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そして断絶は続く

*イキウメ『太陽』 青山円形劇場 (2011.11.17)


 イキウメの作・演出を務める前川知大は、共感・共存し合えないこと、互いを理解し合えないことの絶望的なやるせなさを描くのに優れた作家です。前作『散歩する侵略者』では、人外的存在により人間の脳が普段認識している“概念”を奪われるという世界設定によって、親しい者と同じ感情を分かち合うことが永遠にできないことの絶望を痛烈に描いてみせました(しかも共感し合いたい相手の概念を奪い、共鳴不可能な状態をつくってしまったのは、まさに「自分自身」である、という最悪のストーリーによって)。

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 本作『太陽』もやはり、見かけ上はイキウメ得意のSF的設定に基づいた物語ですが、なによりも併存する二者相互の分かり合えなさが突きつけられる作品です。しかも分かり合えなさを一見自覚し、理性的論理的に解決しようとする“誠実”な振舞いが、実は鼻持ちならなさと紙一重であることも浮き彫りになってゆきます。


 バイオテロによって人口が激減、現在あるような社会基盤が破壊されたのちの世界。生物兵器感染から奇跡的に回復した人々は、通常の人間を遥かに上回る能力を持つ身体に変異していた。彼らは頭脳明晰、肉体は若く健康なまま維持できるが、吸血鬼のように太陽光のもとでは生きられない体質をもつ。徐々に人口を増してゆく彼らは自らを通常の人間と区別し、ノクス(ホモ・ノクセンシス=夜に生きる人)と名乗るようになる。一方、生物兵器汚染から逃れていた通常の人間は人口的にも政治経済の担い手としてもノクスの周縁に追いやられ、ノクスに依存しながら小さな集落を作り生活している。通常の人間がノクスに変異する方法も解明され、その変異への適性は30歳前後で失われるため、若い通常の人間が自らの意思でノクスになる例も増え続け、人間はますます減少、立場が弱くなっている。


 人間に変異が生じ、それが不気味に拡散してゆくSF的設定はイキウメの得意とするところですが、前作『散歩する侵略者』や前々作『食べもの連鎖』のように、SF的設定を背景にした謎が徐々に明かされてゆくスタイルとは異なります。SF的設定からくる不気味な予感が現実のものとなり、最悪の事態が生じてしまったのちに再構築された世界から物語が始まるといえばよいでしょうか。


 進化した人間ともいうべきノクスたちは、周縁的存在となってノクス社会に依存せざるを得なくなっている人間に憐れみをかけつつ、しばしば若い人間(ノクスに変異する適性をまだ有している)をノクスの養子にしてノクス化させないかともちかけます(その理由はまた、終盤のキーのひとつともなるわけですが)。人間はノクスの穏やかな高圧性に拒否反応を示して狭い集落で流通もままならない生活を続け、両者は同じ国に併存しながらも不均衡な力関係の中で軋轢を取り払えない。

 論理的、理性的に思考する能力の高いノクスは、人間が「感情的」に意固地になるのを不完全な状態、病理的状態であると捉え、まだノクスに変異する適性の残っている若い人間がノクスになることを望ましいと考える。そしてまた彼らは、“論理的”に思考しうるがゆえに時折、自分のそのような考えが人間への見下しに繋がっていることに思い悩みます。劇中、ノクスの医師がノクス自身の性質について、その身体的頭脳的な全能感が特権意識、選民意識に繋がりやすいと発言しています。こうした姿勢は、自身を謙虚に省みようとすることができる一方、「そういう配慮もできる自分」という自負を得ることにも繋がるわけで、人間に対する優越意識を再生産する可能性も孕んでいるでしょう。

 一方、通常の人間側も、情報不足からくるノクスへの怯えに加え、ノクスの合理的な振舞いへの意固地な嫌悪意識が積み重ねられて異種間のコミュニケーション不調を招き、それが後半の悲劇のもととなってゆきます。ノクスはそもそもウィルスを帯びているゆえ、抗体を持たない人間はノクスとの身体的接触を恐れますが、それが実際、どの程度の接触でどれくらい身体に影響を及ぼすのか認識できているわけではない。わからないまま、いたずらに接触を避けることでノクスとの断絶は埋まらず、そのような忌避意識はノクスという他者の“人格”自体への忌避とも繋がってしまう。

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 ここでキーになるのは、彼らの感情を一面的な断絶に回収してしまわない世界設定です。現実的に社会で生きてゆくには、利便性や適応性、また身体的な優越性を考えてもノクスの方が優位です。人間もそれはわかっていて、ノクスのことは嫌悪しているけれども、自分の子供たちがノクスになれる可能性を持つならば、それを実現させることを選択しようとします。大人たちは子供に対して、ノクスへの変異手術を受けるように勧め、申込の手続きを子供の意思とは関係ないところで進めます。壮年に達しノクスへの変異適性を失った彼ら彼女らにはもう、ノクスに変異する途は閉ざされていて、終わってゆくだけの存在だという諦念めいたものが垣間見える。嫌悪と、現実的な希望を託すよりない気分とが綯い交ぜになっています。

 また他方、一部のノクスたちは、人間が持っているとある特性を、自分たちにない才能だとして褒め称えもします。それは意識上は心からのものかもしれませんが、そこには、相手が「不完全」なものであるゆえにその才能が保持されている、という発想が見え隠れし、“理性的”なノクスの、ともすれば欺瞞的な視線があらわれもする。明快な言語で説明されなくとも、見られる側の人間たちにはそうした鼻持ちならなさが感受されているようにみえます。


 こうした二者の併存描写からうかがえるように、イキウメの秀逸な点は、SF的な設定をしばしば用いながら、その現実世界と異なる設定の新奇さに依存するのではなく、語りの道具として有効に駆使し、「人間」の感情を極度に単純化せずに描ききることでしょう。
 また本作で描かれるノクスと人間との分かり合えなさは、たとえば欧米地域とアジア地域や、今日でいえば「福島」と「東京(や西日本地域)」、あるいは部分的にはハンディキャップをもつ人々とそうでない人々といった二者の、相互についてイメージすること、受容することの困難さを(露骨でなく)想起させるものです。そうしたテーマを、単純な疎み合いでない側面まで捉え、かつ片方のサイドに立った主張の一面的な押し付けに陥らない丁寧な手際で仕上げることによって、イキウメの作品は「SF」に溺れない強度を持つものとして成り立っています。


 また、前作のレビューでも触れましたが、その作品を完成させるのは、役者陣のハイレベルさです。一定のクセが滲みでたタイプの役者が少なくないため、各役者の演じる役柄は固定的なところもありますが、そのことにマンネリ、行き詰まりを感じさせないのは、高品質な演技ゆえでしょう。クセが強いからそういう役しかできない、のではなく、余裕を持って得意分野をやっているだけ、というように映るため、別の演出家でまったく異なった属性の役柄を当てはめてみたら、という想像をさせてくれる。ごく基本的なことを言うようですが、完成度の高い役者陣が揃っていることは、つくづく重要であるなあと思います。
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