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~演劇とアイドルと何かと~

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虚像、かくの如し

*M&Oplaysプロデュース『アイドル、かくの如し』 本多劇場 (2011.12.23)


 本作『アイドル、かくの如し』で描かれる“アイドル”は、昨今のアイドル文化に慣れ親しんだ人の目には、幾分オールドファッションな捉え方のものに見えるでしょう。この作品に登場するアイドル・くらら(上間美緒)はソロのアイドル歌手として活躍し、これから新規分野のドラマに進出しようかという段階におり所属事務所の稼ぎ頭である、という設定です。しかしながら、「アイドル歌手」というジャンルがグループアイドルに席巻されている今日において、ソロの“アイドル”歌手としてデビューしその成功を足掛かりに他分野に進出するというルートは実際には想像し難くなっています。ソロとして考えやすいのはむしろ、女優、モデル等他分野で実績を得つつある若手が歌手活動もやる、というケースでしょう。

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 また、作・演出を手がける岩松了はアイドルという存在について「完璧にいけにえだと思います。何かの代替物。虚像なわけでしょ、どう考えても。その虚像に人は群がるわけだから、求められる人は、いけにえですよ」と述べています。本作でのアイドル・くららの描かれ方は、そのような虚、およびその反対面である実の二面が背後に踏まえられているように見えます。
 くららは事務所内、つまりオーディエンスの前に立たない“裏”の場面では、時にスタッフに対して明快な応答をせず、仕事に対してのモチベーションもはっきりしないような態度をとったりする。これは表にあらわすことのないひとつの“裏”の顔です。劇中、岩松自身が演じる作詞家・池田は、くららを落盤事故救出の作業員激励イベントに出演させるなどして、少女の歌だけ歌っているイメージではなくて、社会活動にコミットすることでくららに対して世間が持っているイメージを揺らしたいと言います。表のアイドルイメージを裏方が制御していくようなアイドルづくりがそこには設定されています。

 現在、アイドルはライブ、テレビや雑誌媒体に留まらず、インターネット媒体を中心に、過剰にアウトプットすることでファンの興味を持続させざるを得ない環境に置かれています。ステージを降りた“裏(とされるもの)”までアイドルの側が能動的に開陳してゆく必要がある。そうした環境設定に加えて、アイドルが定期的に“会う”存在になっているという距離感の変化は、その「アイドル像」に根本的な揺さぶりをかけることが予想できます。
 また今日においては、アイドルが積極的に「アイドルらしからぬ◯◯」を売りにして、差異化をはかろうとする手段さえ常套になり、時にはアイドル自身が「アイドルらしさ」を半ばネタ的に披露してみせる。それは、ステレオタイプな虚像としての「アイドル像」を如何に相対化するか、というモードが“アイドル”シーンで生じているということです。

 こうした状況においてファンは、アイドルの単層的な虚像を楽しむというよりも、アイドルの虚実の皮膜(と思しきもの)を享受しているという側面も強いのではないか。もっとも、そうした重層的な虚実の皮膜遊びをひっくるめて、それは虚像であると指摘することは可能ですし、そう指摘されるならば、またそれは真でもある。ともあれ、本作にはそうした重層性への目配せはないように思います。現在の話として『アイドル、かくの如し』を受け取った時、そこに微かな違和感がないわけではない。
 しかし、演劇はアイドル時評などではなく、外面的な情報の収集能力によってリアリティが生じるものでもありません。昨今の状況を精緻に踏まえることは、それがテーマにおいて必要な際にのみ、やればいいのかもしれない。

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 結果的に、“アイドル”の虚実観がシンプルに縮減されたことで、本作の描くものは見えやすくなっています。この作品のテーマが「アイドル」であったならば、そのシンプルなアイドル観はもっと引っかかるものだったでしょう。しかし端的にいえば、これはジャンルとしてのアイドルの話ではありません。けれども、作者・岩松了がアイドルという存在に対して述べている、「虚像」の話ではあります。


 くららの置かれる状況を過度に心配するマネージャー・百瀬(津田寛治)が、対照的に泰然と構えているくららの実母・木山(宮下今日子)に対して母親なのに心配しないのかと問うシーン。木山は百瀬に対し、実の親だから彼女がどういう場面で強く、どういう場面で弱いのかくらいはわかっている、だから大丈夫であると、矜持を垣間見せながら反論します。親という立場の説得力を木山は見せつけますが、ごく親しい人間の考える当人像だって、いってしまえば虚像です。その後の場面で、後輩マネージャーの本間(足立理)がどのような人物であるのかと訊かれた百瀬は激昂したように、言葉でどんな人物であるかを説明し得るのか?と問い返し暴れます。客観的な実体を設定することの不可能さが、この作品では明示的暗示的に繰り返し描かれている。
 
 この作品のパンフレット所収のインタビューで、作者岩松は、あるベトナム戦争を扱った小説の叙述について、「それは現実の戦争について述べたことではないけれど、その人にとっては、その時の水面のきらめき(※小説中で叙述されている)が、戦争の本質に近い何かだった、ということは伝わってくる」と述べます(これは『アイドル、かくの如し』のテーマに関連して述べたものではありませんが)。彼は、ある人間に事象がどう受け取られているのか(の差異)、あるいはそこから派生して客観的な実体や虚構性ということに敏感な作家なのではないかと思いますが、本作品ではアイドル像やスキャンダルの“真相”など、客観的な真実が問われ続けるような環境設定の中で、登場人物の捉えている状況が虚なのか実なのかということの判断し難さが突きつけられます。芸能事務所社長・祥子(夏川結衣)の目の前にあらわれる、かつて浅からぬ関係にあったと推測できる人物の姿にいたっては、いま目の前にいるという実在さえもその虚実が揺らいでしまう。こうした整理のしづらい展開を、あからさまに輪郭線を描くことなく静かに描写するスタイルには、不思議な訴求力があります。


 本作のもう一つのテーマは祥子とその夫・古賀(宮藤官九郎)の夫婦関係。相手の浮気ももはや決定的な出来事にはならず、また腰を据えて話し合っての相互理解も諦めたような夫婦関係は、それでもなお絶望を感じさせるのではない、絶妙の仕上がりになっています。小さなディスコミュニケーションが重なる二人は、互いの状況を素直に汲もうとするような関係を築けてはいない。そこにはもう、相手に理想として託す虚像さえない。それなのに、そうなってからの夫婦の姿は、最終的に微笑ましい。劇終盤、夫との話を円滑にするために“虚構”のエピソードを挟んで会話を進める祥子は愛らしく、この夫婦関係が物語後半の中心に据えられたことで後味も柔らかいものになっていたと思います。
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“この世で一番幸せな”

*月刊「根本宗子」第5号『この世で一番幸せな家族』 タイニイアリス (2011.12.18)


 根本宗子という作家が描き続けているのは、人間の克服しがたい「甘さ」「“大人”になれなさ」なのかもしれません。
 今回と同じく新宿タイニイアリスで上演された前々作『根拠のない余裕』では、己の凡庸さから目をそむけ才能を信じ込もうとする作家志望男性と、その男性の恋人で自身が「平凡」であることにコンプレックスを持ち彼氏の卓越性を確信しようとする女性との共依存、それにもう一組、DVというかたちで互いを引きあうカップルを主軸に物語を展開し、また前作『最低の本音』では恋人に対して対極の姿勢にありながらいずれも的外れで無神経な男性二人を描き出していました。
 そこで提示される人間の甘さや幼さは、その筆致が繊細であるだけに観る者を苛立たせ、また身につまされるような心持ちにさせます。本作『この世で一番幸せな家族』もまた、登場する人物がことごとくそうした役割を担っています。

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 地方の狭いコミュニティで、新興の医院に押され流行らない町医者をしている健一(野中隆光)はとある薬品の開発・販売によって周辺住民に「人殺し」と罵倒され、医院に勤める看護師・森本(高野ゆらこ)も日々、糾弾に対して手を焼いている。その医院に、健一の学生時代の同窓生で東京に出ていた目城(山田伊久磨)が20年ぶりに訪問してくる。目城の目的はかつて恋慕し、今は健一の妻になっている依子(新谷真弓)に会うこと。しかし依子は健一に構われない憂さなどから万引き常習犯になっており、目城を落胆させる。他方、健一と依子の娘・真里亜(根本宗子)はこの家庭、この町から出ていきたいと願い、東京から来た目城にその期待をかける。目城もまた、初対面の真里亜にかつての依子の面影を見る。


 この芝居は、健一の長男・真理央(野田裕貴)が自室で、スカイプを通じて女性と会話している場面から始まります。互いに相手のスタンスを探りながらオブラートに包んだ好意を見せつつ、姑息な速度で性的な距離を詰めようとする、その下心の情けなさがいきなり手際よく描かれていて導入として優秀。根本の得意なタッチが冒頭から発揮されています。

 妹である真里亜の同級生と交際している真理央の、彼女と向き合わない(けどきまぐれにセックスは要求する)だらだらとした感じも、わかりやすい露悪でないだけに腑に落ち、それに小さく不満を抱きながらも好意的に解釈しようとする恋人(滝沢佑果)の描き方も軽やかで、それぞれに悲壮感のないダメさがよくあらわれています。


 また、万引き常習犯の依子が抱える鬱屈の根は、単に夫に構われないということではありません。それはかつて自分がおかれていた位置からすれば、将来はこんな小さなものではなかったはずという不満の蓄積。その不満が特定され得ない他者への責任転嫁としてあらわれ、依子は己で自分の人生を行動的にも精神的にも制御しようとしないまま、幼さを持て余して日々を送っている。この依子の描き方は演者の良さとも相俟って登場人物の中でも秀逸の出来です。

 その“幼さ”のわりに(あるいは“幼さ”ゆえに)、配偶者ではない人間との感情の伴わないセックスにだけ慣れた依子を目の当たりにして、かつて依子に憧れていた目城は落胆し怒りをぶちまけます。しかしこの怒りはまた、依子の幼さ以上に理不尽なもの。卒業以来、会うことはなくなっても依子の幻影を膨らまし続けてきた目城の内には、自分にとって理想的な、虚構の「依子」が形成されている。その像を破壊させられた目城が当の依子本人に対して放つ、「僕の中の三井さん(依子のこと)を汚さないで!」という叫びは本作のうちでも随一の最低さ加減。幾分、類型化が過ぎる台詞のようにも感じましたが、ここに至るまでの人物描写の鮮やかさが優っているのでいたたまれなさの方を強く感じることができます。根本宗子という人の大きな武器は、人物の言動の細かなニュアンス描写でしょう。熟練の、というよりはセンスの鋭敏さという方が合っていると思いますが、こうした繊細さは飽きさせないうえでなかなかに重要なことです。

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 これまでの月刊「根本宗子」作品は、その人物描写のセンスの良さが推進力になっているものの、登場人物たちの抱えた状況がどう終盤に展開されていくのか、というところで終わってしまっていたような印象もありました。しかし幾分上演時間も長い本作品では、「その先」が描かれている。

 それぞれに弱さ幼さを露呈する登場人物の中で、もっとも落ち着きを保っていた一家の主・健一の豹変から、物語はトーンを変えて「その先」へ加速し始めます。人工妊娠中絶を請け負い、また他方、その中絶に関連して倫理的には問題のある手法で避妊薬を製造し利益を上げている健一は、最愛の人間が望まない妊娠をしたこと、また相手男性がそれについて妊娠中絶の機会をつくってやったのだと言い放ったことで常軌を逸し、明らかにバランスを欠いてゆきます。そして一連の問題の原因を妻・子のスポイルに求め、強引な家族の再構築を始める。「この世で一番幸せな家族」を目指して、極端な規律を含んだロールモデル的家庭像を妻や子供たちに当てはめてゆきます。


 ここでの家族の巻き込まれ方、そしてその帰結は、どう解釈するか、反応のわかれそうなところだと思います。芝居の速度を変化させて強引に畳み掛ける面白さに身を委ねられる一方、この場面に入ってからはそれまで微細に描写されていた、登場人物の反応は簡潔になり、従前の行動にひきかえ、ここでは単に状況に呑まれてしまっているように見える(あと細かいところでは、親子の年齢設定も近すぎるように思います)。高揚する面白さとちょっと立ち止まって整理したい落ち着かなさの同居する終盤は、まだどう捉えていいかわからなくもあります。


 しかし、ともかくも確実に非凡なセンスをもった根本宗子という作家が、着実に描ける世界の幅を広げているのを見ることはとても楽しい。以前の「月刊」作品より長くなっていても、上述のような人物描写の秀逸さがあるから長く感じることもありません。これまで自分の観た限りでは根本作品の最高点ですし、一年後、二年後の姿を早く見てみたい。とはいえ現時点でも、もっと多くの人の目に触れてほしい作家です。

世話物という難関

*木ノ下歌舞伎 京都×横浜プロジェクト2011『夏祭浪花鑑』 STスポット (2011.12.16)

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 昨年上演した『勧進帳』で、高水準に歌舞伎を「現代化」させた木ノ下歌舞伎の最新作です。

 2010年の『勧進帳』の何が素晴らしかったかといえばまず、今日における歌舞伎と観客との関係性についての批評の鮮やかさです。昨年の『勧進帳』演出・杉原邦生は、「やっぱり『勧進帳』はいいね」と納得し合う観客たちが、実は肝心の上演中にけっこう寝ている、という光景を冷静に俯瞰したうえで、そうした「居眠りする観客」のありさま自体を舞台内容に顕現させてしまいます。ただしそれは、歌舞伎やその観客に対する冷たい突き放しではありません。あくまでそうした関係性を素直に面白がっているゆえにその演出に嫌味はない。またその「居眠りする観客」を勧進帳の重要人物・富樫左衛門役と同一の身体が表現することで、単純なメタ芝居、劇中劇のような構図にならずとても心地よかったのを記憶しています。

 さらに、今日の日常会話とはかけ離れた様相をもつ『勧進帳』の台詞群が、現代のストリートファッション(それに弁慶役は巨漢の白人により演じられる)を身にまとった役者により唱えられることで、際立った異化効果が生まれることも重要なポイントでした。背景にビートが刻まれながら展開してゆく『勧進帳』の台詞たちはしびれるほどの緊張感を発していました。そしてそれは、単に服装による出オチ的なギャップということに留まらず、「現代劇」としての興味を呼び起こす装置の役割を果たしていました。


 これらを振り返りつつ今回の『夏祭浪花鑑』を観てまず感じたのは、この演目が世話物(士族階級ではなく「庶民」の生活を題材にした、物語主体の演目)であることは非常に大きな難関なのではないかということでした。上記したように、台詞群が現代日本の日常会話とかけ離れている『勧進帳』は、それゆえに現代的服装、現代的演出に原典通りの台詞群を載せることが効果を生みやすいものでした。
 翻って『夏祭~』は世話物という性質ゆえ、台詞が現代語とさほど離れていない箇所が多い。そのため、現代的な意匠だけでは、『勧進帳』の際のような効果は生まれません。今回は、ややもすれば「時代劇」の台詞(=現代人が現代人向けに編んだ台詞)として通用する箇所も少なくない『夏祭~』の台詞を古典として受け取るのか、アップデートさせたものであるのか、そのミックスを模索するのかという方針があまり明瞭にみてとれず、芝居のトーンが落ち着いていないように感じました(歌舞伎の『夏祭~』を観たことのない観客の場合どうなのだろう、そのラインはより見極めにくいのかもしれない、とも)。
 「時代劇」の台詞的な言い回しも少なくない台本であるとはいえ、そこは近世に書かれたものゆえ、そのままでは通りの悪い部分ももちろん多い。そのため、芝居の落ち着かなさは、中盤までのストーリーのわかりにくさにもつながっているかと。これは必ずしも、元々の人間関係がややこしいことのみに起因するのではない、と考えます。


 今回、衣裳には主に簡易的な法被を用いています。こちらの感覚が前作『勧進帳』に引きずられてしまっていることもあるのかもしれませんが、この衣裳はあまり効果的に感じませんでした。どちらかといえば総体としてのチープさが先立ってしまいます。もっとも、衣裳自体はさしたるマイナス要素ではないと思います。しかし、『勧進帳』では歌舞伎との距離感(単純に遠い、ということではないのですが)に関してその衣裳も非常に意味を持っていたように感じます。現代装ばかりが最適解だなどとは思いませんが、「歌舞伎の現代化」という時、“和”のテイストの衣裳をどのようなものと位置づけるかはなかなか難しい。

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 そのような多くの難しさを孕んだ本作が俄然輝き出すのは、クライマックスの義平次殺しです。バレエの引用、黒衣で表現する泥場の面白さもさることながら、歌舞伎の型によっては実現できない類の、生々しい感情の揺れがこの場では優れてあらわれていました。額を割られたことに気づいた瞬間、また義平次との揉み合いのうち不慮に浴びせてしまう第一太刀直後の団七(松尾恵美)の表情は、本作最大の名場面。義平次を演じた殿井歩の動きも素晴らしい(殿井は本作で演じた三役のうちで義平次が随一。他方、市松役については演技・演出プランに疑問も残りました。独特のクセをつけた演技のため、始めなんらか「障害者」という設定を付与しているようにも見え、子供役としてのみ受け取るのに時間がかかりました)。古典を再解釈することの意義を考える時、もっとも何かが拓けそうに思えたのはこの場でした。


 それにつけても本作では、古典を現代に最解釈することの難しさをまざまざと見せつけられました。以前、柿喰う客による素晴らしい古典再解釈作品『悩殺ハムレット』をとりあげましたが、シェイクスピアの場合、継承するのは「戯曲」であって演出ではありません。しかも日本では外国語の翻訳として受容される以上、その台詞自体にも自由度が生じます。
 しかし歌舞伎の場合、台詞も演技の型も継承されるべきものとして遺され、古典として受け継ぐならばそれらの要素に規定されることになる。こうなると、題材だけをいただいてあとはフリーに創作するような手法をとらない木ノ下歌舞伎の試みは、それ自体がいわゆる「歌舞伎」そのものには成り得ない以上、舵の取り方は本当に難しい。串田和美演出のように、いわゆる松竹の大歌舞伎が歌舞伎の型を保持しながら同時に約束事を崩すような傑作を生んでしまうと、「在野」はどうにも分が悪い。

 とはいっても、大歌舞伎の中だけでしかその類の試みがマスターピースになりえないのでは面白くありません。現代における歌舞伎への批評性と歌舞伎への愛着と双方を保持している木ノ下歌舞伎に託す希望は大きい。それを思えば、歌舞伎の現代化を担っていくのに、世話物を回避し続けるわけにもいかないでしょう。解のみつけにくい、しかし早晩突き当たらなければならない題材との格闘は、やはり好ましく思います。

一般常識としてのヴァンパイア/ポスト・アイドル期の高橋愛

*『ダンス オブ ヴァンパイア』 帝国劇場 (2011.11.29)


 “ヴァンパイア(吸血鬼)”という存在やそれにまつわる諸々は、その伝説のオリジンとは遠く離れた日本にあっても、一般に知識として共有されているものでしょう。十字架やニンニクといった品物がそれそのものの役割以外に、ヴァンパイアにまつわるアイテムとして登場すること、またヴァンパイアに噛まれることでその被害者もまた同じ吸血鬼になってしまうこと、ヴァンパイアが日光を嫌い夜間に活動すること等々のディテールは、多くの人に知られています。また、そうした社会の共通知識を前提にして、本作『ダンス オブ ヴァンパイア』は上演されています。

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 大学教授が助手を連れて吸血鬼探しの旅に出かけ、立ち寄った村で吸血鬼に怯えているらしき人々に遭遇、彼らの滞在中、助手が心惹かれた村の娘が入浴中にヴァンパイアにさらわれる。教授と助手はさらわれた少女を取り戻すべく、ヴァンパイアと思しき伯爵の館に潜入する。


 オーソドックスな展開で描かれる本作では、ニンニクや十字架といったアイテムが吸血鬼に対する防衛の道具として登場しますが、これらは吸血鬼が苦手にしているものである、という根本の説明がいちから描写されることはありません。ニンニクが出てくれば、それは身近にある吸血鬼の恐怖に対する防護策であるとすぐさま了解され、吸血鬼を前にした女性は即座に十字架を吸血鬼に向けてかざし、その意味を劇中人物も観客も承知しているという前提があるから、直後にそれをひっくり返すような展開も可能になる。


 そもそもが、先行ドラキュラ作品をコメディタッチにしたパロディとしてこの『ダンス オブ ヴァンパイア』および原作となるロマン・ポランスキー監督の映画『吸血鬼』(1967年公開)はあるわけです。ポランスキーの映画版『吸血鬼』の時点ですでに、ニンニクや十字架等のアイテムがいきなりヴァンパイア対策の象徴として用いられるという場面はつくられていて、吸血鬼伝説にまつわる基本装備が人々の共通知識となって久しいことがうかがえます。このように、設定が人々の認識に予めあることで、余計で冗長な説明を回避して超現実的な世界観の中に観客をスピーディに誘うことが可能になる。とりわけ歌とダンスの盛り上がりに時間を割くことで魅力を発揮する本作のような演劇の場合、説明を最小限にできることは良い効果を生んでいます。

 序盤の“ガーリック”を称えるシーン、ヴァンパイアになってしまった者たちによる中盤のシーン、そして舞踏会からフィナーレへと流れるラストまで、展開のテンポが良くダレ場の少ない作品になっていました。間にいちいち関係性や、超人間的存在の性質についての説明台詞を差し挟む必要もありません。誰もが知っている古典を舞台世界として適用することは、かくも強いことであるのだなと実感させられます。

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 しかしまた一方、説明されないゆえにわからないところ、回収されていないように見えるところもなくはありません。序盤、村人が来客であるアプロンシウス教授と助手アルフレートに対してなぜ、近隣の館に吸血鬼が存在していることを隠そうとするのか、その描写が最後まで特に活きているようにみえないため、いささか腑に落ちない感じがありました(もっともこれは映画版、舞台版を通じて同様)。「村人が何かを怖れて吸血鬼の存在を口にしない」という振舞いが、普及している吸血鬼伝説のディテールとしてあるのかもしれませんが(わかりませんが)、そうであるとしても、その行動がその後の何にもつながっていないため、あまり有機的な設定でないように思いました。

 吸血鬼伝説の例にもれず、本作でもヴァンパイアに噛まれた被害者は吸血鬼となり、ヴァンパイアのみの夜の世界で生きることを余儀なくされます。これは定石でいえば、完全な死ではなくとも人間でなくなるという明確な悲劇を意味します。しかし、親によって活動の自由を制限されている村の娘サラにとっては、ヴァンパイアになることが「自由」を獲得することにもなる。ここにストーリーの肝はあるはずです(その設定に随伴する葛藤を変則的な形でつきつめたのが、以前レビューしたイキウメ『太陽』でしょう)。
 しかしこの作品は基本線としてコメディタッチであり、またヴァンパイアたちの世界が描かれたシーンは歌もダンスも楽しさと「自由」さが強調されたものであるため、この作品が最終盤で投げかけているであろう、人間世界に留まることを選ぶのか、ヴァンパイアになることと引き換えに「自由」を手にするのかという分岐に葛藤が生まれません。観ている限り、あらわれる「人間」の世界は閉塞感漂う雪山の村のみなので、自由を謳歌し華やかに歌い踊るヴァンパイア世界の方に惹かれるのがごく自然なことに見えてしまう。ヴァンパイア側の不自由さ、および、それでも人間世界に感じる強い愛着と魅力、等々がワンシーン挿入されていれば、結論をはっきりさせない終わり方でフィナーレに向かうこの作品に深みは増したかと思います。


 とはいえ、冗長な場もなく陽性の楽しさをキープさせ、フィナーレで最高潮にもってゆく構成は素直に好ましいものでしたし、大きな派手さや投げかけるメッセージの複雑さはないながらバランスよく出来上がっていたと思います。少なくとも、上述した気にかかる点は、最終的に大したものに思えなくなったので、明るさとコメディを前面に出した作品として優良といえるのではないでしょうか。

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 この作品を観劇するにあたっていちばん注目していたのは、先頃モーニング娘。を卒業し、舞台役者として活動を始めたばかりの高橋愛という女優でした。アイドルとして活動していた人がその後、「アイドル」ではない芸能者として活動を続ける際、とかく困難の種となるのが、アイドルグループ在籍時のカラーを引きずってしまうことです。元◯◯の誰々、というイメージが払拭できないことは、当人の活動がそれそのものではなく、常にかつての肩書きというフィルターを通して観取されることを意味します。以前安倍なつみ主演『安倍内閣』のレビュー時にも触れましたが、その困難は在籍していたグループが著名であるほど大きくなります。その意味で、ハロー!プロジェクト出身者でまだ、過去を参照しなくてよい域に達した役者はいないといってよいかと思います(ソニンはハロプロ在籍者ではありませんでした)。


 本作は高橋愛の本格デビューですが、まずなにより良かったのは、彼女がすでに「元モーニング娘。」という色を脱しつつあるように見えたことです。彼女が持ち味をもっとも発揮するのは最終盤、フィナーレの歌とダンスです。長年ハロプロで鍛えられている人ゆえ、もっとも適応しやすいシーンであることは想像に難くありませんが、それは同時にグループ在籍時のイメージをもっとも重ねあわせやすい場面ともなります。
 このシーン、キャリアある他の役者に遜色なく存在感を発揮しながらも、モーニング娘。在籍時の刻印がもうさほど見えなくなっていたことが印象的でした。モーニング娘。在籍時から、こういう日のための準備をしていたのでしょうが、想像していた以上に、「昔の名前」の払拭に、自然に成功しているように見えました。これは自覚してすぐさま遂行できるというほど単純なものではないように思うので、「モーニング娘。以後」について彼女が非常にコンシャスであったことに加えて、彼女自身の潜在的・顕在的な特質のなせるわざかもしれません。第一歩として、非常に滑らかなものであったと思います。

 彼女の体の小ささは今のところ、どちらかといえば弱点であるように見えますし、全体的な安定感ではWキャストの知念里奈に一日の長がありました。しかし、ともかくも重要なのは、舞台に立っているのが「モーニング娘。でおなじみの」ではない女優高橋愛であったこと。ポスト・アイドル期の好例として、これからの彼女の活動が順調に継続してゆくことを願います。

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