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子どもたちはみな踊る

*双数姉妹『20年目の正直』 赤坂RED/THEATER (2010.11.11)


 気付けば堅実らしき道を選ぶことも忘れ、そのことについて決定的な逡巡をしているのだかいないのだかわからないけれど、とりあえず踊っている。わかりやすく自分を慰撫してくれる何かが実っている未来なんて、本当はないかもしれないのに。
 劇団を続けるということもまた、まさにそういうことなのでしょう。早稲田大学の劇研から始まった劇団・双数姉妹が20周年を迎えて紡いだのは、不毛かもしれなくても踊りをやめられなかった人たちと、踊りをやめた人たちの話。
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 山梨に眠るらしい「武田信玄の埋蔵金」を掘り当てるため、現地に家を借りて共同生活を送る、1993年の大学生たち。一時的にテレビ番組にも取り上げられ調子づく彼らは、メンバーの家に伝わる「古文書」を頼りに大学生活を埋蔵金発掘に費やす。やがて来る大学生活の終わりの気配を遠ざけながら、このままでいられるような、根拠のない予感をあてにして夏を過ごす男女。「古文書」の持ち主であるメンバーが就職活動に成功して山を降りる意思を語ると、見ないことにしていた何かが急速に彼らを包んで影を落とす。
 同時進行で語られるのは2010年冬の同じ場所。いまだ共同生活を送り、発掘を続ける者たち。実家が裕福であることが明示されるメンバーの経済的余裕によって発掘作業を維持しているであろう彼らのもとに、93年に就職し山を降りたメンバーが戻ってくる。


 あやふやなものを拠り所に「埋蔵金」発掘作業をやめられない彼らの姿は、明確に双数姉妹という劇団自身を喩えたものです。そこには自分語りと、その語る自分を突き放すような俯瞰が入り混じる。意思を挫くような話には目をそむけながら、やってみないとわからないという常套句にすがりながら、先が見えないまま踊り続ける。もはや「踊り続ける」そのこと自体が目的なのかもしれなくて、発掘作業継続のモチベーションを維持するための“捏造”をするメンバーさえあらわれる。20年の時を経たメンバーたちはどこにも行けてないし、これを手に入れましたと胸を張れる何かもありません。だからこそ、自分の狭い視野に閉じこもってでも、自分を肯定し続けなければならない。


 この芝居が単なる「実人生重ね合わせモノ」と異なるのはその演出形態です。1993年の場面と2010年の場面は同時進行で展開されるわけですが、それは両時代のシーンが交互に舞台上に展開される、というのとは少し違う。
 舞台には常に1993年の彼らと2010年の彼らが共に居て、同一空間上で動き、会話し、葛藤しているのです。2010年の女性メンバーが共同生活をする部屋の中でひとり佇んでいる、その目の前では1993年の彼女が他のメンバーに感情をぶちまける。あるいはかつて就職のために山を降りたメンバーが2010年、共同生活場に戻り、いまだ発掘を続ける友人に、破綻を呼び込むような事実を伝える。その背後では、1993年、就職することを周囲に説明したばかりの彼が、何事か思い巡らしながら腰掛けている。
 1993年側が激しくやりとりをしている間、2010年側は静かに大学生時代を回想しているような、もしくは若いかつての己自身を優しく見守ってあげているような趣。逆に2010年側では歳を重ねた人々が自身の現在に惑っていて、その姿を前にした1993年の大学生たちは、まだ見ぬ己の未来、格好良くなどあり得ない己の未来を思い描いているようにも見える。それぞれの時代が終盤まで直接リンクすることなく同時進行しながらも、また互いの時代を傍観しているような、不思議な共時性が展開されています。時系列のシャッフルでも交互に提示するでもない、同一空間上の同時展開。それゆえに滲む両時代のリンクは、舞台演劇だからこそ創造しうるものでしょう。


 先に何もないかもしれない予感は大学生の頃も現在も、何も変わっていない。ただ時間を経て、やっぱり惑っているそれぞれがいるだけ。1993年の彼らにもそんな予感はあるし、それに違わず歳を経てしまった彼らは、かといって単純な諦観で事後を生きているわけでもありません。そもそも現在の彼らにとって今の自身は「事後」などではない。ただ、先に何もないという予感は大きなものになって、リスタートも困難になっている。
 同時にまた、踊りをやめた人間だって挫かれもすれば惑いもし続ける。あの日就職のために山を降りた彼は、ままならない自身の現状を抱えながら2010年の山小屋に舞い戻って、踊り続ける者たちに「事実」を知らせ、発掘作業を続ける彼らに破綻をもたらす。もう埋蔵金発掘に興味などない、けれども行くあてもない彼のくたびれた風情もまた、20年間の痕跡。若さを振りかざすにはいささか遅く、人生を振り返るには早すぎる。うまくゆかないまま「半ば」を生きる彼の姿が、もっとも堅実に見えたはずの1993年の彼と同一空間上で重なる。
 最終盤、ふたつの時間が融合して、論理を飛ばした両者の邂逅が生じると、2010年の彼は、1993年の彼に声をかけます。「就職決まったんだって」「お前、まちがってないよ」。踊ることから降りて20年、結局ままならぬ今日を知ったうえで若かりし自分にそう投げかける彼にあるのはたぶん、悪意でも虚勢でもない。彼は、まるで満足などしてはいないけれども、納得はしている。大学生時代の自分を見つめる彼の優しい視線と、20年後の自分と名乗る男を戸惑いながら見返す、リクルートスーツ姿の彼が印象的でした。あやふやなものを追って踊り続けたい人間にとって「2010年の彼ら」の姿は、ひょっとしたら少し先の己の姿。けれど一方で、我々はまた「1993年の彼ら」でもあるわけで。たぶん何十年経っても、「1993年の自分」を捨てることはできないのでしょう。
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