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~演劇とアイドルと何かと~

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罪悪感。をプロデュース

*映画『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る』 新宿バルト9 (2012.1.30)


 今日、多くの女性アイドルグループにとって、「物語を紡ぐ」ことは余録ではなく、メインコンテンツのひとつとなっています。しばしばそれは形式上、歌やダンスをメインとした演者の“裏側”を追うサイドストーリーかもしれません。とはいえそのストーリーないしはステージから半歩降りた場所で垣間見せる“素(とされるもの)”や人間関係の読み込みは、アイドルを受容するという営為において歌・ダンス等のパフォーマンスに比肩する重要度を持っています。

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 そのような文脈や枠組みは、当該アイドルグループを運営するブレーンによって仕掛けられるわけですが、受容する側もこの「運営」の存在に無批判無頓着ではありえませんし、アイドルのサイドストーリーの受容には、「運営」とメンバーとのせめぎ合いや運営方針の是非も内包されます。こうした物語性、仕掛けと読み込みといったエンターテインメントのスタイルは、現在のアイドルグループにあっては前提とならざるを得ませんし、その前提の乗りこなし方に、それこそ「運営」のセンスが垣間見られる(たとえばこうした状況に対する自覚を方法として強く意識したコンテンツに、吉川友主演映画『きっかけはYOU!』が挙げられるでしょう)。

 2000年代後半以降のアイドルグループにおける物語前景化の先鞭をつけ、また自ら拍車をかける第一人者となったのは、いうまでもなくAKB48です。モーニング娘。等、時代的に先行するアイドルがひとつの武器としていたドキュメンタリー性を単にアップデートしたばかりでなく、プロデューサー秋元康を中心とした運営陣はそこにシンプルな音源リリースやライブのスケジュールには本来不必要な“事件”を殊更に挿入してゆきます。「総選挙」然り、「じゃんけん選抜」然り。あるいは、時に残酷なほどに、メンバー間格差やパーソナルな苦悩を露悪的に提示して見せます。

 それらはAKB48の音源やライブパフォーマンスに対してではなく、AKB48メンバー間、あるいは彼女たちが紡ぐストーリーに対して地殻変動を与えるものです。つまりここでAKBは明確に、提供するエンターテインメントが歌やダンスにのみ特化するものでないことを示している。素朴な「歌手」観、「アーティスト」観では、AKB48というプロジェクトの発するコンテンツの性格は掴みえません。
 このストーリー作成の周到さはAKBが長期にわたって注目を集める上で多大な寄与をしているでしょう。AKBのドキュメンタリー映画第一弾となる2011年の『DOCUMENTARY of AKB48 to be continued 10年後、少女たちは今の自分に何を思うのだろう?』は、ドキュメンタリーと銘打ちながらも、AKBが平素発信しているコンテンツよりもその“ドキュメンタリー”性は薄く、それが作品としての訴求力の弱さでもありました。その作りは幾分穿って見れば、行儀の良いインタビュー主体のドキュメンタリーを大掛かりにパロディ化したかのようにも思えるくらい、ある種のフィクショナルな雰囲気を帯びていました。そのような穿ちを起こさせるのは、AKB首脳が日頃、秀逸で残酷な「ドキュメンタリー」を提示してみせているゆえです。


 一方、このように音源リリースやライブといった、体裁上の本分からすれば必然性のない起伏を設けて「ドキュメンタリー」を推進してゆくことで、AKBが提供する物語はどんどん過剰になってゆきます。本作『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る』上映に先立つ予告VTRは、メンバーがフィジカル、メンタル両面であからさまに“傷つく”さまが映し出され、彼女たちの感情やオフステージの身体を煽り気味に見せる作品であることが暗示されました。このわかりやすく且つ過剰な見せ方は、AKBというドラマに新規客層を呼び込む明快な強さを有してきたことも確かですが、他方でアイドル主体を追い詰め、疲弊させるさまがパッケージ化され続けることはまた、食傷や嫌悪感を呼び起こしやすくもあります。恣意的なドラマが産出され続けそれがすべてに先行してゆくことが、殺伐とした閉塞に向かいはしないだろうか。物語に慣れすぎた受け手の身にはコンテンツのスリリングさよりも、物語が供給過多になるなかで擦り切れていくアイドル主体の悲愴さに対する危惧が頭をもたげます。

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 果たして、映画本編が始まってまず目に入るのは、AKB48という大掛かりで過剰で周到な恣意のドキュメンタリー的コンテンツが、圧倒的な現実を前に「物語」推進の主導権をあっけなく失う姿でした。
 ここで「圧倒的な現実」と表現したものは二つあります。
 ひとつは、東日本大震災。AKB48を取材対象にするしないにかかわらず、2011年を追ううえで、東北地方太平洋沖地震とそれに引き続く災害は、具体的な言葉を継げずとも、影響されざるをえないものです。本作においても、全編を通じて基調となっているのは震災と、その震災に対して己の職能(とその無力さ)に対峙するAKBメンバーの姿です。もちろん2011年が終わったから何かが片付くわけでも終わるわけでもなく、彼女たちの被災地支援活動を映す映像は決着のついた活動報告などではない。そしてまた、この圧倒的な現実は、被災地支援活動をAKBのプロバガンダとして繰り込むことも容易に許しません。


 被災地の風景が映された直後、本当に簡素な設備で行われる彼女たちの野外パフォーマンスの映像は、彼女たちの存在の小ささを否応なく強調します。AKB48はここで、目に見える実行策もなければ卓越的な超人でもない。紡いできた「物語」によって何かを制御できるわけでもない。有名性を背負っただけの存在です。
 昨年、AKBの被災地支援活動を繰り返しカメラが追いかけ、どこそこがその資金を援助しているという噂をもとにして、AKBは震災をイメージ操作に利用しようとしているという旨の批判記事をネットで目にしました。慈善活動を売名や印象戦略として批判するのはたやすいですが、少なくともこの映像を見る限り、東日本大震災はそんな「利用」に易々と応えるようなものではありません(そもそも有名性を前提とした慈善活動を売名・印象戦略か“純粋”なチャリティーかのいずれかに峻別することは不可能ですし、分類することによって気に入らない有名人を批判しようとするのであれば、その振舞いこそが震災を「利用」しているのではないかとも思います)。AKBメンバーはここで、「訪問する」ことしかできません。


 しかしAKBにはまた、上記と相反するようなもうひとつの「圧倒的な現実」が随伴します。それは、このAKBというプロジェクトが当初の目論見をおそらくは遥かに超えて絶大な有名性を獲得していることです。被災地訪問で披露される『ヘビーローテーション』は近年稀な、リアルタイムでわかりやすく「皆が知っている」歌です。普段の公演からすれば比べものにならない頼りない装備で、装飾に頼ることもできないなかでの『ヘビロテ』は、それでも初見の人々を踊らせる。続いて行われた現地での握手会、サイン会の映像では、メンバーの名を呼びながら泣き出す中学生の姿が映し出される。ポップアイコンがまどろっこしい文脈を取っ払って観衆を掴む力はやはり軽んじられるものではない。

 もちろん有名性とはポジティブ/ネガティブ両面の印象を否応なく背負い込むもので、その存在は両義的です。そこに集ったすべての人間が肯定したと考えることはできない。その有名性ゆえにその場に召喚されたメンバーたちは、被災地で歌い踊ることの怖さを表明していました。メンバーの柏木由紀は、5月の第一回目の被災地訪問の折、バスからステージに向かう際に観衆の笑顔を見て、拒絶されるわけじゃないのかもしれないと、やっと少しだけ思えたと振り返っています。
 いつしか日本のポップアイコンとなったグループが是も非も引き受けて被災地訪問で歌い踊るにあたって、自前の物語などさしたる意味を成さない。現実状況の中に放り出されたAKB48は、どうしようもなく小さくて途方もなく大きい存在でした。


 絶大な有名性の獲得は、AKBの通常活動であるステージや、おなじみとなった「物語」にも影響せざるを得ません。2011年7月に3日連続で行われた西武ドームライブの鬼気迫る映像素材が映すのは、大きすぎる舞台に対応する心身の能力を持たず、立つこともままならない疲労困憊、失策をさらけ出すメンバーの姿です。
 また報道レベルではもはや恒例となって世間が幾らか慣れてしまった感もある「総選挙」も、上位2名の得票が13万を超える規模となった2011年の第三回選挙は、明らかにメンバーの肩にかかるものの大きさが桁外れになる。


 もっとも、この制御できなくなった存在の大きさをもまた、自身の物語として吸収しコンテンツとして見せてしまおうとするのが、AKBのもつ本来的な性質であり、この「ドキュメンタリー映画」自体がまさにそのもっともシンプルな試みなわけです(震災についても、地震当時地元の仙台にいた12期研究生・岩田華怜をフックにすることでAKBに引き寄せている。まだキャリアのごく浅い彼女の振舞いは凛々しく素晴らしかったです)。そして自身のその存在が絶対的に大きいゆえに、そこで示される物語は、強い。


 西武ドームライブという大きすぎる舞台で前日の“失敗”を取り戻す使命も意識していたであろう前田敦子が過呼吸で倒れ、通常出演も覚束ないコンディションの中、それでも総選挙一位の自身がいなければ意味を成さない『フライングゲット』のセンターに位置すると一瞬にして表情を変え、痛々しく眩しい笑顔を作ってみせるシーン。
 総選挙順位発表直後にすっきりとした余裕さえ感じさせるコメントを残した大島優子が、バックステージで近寄ってきた篠田麻里子の胸に顔を埋め声を上げて泣くシーン。
 あるいはこのドキュメンタリーでもっとも「内輪」の物語といえるチーム4の大場美奈と島田晴香の関わりもまた、彼女たちの属している器がAKB48という絶大なものであるだけに外に向けた力は強い。
 これらのシーンは、AKB48がこれまでも繰り返し提示してきたドキュメンタリー的手法に連なるもので、常套の絵面といえばそうなのですが、それでもこの感情の起伏の物語は抜群に訴求力を持っています。AKB48の紡ぐものの強大さをこの映画は繰り返し繰り返し見せつけます。


 ただし、このコンテンツを楽しめば楽しむほど、ある種の罪悪感が常にちらつくのも否めません。各所で指摘、批判されることですが、彼女たちの感情を徒にすり減らせることで成り立つエンターテインメントを自分は消費しているわけですから。
 そのことをもって即座にこのプロジェクトを一切否定する立場には与しませんし、多かれ少なかれ感情の消耗が売り物に結びつくというスタイルはAKBに特化することでもなく多くの場で見られるものでしょう。また、この手法によってある種現在もっとも「売れる」肩書きと経験を手にした彼女たちが、それぞれの目標や社会の中での位置取りに向かうことができるという点を踏まえるとき、安易に頻出する「搾取」等の言葉でそれを批判できるとも思いません。
 けれども、抜群の面白さとその裏に伴走してしまう、彼女たちの感情の起伏を消費している罪悪感に、自分は折り合いをつけられない。この清濁併せ呑む揺さぶり方がプロデューサーである秋元康という人の真骨頂でもあって、折り合いをつけられないという感情こそが、このエンターテインメントに乗っかっているということの証なのかもしれません。面白さも折り合いのつけられなさも否定しないまま、あと何回かは映画館に通うことになりそうです。
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