、さらに杉原の水準の高い演出(本当に高度なバランス感覚だと思う)がそこに伴う。最高に面白い、現在系の『勧進帳』。


 『勧進帳』最大の見せ場である飛び六法は、実は本作では割愛されています。寝ている観客たちでも、最後に飛び六法だけ観れば「やっぱり勧進帳はいいね~」と言ってしまえる、あのキラーチューンはそこにない。けれど、そんなこと問題じゃない。こんなに中身を濃く味わえる『勧進帳』に会えるのだから。

(同日追記)
 世間的な立ち位置を突き放すように俯瞰しながら、対象への強いリスペクトと愛着が表現される、という点では「マッスル」と少し(あくまで少し)通じるところもあるかもしれませんね。けれど、歌舞伎と同じ「演劇」という土俵で、わりと正面から対峙してるぶん、「マッスル」にない強度を持ってる気もします。
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怠けてても、怒られない

*パルコ・プロデュース公演『裏切りの街』 PARCO劇場 (2010.5.12)

恋人等と一緒にいる理由として、「この人といると“お互いを高め合える”から」「尊敬できるから」というのを、たまに耳にすることがあるのですけれども。もちろん、それで互いが充足できるなら何ら問題はないわけなのですが、異性との関係が続くっていうのは、そういう「ポジティブ」な、きれいな話ばかりではないわけで。

ということを丁寧に見せてくれるのが本作『裏切りの街』。ストーリーとしては登場人物がことごとく浮気をしている、不倫をしているという話。とはいっても、不倫を単なる人間関係の泥沼として描いたりとか、あるいは「不倫相手との関係こそ美しい」みたいな短絡した価値観に落とし込むことに、作・演出の三浦大輔の興味はありません。
彼が見つめているのは、その関係がだらだら引き続いていく中に垣間見える、目の前の状況に「向き合わないこと」「逃げ続けること」です。


専業主婦の智子(秋山菜津子)と、恋人と同棲している(ほぼ)ニートの裕一(田中圭)は、それぞれに夫、彼女を持ちながら、ツーショットダイヤルを介して知り合い、体の関係を続ける。性欲に流されて、ではあるものの、他ならぬこの相手同士で関係を繋ぎ続けることに対して、強い熱情みたいなものがあるわけではありません。その関係をはっきりさせる、ということをなんとなく避ける。だから、関係を絶つ、という「向き合わなければならない」シチュエーションに身を置くこともしません。なんとなく会ってセックスする関係は続く。


彼らはひたすら、「対峙する」という面倒臭さを避けている。
裕一にとって、そうした面倒臭さとは、たとえば休みがちなバイト先に連絡をとること、恋人・里美(安藤サクラ)が自分を思ってくれる気持ちに正面から応えること、それに智子との関係をはっきりしたものにすること。智子にとっての面倒臭い案件は、親切に接してくれる夫とのズレを直接話し合って解消すること、自分の社会的なポジションを定めてしまってそれを受け入れること。でもそれぞれに、そういう面倒臭さに強く抗うわけではない。なんとなく、先送りにする。


その二人が繋がり続けているさまをあらわすのが、裕一の「怠けてても、怒られないっていうか」という言葉。たとえば「“お互い高め合える”」みたいな志向って、もちろん立派ではあるのだけれど、自分を律する意思が強くないと言えないことでもあったりします。「ダメ人間っすよね」と言い合う二人にとって、「ダメ」が自分だけではない状況に浸かっていられる場所が、ここではお互いなのです。ダメ人間と言い合ってはいても、その自分の「ダメ」に対峙するということも先送りにして逃げているわけで(それが「ダメ」のあらわれともいえる)、いつしかその逃げ場としての逢瀬になっている。その逢瀬が自分に必要である、と強く考えるような意味での「対峙」もしないわけですが。


 三浦大輔は「怠けて逃げてばかりいると、罰が下るって思われがち」だけど、時間に任せていればそれなりに帳尻が合ったりもするし、「怠けても時間は過ぎていって、なんとなく人は生きていく」と語っています。怠けること、向き合わないことに対して、何か意見するような価値観はそこにはない。単なる楽観とも違うと思いますが、逃げ続けた先に何があるのか、ということを、結論を急ぐでもなく考えようとしています。その視線の優しさ、というか「怠けること」を平熱で捉える感覚は好ましく思いました。


 智子の夫・浩二(松尾スズキ)、裕一の恋人・里美(安藤サクラ)はそれぞれ、智子、裕一のことを思いやる相方として登場します。優しいことは間違いなく、当人たちにも相手を思いやっている自覚がありながら、相手の温度をうまく掴みきれずに、智子や裕一がその好意に乗り切れない、というズレがうまく描けています。智子も裕一も、相手のそれが善意であるということも手伝って、その噛み合わせの悪さについて相手と話し合うこともできないまま、溝が静かに広がってゆく。

 とはいえ、浩二も里美も、ただのズレた善意の人として登場するわけではなくて、終盤には、ずっとしたたかで恐ろしい存在として浮かび上がってきます。恐ろしいとはいえ、彼らの姿は人間の単純じゃなさをしっかり見せてもくれる。


 智子や裕一のように浮気を続けることが、イコール当人のしたたかさをしめすことにはまったくならない。それに、このように恋人や妻を「裏切る」ことがイコール、当人にとって相手に対する全面否定などでは一切ない。変わらず「愛している」わけだし、心が離れているわけでもない。そういう、本当は当たり前のことが、「普通の」善意の人に見える浩二・里美の姿を通して強く突きつけられる。サブキャラクターである彼らの存在こそが『裏切りの街』に深みを与えます。


 松尾スズキ演じる浩二の静かに恐ろしい決定打によって、智子と裕一は切実な選択を迫られる。迫られるはず。しかし、そこで自覚的に選択し道を定める、というような正統なビルドゥングスロマンがそこにあるわけではない。傍から見ればどう考えても一大選択を迫られているのに、やはり対峙できなかった姿がそこにあります(智子の方にとってはとりわけ重大な決定なので、彼女がそのままああいう結果に流される、ということには違和、というかちょっと留保しておきたいところもありますが)。


 最後まで状況に「対峙できない」二人。セックスなしにただ会っていても、特に話が合うわけでもない。それでもぬるい空気を共有できるからなんとなく繋がってみる。お互いのことを探り合いつつ、ぬるい時間を延長しようとする二人の姿、それを厳しい目で見るわけではなく、過度に擁護するでもなく描く三浦の視線は心地よく感じられました。

呪いなき時代のリスタート

*マッスルハウス9 後楽園ホール (2010.5.4)


ガチ(真剣勝負)/ヤオ(八百長)の単純な二元論の勢いに呑まれて色あせかけたプロレスを、気のきいた(ここが大事)カミングアウト手法をもって肯定してみせたのが、そもそものマッスルの素晴らしさでした。
「ハッスル」のようにエンターテインメント路線をベタに突き進むのとは、ある意味真逆のやり方で「台本」の存在等を公表しつつ、巧妙に展開させることでプロレスの魅力を否応なくあぶり出してきた。ガチ/ヤオの硬直的な二元論の「呪い」を知的に笑い飛ばしてきた爽快さがそこにはありました(詳しくはこちら)。


そういう自らの役目の第一段階を、「マッスル」は少し前に終えていました。彼らの示した視点はここまでである程度共有されたし、プロレスを擁護したい側にとってなにがしかの余裕をもたらしてくれた。

そうした成果がもたらした土壌の成熟はまた、「マッスル」の頭脳であるマッスル坂井自身の迷走の始まりでもありました。彼らの提示したインパクトと知性が大きなものであっただけに、次の一手に対する期待は必要以上に高まってしまって、ただのパロディ、ただの「笑える」では見る側も、おそらくは本人たちも行き詰まりを感じてしまう。笑いの先に鋭い問題提起を見せてこそのマッスルではないのか、と。
行き詰まりが末期的にあらわれたのが昨年5月のマッスルハウス8でした。その行き詰まり、修羅場をむき出しにすること自体が見世物にはなっていましたが、この先どうするのかなあ、とは皆が感じていたはず。2010年始には大会は組まれず、一年ぶりの開催となったのが今回の大会。


「キングオブコント」をパロディ化した「リングオブコント2010」が今回のメインテーマ。鶴見亜門の確かな仕切りと演技力を中心に、ゆるやかに本家をパロってゆく空気感で、いつものマッスルを思い出させてくれる。出場選手それぞれが個別に試合をプロデュースし、得点を競うという趣旨。
採点制プロレスといえば、マッスル自身がかつて演ったフィギュアスケートプロレスを想起するのですが、その際のような尖鋭な批評性は、今回は特になし。先にも言いましたが、その役目は少し前に終えているのです。その頃と同質の尖鋭性を求めるのは立場上、また環境上、すでに難しくなっています。そういう環境が出来上がるほどにハイレベルな批評を示してきたのもまた「マッスル」自身なのですが。


それはともかく、個々のプロデュース試合はいつものマッスルのクオリティを存分に示すもの。男色ディーノ対趙雲子龍(改め新キャラ“諸葛孔明”)では試合中、場内各所で喧嘩が起こり、それぞれが衣服を脱ぐとディーノと趙雲のコスチューム。「ディーノ対趙雲」が計5か所で同時発生したのち最終的にディーノ5人対趙雲5人のタッグマッチに。菊タロープロデュースの試合では後半、1986年のアンドレ・ザ・ジャイアント対前田日明戦を再現。あるいは広田さくらの「引退試合」、大谷晋二郎の新日本プロレス時代にタイトルを獲れなかったスーパーJr.を(マッスル自前のレスラーで)再現するなど、プロレスもプロレスファンも大事にしつつ、外部にも届かせうる流れをつくっていました。ラストはマッスル坂井が、なりゆき上面倒をみるはめになっていた20人ほどの児童を引き連れて、子供の顔色をうかがいつつ、最後は青塗りのドラえもん風キャラ「肉えもん」となって、六角レンチで相手を襲撃。キングオブコントの幕を閉じます。

もちろんのこと、ただのパロディ等々で終わってしまっては、これまで築いてきた「マッスル」のクオリティではありません。とはいえ、迷走が続くマッスル坂井、ここより先に機転をきかせてなにかひっくり返すような余裕もありません。前回はその行き詰まりの中でのもがきそのものを、かろうじて見世物として呈示していましたが、今回はその手も使えない。本当の手詰まり。


代替案として示されたのは、坂井自身が正面突破のプロレスを今一度やることでした。たぶん、この回帰はとても大事。ことの成り行きをキングオブコント審査員として見守っていた、「マッスル」の母体DDTプロレスの高木三四郎社長の口から坂井に、「楽な方、楽な方(パロディやお笑いでお茶を濁すのみのプロレス)じゃなくて、もっと厳しい面をみせなきゃいけないんじゃないのか」と叱られ、急遽大谷晋二郎とのシングルマッチが組まれます(高木自身が「俺が対戦相手になる」とばかりに服を脱ぎ始めたところで、坂井が大谷を指名して高木がコケる、的なくだりもありつつ)。


大谷の体躯の強さに圧倒され敗れながらも、このところ「酒、ギャンブル、『ハッスル』など、楽な方ばかりに行っていた」坂井は正面から大谷の技を受けるプロレスを展開。ここでプロレスラーとしての「厳しさ」を見せる。「マッスル」的な台本構成の緻密さ等ではない、ストレートなプロレスというスタートライン。そしてラストのMCでは、仕切り直して「マッスル」を続け、武道館興行を行いたいという目標を掲げてみせました。


正面突破のプロレスを愛するがゆえに、プロレスの正面玄関とは異なる場所から頭を使って問題提起をしてきた「マッスル」は、自らの武器である斜からの知的さを継続することに行き詰まりました。だからこそプロレスを正面から受ける大谷対マッスル坂井が必要だった。リスタートして「マッスル」として何を提起できるのか。簡単ではありませんが、次の展開にもまた、観る者のハードルが上がってしまうのがこのマッスルの、優秀さゆえの悩ましさです。

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