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~演劇とアイドルと何かと~

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「共感」を奪われるという残酷

*イキウメ『散歩する侵略者』 シアタートラム (2011.5.26)

 「共感」が奪われるとは、これほどに絶望的なことであるのか、と。

 イキウメの舞台演出は、一見ごく常識的な世界のような、我々の世界と地続きに思える見栄えを持っています。そこに、常識的には考えられない現象が挿入され、それが次第に社会全体に拡散していく。携わる登場人物は多くないけれど、世の中にあまねく蔓延してしまうんだろうという、嫌な予感を見せつける。そして“考えられない”状態に世界が覆われる予感とともに、薄寒さや救いのなさが突きつけられます。その救いのなさを受け止めるのはあくまで常識的な世界の人々だから、終わる頃には我々が住んでいるこの世界にその絶望が浸透している錯覚にさえ陥る。震えるほどに巧いし、怖い。

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 真治(窪田道聡)は数日間の行方不明ののち、まったく別人格になったかのような姿で妻・鳴海(伊勢佳世)の前にあらわれる。いままで当たり前に知っていた事柄の意味を子供のように尋ね続ける真治。脳の障害と診断されるが、自意識も受け答えの単語や速度も正常に見える。それ以前彼との結婚生活が破綻していたはずの鳴海は、戸惑いながらも彼を世話することに新たな充実感を覚え始める。一方、その町では老婆が家族を殺し自身も刃物で腹を割き自殺する事件が生じ、また他方、町に奇病が流行り出す。罹患者は皆、何かしらの“概念”が脳から失われ、その概念について理解できなくなる。


 この作品でキーとして扱われる“常識的には考えられない”事態は、「概念」を奪う/奪われるという着想です。
 町にやってきた合計三名の人間ならざる「侵略者」は、もともとその町にいた誰かの身体を乗っ取り、その人間の知識も取り込んだ上で社会の中に侵入してきますが、その知識をいわば人間的な実感に結びつけるための「概念」をもちません。それゆえ、その町に生活する人々をランダムに選んでその「概念」を学ぶ。
 ここで肝となるのは、彼ら侵略者の有する能力は概念を「奪う」という性質のものであることです。「教わる」のではない。奪われた側の人間はその「概念」が頭から欠落してしまう。それゆえ、その概念にまつわる言葉は記憶としてあっても、それが何なのか実感として全く理解できなくなる。人間の基本単位にまつわる関係性から、より抽象的な概念まで奪われる概念の枠組みは様々あらわれますが、流行の奇病が「奪われた」ことによるものだと周囲の人物が了解した途端、事態の深刻さが急速に襲ってきます。

 登場人物が義理の兄弟(の身体を借りた「侵略者」)から、ある概念を奪われたのだと、その人物の家族たちが把握した時、彼らは強い怒りを覚えますが、そもそもそうした状況自体を把握するための概念を「侵略者」は持っていないため、正当な怒りのぶつけどころがない。このディスコミュニケーションは絶望的です。かくしてこの絶望は食い止めるすべもなく、人々の更なる次元の絶望のための下準備として拡大していく。

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 しかし終盤、奪われることの絶望、正確には親しい人が概念を奪われることの絶望が、「侵略者」に残酷な形で返ってきます。侵略者が最後に奪った概念は、その概念の持ち主が積極的に与えにいったものでした。それまで人々から屈託なく概念を奪っては理解し糧としてきた侵略者は、最後の概念を奪った瞬間、その概念を実感することの大きさに打ちのめされる。そしてその概念を共感したくて仕方なくなる。共感するべき相手はなにより目の前にいる、「奪われた」相手その人。しかし、当の侵略者が奪った以上、その人とその概念を共有することはもう決して達成しえない。その先までは描かれませんが、侵略者がそれまでのように目的を遂行することは、もはや不可能になるでしょう。最後の奪取はそれほど大切で、それほど絶望的。


 また、奪われる側は通常、概念を奪われることなど把握しませんが、この回に限っては奪われた人物はそれを奪われることを知っていました。奪わせることによって意図を伝えようとした。なのに、侵略者に痛いほどにそれが伝わったその時、もうその人物にはその意図すらわからなくなっている。だからこそこのシーンは最悪に救いがなくて最大に愛おしい。泣き崩れる侵略者を撫で慰める“奪われた”人物の顔は優しく穏やかですが、その顔が穏やかであればあるほどに哀しい。どんなに優しい顔をしてくれても、そこに相手が求めたくて仕方のない「共感」はもう絶対に生じないのですから。


 作・演出を務める前川知大の着想や手際の鮮やかさもさることながら、この名作を大きく支えているのは役者陣の演技です。ここまで安定し、本格派らしさと知性、それに品の良さを具えた俳優陣に恵まれているというのは本当に稀有。作家が劇団所属役者の特性に合わせて役を書く、ということはよくあることでしょうが、それはただその役者たちの背格好に似つかわしいというだけのものであることもしばしばです。イキウメの役者たちはそれぞれに当てて割り振られた役を、高レベルで引き受けてきちんとオーセンティックな匂いのする水準に仕上げている。イキウメを観るとその後、小劇場系の俳優をみる目が厳しくなってしまうのです。
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紫電一閃矢島舞美

*秦組Vol.4『らん―2011 New version!!―』 前進座劇場 (2011.5.24)

 ハロー!プロジェクトのファンがハロプロの演者に信頼を寄せる点としてまず、踊れること・歌えること、すなわち“動ける”アイドルであるという要素があるでしょう。しばしばこの要素はAKB48プロジェクトを仮想敵として、ファンが自らの応援するアイドルを誇るためにも用いられます。そうした誇り方の妥当性はともかくとして現状、ハロプロはTV等のマスメディア露出よりもそうした、技術をバックボーンとしたライブパフォーマンスに長けた集団として歴史を紡いでいます。

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 一方、実はハロプロが継続的に興行を打っているものとしてもうひとつ、舞台演劇があります。“劇団ゲキハロ”としてハロー!プロジェクトあるいは母体となる芸能プロダクション・アップフロントエージェンシー(以下UFA)が表立って主導するものもあれば、体裁上他のプロジェクトに演者を預けて主演させるものもありますが、ともあれ舞台演劇という、また別種のライブパフォーマンスでもそれなりの歴史を有している。


 しかしながら、必然的に「アイドル演劇」的性質を帯びるこのジャンル(劇団ゲキハロ『三億円少女』のエントリ参照)において、ハロー!プロジェクトの打率、あるいは志はさして高くないのではないか、というのが個人的な印象です。

 目先の一定の興行利益目的で安易な基盤によってつくられた創作品をエクスプロイテーションという言葉で表現することがありますが、ハロプロの劇作については言ってみればハロヲタエクスプロイテーションの側面が決して小さくない。舞台にかかる芝居として「彼女たちである」以上の+αをさほど感じられないことが多い。そのこと自体は必ずしも悪ではありませんし、特定の層のみに向けたプロダクトだっていくらもあります(そうした閉じたシフトにはもちろんメリット・デメリットありますが)。

 ただ、ハロー!プロジェクトおよびUFAは、アイドルグループ卒業後のメンバーの進路として、舞台演劇もこなす女優(ないしタレント)という道を敷くことがしばしばあります。おそらくは商業演劇へのパイプも有しているのでしょう。それならば、ファンをエクスプロイトできるからといって舞台演劇としての求心力に乏しい企画を打ち続けることは長期的に見て、演者にとっても芳しくない結果しかもたらさないのではないか。ハロプロの舞台に関してはおおまかにこのような印象をもっています。

 端的にいって、その状況に対する解のひとつを提示してくれたのが、矢島舞美(℃-ute)主演作『らん』ではないでかと思います。彼女たちは、動けます。アイドルの原点的魅力である「身体の躍動」を、高レベルで体現できる人たちです。それならば、舞台でアクションを見せることは彼女たちにふさわしい身体表現ではないでしょうか。


 豪族の苛政に苦しむ農村が蜂起するべく頼ったのは、社会の最底辺、人外の身分にある赤谷の者たち。赤谷の少女・らん(矢島舞美)は、幼い頃に村に住む正太郎(中村誠治郎)に親切にされて以来、正太郎を思い続けている。一時的に豪族への叛乱に成功した村人たちは、平素疎んでいる赤谷たちを厄介払いしようと目論む。正太郎のためにと赤谷を引っ張り農村に加勢したらんも、正太郎が思わせぶりつつ半端な態度でしかいないことを知り、結果、赤谷の人々はわずかな報酬を手に谷へ帰ってゆく。帰路、らんは退却した豪族が村に襲来してくることを察知する。


 主演の矢島舞美の芝居は、決して巧くありません。また、おそらくは℃-uteのコンサートと時期が近接していたこともあって、練習参加への制約もあったのではないかと思われます。茶目っ気多めに造形された少女・らんの演じ方が舞台内世界に今ひとつ馴染んでいない。その点、主役である彼女が出ているシーンの方が場としての印象が薄くなるところも少なくありません。現状の彼女の環境、キャリアとしてはここがひとつの限界なのでしょう。

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 しかし彼女の真骨頂は最終盤。揚幕から登場(会場の前進座劇場は普段前進座が歌舞伎興行をやったりしているので花道が常設されています)し、多勢を相手にした殺陣のシーンが始まるとその存在感は際立つ。もともと筋肉質で動きにキレのある矢島が最も光り、主役としての説得力を見せつけます。
 もちろんのこと、立ち廻りの技術に長けているというタイプではありませんが、立ち振る舞いの姿は鮮やかで、これこそハロプロの底力ということなのだろうなと。それまで主役的なエピソードを与えられながらももうひとつ輪郭のぼやけていた彼女が、ここにきて急激に大きな華を表現する。ヲタ相手の商売を超える価値をもつ可能性が垣間見えた瞬間でした。この立ち廻り、アクションの多用こそ、動けるアイドル集団たるハロプロが演劇を続けるにあたって大きなヒントになるように思います。


 それに関連して大事なことは、この秦組というチームが矢島を「アイドルグループ・℃-uteの矢島舞美」として扱っていないことです。アイドルを主役にした演劇でありがちな、その人のアイドルとしての立場をネタに織り込むことももちろんなく、単に主役をあてられたひとりの役者として起用している。だからこそ「アイドル」でさえあればいいというエクスキューズもなく、他の役者に比べて技術が劣る点もそのままむき出しになりますが、この環境はむしろ当人にとっていいことですし、観ている方としても清々しさを覚えます。矢島舞美のポテンシャルを考えれば、ソロになる日のために重要な研鑚であると思います。


 脇を固める役者陣が手堅いのも頼もしい。特に目立つのは、らんをはじめとする赤谷の一族を疎み、私利を優先させる村長親子を演じた清水宏と丸尾丸一郎。
 清水宏をかつて小劇場でみた際には、クセのいささか強過ぎる、いってしまえばクサ過ぎる演技がひっかかったのですが、前進座劇場のキャパシティで、大きな持ち場を与えられると途端に輝きます。ほとんどスタンドプレイでクドめの客いじりを行なう場面もあるのですが、それが意外にすんなり見れてしまうのは空気作りの巧さ。ワンマンショーの場面をつくれることと前述のクサ過ぎる性質とはおそらく紙一重、というか同一の要素から成り立つものなのだろうなと。

 またその息子役、新たに村長に就き、矢島演じるらんに終盤、対峙する敵・弥之助を演じる丸尾丸一郎も充実した客演ぶり。丸尾は本ブログでも幾度か取り上げている劇団鹿殺しの作家/俳優ですが、この役は彼が鹿殺し本公演で描く人物造形といくらか通じるところがあるように見えました。鹿殺しで彼が描く人物/彼が演じる役は、自身の怠惰や空回りから半ば目を逸らし、半ばは気付きつつ、およそ現実味のない夢を追い続ける。それは単に不遇として描かれるのではなく、当人のうまくやれなさ、自堕落と紙一重の姿をも見せられるから、痛々しくも素晴らしい。
 今作で丸尾が演じる弥之助も、許嫁でありながら弥之助に一切心を開かず、正太郎に惚れているお綾(工藤里紗)を追いかけつつ、一方お綾に嫌われ続ける理由もまた自身の私利を優先した言動の内にある。正太郎の存在を抜きにしてもお綾に疎まれる要素は自身で生み出しているのだけれども、それでもそこに弥之助なりの論理があり、お綾を追い続けるひたむきさそのものに偽りはない。この哀しい人物造形とそれに応える丸尾の演技は芝居自体に奥行きを与えています。


 矢島舞美という存在がアイドルゆえに主演を張っているという面はまだまだ払拭できるものではなく、一般の演劇ファンに訴えるには課題は多い。しかし、少なくとも安易なエクスプロイテーションではないものを創作しようとする姿勢は確実に感じられるし、キャリアとして矢島がこの舞台に立つことに大きな意味を感じさせます。エクスプロイテーションで何をやっても一定数のヲタが来てくれる。だから安易な企画でいい、のではなくて、だからこそ実験ができる、のです。今回は昨年初演したものの再演ですが、彼女がしっかり稽古期間をとっての再々演もみてみたい。繰り返される意義のあるアイドル主演舞台であろうと思います。



 
*喜劇『ハムレット』&悲劇?『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』 
 渋谷区文化総合センター大和田 さくらホール (2011.5.25)


 さて、他方ハロー!プロジェクトの大看板、モーニング娘。のエース高橋愛はジャニーズ事務所所属の長谷川純を相手役に、シェイクスピアの『ハムレット』およびトム・ストッパードによるハムレットのスピンオフのような『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』を併演する企画に出演しています。

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 他の共演者にTHE CONVOYの瀬下尚人、ダンサーの小林十市、斉藤レイ、あべこうじ、日替わりでよしもとのお笑いコンビ5組。キャストを知った段階では統一性は見えませんし、『ハムレット』と『ローゼンクランツ~』とがどう融合されるのか、されないのかもまだわからない。この一見して感じるまとまりのなさはどちらへ転がるのか。


 結論からいって、そのまとまりのなさは劇にそのまま反映されています。一幕目が『ハムレット』、二幕目が『ローゼンクランツ~』と完全に分離して公演を行なっていますが、そのようにシンプルに構成したことでまとまりが出るものではありませんでした。

 演者や演出家にその責を問うのは酷でしょう。それぞれは与えられた持ち場でできうる限りのことをしていたと思います。企画を立てる側にどこまでの計算があったのかなあというのが、いちばんの疑問点です。ハロー!プロジェクト、ジャニーズ事務所、吉本興業という大看板を揃え、モーニング娘。のエースである高橋愛を主要キャストに据えればどうにかなる、という有機性を無視した企画で押しきったように見えて仕方ありません。


 基本的に一幕目は『ハムレット』の戯曲のみで進行しますが、劇のトーンが全体を通して一定にならない。どこからの指示かはわかりませんが、おそらくは良かれと思って、それぞれのキャストのファンへのサービスとして、主要役柄を演じる演者たち個々人にあてた見せ場が挿入されています。
 瀬下のタップダンスはともかくとして、小林十市が落語仕立てでエピソードを語るシーン(小林は祖父に五代目柳家小さん、弟に柳家花緑をもつ家柄)は当人の本業ですらなく、また芝居全体の中に溶け込むシーンでもありませんでした。それらがノイズともなっていて、『ハムレット』を上演し、ストーリーが展開しながらも、一本の流れが見えにくくなっています。


 個人的に最も疑問が強かったのは、高橋愛(オフィーリア役)が中心となって踊るシーンの振付に、モーニング娘。の(高橋が加入していなかった頃の)代表曲のひとつ「恋愛レボリューション21」の振りが引用され、繰り返されていた箇所です。

 とかくアイドルを主要キャストに据えた演劇では、そのアイドルの代表曲を小ネタにするような演出はなされがちです。それはそれで有効になる類の舞台もありますし、そのことを否定するものではありません。ただ、高橋愛は秋にモーニング娘。からの卒業を控え、その後のルートとしておそらくは安倍なつみラインに近い、商業演劇にも活路を見出す路が敷かれると予想されます(卒業直後には帝劇の『ダンス・オブ・ヴァンパイア』出演を控える)。それに向けて、モー娘。在籍時に決して多いとはいえない舞台経験、そしてその多くがハロプロ内の「身内」舞台だったことを考えれば、もういい加減、舞台活動としては「娘。」の看板を外したブランディングを準備してあげるべきでしょう。せっかくのハロプロ外舞台なのですから。

 かねてより宝塚歌劇をはじめ、舞台演劇を嗜好する高橋ゆえ、せっかく商業演劇へのパイプをUFAが持っているなら、彼女をいかに育てるかで、後続のためにも好例をつくり得るはずなのです。こうした企画や身内舞台を続けることが長期的ビジョンとしてプラスに働くとは思えない。エクスプロイテーションならばそれでも良いでしょうが、平日とはいえ大看板をこれだけ揃えて百数十名程度の入場者ではそれも成立しない。視界を拓く可能性を見せた『らん』に比して、より拓く必要のある高橋愛の舞台企画がこれではなかなか希望を持つのは難しい。


 高橋愛は上述の矢島舞美に比べれば演技自体は遥かに巧い。それは間違いありません。しかし、それは商業演劇を主戦場とする人たちならば誰もが持つ巧さです。単に略歴上の舞台経験を一行ずつ増やすだけでは、彼女の俳優としての「面白さ」は育っていかないように感じました。


 舞台としての最良の発見はあべこうじ、そしてこの日のローゼンクランツ&ギルデンスターン役を務めたチーモンチョーチュウ。お笑いのネタを上演するというのは、シチュエーションを現前させてそこにリアリティを持たせるという作業の連続でもあるわけで、それを考えれば自然なことではあるのですが、演技の安定感が素晴らしかった。あべこうじは複数の役をこなしながら、それぞれのキャラクターに器用に合わせる技を持っている。また『ローゼンクランツ~』で主演を務めたチーモンチョーチュウも、芝居の性質上二人のフリーにネタ披露できる時間が多いとはいえキレはよく、またそれなりの哀感を漂わせて終わる。皆が共倒れになった感のあるこの芝居で、あえて得をしたキャストを探すならば、あべこうじとチーモンチョーチュウかもしれません。

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