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~演劇とアイドルと何かと~

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偉大な第二歩目

*TOKYO IDOL FESTIVAL 2011~Eco & Smile~ お台場・青海特設会場 (2011.8.27,28)

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 「2回目」が実現したこと、そして“フェス”としての成熟度が確実に増したことがなによりも祝福されるべきことではないでしょうか。

 昨年の8月に行われたTOKYO IDOL FESTIVAL 2010の際、再びこうした機会が実現してほしいという声は各所で耳にしましたし、個人的にも毎年の恒例になれば理想的だと考えていました。しかし、先例もなく、動員数や会場運営の仕方も手探りの感が強かった前回興行時点では、皆願望はあっても「来年がある」ことへの期待に強い手応えは持てなかったはずです。AKB48やハロー!プロジェクト関連、あるいはPerfumeといった、現在のアイドルシーンで最大級のネームバリューと動員力を誇るグループを招聘せず、会場も品川駅付近に点在する複数の施設を使用するというスタイルで開催された昨年のフェスはまだその位置づけが明快に見えづらい部分もありました。また一方でその招聘グループのセレクトと入場料の高さにより適度にゆったりした観客数となったゆえに結果的に実現したある種の快適さは、2010年限りのものでしかないのではないかという予想もされました。

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 しかし形がどうであれ(といっても2010年のフェスはとても素晴らしいものでしたが)、先例を作ったことで、2011年開催にとっての大事な足場になったことは間違いないでしょう。昨年のAKB48やハロプロ、Perfumeに加え、今年になって知名度、存在感の格段に大きくなったももいろクローバーもフェスに参加しないことが早々に判明していました。しかし昨年、招聘グループの基準が示されていたことで、少なくとも現状のTOKYO IDOL FESTIVAL(以下TIF)に関してはこのくらいの規模で開催される、ということが自然に了解される素地ができていたように思います(それはまた昨年のTIFが、それでも充分に楽しい空間であったという実績によってもいるのですが)。

 また昨年のTIFの快適さの大きな要因であった、来場者数が多すぎないゆえののんびりした空気が、アイドルシーンの変化やもろもろの環境(ラインナップや実質昨年の数分の一の値に設定されたチケット価格、会場変更等)によって悪い方向に一変してしまうのではという危惧も、蓋を開ければほとんど杞憂でした。確かに昨年と同じ空気ではあり得ませんが、祭的な開放感と高揚感を大きく強める方向に進んだことは、フェス的空間を作る上で良かったと思います。


 フジテレビの門澤清太プロデューサーがTIFの総合プロデューサーを務めていることから、今年の会場はフジテレビ湾岸スタジオ及びスタジオ前の広場(湾岸スタジオとゆりかもめ「テレコムセンター」駅と日本科学未来館に囲まれたスペース)。屋外の広場に設えられたステージは無料開放されてチケットなしでも観覧自由、チケットの必要な湾岸スタジオ内は収録スタジオと屋上ステージ等が設けられました(TIFのクレジットにフジテレビの名前はなく、主要事業の位置づけではないのでしょうが)。

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 ステージごとに比較しての評価でいうならば、会期中随一の高揚感、音楽フェス的な空気の創出に貢献していたのは、無料で観覧できる野外ステージでした。ステージから遠く離れた後方まで広がった芝生の上で、あるいは飛び跳ねあるいは芝に座りながら終日ライブを堪能できるというのは、やはり最高に心地良い。陽も落ちた二日目のグランドフィナーレ後、アンコールとして無料ステージで出演者たちのうち数十人が揃いライブを行いました(各アイドルの持ち歌ではなく『雨上がりの夜空に』『睡蓮花』『One Night Carnival』などを生バンドで)が、この最後のステージが真にフェスらしい高揚感に溢れたものになったのは、夏の夜を感じられる屋外の広場という立地によるところが大きいでしょう。この野外のフリーな空間は次回以降の開催でもぜひ大事にしていただけたらと。

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 また他方、テレビ局の所有する施設を使用できるという条件ゆえに成し得た舞台として特筆すべきは、湾岸スタジオ屋上につくられたSKY STAGEです。アイドルたちが躍動する舞台の背後には壁や地面を感じさせるものはなく、高層階からの台場の眺望があるばかり。青空とフジテレビ社屋を借景にした高層階のステージは、中央のテレビ局というある種の「俗」を強く感じさせるものでありながらまた一方でそれ以上に、ちょっと「俗」から切り離されたようにも思える不思議なバランスの空間でした。天空のステージに登場したTwinklestars、東京女子流、DOROTHY LITTLE HAPPYらのパフォーマンスはその不思議なバランスの空間の中で、まさに「地上」とは確実に異なる時間を演出していました。


 もちろんフェスとしてはまだ粗も目につきます。テレビの収録スタジオをそのまま使用した二つのステージに向かうまでの道程はフジテレビの倉庫の内部が装飾もなくむきだされていて、ステージへの誘導看板も幾分のおざなり感は否めません。それら収録スタジオのステージへの出入りは、普段の収録で人間が使用する小さなドアしか開放されておらず、千人単位の人間が移動するには出入口が狭すぎることも課題でしょう。またスカイステージや物販エリアへのアクセスがエレベーター二機のみであるゆえに利用するまでに長い列を作らねばならず、物理的にはすぐ近くにありながら移動に時間と手間がかかるのも難点ではあります(来場者数的に、階段を使用可にすると事故のリスクも増えるので今回のこの措置については理解はできます)。

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 とはいえ、フェスらしさ、開放的な楽しさという面で昨年から格段の進歩をしていることは疑いようがありません。アイドルが集うことそれのみの豪華さという要素だけではなく、そのことによる祝祭空間を現出できるようになったことの意義は本当に大きいと思います。アイドルのパフォーマンスを大事にすると同時に、この場所を大事にしたいという機運が高まる契機に、今回がなってくれれば良いなと願います。

 先に、今回のフェス随一の高揚感が無料エリアにあった、と書きました。このことは、こと今回に関しては来場者に「無料のエリアだけで充分だ」と思わせるものであったかもしれません。けれども長期的に見て、無料エリアであれ堪能することでこの幸せな空間を維持してほしいと考えるアイドルファンが増えるのならば、そのためにチケットを買って貢献しようという向きも増えるのではないかと思います。こうしたアイドルシーン活況の象徴が開催されることの楽しさはチケットを買った買わなかった問わず、少なからぬ人々に届いたのではないでしょうか。
 「誰々が出るから行きたい」よりも「アイドルフェスという空間に寄り添いたいから」会場に赴きチケットを買う。毎年の開催を経ることでそうした習慣付けができるのならば理想的です。
 アンコールステージの最後、風男塾の青明寺浦正が「来年も再来年もTOKYO IDOL FESTIVALで会おうぜ!」と叫びました。昨年には実現度の覚束ない希望であったその言葉ですが、今年はよりはっきりと「次回」を見据えることができる。完全にプロトタイプであった昨年に続いて、空白を置かずに、また格段のレベルアップをもって第二回が開催できたのは素直に喜ばしいことだったと思います。

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客演女優の効用

*劇団鹿殺し『岸家の夏』 青山円形劇場 (2011.8.1)


 劇団鹿殺し作品の主人公たちはいつも、「スター」への憧憬と、自分が決してスターになれそうにもない現状とのせめぎ合いを抱えて煩悶しています。ステージの上の存在になる夢を諦めきれず、運にも才能にも恵まれず、また己の怠惰と向き合う勇気を持つでもない。身近な人間がのし上がってゆくさまを横目に空回る主人公の姿は、小劇場界という「食えない」世界を歩む劇団自身の姿の投影でもあります。憧れの座を追ってモラトリアムにしがみつき自身の怠惰を見なかったことにする人物を劇団の作家でもある丸尾丸一郎が体現し、彼にとってもっとも近くもっともつかみ得ない超越的な存在を劇団座長であり演出も務める菜月チョビが演じる。これが鹿殺しの代表的なスタイルといえるでしょう。

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 本作『岸家の夏』は、そうした彼らの描き続けていたテーマに少しばかり、幅の拡張をもたらす契機となるかもしれません。ひとつは主題において、そしてもうひとつ、こちらの方が重要ですが、超越的な存在として舞台の中心に居続けてきた菜月チョビの扱い方において。


 本作の主人公もまた現状のうまくいかなさを持て余しながら日々を送りますが、そこで描かれるのはスターになることを追う人物ではなく、結婚して“普通の家庭”を持つことを目標にする三人姉妹です。
 半端に夢を追いながら、半端に歳を重ねてしまった人物が描かれることの多かった鹿殺しにおいては、当人が家族をつくろうとする意思はあまり主眼になってきませんでした。振り返れば相当な年月を歩み、夢をおおっぴらに追うことも嗤われる歳だけれど、またカタギの生業を容易に手にできるような若さも人脈もない。そんな設定に置かれた主人公たちにとって、自身が家庭をつくることは端からメインの目標点にはなりにくい。たとえば「婚活」という常套句に象徴される、世間的に“まっとう”なライフコースを歩むべく静かに急き立てられ、自身もそれに迷いつつ順応してゆくような葛藤からはあらかじめ距離が置かれている、ないしは放棄されているケースが多かったと思います。主人公が子供をもうけていた『赤とうがらし帝国』でも、菜月チョビ演じるタエは「主役」になることを求めて走り続け、そこでは子供との家族関係はなおざりにされていました。劇団鹿殺し作品の主人公にとって、時に自身の生家としての家族は足かせになったり物語の推進力として働いたりしますが、主人公自身が家族をつくるという局面はメインパートにされてはきませんでした。
 しかし今作『岸家の夏』では、周囲の空気や男性性・女性性をめぐる風潮に苛立ち辟易しながらも、一方で主人公たちが「魂の片割れを待ち焦がれる」(菜月チョビによる公演パンフ『演出のことば』より)物語です。鹿殺し作品としては例外的に「結婚を求めること」や「親であること」を主役割に置きながらも、疾走感においても“年齢”感においてもその勢いが揺らいでいないのは劇団の底力でしょう(「結婚」などの、一般的とされてきたライフコースを主題にすること自体を作り手の「成熟」と捉えているわけではありません、念のため。あくまでこれまでとの対比で作風のレンジが広がる契機なのではないか、ということです)。


 福岡県飯塚市の柔道家の父のもとで育った夕子、陽子、朝子の三姉妹(千葉雅子、峯村リエ、菜月チョビ)は皆30歳を超え、揃って結婚相手紹介所に登録しチャンスを伺っている。一方でそれぞれに、トルコ人と結婚し一子をもうけたもののその後トルコ人との関係が芳しくなくなってしまったり、妻子ある男性との不倫関係(それも自身が妻以外の“唯一”の相手ではなかったりする)を続けながらその男性との結婚を密かに願っていたりと一筋縄でいかない困難を抱える三人。そこに、父がつくった借金が一千万円あると告げに来るチンピラ・竜崎(オレノグラフィティ)。三女の朝子が管理している柔道場が返済不能の際のカタとして要求され、三姉妹は道場を守るべくそれぞれに金策に走る。


 なにより劇団の振れ幅の拡張を感じさせるのは、菜月チョビがただ一人で超越的な存在感を放っていた過去代表作に比して、本作では全編を通して菜月チョビと並立する二人の女優がほぼ同格の役割を担っている点です。千葉雅子と峯村リエという、キャリアも実力も備えた先輩格の女優がサブキャラではなく、菜月チョビと並び立つように三姉妹として起用されることで、非・菜月パートでの盛り上がりもレベルアップし興味の持続にとって良い働きがもたらされています。これは、千葉、峯村の巧さ、鹿殺し作品へのフィット感もさることながら、彼女たちの存在に作・演出側が刺激された結果としての幅の拡大でもあるでしょう。


 最終的には千葉、峯村と並んで物語を主導してゆく中で、菜月は半歩特別な存在となります。炭鉱の町にちなんで千葉と峯村が劇中、“詰んだ”かに見える自身たちを二つの「ボタ山」と表現していますが、菜月は終盤、ただのボタではない役割を担わされる。しかし、千葉、峯村との並立関係を経てのちに確立される菜月の特別性は、もともと超越的存在であったそれまでとは確実に意味合いが異なります。

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 そうした外部刺激がどの程度直接的に作用しているかはわかりませんが、鹿殺しの最大の魅力のひとつである、感情の高ぶりとしての歌とダンスのレンジも幾分広がっているように感じられました。峯村パートの「陽子のテーマ」でみせる、ある音楽ジャンルをノリと勢い優先で取り入れた感じのトラックは、音楽ジャンルを“まちがって”取り入れることの楽しさを思い出させてくれます。また千葉パート「夕子のテーマ」における、シーンの場所設定と振り付けを同期させつつ小道具を人力で駆動させるアクションも面白い。序盤の楽曲中における、酔ったあげくの格好が“poker face”の伏線になる遊びも含め、勢いに乗った鹿殺しの真骨頂は存分に発揮されています。


 いつもの鹿殺し同様、ラストはすべてが解決するようなハッピーエンドではありませんが、その手前に本作では主人公たちに明確で強いカタルシスを用意しています。こうした高揚シーンにおける場面的飛躍もいつもながら鮮やかです。
 物語のスタートと着地において、主人公たちの外面的環境に好転があるようには見えません。けれどもその内側に、三人が確実に前に歩んでいる跡が見えるゆえに清々しく、良い意味できれいにまとまった作品になっていると思います。

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