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鬱陶しさのその先

*月刊「根本宗子」『最低の本音』 渋谷Gallery LE DECO 4F (2011.1.26)

 自分の凡人っぷりに蓋をしつつぎりぎりのところで己の卓越性を信じ込もうとする作家志望の男性と、彼の才能を妄信し自らが「平凡」であることに過剰なコンプレックスを抱く女性の関係を軸に、2組の男女の共依存を交錯させた前作『根拠のない余裕』から半年。今作も肝になるのは2組のカップルです。前作の2組が、常軌を逸しながらも意識的無意識的に相手をどうしようもなく求めていたのに対して、今回クローズアップされるのは現状の関係に決着をつけたい側とそれを受け入れない側の意思の齟齬。2組のアプローチが一見大きく異なるところを取っ掛かりとして話が展開します。

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 前作同様、閉塞感のある男女関係の描写にはセンスを感じます。根本宗子という人は、恋愛沙汰にまつわる男の鬱陶しさというものに敏感な人であるなと。前作の、自分の才能を妄信してくれる女性に依存し、精神的な脆弱さ不安定さを投げつける男の描き方も痛々しかったのですが、本作に登場する男たちの女性に対する執着もまた見事に見苦しい。ある者は恋人の翻意を受け止められず狼狽しながら追いかけ、また別の男は女性の行動心理を把握しているかのように錯覚しながら無自覚に彼女に執着する。その二人の男が出会ったとき、片方が他方の恋愛相談を受ける格好になりますが、自信を持てなさ過ぎる男と自信を持ち過ぎる男が話し合いながら構築する女性観は当然的外れで何一つ事態を好転させない。彼女の心が離れていくことに敏感過ぎて追いすがるのも、自らの女性への理解力を過信するのも、やっぱりどうしようもなく無神経。見ている者にとって他人事ではない、恋愛にまつわるみっともなさを間近に突きつけるというのが根本宗子という作家の大切な魅力になっています。


 海外のある国をバックパッカーとして旅する日本人カップルが、同じ日本人の営むゲストハウスを訪問する。2人はその関係に静かな齟齬を抱えながら、そのゲストハウスに宿をとる。すでに寄宿している女性からは時折とある勧誘を繰り返され、宿のオーナーも物腰は柔らかながらどこか醸し出す空気にクセがある。彼らの後にゲストハウスにやってきたもう一組の男女の異様なやりとりに関わるうち、そこに居合わせる人間たちの隠れていた関係性やトラウマが顔を出してゆく。


 展開のきっかけをもたらすのは、男それぞれの恋人となる女性2人の出会い。彼女たちは姿勢こそ真逆ではありますが、恋人との関係に望むものは一致している。そして彼女たちがその望みに向かう背景にある“トラウマ”が語られてゆく。

 実のところ、ここからクライマックスへの展開は食い足りないところが少なくありません。両者が抱えているトラウマはいずれも、たとえば直接に猟奇的なものであったりするような類のおぞましいエピソードというわけではなく、いわば周囲の人物の対応にまつわる精神的圧迫や人間不信に繋がる種類のものです。
 衝撃的な痛ましい過去が語られるというのとはいささか異なるため、劇中にあった当人たちの吐露だけではそのトラウマの根深さを伝えるためには描写不足であった気がします。そのこととも関わりますが、根本宗子演じるすみれが吐露の直後にとる行動についても、その意図がわかりにくくなっているように思います。トラウマからくる切実な跳躍であったのか、それとも余裕を持った、もう一人の女性・亜希子(富田真喜)に覚醒を促すような行動であったのか掴みきれません。どちらか明確に提示されない、という見せ方もありだと思いますが、そうであっても“トラウマ”部分を描き込んでこそ深みが出るかなと感じます。「トラウマ」という言葉が内包する深刻さに比べて、提示されるものにはっきりとした爪跡がうかがえないのが気になりました。


 そのあたりを浮き彫りにするには、もう少し上演時間が必要ではあります。上演時間1時間強とコンパクトなので気軽に観ていられる利点もありますが、それゆえに人物造形に割く部分が少なくなってしまっている印象です。上述したように、恋愛にまつわる男の面倒臭さなど、身につまされる人物描写はできる人なのです。しかしそこまででは半分で、後半の加速に必要なもう半分の人物描写にはまだ肉付けの余地が大いにあると考えます。前作でも「男女」の痛さ鬱陶しさは描き込めていました。それだけに、期待を込めてトータルの人物造形を求めたいなと。

 カップルより先に寄宿していた千恵子(花田薫子)の妄信ゆえの偏った主張、また登場人物中最大の暗部を抱えるゲストハウスのオーナー・野村(武藤心平)の秘密が明かされるラスト等、ストーリーに味わいを添えるはずの要素は揃えていますが、同様に活かしきれていなかったように見受けました。
 “幼女”にまつわるオーナー・野村の暗部は、根本演じるすみれの幼少期のトラウマと直接に結びつくものなわけで、すみれの亡骸であってすみれの亡骸でないモノが現前した瞬間、もっと大きなショックが引き出せてれば完成度はぐっと上がったでしょう。


 とはいえ、時間経過にスピード感を持たせ、キャラクターの鬱陶しさを引き出す根本演出で最後まで期待感が持続したのは確かです。俳優陣も安定しているし、根本宗子という人が持つ特有の色気やオーラが興味を繋げてもくれる。素材を展開しきれてはいなくとも、光るところのある芝居でした。年齢でものをいうのは好きではありませんが、21歳でこのように、色恋を前にした男性の鬱陶しい描写ができるのは卓越したセンスでしょうし、不満よりも期待感の方がずっと高い。少しずつ、時間をかけて描き込む手札が増えてゆくのをみていきたいと思います。
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圧倒的なフィクション

*柿喰う客『愉快犯』 東京芸術劇場小ホール2 (2011.1.8)


 個人的な好みでいえば、台詞を大げさなトーンで叫び続ける芝居というのがあまり得意ではありません。
 これはつかこうへい作品をいくつか観た時に自覚したことなのですが、その劇自体の良さを評価することとはまた別の次元で(もちろん繋がってはいるからまったく分断できるものではないけれども)、そういった発話法がしっくりこなかったのです。
 かえりみて分析するならば、劇中でその叫び続けるようなトーンを採用することの意義や効果が見出せるか、自分がその意義に共鳴できるか(共鳴までいかずとも理解できるか)ということがポイントだったかと思います。つまりは、なんでその発声法でやってるのかわからない、ということであったかと。

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 劇団「柿喰う客」の作・演出である中屋敷法仁は、これと真逆の感想を持っていたといいます。口語体の“ナチュラル”な演技の芝居が多い状況に、「普通の感じでだらだら喋ってて何が面白いんだ?」「大きく演技した方が面白いじゃないか」と(※上演後アフタートークより)。たとえば非日常的な演技法、発声法に対する懐疑やアンチテーゼが、そもそもそうした口語体には含まれていたはずですが、そういうものも感じられずただ口語体でやっているように見える、そのことへの違和感があったとのこと。

 そこでたどり着いた演出法が中屋敷のいうところの「圧倒的なフィクション」。叫び続け、発話のイントネーションを歪ませ、また時に囃すような歌うようなトーンの発声は、確かにどうしようもなくフィクションです。「本当っぽいものや嘘っぽいものではなく、やるなら思い切り嘘、思い切り虚構として舞台を作る方が面白い」という主宰の意図がはっきりあらわれている。
 このパフォーマンスが秀逸なのは、ただ叫んで表現する、という点にのみ留まって満足していないこと。大げさな発声も、あるときは礼儀正しい重厚さをもって、あるときはチャラい軽さをもってなされる。オーバーな発話法が決して一様でなく、多くの層を重ねることで叫び続けていても明確な抑揚がつくのでダレることがありません。
 
そしてまた、その飽きのこなさを支えているのが、秀逸でレンジの広い語彙のセンス。オリジナルの言い回しのみならず、この芝居の台詞には引用が多い。ネット的スラングやジャーゴン、五所川原ねぷた祭りの囃し言葉、果ては今井メロのラップまで。それがまた、ネットスラングに偏ったりローカルな空気に偏ったりすることなくジャンルを軽やかにクロスオーバーさせて遊んでいるから、内輪受け的な閉じた感じもない。各ジャンル、界の言葉の間を跳梁してゆく言語的刺激がハイスピードで通り抜けてゆく痛快な感覚。このオーバーな発声法はさらに、緩急のリズムをもって音楽的にも訴えかける。「圧倒的なフィクション」でこそ表現しうる、もはや「声の芸能」と言っていいスタイルが確立されています。


 音声表現と同等に「圧倒的なフィクション」の構成要素になっているのが、役者たちの身体技法。鈍い角度の円錐形になった舞台の上を飛び跳ね、寝転がり、ポーズを決める。頻繁に叫ぶような台詞を吐きだしながらそうした動きを余裕でこなしてしまう役者たちのアスリートっぷりもすさまじい。常に跳躍しながら、次々とテンションや発話のトーンが変化する台詞を早口でまくし立てても言っている内容が明瞭にわかるということが、キャスト陣の役者としての基礎体力を物語ります。


 代々の財産を拠り所に働かずとも裕福な暮らしを続ける琴吹一家に降りかかる「最悪の不幸」。クリスマスイブに長女が変死、夫は娘の死後一週間とは思えぬ健やかな佇まい、妻は不倫と思しき連夜の外出、長男の大学受験や祖母の病も重なる不穏な状況下。長女死亡の捜査を続ける女性警察官からは他殺の可能性を示唆され、その警察官と妻との間にもただならぬ緊張が垣間見える。代々“ストレスに弱い”琴吹家の人々はこの異常事態のなかで精神的圧迫に苛まれる。


 「圧倒的なフィクション」という手法の面白さだけで充分に上演時間の80分を埋め尽くしてしまえるし、言葉と身体による笑わせどころも多い芝居であるため、状況だけ書き起こせば深刻であるような設定もさして悲劇性を持たず進行してゆきます。
 そうかといって油断していると、女性警察官と琴吹家の妻とのやりとりが進むうち、琴吹妻がある理不尽な方法によって警察官の弱みを握っていることが明らかになる場で、シリアスさのレベルが急に変化する。警察官は狼狽しながら琴吹妻の異常性を訴えるのですが、このシーンに限っては警察官は妙なイントネーションや独得のオーバーな話法を用いることなく、言ってみればオーソドックスに狼狽している。一方の琴吹妻は変わらず躁型の表情を浮かべそれまで通りのスタイルの演技で居るのですが、その瞬間だけは警察官との対比でその演技法のエキセントリックさが急激に際立ち、異様な影を落とす。テンションの高い大げさなトーンをただ続けるのではなく、そこからの引き算で不穏な空気を作ることにも成功している。叫びまわりながらもテンションの足し引きがうまいしタイトな構成になっているので、いい意味でスタイリッシュささえ感じました。

 (あと、ここまで書いてくると、自分が大げさなトーンで叫び続ける芝居を好きじゃなかったのは、つまりは自分がかつて観た芝居における「大げさ」が抑揚に乏しい一本調子で、「大げさのための大げさ」に見えていたので退屈に感じていたのだなと整理できました。柿喰う客の採用するオーバーな発話法は、それを用いる意味が明白です。この独得な身体と声の芸能は、他のやり方ではできない)。


 センスもあるし勉強もしてるんだろうなと思わせる劇団代表・中屋敷の佇まい、彼に応えて深い抽斗をみせる役者陣。若さゆえの勢いとファンダメンタルを持っているゆえの余裕が同居していて、信頼できる劇団であるなあと。安易な口語体演劇に不満を持ち、「圧倒的なフィクション」を標榜する彼らの温度とビジョンが、高い完成度をもって伝わる本作。かっこよすぎる。

「ドキュメンタリーは嘘をつく」

*シベリア少女鉄道スピリッツ『もう一度、この手に』 王子小劇場 (2011.1.7)


 シベリア少女鉄道の舞台は、観客のテレビ的一般教養に支えられている側面があります。
 得意とするパターンとしてあるのが、劇の前半で展開されるドラマに伏線を仕込んで長いネタ振りにし、後半徐々にそのドラマのシチュエーションが、まったく性質の異なるテレビ番組や映画(それも皆がテレビの宣伝等でなんとなく知っているような)でルーティン的に行われている場面にオーバーラップしていくというもの。いわばパロディ的要素を持つコントなのですが、前半のドラマをきちんと作り込むことでそれ自体をシリアスな劇として成立させるから、ネタ振りのためのネタ振りに見えない(目的はあくまでネタ振りだったとしても)。丁寧な作劇にこそ唸るような伏線は宿されうるということを毎回、鮮やかに突きつけてくれます。これは、テレビのレギュラー番組等の制作テンポや放送尺では実現が困難な、小劇場演劇のペースでこそ作ることのできる贅沢なコントでしょう(どっちが上、とか言ってるんではなくて)。また、この相当に緻密で濃い頭脳労働の果てに作り上げるものは、徹底してメッセージを押しつけずバカな笑いに終始している。それゆえこれ見よがしのウィットに傾かない清々しさもこの劇団の特徴といえましょうか。以前にも書きましたがやっていることはとても知的で、メディアアート的ともいえるのですが。

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 告知のフライヤーに示唆されている通り、今作は短編を集めたオムニバスの体裁で進行します。上述したような、前半のシチュエーションが後半で位相の異なるネタ元へオーバーラップするという手法が、一篇10分ほどのショート・ショートで連なってゆく。
 オープニングを飾るのは、以前テレビ番組でも披露したことのある、「父の葬儀のために久しぶりに別荘に集まった息子たちが、父の財産が遺言によって妾腹の妹にまるまる託されていることを知って納得がいかず妹を交えて揉め始め身内同士の修羅場が生じるという状況が、フジテレビ『ごきげんよう』の番組進行とオーバーラップする」というネタ。キャストロールを挟んでのち、新作の短編が次々と上演されてゆく。どれも、前半のストーリー中に伏線を作って中盤以降にテレビ的ネタへ回収する、シベリア定番のスタイルであることに変わりはありません。

「刑務所内の喧嘩騒ぎに乗じて脱獄に成功し見知らぬ南の島まで流れ着いた死刑囚たち。その地の教会で亡霊の影におびえながら神父の話を聞いているという状況が、ある老舗クイズ番組の進行にオーバーラップする」

「スポ根ものがテレビでおなじみの○○にオーバーラップする」

 同一パターンが繰り返されるため、30分ほども経つと飽いてくる感じは否めませんし、次はどういうオチに回収するのか、と読みながら舞台を観る感覚にもなってしまう。けれど、今回はこうやってシベリアの基本構造を陳列する、というかたちでいいのかなー、と。


 思って観ていたのですが。
 それにしても気になるところが多過ぎる。毎回精緻なコントを支えているはずの役者陣の演技が荒い、それゆえドラマ進行のタイトさが失われていて、いつものシベリアに比して緊張感が著しく薄い。これでは予告されていた上演時間2時間は持たないのではないかと考えつつ観ていた頃、唐突にナレーションが入ります。

「オムニバス形式でお送りしているシベリア少女鉄道スピリッツ公演、開演から40分が経ちました」

 このナレーションが説明してゆく世界設定によって、不可解だった舞台上の諸々が説明され、ようやく観客は事態を飲み込みます。と同時に、やはり緻密なシベリア少女鉄道がそこにいることを思い知らされる。
 このナレーションは今回の公演「もう一度、この手に」を上演する劇団、シベリア少女鉄道スピリッツに寄り添い、彼らの葛藤を代弁する天の声として立ち回っています。ナレーターの存在によって、公演に挑むパフォーマーに密着して演者の心理を説明しながら彼らの挑戦を見届ける、というドキュメンタリー番組で既視感のある体裁を劇全体に持ち込んでいるわけです。すなわち、「『劇中世界を相対化してTV等のネタとオーバーラップさせる』という作風の劇団が本公演に至るその内側を、架空のドキュメンタリー番組の中で見つめている」という設定の、二段重ねのメタ構造なわけです。


 ところで、その劇団の姿やあゆみなどを劇の裏テーマとして重ねるというやり方は、時折みられるものです(最近取り上げたものでいうと「双数姉妹」の『20年目の正直』などもそれにあたるでしょう)。
 手法としては、演劇を行なう集団の姿を変形したドキュメンタリーにして、あるいは創作された設定を劇団のメタファーとしてなぞり、彼ら自身のありさまそのものをエンターテインメントにするもの。それはそれでもちろん、一定のカタルシスを想像しやすいものでもあります。しかしそこはシベリア少女鉄道、素直に「我々のあゆみ」などには持っていかない。


 役者一人一人についてクローズアップするようにナレーションが入り、それぞれの出自や本公演に関わる経緯、抱える問題についての葛藤が語られる。ドキュメンタリー番組で見たことがあるような、成員内の志向やモチベーションの噛み合わなさ、わかりあえなさを俯瞰視点から見届けるナレーターと観客(ナレーターは毛皮族の町田マリー)。そのナレーションが徐々に彼らの抱える葛藤の内容を大げさなものにしてゆきます。
 ある点を超えると、そのナレーションの中身は「どうみても嘘」なものになってゆく。しかし途中まで説明されてきた役者たちの設定は本当のことでもある。その実存はもちろん継続しながら、アナウンスされる「どうみても嘘」の設定も彼らは引き受けて演じる。「ばらばらのところからこの公演のために集まってきた彼らが互いの立場や仲違いを超えて団結し公演を成功させる」というドキュメンタリー番組にとって陳腐且つ「筋書きしやすい」ストーリーのパロディを、ばらばらのところからこの公演のために集まってきた彼らがこれ以上ない結束力と演出意図への把握力をもってパフォーマンスしているわけです。そしてまた「どうみても嘘」の部分のくだらな過ぎるギャグのおかげでこの知的な構想が全然鼻につかない。メタ的な構造がどうとかもっともらしく考えるだけ野暮に思える、力の抜ける笑いに埋め尽くされる。


 「どうみても嘘」な集団は最終的に仲違いも個人的な悩みも乗り越えて上演を成功に導く(というあえての陳腐な設定)わけですが、その「成功」の達成にもまた別のとあるゲームがオーバーラップする。いつものシベリア少女鉄道のスタイルというものを突き放して俯瞰しつつ、いつも以上にシベリア的な掛け合わせが詰め込まれています。


 こうなってくると、序盤にオムニバスで何本も見せることの効果も明確になる。つまり、いつものシベリアの作劇法を俯瞰してネタにするような本作は、ややもすればシベリアを知っている人のみに向けた内向きの芝居になりかねません。オムニバスで同一手法の短編を繰り返すことで、初めて観た観客にもまずシベリアのスタイルがどういうものであるかを理解させることができるわけです。オムニバス最初の数本は、初めての観客にまずその構成で唸ってもらうために、短いながらもきっちりと高水準でコントを仕上げている。このあたりも本当に丁寧。自己言及を前提にした作品であるのに、一見さんが観ても理解できる。この冷静なサービスは、内輪受けにならないために大切なこと。


 終盤の畳みかけの加速度をみる限り、一年前の公演で久々の肩慣らしを終えたシベリア少女鉄道は、完全にその姿を取り戻したように思います。作・演出の土屋亮一は近頃、テレビ等でも構成作家としてシベリア的手際を垣間見せている。彼らの活動が存続するためには勿論そうした外部仕事も喜ばしいことです。とはいえこの精緻な構造に裏打ちされたバカな笑いの実現は、やはり本公演でしかあり得ない。容易に多作できるようなスタイルではないのは百も承知ですが本公演をもう少し多く、と望みたいところです。

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