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~演劇とアイドルと何かと~

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「ポスト・アイドル期の舞台」という困難

*『安倍内閣』 本多劇場 (2010.12.23)


 「前から『なっち』や、『アイドル』というイメージを壊したいっていう気持ちはありました」 「今思うと、ハロープロジェクト(原文ママ)にいたときは、みんなが求めている、みんなが大好きな『なっち』をどこか演じていたんですよ」(「週刊プレイボーイ」2009.6.29号:p22)


 一年半ほど前の安倍なつみの言葉です。アイドルが「卒業」やイメージチェンジに際して語る折に幾度も繰り返されてきた(そしてそれ以後も繰り返されている)、既視感のある表現がそこには並んでいます。しかしまた、そうした手垢のついたフレーズが幾人ものアイドルから定型のように提示されるという現象は、「アイドルだった」頃の世間的なイメージからの脱し難さを垣間見せるものでもあります。とりわけ、モーニング娘。が時代の寵児であった頃、毎年恒例のシャッフルユニットを除けばほとんど別ユニットでの活動もなく、モーニング娘。のマザーシップとして存在し続けた安倍なつみにとって、「なっち」払拭というのは軽い課題ではないはずです。


 その彼女が各所で語っているように、「脱なっち」の大きな契機となるべく位置するのが昨年春先の『三文オペラ』出演でしょう。三上博史演じるメッキ・メッサーの恋人ポリーを演じた彼女はまだ固さ、あるいは「なっち」風味が抜けないものの、これまで彼女が属していた文脈とは確実に異なる場を与えられ、善戦していました。過渡期と言うよりない弱さ、危うさは隠せないにせよそうした場での研鑽を積むことは、その先の「安倍なつみ」にとって大きな経験であったと思われます。

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 今作『安倍内閣』では、その好影響を窺うことができます。彼女の舞台台詞の発生や間のとり方にはもはや、アイドルあるいは「元」アイドルが、その有名性を拠り所として余技的に舞台に出る際のような危なっかしさはありません。すでに舞台に立つ女優としての余裕を身につけているように感じられます。異形性を強く打ち出していた宮本亜門演出の『三文オペラ』でポリーを演じるのとは事情が違い過ぎるとはいえ、いかにも「がんばってる」感がにじみ出ていた当時と比べ、非常に頼もしくなっている。商業演劇規模の舞台でキャリアを重ねるための基礎準備はできている。そんな印象を持ちました。


 で、あるだけに。
 その彼女を舞台演劇において「アイドル」然として、というかモーニング娘。と地続きの「なっち」然として扱ってしまう今作のディレクションには大いに疑問があります。タイトルの『安倍内閣』、及び彼女が演じる役名「安倍ナツミ」からも見てとれるように、この舞台はアイドル安倍なつみの有名性ありきで成立しています。また、彼女が元芸能界で絶大な人気を誇っていたという劇中の設定もまた、アイドル安倍なつみを(微妙に違えて)トレースするかのよう。こうしたディレクションは、観る側が劇中の安倍ナツミに、それを演じている芸能人・安倍なつみをダブらせやすくするという効果をもたらします。
 『三億円少女』レビューの際に述べましたが、アイドルありきの演劇というのは、劇中世界のみならず常にそれを演じている「アイドル」の魅力が意識され、舞台上の人物は劇中の役柄としてのみではなくそのアイドル自身(今作なら「安倍なつみ」)として眼差されるという性質を持ちます。それはこのジャンルの必然ではありますが、逆に言えばそのようなディレクションを志向することで、この芝居がアイドルとしての安倍なつみありきの演劇であることを宣言することにもなる。これは、彼女が舞台演劇でこれまでの「アイドル期」とは異なる文脈を形成しようとしている現在、ちょっと障害にもなりうるんじゃないかと。結局、舞台俳優としても彼女が提供してくれるのは「モーニング娘。でおなじみの『なっち』」ですよ、という感を補強してしまうのではないかなと思いました。


 アイドル全般について、アイドルを脱するという志向こそが素晴らしいなどとはまったく思いません。脱アイドル(たとえば“アーティスト宣言”のような)を謳うことそれ自体がよくない意味で極めて「アイドル」的な振舞いに見えてしまうのは事実ですし、ハロー!プロジェクトの成員によるそうした振舞いは必ずしもポジティブなものに見えてこなかったとも思います。たとえばそうした志向とは対照的に「『女優』でも『アーティスト』でもなく、『アイドル』を極める」ことを目標として明言する柏木由紀(AKB48)のような存在からは、また別種の強さ、格好良さも感じます(それは彼女の憧憬対象にハロー!プロジェクトがあったゆえに可能だった視線だとは思います)。
 しかし、安倍なつみ自身が舞台演劇においてモーニング娘。という文脈を背負った「なっち」とは離れたキャリア形成を志向している現在、その彼女がまさに活路を見出さんとするフィールドである舞台演劇という場で、あからさまな「アイドル演劇」をやってしまうことは、俳優としての彼女のイメージづけにおいて如何なものだろう、という感は否めません。ましてや、小劇場系演劇のひとつの到達点として位置づけられる本多劇場で公演を打つならばなおさらに。


 安倍なつみという「商品」を商業ベースにのせる必要があることはわかります。それこそ今年とみに目につくようになりましたが、モーニング娘。という歴史を背負った「なっち」を売ることが訴求力として手っ取り早いということはあるのでしょう。テレビで余興的に『恋愛レボリューション21』や『LOVEマシーン』を演り、モーニング娘。時代のメンバー内の人間関係をネタにバラエティに登場する(させられる)といった現状に、安倍なつみがプロフェッショナルとして過去を引き受けている姿を見ることができます。そうした媒体にとっては彼女の現在進行形は「需要」がない(と誰かが判断している)のでしょうし致し方ないところもあるでしょう。
 それならば、そこをプロとして引き受けている彼女に、せめて舞台に関してはそうした過去の文脈を引きずるのとは異なるキャリアを敷いてあげられないのだろうかと。物販の促進を含めた「アイドル・安倍なつみ」としての現場が必要ならば、歌手としての活動の折にそのステージを求めた方が自然なのではないかと思いました。

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 超有名女優であった安倍ナツミは国会議員の夫が急死するとその遺志を継いで補選に立候補、史上類を見ない得票数で当選する。政治に無関心の彼女はゴーストとして現れた亡夫・裕次郎(風間トオル)のアドバイスを受けながら親しい議員から信頼を獲得し、総理辞任が発表されると総裁選出馬を表明する。本命候補のベテラン議員・坂東(新井康弘)は黒い噂も絶えないが、新人議員の安倍では到底敵うべくもないと目される。安倍は血の繋がらない娘・千夏(久住小春)との不仲や亡父をめぐるトラブル等に直面しながらも総裁選勝利を目指す。


 軽いタッチで描かれるコメディであるため、政治オンチの安倍が夫の親友であった議員からあっさり政治家として信頼されてしまう等の荒唐無稽は問題になりません。ここではベテラン俳優と立ちまわっても、少なくとも見劣りしない安倍、そして保田圭に注目したいところです。芝居のキーパーソンにならざるを得ない彼女たちの敢闘によって、舞台に最低限のクオリティが維持されています。小劇場で舞台経験を重ねた保田が手堅く成長していることも見逃せない。彼女がもう一段ランクアップしうる舞台が今後提供されればよいなと思います。


 この芝居が提示するメッセージは大まかに言えば、裏で不正を働いている手練れのベテラン議員よりも、知識・経験はなくともクリーンで「家族を大切に思いやる」安倍陣営の方が貴いというものです。ひっかかるのは、これが今作では「『大衆迎合』が簡単に実現してしまっている」ように見えること。そもそも超人気女優という有名性、及び夫の弔い合戦というドラマ性を武器に当選してしまった人物です。劇中ではそれゆえの政治家としての足場のなさも明示されるし、それが中盤の壁にもなっている。にもかかわらず、そのことへのクリティカルな視線は意外に薄い。あまつさえ、最終的には安倍が家族を大切に思っている旨の発言がはからずも全国放送されたことによって、「あんな家族思いの人に国政を任せたい」という世論が形成されてしまう。

 これがひっかかるのはその荒唐無稽そのものではなく、単純化されたポピュラリティによって国政を担う場に席を得てしまうということが、現代の問題としてあまり牧歌的に笑うような話でもないように思われるため。エンディングに、この劇自らが何かしらの批評性を込めてくれれば、明るく終わったって問題ないと思うのです。彼女が政治家としてやっていくうえでの欠落や困難は何一つ解決していないわけで、それをコメディタッチでささやかに見せるだけでも奥行きが出るはず。舞台俳優として地歩を固めんとする彼女の名前を冠した舞台なのですから、過度の単純化で構成するのはあまり幸福な事態にならないんじゃないかなと思います。

 シーン転換に「暗転」が多用される(というかほぼ暗転しか用いられない)等、単調さが目立つ舞台にあって、安倍なつみは余裕で及第点の演技をたたき出し、クオリティの維持に貢献している。『三文オペラ』から一年半、彼女は役者として確固たる成長を見せています。だからこそ、今作が彼女の代表作になってはいけない、そう考えます。
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「スター」であることの信頼

*大人計画『母を逃がす』 本多劇場 (2010.12.10)


 昨日今日に始まったことではありませんが、大人計画という劇団はすでにスター軍団になっています。松尾スズキや宮藤官九郎といった作・演出を兼ねる団員は言うに及ばず、阿部サダヲをはじめとする俳優たちも小劇場系の劇団員というような枠からは大きくはみ出している。大人計画という集団自体が小劇場系の観客層にもそれを超えたマスにも信頼されているゆえの、稀有な環境が勝ちとられています。

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 阿部に対する若干の「笑い待ち」のような客席の反応の敏感さ(せっかちさ)に彼らが「スターであること」を垣間見ることができますが、かといって「スターである彼ら」の身体そのもののチャームに大きく傾斜する笑いのとり方は当然していないし、また観客も「スターである彼ら」を見ることにのみ寄りかかってはいない。
 冒頭の「事件」の被害報告を巡るやりとりはストーリーの進展よりもギャグの連続に比重の大きい場面だし客席の反応もいいのですが、その中にある「男性俳優同士がキスをする」というシチュエーション自体には観客はほとんど反応していません。「アイドル」を含むスターの身体の魅力を第一義として成立するパフォーマンスにおいては、往々にして演者の、特に男性同士の性的なやりとりそれ自体が(ヘテロセクシャルを前提とした視線によって?)笑いや嬌声を誘うものとして存在します。観る側がそこに反応しないのは、大人計画に託されている信頼、期待の基盤がそもそも「スター」的ななにかとは違うところにあったためで、誤解を恐れずに言えば、男同士のキスという“策のない”笑わせ方などに期待してはいない(といって、だから「スターシステム」や「アイドル」がレベル低いみたいな発想が生まれるならば、それには非常に抗いたいのだけれども!)。


 しかしまた一方で、彼らがある程度「スター」として存在するからこそ、たとえば阿部のギャグが幾分長めに独り歩きするような場面も温かく受け入れられたりもする。そしてなにより、彼らが「スター」であるという現状認識を踏まえたうえでの自己提示が、この芝居ではなされているのではないかと。もっとも象徴的なのは終演直後に始まる“カーテンコールショー”。単純に発想としても面白いと思うのですが、俳優ひとりひとりをコメント付きで紹介することそのものを見世物として成り立たせること、またラストに紹介される松尾スズキの舞台上での遊び方等は、劇団が「スター」であればこそその場が楽しいものになるという余裕を感じさせるものでした。


 昨年の公演『サッちゃんの明日』では、「舞台に『日常風景として障害者を登場させる』ことで“これこそ平等である”的な評価を受けてもいる」という大人計画自身の現状を自己言及的に舞台にうつし、登場人物に「そんなの二重の偽善みたいじゃないか」と言わせる印象的な場面がありました。大人計画という名前、評判の大きさを現状として踏まえたうえで、それについて劇団自身と評価する側との双方を批評するような姿勢が興味深かったのですが、今回はある種の「スター」となった自分たちの現状をフィードバックし、それを劇づくりに消化しているような印象を受けました。小劇場規模を守りながらも、そのキャパシティ以上の「名声」を獲得していることに、自覚的であらざるを得ない劇団ではあるのかなと。


 1999年初演の本作。東北にある、農業中心の閉鎖的なコミューン。コミューン創始者の孫で集団を統べる立場の“頭目”が成員全員から保険金を掛けられていることに絡んだかけひき、「敵の攻撃」に備えるために周囲を防壁で囲い、テレビひとつ代替することにも支障が出る閉鎖的コミューン、その閉じた生活空間の中での息詰まり感のあるセックスへの衝動や跡取りをつくることに対するプレッシャー。それらが成員をコミューンに吸引し、また抑圧する。


 笑いでばたつかせながら、観る者の日常とはリアリティの水準が大きく違う設定を飲み込ませてゆく手際はやはり見事。本来、笑わせる側の世界観に引き込まないと笑わせることはできないわけで、その意味ではテーマ設定のシリアスさや異質な世界観の提示と笑わせとは殺し合う要素ではないはず。笑いの作り方が不調に終わったならば、それが単にノイズとして残ってしまうのでしょうけれど。

 成員の少ないコミューン内で「女」が、「次世代を生むもの」として性欲の発露と不可分の視線で目され続けることの閉塞感。それにそのコミューン内で生きること自体のしんどさ、またうらはらにそこで生きていかねばならないならば「女」として良い立場を得る必要。それらを体現するのが、捨て子としてコミューンに拾われ育てられたトビラ(田村たがめ)です。
 頭目の妻(猫背椿)が“出産”を迎える際にトビラが叫ぶ、「産まれるな!産まれてきてもテレビもねえぞ!」という悲壮な言葉。あるいは一方で、終盤には頭目とセックスしながら「(頭目の子どもを産むから)自分を頭目の妻にしてくれ」と頼む彼女の姿。トビラはコミューンの孕む暗さと、それでもそこで生きていくし日々は続いていくことを象徴する存在となっています。


 幾分雑に感じられるところもないではありません。そのためかラストの「そして生活は、続く」という言葉への繋がりが少し落ち着かなくも見えたような気はします。しかしやはり、大人計画の作劇への信頼を見せてくれるに充分な舞台でしたし、また雑さや役者のキャラに委ねる類の笑いさえも堂々と提示しそれを成功させられるというのは、自身たちが「スター」であることを冷静に解釈した結果でもあるのでしょう。

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