もう安心 

~演劇とアイドルと何かと~

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

イケメンパラダイス!

*柿喰う客 女体シェイクスピア001『悩殺ハムレット』 シアタートラム (2011.9.22)

2011_9_22_kakikuukyaku_noh-satsu_hamlet_1

 「圧倒的なフィクション」というキャッチフレーズに象徴される柿喰う客のセリフ発声や身体技法は、高揚感を保ったまま、かといって一本調子なハイテンションに陥らない独特の言語感覚で抑揚をつけることで、ダレ場をつくらぬまま上演時間を駆け抜けます。そのスタイルゆえ言葉選びや演者の身体の動かし方に注目が向かいがちですが、柿喰う客は非常に、ルックス的な意味で見栄えの良い(また良く見せることが巧い)劇団でもあるのです。


 その特性を存分に見せつけてくれるのが劇団の新機軸、女体シェイクスピアシリーズです(女体シェイクスピアはまだこの一作のみですが、シリーズ化される模様)。女性キャストのみによるシェイクスピア戯曲の柿喰う客的翻訳ともいうべきこのプロジェクトは、劇団の有する見栄えの良さがとりわけ際立ちます。

 その肝となるのは、男装キャストの凛々しさ、キュートさでしょう。スーツスタイルを基調とした衣裳、ヘアメイクに気を遣っている(凝ればいい、オリジナルで作ればいいというものではありません)ことはもちろん、セリフのつけ方、立ち居振舞いまで込みで「格好良い男たち」に見せることができている。ルックスでセンスを見せるということは、演劇において決して軽視していいものではないのです。
 劇団の作・演出者である中屋敷法仁は自身のツイッターで、俳優への“かっこいい”“かわいい”という評が低くみられることについて異議を唱え、ヴィジュアルへの意識を等閑視せぬよう述べています。歌ものアイドルのライブや宝塚歌劇のように、ヴィジュアルに意匠を凝らすことへの志向が明確であり、そのために少なからぬ資金投入もできるようなステージとは異なる小劇場演劇で、格好良さを表現しようとし、またそれをハイレベルに達成するというのは容易なことではありません。『悩殺ハムレット』はまず、その点において高く評価されるべきです。


 とはいえそれは素の身体に衣裳をまとわせればスター然としたものが出来上がるわけではもちろんなく。柿喰う客特有の、テンションを保ちながら時に極端な肢体の躍動が表現されてこそ、「見栄え」は完成します。男装キャストは虚構の端正な男性としての、女性役キャストもまた虚構性の強い女性としての色気をオーバーに表現する。先のツイッター上のポストで中屋敷法仁が歌舞伎や宝塚を例示していたのが非常に得心できる、虚構ゆえに醸される過剰な色気、格好良さ。そこに酔えるだけでもう、この芝居は勝ちです。


 ストーリー自体はシェイクスピアの『ハムレット』です。翻案や改作といえるような、話の展開に関わる大きな改変はありません。ただし圧倒的に異なるのはセリフの翻訳。作・演出者得意の、ネットスラング等各種メディアで見聞する表現や街頭ゲーム等で世間に浸透している言い回しなど、レンジの広い語彙のチョイスはやはり流石。そしてまた、全体のトーンを支えている現代日本の若者的な“チャラい”言葉遣い。これらの言葉がたたみかけるように『ハムレット』を進行してゆきます。

 しかし表立った特徴として目につくこの“チャラい”言葉遣いは、いわゆる古典を今っぽい感じに訳しました、という程度の「現代風」の試みに留まるものではありません。演出者はこうした翻訳の際の語彙をただの今っぽさとして用いているわけではない。軽薄な若者言葉だって、ただ並べれば面白くなるというものではないのですから。

 幅広く収集され現代調の見た目に並べられた語彙群は、あくまで言葉のリズムやニュアンスの妙として面白い抑揚をつけるための駒です。安易な“現代版ハムレット”などを目指すものではない。だから採集される言葉はいわゆる今風の箇所からとられたものばかりではないし、古典的な翻訳をそのまま用いている箇所もある。調子がワンパターンにならないバランスの良さからは、中屋敷法仁のセンスがうかがい知れます。一方で、こうした振れ幅の広い遊びを、『ハムレット』という絶対的なクラシックが基盤として支えていることもまた感じます。本作品の制作にあたって中屋敷演出は『ハムレット』という背骨を信頼することができる。演出者の手腕と古典というものの強さが幸せに相乗効果を見せているといえるでしょう。

2011_9_22_kakikuukyaku_noh-satsu_hamlet_2

 テンポの良さを強く感じさせる芝居のグルーヴ感と、格好良さを表現しきった演者、秀逸な言語感覚。格好つけることを重要なポイントとした芝居できちんと格好良いということは、シンプルにすごいことだと思います。芝居を観ながら、「柿喰う客がアイドル演劇を演出したら」と夢想しかかりましたが、最高に格好良くて可愛いアイドル演劇はすでに目の前にありました。
スポンサーサイト

不幸を乗りこなす

*ポツドール『おしまいのとき』 ザ・スズナリ (2011.9.21)


 思いがけなく身内の危険や不幸にさらされた人が他者に向けて行なう言動は時に、平素の基準で考えればいささか理不尽と思われるものもあるかもしれません。そのような事態に対して周囲の人間が当事者の置かれた状況を斟酌して接しようとするのは自然なことですし、社会通念上もそのような配慮はなされるべきものとされるでしょう。
 しかし他方、そうした当事者の理不尽な態度について「平時」にいる他者が表向き配慮した行動をとりながらも、静かに不満を蓄積してしまうこともまた自然です。当の人物がまずなによりも暴力的な理不尽さによって家族の身体の危険や喪失を前にした被害者であるという絶対的な事実ゆえに、そうした不満や密かな反感は、直截には表現され難くなります(翻って、2004年のイラク日本人人質事件の家族や北朝鮮拉致被害者家族に対してなされたごとく、「彼ら家族の言明や活動が政府や警察に対する不当な働きかけにあたる」などパブリックな“大義名分”を表立ってかざしやすい条件が存在する場合、彼ら彼女らが「被害者ヅラ」等と糾弾されやすくなるというケースもあります。そうした非情な表現については、本題から外れるためここでは掘り下げません)。

2011_9_21_potsudo-ru_1

 ポツドールの新作『おしまいのとき』はそのような、ふいの喪失によって斟酌する側とされる側になった人々双方の抱えた傷と苛立ちに接近しつつ展開します。しかし次第にむき出しにされるのは、自分の立場や行動を正当立てるための「論理」を編むという行為の醜さと、それでもその「論理」の立てざるを得ないどうしようもなさです。


 突然の事故により息子を亡くした主婦・智子(篠原友希子)は塞ぎこみ、控えめに気遣う夫・浩二(古澤裕介)にも心配して足繁く様子を見にくる友人夫妻にも、まともに応答もできない日々が続く。ひと月ほどのち、エアコン工事に来た作業員・裕一(米村亮太朗)と智子とは半ば強引に肉体関係をもつ。智子は裕一を「こちら側」の人間と判断して受け入れ、裕一との出会い、不倫関係を己の「復活」のプロセスと位置づけて自己正当化しつつ関係を続けていく。


 まず目が行くのは、智子夫妻を気遣いながら頻繁に声掛けに訪れる、友人の今井夫妻、特に夫・伸二(松浦祐也)の、「世話を焼いている」という自意識とその裏に見え隠れする智子への不満です。劇中、彼は繰り返し、「僕達はあなた方と同じ状況にはいないから、何を言っても嘘臭く聞こえるかもしれないけれど」という前置きを智子夫妻に対して投げかけます。この言葉は、“相手の状況など究極的にはわかりっこない”ということはきちんとわかっていますよ、という言明であり、自分の世話焼きの背後にある考えが浅くないものであることを、子供を亡くした智子夫妻に対して示すものです。そしてその思慮深さと親切さを示してみせた上で、それに応えない智子の姿勢を遠まわしに批判します。それも、「いや僕達はいいよ、でもそういうふうに(大人としてなっていない、甘えているというふうに)見られても仕方がないことだよ」と意見の主体をぼかしながら。

 彼の姿勢には善行、もしくは「偽善」という事柄にまつわる、一筋縄でいかなさがあらわれています。劇終盤、彼はごく近い間柄の人物から、その振舞いは「偽善」じゃないかと指摘され取り乱します。
 そもそも、他者を思いやるその行為が「善行」なのか「偽善」なのかということは完全に峻別できるものではありません。自分をよきものに見せたいがための振舞いではないかと詮索されればそうした疑いの視線を完全に無効にすることはできません。それは他者から見て峻別できないのと同時に、善行を行なっている本人の意識としてもそうでありうる。わざわざ智子夫妻の家に幾度も積極的に押しかけて様子を伺う伸二にとって、自身の行動は明確に自覚された不承不承の偽善などではないでしょう。だからこそ、自身のうちにある智子たちへの不満や苛立ち、時に口をついてしまう悪態を指摘されるとき、彼は取り乱して否定し、しかし即座に否定しきれないことにも思い至って自身を支える正当性を見失う。平素ならば向き合わなくてもやり過ごせるような、人のうちにある整合性へのごまかしを突いてくる痛く秀逸な描写です。


 そして話は、主人公である智子の自意識へと向かってきます。露悪的で強引なセックス描写から始まる智子と作業員・裕一との不倫関係は、智子にとって自身を回復するための必要なプロセスとして自覚されます。彼女が不倫を謳歌し、いつしか不幸を駒として用いることさえも、その「必要なプロセス」に組み入れてしまう。不幸を回復するための手段として不倫に溺れることを選んでいるのか、裕一とのセックスを正当化するための手駒として不幸があるのか、わからなくなるような冷徹な視線にまで智子という人物は突き放されて描かれています。


 劇中、彼女の声によるナレーションは彼女自身が為してゆく行動の理由付けを説明する機能を果たしますが、これは単なる説明ではなくて、彼女が自分自身の行動に正当な論理を与え続けるための、絶やすことのできない繕いであることがわかります。だからこそ、それが崩壊するラストで彼女は拠り所も「これから先」も失ってしまう。
 
 決して一般化してはいけない智子の心身の駆動のあり方はしかし、人間のしたたかさや黒さを強く抉るものです。生々しいセックス描写も、裸の下半身を晒しながら呆然とした笑みを浮かべる瞬間も、それでこそ強く意味を持ってきます。


 こうした対象を描くことは非常にあやうく、不遜で不快な姿勢と紙一重のものです。不快さが先立つオーディエンスも居るだろうと思いますし、その反応は至極自然でしょう。
 終盤の、不倫相手・裕一の家庭とパラレルに進行する展開によって、エンターテインメントとしての面白さも確保し得たように思います。その展開は作・演出の三浦大輔がパルコ劇場で制作した『裏切りの街』を思わせるものでもありますが、それゆえ『裏切りの街』はポツドールの不快成分を随分と漂白したものだったのだなと追認することにもなりました。

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。