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~演劇とアイドルと何かと~

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未完成の才気

*月刊「根本宗子」『根拠のない余裕』 タイニイアリス (2010.7.25)

「この1年でいろんな人に会い、私の中で‘世の中のほとんどの男性は、根拠のない自信と余裕を持っている’という持論が生まれました」
「簡単に言えば、女性のお客様がほくそ笑み、男性のお客様が悔し涙を流す芝居にしたいと思っています」

 チラシの中で不敵に笑う主宰・根本宗子は、そんなふうに挑発的な宣言をしていました。弱冠二十歳の彼女が放つ勢いとある種の青臭さ、それに目をひくチラシデザインに垣間見える軽やかな計算高さ。A4判を有効に使って、どんな意味であれ「ひっかかる」フライヤーをつくることに成功しています。新興の劇団にこうした鮮やかなセンスが備わっているのは頼もしい。

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 一方で彼女は劇をつくりながら、チラシで述べた、いささか一方的ともとれる主張を修正していったようです。「自分に甘い人が多過ぎる」という当初の彼女の苛立ちは、台本を書くにつれ、彼女自身の自分への「甘さ」と向き合う作業でもあったようで、上演された作品は先にチラシで暗示された、「男性」の根拠のない自信や甘さを突きつける劇ではありません。しかし、そこには甘えてすがるしかない人々の姿が、確実に刻印されています。


 作家志望の俊一郎が「カンヅメ」のために、恋人の彩香を連れて都会から離れた群馬のラブホテルに長期宿泊する。恋人・彩香は俊一郎の才能を妄信して、己に甘いだけのような俊一郎の我儘を、才能ゆえの敏感さと解釈して世話している。ホテルのオーナー・ちあきは彼らを嘲笑しつつ淡々と業務をこなしているが、彼女もまた彼氏からの度重なるDVを受け、隠しきれない傷跡を多数負っている。田舎の狭い人間関係の中ではその二人の問題も明白なのだが、従業員たちはそれを「見ない」ことにして日々を過ごしている。


 おそらく企画時に根本が描きたかったのであろう「男性」の己への甘さや「根拠のない余裕」は、作家志望の俊一郎に集約されています。雨で原稿用紙が濡れた、自分の嫌いな関西弁を恋人の彩香が使った、「くだらない」奴が喋ってるのを聞いてやる気がうせた、と理由をつけては機嫌を損ね、執筆から遠ざかる。彩香がご機嫌をうかがえば、素直に甘えてみせたり、細かいところでまた我儘を増殖させたり。従業員が部屋のエアコン修理に訪れ、彩香に「あの男、ただのヒモじゃん」と言えば、彩香に対して「君があんなくだらない人間と普通に会話できるのをみると不安だ」とふさぎ込む。彩香はそれらを、彼の作家としての才能に通じる繊細さであると受け止めて、甲斐甲斐しく世話を焼き続ける。不毛に見えるけなげさが痛々しい。

 こうした共依存の描写は巧く、観る者が己を自省していたたまれなくなるような水準のものになっています。二十歳、旗揚げ一年、とそこだけ聞けばこういう「巧さ」レベルは期待しないものかもしれませんが、そういうキャリアの少なさを感じさせないセンスをもった作家であるようです。


 ラブホテルを経営するちあきと恋人・信夫は、この芝居にあらわれるもうひとつの共依存。信夫はちあきのちょっとした言動に対して、自分の真意が理解されていないと苛立ち、その苛立ちに対して場を取り繕おうとするちあきに暴力をふるう。ちあきは「殴られることは、それだけ私に期待してくれてるということ」と解釈し、その実感をもたらす信夫から離れられない。傍から見れば異常に感じられるその関係を、田舎のラブホテル関係者という狭い集団の成員たちは当たり前に受け止めて、「見ない」ことにしている。


 自らの平凡さが抜きがたいコンプレックスになっている彩香は、その異常さを平然と受け止める価値観にあてられ、「変わっている」ことへの憧憬を加速させる。俊一郎が抱える(わりと他愛ない)トラウマも、作家にトラウマや傷はつきものだから、それはすごいことである、と解釈する。「変わった」価値観や才能を求め、人前でのセックスや、自分の前でデリヘル嬢とセックスすることを要求する彩香に対し、俊一郎は己の平凡さをどんどん露呈する。
 ホテル内で目撃したちょっとした流血沙汰に怯えて閉じこもる俊一郎にはそもそも、大多数の人間をくだらないと否定するほどの「異常」さも強さもない。根拠なく自分の卓越性を信じる者の弱さも、自分の平凡を過剰に否定して無理のあるエキセントリックに走ろうとする者の弱さも同じように、いたたまれない。そうした人間の姿が鮮烈に、また低からぬ水準で描けています。


 欲を言えば、その先、が描ければもっと衝撃は強かったのでしょう。優れて描けていたのは、弱い男女の共依存の姿までだったように思います。けれども、充分に巧さもセンスも見せてくれた舞台でした。平凡さを見直しかけた彩香と、その先に待つ瓦解の予感を感じさせるラストシーンの切り方も鮮やかですし、根本宗子の才気は感じざるをえない。走り出したばかりでキャリアも名声もない作家や劇団の、未完成な才能の息吹は羨ましくも心地よい。公演を追うごとに洗練させてくるであろう月刊「根本宗子」は、チェックしておいていいと思います。
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プロモーションがアトラクション

*劇団鹿殺しRJP 水天宮ピット (2010.7.23)


簡単に言うと、鹿殺し観てない人ははやく観ておこうよ、というエントリーです。

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劇団としての通常演劇公演とは別に、路上での音楽&ダンス的パフォーマンスを積み重ね、ついにはその路上パフォーマンス(RJP)自体が呼び物となって野外フェス等にもしばしば登場する、鹿殺しの別動部隊。普段劇場に足を運ばない人たちのことも巻き込んでいこうとするその身体表現は、凡百のフライヤーなどよりもインパクトは多大で宣伝活動としての有効性も高い(本公演についてのエントリーはこれとかこれ)。


劇場体験はコンビニエントに切り売りして見せることができなくて、その意味で演者の魅力を外部に届けることは、演劇の場合とても難しい。鹿殺しは積極的に劇場から野外に出ていって、舞台の魅力のごく一部(それは彼らの魅力のとても肝要な部分なのですが)を不特定多数に強引に見せつけてゆく。プロモーションとしてもしたたかなその活動は、キャリアを重ねた今、劇団鹿殺しに欠かせない一大要素になっています。


全体にストーリーを紡ぐわけではないRJPは、基本ノリと勢いで終始もっていきます。彼らが本公演で見せる身体のキレを、エッセンスだけ取り出したようなスタイル。中央で歌い踊る菜月チョビはいつものように凛々しい。緩みない動きを見せる男性団員たちが周囲に配されても、小さな体躯の彼女の力強さは遜色ないし、時に俯瞰して観客を自分たちの側へのせてゆくMCも場数の量を感じさせる見事なもの。
勢いで押すタイプの上演でありながら、下品になり過ぎない慎ましさも併せ持っていて、胃にもたれない量感がちょうどいい。サウンドは豪勢とは見えない機材から発せられるため、音質に限界があるのですが、そのことを気にさせない身体の鮮やかさ、押し引きの加減をわきまえた「ノリと勢い」感で、数十分間を駆け抜けます。

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イベント全体としては、東京芸術劇場が運営する稽古場スペース「水天宮ピット」の完成記念を記念した催しです。劇場・劇団経由の情報で集まった人のみならず、家族連れを含めた近隣住民と思しき方々の姿も多く、脈絡を知らずに初めて観た方も少なくないはず。二回に分けて行われたパフォーマンスのうち、初回はそうした見物層とのコミュニケーションが十全ではない場面も見受けられました。二回目公演でそこを踏まえて立て直し、最終的に周囲の観客を自分たちのものにしていく強さ。手ごたえを探りながらMCの傾向を変え、よどみなく流れをつくってゆく姿に、自らの路上パフォーマンス経験に対する信頼がうかがえて頼もしい。


以前も書きましたが、劇場に足を運ぶまではその劇団への評価なんてあるわけなくて、それ以前に、知り合いでもない人間を劇場に呼ぶことこそが非常に高いハードルであるわけです。宣伝とは、そういう人たちをまず「劇場に来させる」ためのもの。細かいこだわりなんて後から知ってもらえばよくて、まずは一見さんをとり込んでゆく何かを見せる。それはフライヤーも野外活動でも同じこと。鹿殺しの路上パフォーマンスはプロモーションとして最高に優秀。秀逸な広告は、それ自体でひとつのアトラクションなのです。

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※上演中の写真をブログにあげてOKという許可を、劇団員のオレノグラフィティさんからいただきました。もし問題のある画像等ございましたらお知らせいただけると幸いです。

境内のシェイクスピア

*椿組『天保十二年のシェイクスピア』 新宿花園神社境内特設ステージ (2010.7.20)

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井上ひさしの手による本作が初演されたのは1974年。1960~70年代初頭あたり頃の日本のシェイクスピア劇について蜷川幸雄が以前、「なんで、あんなに教養主義というか、啓蒙主義というのか、学校へシェイクスピアを習うように劇場へ行かなきゃいけないんだ?」という反発があったと述べています。おそらく本作はある程度、井上ひさしなりのスタイルでその違和感を表明した作品でもあったのでしょう。シェイクスピア全作品のエピソードを織り交ぜて天保期の任侠劇に仕立てたこの劇は、シェイクスピアをダシにした明快なエンターテインメントになっています。

教養主義的なシェイクスピア観に対するアンチテーゼ、といっても、シェイクスピア全作品を作中に入れ込むというスタイルを生真面目にやってしまうと、それ自体が知識をひけらかしたペダンチックな遊びにも見えかねない。そうなっていないのは、あくまで幹となるストーリーをスリリングに紡ぎ、ばかばかしい笑いで包むスタイルを主眼に置いていて、その目標がぶれていないからだと思います。シェイクスピア作品のエピソードや台詞を知っていれば知っているで要所要所に反応できますが、事前知識がなくても決して退屈さも冗長さもないでしょう。
初演当時にあったであろうアンチテーゼは、今日そのまま妥当するものではないかもしれませんが、それでも全く無効になったとは思いませんし、そもそもそんな主義や立場を抜きにしても、単純にシェイクスピアで遊ぶことの面白さが存分に表現できている戯曲です。


飯岡・笹川両地の境にある、女郎を売りにする二軒の旅籠同士の諍いを軸に、その両旅籠の持ち主である姉妹間の勢力争い、姉妹それぞれの肉体にそそのかされつつその主人の座につこうとする用心棒たち、両旅籠の争いのうちに漁夫の利を得るため画策する傴僂の男らが蠢く。


なにより最高なのは、セックスや謀略、うつろってゆく人々の関係のラフさ加減が、仮設テントの現出してくれる荒い手触りによくマッチしていること。登場人物たちは、権勢とセックスを求めながら、綺麗とは言い難い世界で己を見せつけては死んでいく。団扇の手放せないじめじめしたテント小屋は、小汚くも魅力的なその模様を体感させるにもってこいの場です。仮設の小屋がつくりだす磁場と相性の良い世界観が創出されています。主人を追い落として旅籠の主の座についた幕兵衛が妻・お里の計略を疑う末、セックスの最中に彼女を刺し殺す場に至って、汗臭さと高揚感と苛立ちでその磁場の効果は最高潮に達しました。


テントという場との相性はまず特筆すべきなのですが、役者たちの表情も素晴らしい。権力欲と肉欲に突き動かされる人物たちの顔には野心も逡巡も色濃くあらわれるし、その緊張感のある顔つきはどれも皆格好いい。後半特に存在感が際立ってゆくお光/おさちの双子を演じた李峰仙は、薄暗く湿気っぽいテントの中で光を当てられたみたいに楚々として美しい。
2005年にシアターコクーンで上演された蜷川幸雄演出版の『天保十二年の~』も、コクーンらしい豪勢な顔触れで、それはもちろん皆いい顔してたのですが、椿組晩版も濃度はまったく劣っていない。テント小屋が引きだしてくれる雰囲気の助けもあって、椿組に利がある部分さえあったかも。

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ラストは農民の蜂起とともに仮設小屋の一部が倒壊し、閉塞していたテントが外部に開かれての祝祭的シーンが登場します。密閉空間に風穴をあけるこの演出はコクーン歌舞伎や平成中村座などを想起させるものでもありますが、コクーンが完全な「建物」、中村座が仮設とはいえそれなりの規模の小屋であったのに比して、ここは神社境内の一角に建った小さくて暑苦しいテント。外界に風穴が通った瞬間の解放感に加え、このテントなど簡単にすぐ取り壊してしまえるのだなという儚さも垣間見えるその崩れっぷりは、芝居内の喧騒と相俟って強く爪痕を残す。


今回は晴れていたのでまだ快適でしたが、雨の中、崩れたテント壁の外で役者たちがずぶ濡れになって踊りわめくラストシーンというのも見てみたいかも。そんな天気ならば、客席で相当不快な汗にまみれることは間違いありませんが、それもまた快楽に変換できるのが仮設テントの磁場というものですし。

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