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~演劇とアイドルと何かと~

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「そしてまた歌い出す」

*劇団鹿殺し『青春漂流記』 紀伊國屋ホール (2011.1.23)


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 ここしばらくのグループアイドル活況で、昨年あたりから熱を帯びてきたのが「ローカルアイドル」をめぐる議論です。ローカルアイドルの定義付け、何を主眼に置くべきか等々の議論はそのやかましさに比して論点が整理されているとは言いがたく、そのことがまた、注目が集まり始めたばかりのこのトピックの勢いと難しさを物語っています。時折その論調には「中央」たる東京に対するアンチテーゼも含まれ、東京拠点の運営が非関東圏の地域でアイドルをつくることへの反感がその根底にあらわれることもあり、それが地域根生いのアイドルプロジェクトを支持する心理的基盤になっているケースも散見されます。

 しかしまた一方、“東京”という大きな人口・販路のある場へのパイプが相対的に少ない地域の場合はとりわけ、世間の波が落ち着いて以降の「その後」をどう構築してゆくのかというビジョンも備えておかねばならない。これは地域全体の将来像への想像力であると同時にまた、「地域活性」等々の題目より何より、「アイドルになること」を目指した演者たち自身の「その後」への想像力でもあります。
 本作で鹿殺しが描いたのは、そんなローカルな地からアイドルを目指した人々の「その後」の話。


 22年前、神戸元町高架下商店街をPRするため、商店街の店主の子供たちで結成されたチャイドルグループ「モトコー5」。一世を風靡するが、メンバー年長者の波美(高田聖子)のスキャンダル、失踪を機にモトコー5は表舞台から姿を消す。メンバーは商店街に戻り細々とその後の生活を送り、商店街もブームが去って元の寂れた町並みに戻っている。30代にしてまだモトコーを諦めきれない波美の妹・凪子(菜月チョビ)らメンバーは、わずかな馴染みのファンを相手に中途半端に活動を続けている。そこに失踪以来、一切音信を絶っていた波美があらわれ、東京のTVに出演する機会を持ち込む。


 スターへの止まぬ憧憬と、自分もスターを目指すのにそうなれない現状とのせめぎ合い、くすぶりながら己の怠惰を直視できない情けなさ等々は鹿殺しが普遍的に抱えるテーマであり、本作もその系譜に連なるものです。ただし今回の登場人物たちは、一度はアイドルとして名を馳せ、地元商店街に人々を呼び込むことにも成功している。つまりスターとして名を馳せる味を知っている人々です。
 
 とはいえそれはまだ幼い日の、年齢自体がバリューを有した時期のことであるし、その先の生活を考えるようなリアリティをまだ持たなくてもよかった。今日、とうの昔にブームは去り、波美の起こした“事件”以降、再起の機会を逸したまま、諦めるでも積極的に楽曲制作やライブを続けるでもなく、地元にいるわずかな支援者(というか顔馴染み)を前にした月一回のファンの集いでモトコー5をつなぎとめている。当時のモトコー5以外に呼び物もなかった商店街は再び負のオーラをまとい、栄光の痕跡すらほとんどありません。そうしたコミュニティの中で、生活の行き詰まりをありありと露呈させながら、それでも針を振り切れずスターを怠惰に追い続ける主人公たちの様は、鹿殺しに毎回登場するものながらやはり身につまされるものを突きつけます。モトコー5の身辺の人々が声を揃える「私たちだっていろいろ諦めて生きてるんだよ」は、いまだその覚悟すらないモトコー5、そして小劇場界という同じく「食えない」世界を歩き続ける鹿殺し自身への言葉として重なってゆく。


 鹿殺しの作品には、くすぶる主人公に対して「成功」している身近な人物が登場し、主人公との対照、あるいは敵役として描かれますが、今回は主人公たちが幼少期に一度成功していることで、対照となる成功者にもひとつの反骨心が描かれています。高架下商店街の子供たちでモトコー5を結成するために行なわれたセレクションで不合格となり、モトコー5になれなかった砂原(谷山知宏)は、地元の不動産屋に就職し頭角をあらわしている。今回登場する成功者は、モトコーメンバーの座を掴みそこねたゆえに、そこにほのかな対抗意識を見せながらも、夢を見続けることなく着実な成功を歩もうとしている。砂原という圧倒的な正論を眼前にしながら、それでもモトコー5にぶら下がろうとする主人公たちの姿は鹿殺しの真骨頂。

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 昨年夏の作品『岸家の夏』から、鹿殺しは座長である菜月チョビを絶対的なセンターに据えない芝居を作っています。今回、波美役に高田聖子を招聘したことで、その中心はさらに変化を見せています。本作、菜月がメインキャストであることはもちろん揺らがないものの、特に後半に超越的な存在として在るのは菜月ではなく高田です。テーマとしては昨夏の作品の方が拡張した感はありましたが、キャストの配役バランスが多様になっていくうえでは、客演として有名俳優を招き続けることでもっと遊べるのではないかと思います。


 高田演じる波美のハイライトは、終の地となったアパートの侘び住まい。波美がとりつけた東京のTV番組に22年ぶりに登場したモトコー5が、「あの人は今」的番組での捗々しくもない出演を終えて波美の住所を訪ねると、そこにあった大量の“出せなかった”手紙をもとに、彼女がアイドルじゃなくなってからの歳月が再現されてゆく。知識もなく、したたかにもなれなかった波美の日々は、それでも根拠なくモトコー5の再興を信じて笑顏を見せ続けるだけに哀しく、救いもない。けれど、それでも波美は生きているし、それはその後のモトコーメンバーに変化の光を当てている。「落ち目」を冷笑して距離をとることはたやすいけれど、そこで何かが終わるのはその傍観者にとってのみの話。何かが終わることなどないまま掴み得る望みの乏しいスターに手を伸ばす日々は続くし、当たり前のことだけどそれもまた一丁前の人生の歩みなわけです。


 構成面ではいくつか粗さも目につきました。もっとも惜しかったのは、波美のハイライトで日々が綴られる場面が形としてまだ落ち着いておらず、大きなインパクトを与えるまでに至っていないように見えたこと。これは回を重ねることで熟成されて解消される問題かもしれないので、上演期間後半にもっと良い出来になっていればいいなと思います。アイドルの特徴や秋葉原文化的な考証もひっかかりはしましたが、そうしたディテールが肝となる芝居でもないので、そのあたりはさしあたり気にしなくてもよいのかなと。粗よりも勢いの魅力のほうが勝るのがこの劇団の特徴でもあるので、不備に思える点にどこまでひっかかるべきなのかなという迷いもありますが、今回は鹿殺し作品としてはダンスなどフィジカルの面白さがおとなしかったので、幾らか気になる点は多いかもしれません。


 アイドル(に限らず芸能に身を投じる者)はただでさえ、「将来どうすんの?」という嘲笑混じりの危惧が投げかけられやすい立場にあります。そしてその「将来」のどうにもならなさのひとつが、波美によって残酷に体現されている。けれどそれを無益と捉えることほど、つまらない態度もない。ラストシーンは希望を見ているかのようにみえて、その実モトコーメンバーは特に確かな何かなど掴めてはいません。けれど波美一人分の人生が蒔いた種によって、モトコーメンバーの世界の見え方は確実に違っているはず。願わくは、この芝居を観た人間の、芸能者の生活への想像力の糧にもならんことを。
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