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~演劇とアイドルと何かと~

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詐欺の歴史

*NODA・MAP『南へ』 東京芸術劇場 中ホール (2011.2.16)

 
 蒼井優が、余裕です。
 NODA・MAPのヒロインは(あくまで「結果」として)目に見える「熱演」を迫られがちです。野田秀樹演出の独特なテンション、イントネーション、そして芝居の核心に向かうほど、芝居がテーマとしている最暗部に近づくほどに要求される饒舌さゆえに、彼女たちの姿にはぎりぎりで勝負している「一生懸命」さが滲み出る。そのことが突きつけるインパクトはもちろんあるのですが、一方でそれは常に「○○役として奮闘している俳優△△」を観客が意識し続けるということにも繋がります。違う言い方をすれば、役柄に取り組むうえで、頑張っている自分の姿を消すことはできていない、というか。そのことが必ずしもネガティブなものではないでしょうが、ノイズの要因になりうることも事実です。

2011_2_16_NODA_MAP_minamihe_1
 

 本作のヒロインはNODA・MAP初登場の蒼井優です。彼女の脅威は、あくまで肯定的な意味で、その「奮闘する己」が見えないということ。もちろん、熱演です。相当に難しい役ですし、ストーリーの最後にもっとも重い絶望を引き受けるのは彼女です。
 けれども、その段に至ってもまだ、彼女の限界点を探り当てることができませんでした。芝居に描かれるのは、数十年来この国が抱え続ける、暗く深刻なある困難。そしてその困難の源泉と合わせ鏡で描かれる、ひとつ前の世紀のこの国そのもの。その暗部の語り部となり、ついには犠牲となる蒼井の姿は重く、痛切です。この舞台で最大の核となる配役に彼女は充分に応え、驚かせてくれます。けれども、まだいくらでも手札は持っているような、これが彼女の最高値ではまったくないような、そんな恐ろしさもまた感じさせました。
 序盤の、所員たちをかき回す軽快な少女としての姿。中盤~終盤に向かい妻夫木聡演じる主役・のり平が(過去の位相において)被る理不尽さを物語の一歩外側から語り尽くしながら、実は現状最大の理不尽の犠牲として終幕を迎える姿。いずれも簡単に演じているわけではないことがすごくよくわかるし、非常に巧い。しかしまた、あくまで彼女の手の内で充分に勝負できているかの如くに見える余裕、彼女の臨界点はまだまだ先にあると思える怖さも垣間見えました。これは、だからまだ引き出し方が足りないとかそういうことではなく、あくまで役者としての底深さについての驚嘆として述べています。


 映像作品で要求される可愛さに溢れた蒼井優、雑誌等で見せるファッションアイコンとしての蒼井優。ひとつのパブリックイメージとしての「可愛い」蒼井優を我々は知っています。しかし、それらは彼女の手駒のひとつひとつではあっても、彼女を構成する要素のうち、優位な部分ではまったくないのではないか。彼女が舞台で見せる表情は、可愛さを見せるような自意識から遠く離れているし、また可愛さをあえて「隠している」ようにも見えない。可愛い彼女の姿は複製メディアにおいて至るところで見かけるけれども、可愛く見せるという指標は彼女にとってさほどの重要性・優位性を持っていないように見えます。与えられた役に必要ならば使う、単なる抽斗のひとつでしかないような。その役柄への客観性と、それゆえに獲得できる役柄への接近が、彼女の役者としての底深さなのかもしれません。ともかくも、彼女の存在がこの舞台にとって重要、かつ頼もしい大黒柱になっていることは間違いない。

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 火山観測所に新任してきた南のり平(妻夫木聡)は、近日のデータから富士山(設定上は「無事山」?)の噴火が近いことを発見する。同時期に観測所に転がり込んできた、心中し損ねたという女性・あまね(蒼井優)に所員が振り回される日々のうち、さる高貴な人物が麓に“行幸”するという報が入る。予行としてやってきた高貴な人物の“依り代”に噴火の危険を伝えるも、行幸はキャンセルできないと突き返され当日がやってくる。一方で、あまねは自身を見つめるもうひとりの己の影に怯え、のり平は自身の記憶が定かでなくなってゆく。


 芝居のテーマのひとつが、野田秀樹演じる「VIP」の口によって劇中、二回語られます。曰く、「この国は天皇を利用した詐欺の歴史」である。また現代とは位相を異にした近世パートにおいて蒼井優演じるあまね/アマネは、「嘘をつくには手間がかかる」と言う。本物の方が手っ取り早い、嘘はわざわざ手間ひまかけねばならない。そしてその手間のうちに誠意や祈りがこめられている、と。
 この「詐欺の歴史」と「嘘にこめられる誠意や祈り」を手掛かりとしてこの話は、日本が20世紀前半に経験した禍へと、終盤に向かって急速に接近してゆく。天皇を敬う気持ちともはや峻別不可能になった「詐欺」は、一国民を体現するのり平に命を賭した決断を強いる。
 近世において噴火を予知して吹聴する“狼少年”であった彼と、20世紀前半の国民としての彼、それら異なる位相が合さりながら、のり平は自分が嘘で言っていたことが本当に嘘であってくれと祈り、嘘で言っていたこと・嘘だとわかっていたことのために命を捧げる。近年のNODA・MAP、たとえば『ロープ』や『ザ・キャラクター』でみせたような、終盤からの核心テーマへの直球なアプローチが重く、突き刺さる。


 ただし、これで落着させてはくれない。野田はこのテーマを、禍々しい過去として現在の地点から安心して見せるようなことはしません。きわめてアクチュアルに存在しているはずの闇と、それこそ我々がぼんやりと“テレビで野球”でも見ながら、ろくに自分のこととして認識せずにいる闇と密接にリンクしていることを、最終盤に来て観客に強引に思い起こさせます。
 彼の作品にしばしばみられるこうしたド直球のテーマ提示は、まさにライブの強度で突きつけられることに意義がある。そしてそのアクチュアルな闇が明示されるとき、この芝居のタイトル『南へ』のシンプルかつ重大な意味が浮かび上がる。蒼井優演じるあまねが怯えるもう一人の自分の影とは、内的なものであると同時にまた、外的な「監視」への恐怖でもある。この闇の犠牲を象徴する蒼井が舞台の奥に消えるとき、我々はこのお芝居みたいな悲劇が現在進行形であることに嫌でも思い至らされる。思い至って、だからすぐになにか即効性のある行動をとれるわけではない。けれどまずは観客が否応なくそれを想起すること、その願いがこの芝居には託されています。忘れないように。考えることを、やめないように。
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ドキュメンタリーをドラマする

*映画『DOCUMENTARY of AKB48 to be continued
     10年後、少女たちは今の自分に何を思うのだろう?』 TOHOシネマズ日劇 (2011.2.1)


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 現状のAKB48の特徴のひとつとして、AKBに関心の薄い人々からのみならず、アイドルファンからも批判や揶揄を被りやすい、ということがあります。かつて稲増龍夫氏が著書『アイドル工学』のなかで、たとえば「同じ「売れる」音楽でも、ロックは受け手側からの自然発生的な支持が「売れる」音楽を生んでいるのに対し、アイドルは送り手側の商業主義的仕掛けが「売れる」音楽を生んでいるという」ような対比をあてはめられがちであることについて指摘していました。これは社会学者としての稲増氏の考察であると同時に、アイドルファンとしての氏の、ひとつの擁護のあらわれでもあったでしょう。しかし今日、AKBに関していえばその「商業主義的」姿勢を、当のアイドルファンたちからも叩かれやすい状況にあるといえます。

 ここ1~2年の知名度、支持の上昇という時流にのって、地上波テレビ、雑誌、書籍といったマスメディアにおける露出は飛躍的に(過剰なほどに)拡大し、他のアイドルグループとは次元の異なるプロジェクトになっていることは確かです。そうした露出度の高さは、「業界」間に特有の駆け引きの結果である(と想像させる)わけですし、その力関係や物量作戦、あるいはもはや安易なクリシェとなった「AKB商法」的要素は、アイドル全般に関して擁護的な視点を持ちやすいアイドルファンからも否定的に受け止められることが少なくない。その意味で、先述の稲増氏の言のうちの「アイドル」という単語は現在、「AKB」というワードに置き換わっている感もあります。


 とはいえ、そうした揶揄的視線に埋もれないのがAKB48の強靭さでもあります。そもそもただの物量作戦のみで繋ぎとめられるほど、観客は受動的で無批判な存在ではありえません。“再組閣”“総選挙”“じゃんけん選抜”に象徴的な、受け手の興味を持続させるための周到な「事件」作り・文脈作りは、少なからず過去のアイドルに対してなされてきたプロデュースを取り入れつつ確実にアップデートしたものです。そうした文脈がAKBを運営する首脳のディレクションによるものであるのは当然ですし、受け手もそこに無自覚ではない。かといってそこで発生するドラマは当事者すべてにとって予定調和な行事ではなく、活動主体であるアイドルたちは行く先の知れないストーリーに翻弄されるよりありません。このことが生身の彼女たちに苛酷な負担を課しているという事実を一方で忘れるべきではありませんが、これがAKBの大きな求心力として働いていることもまた間違いないわけで。
 さらにAKBというプロジェクトの巧妙さは、たとえばメンバーにスキャンダルが浮上した際に、それを封殺するでも否定するでもなく、その疑惑自体について即座に自己言及し、文脈の中に組み込み、AKBの物語の一部としてしまうところにあらわれます。プロデューサーの秋元康が「AKB自体がドキュメント」と表現するように、悪評も不測の事態も飲み込んで露悪的なほどにそれをドキュメンタリーとして提示(≒ネタ化)してしまうところに、AKBというプロジェクトの求心力はあります(加えて、個人的にはAKBが有するスタイリッシュさも若年層に訴えるポイントとして重要だと考えますが、論点が散漫になるのでここでは省略)。

 そのAKB48の提供する「ドキュメンタリー」映画とあれば、期待値は低くありません。事前に予告編的にテレビ放送されていたAKBのドキュメンタリー番組では、チームKのリーダーであった秋元才加のスキャンダル発覚に関する生放送での釈明、謝罪、リーダー辞任発表までを映像で見せ、上述したAKBの真骨頂を垣間見せていました。それを受けての本篇公開、舞台挨拶ではAKB48本体のリーダー格・高橋みなみが「AKBを嫌いな人にも観てほしい」と述べています。「事件」作りへの期待は高まります。

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 結論からいうと、そこに「事件」性もわかりやすい露悪性もありませんでした。なるほど、「再組閣」や「総選挙」などの“波乱”は踏まえられ、その中で逡巡し、また自身の位置取りを冷静に受け止める彼女たちの姿は存分に描かれている。「彼女たち自身の言葉」のようなものも、この映画には溢れている。にも拘わらず、なにか肩透かしのようなものを感じました。
 あるメンバーは、自分がトップになることはないという認識を踏まえて、それでもその中で生き残る場所を見つけようとする自己を冷静に語る。あるメンバーは活動拠点の東京の喧騒を離れて地元に戻り、旧知の人々と再会して「素」の姿を見せる。まごうことなき生の彼女たちの身体があり、言葉がある。それでも、素直にそういうものとして受け取り難い違和感が拭えない。


 ドキュメンタリーで「素」を垣間見せるというのは、普段のアウトプットの中ではパッケージングされていない、「製品」から漏れた部分をあえて見せる、ということでもあります。この映画に感じる違和感のもとにあるのは、そもそも普段のAKBとしてのアウトプットの中ですでにそういう裏側を、それこそ露悪的に見せていることからくるものでもあるでしょう。
 たとえばテレビ東京系『週刊AKB』においては、“不人気”メンバーの“不人気っぷり”を率直に見せ、ファンとの握手会で可視化されてしまう人気格差を前に当該メンバーが明らかに傷つき、そのことに対してうまい言葉も見つからずただ動揺する様子を晒してみせます。それはエンターテインメントとしてパッケージングされているとはいえ、すべてのメンバーが同じようにサバイブできるわけがないという事実を暗示するものでもあって、秋元康のいう「AKB自体がドキュメント」はまさにこのように日常的に提供されている。そうである以上、この映画の中に見えるような「ただの“素”の姿」には目新しさはない。というより、却ってドキュメンタリー性を薄めているようにも思われました。


 ドキュメンタリー性の希薄さは、この映画を通しての撮り方にもあらわれます。構成として特徴的なのは、映像の割合として、活動に密着してのドキュメントよりも、この企画のためにあえてセッティングしたインタビュー等が使用されている時間の方が長いということです。普段の活動の合間にこぼれた声や表情を拾うのではなく、場を整えたカジュアルな個別面談の連続は妙にきれいで、ドキュメンタリーと謳っていながらむしろ虚構性が強く感じられさえする。


 虚構性の強さはたとえばメンバーたちが談笑するシーンにも顕著です。冒頭、メンバーが食事をとりながら談笑している場面。いかにも他愛のない、日常を切り取ったような会話。ではあるのですが、撮り方は明らかに「ドラマ」です。カメラは彼女たちが座るお店のテーブルの周りを旋回しながら、おそらくはレールを用いたドリー撮影によって順々に彼女たちの姿を捉えている。また、メンバーが次にとるポーズを明確に把握していないと押さえられないカットも挿入される。つまりこれは、ドキュメンタリータッチの場面をあえて構築したドラマ、のようなシーンです。


 この彼女たちの、自分の言葉で語っているには違いないが、想定以上の何か、セッティングされたもの以上の何かが垣間見えることの少ない状況は終盤まで続きます。インタビューされるメンバーの順番や人選にかすかなストーリーらしきものも見えてはきますが、既定の線路からこぼれおちる何かは見出しにくい。彼女たちを応援するファン目線でみれば堪能できるものではあると思いますが、ファンではなくAKBについての知識の少ない人間が急に観て強いインパクトを残せるか、というところには多少の疑問符が付きます(「ファン向け」を裏付けるように、この映画は非常に説明不足です。再組閣、旧チーム千秋楽、総選挙、ひまわり組といったトピックが説明なしに画面にあらわれ、またインタビュー中に言及されるメンバーのフルネームと顔を一致させてみせるような注釈にも欠けています)。


 普段のAKBに比してドキュメンタリー性の希薄なこの「ドキュメンタリー映画」はあたかも、「アーティストの素顔を垣間見せるドキュメンタリーってこういう感じのことやって感動させるんでしょ?」という悪意をもってパロディ的につくられているかのようでもありました。いや、通常ならばそこまで穿った見方はしないと思うのですが、普段あそこまで秀逸且つ露悪的、また残酷なドキュメンタリーを「AKB48」というプロジェクトの総体を通して見せ続けている首脳がここまで、いってしまえば踏み込みのないドキュメンタリーをつくると思えないのです。


 ことわっておきますが、アイドル好き・AKB好きとして、単純に彼女たちの躍動する姿、生の身体を堪能できる映像ではあります。楽しいです。しかし一方で、たとえば渡辺麻友がインタビューの区切りでひと休みしながら背伸びして見せる姿はいかにも「素を垣間見せるアイドル像を教科書通りに演じている」かのようで(そもそも彼女はそういう個性の人ではありますが)、妙な座り心地をずっと感じるものでもあったのです。きわめてきれいに整えた映画を前にそう感じてしまう、ということ自体がすでに秋元康・AKB首脳の術中なのだ、と思うといささか悔しくもありますが。

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