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~演劇とアイドルと何かと~

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“アイドル”扱いされないことの心地よさ

*『レシピエント』紀伊國屋ホール (2012.3.1)


 佐藤江梨子の演技と周囲のキャストのスタイリッシュさ、この二点でまずは導入に成功しています。
 弟を亡くし身寄りを失った盲目の女性・信枝を演じる佐藤が冒頭でみせる、静かながらとりつくしまがなく、人に対する警戒や不信が先立つような表情と立ち居振る舞いが、この作品の安定したクオリティを予想させます。

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 G2の演出はその予感を裏切らず、取り立て屋の会田(加藤和樹)と医師・吉見(三上市朗)の背景、会田の部下たちの関係性をテンポよく見せてゆく。若いキャストも含めて総じて演技が安定し、見栄えも整っていることで、冒頭に佐藤がつくってみせた緊張感と質の高さをきちんと維持している印象を受けます。


 取り立ての最中に事故に遭い、臓器移植によって一命を取り留めた会田は、その手術から復帰して以降、自身の趣味や食べ物の嗜好、あるいは性格そのものが以前とは変わりつつあることに気づき、闇医療で手術を担当した吉見を問い詰める。臓器を提供したドナーの性質が提供を受けた者(レシピエント)にあらわれる事例があることについて会田に説明する吉見、そして会田はそのドナーが、会田自身が借金返済を迫って追い詰めビルから身を投げた男であることを知る。


 会田とドナーとの関係と共にストーリーを紡いでゆくのが、会田の子分となる三人。彼らのキャラクター、特に手術以降思うように取り立てができなくなってゆく会田の追い落としを謀る木塚(橋本淳)の存在感が際立っています。狡猾さを見せながら子分を率いる振る舞い、また終盤でのヒールとしての活躍ともに、物語の山をつくるのに貢献している。この物語をエンターテインメントとして充実させるうえで、彼の貢献度は大きいと思います。付随して、木塚をはじめとするキャラクターのスタイリングもまた良い。スタイリングの細やかさによる見栄えは軽んじられるものではなく、衣裳担当の十川ヒロコの仕事も評価されるべきでしょう。


 他方、この作品は臓器移植というデリケートなテーマを扱うものでもあり、作品全体の要素配分には簡単でないものがあるはずです。このテーマとの対峙にあたって最大部分を担うのは、佐藤江梨子です。

 今はなき弟の、姉を気遣う気持ちのあらわれを額面通りに受けとめることができず、またその弟の真っ正直な思いやりの残酷さについて吐露する佐藤の演技は、抑制がきいているだけに重く響く。弟にとって大切な姉へのいたわりの実践はまた、姉にとって大切な弟の何かを損なうものでもあります。幼少時から弟に聞かされてきた思いやりの言葉は、それが無邪気であるだけにいっそう姉を苦しめる。そして時を経て、人生に追い詰められた弟が実践する最後の無邪気さは、さらなる重さを付加して姉に届く。
 佐藤演じる信枝は、最後まで残酷な事態ばかりを引き受けざるを得ません。お話として見れば、あと幾ばくかの救いも欲しくなるところではありますが、佐藤の演技はストーリーを支え、見事に作品に格をつくっています。一方で、レシピエントである会田の方に、「自分が自分でなくなる」ことの煩悶をめぐる描き込みがもう少しあっても良かったかなと思います。

 ともかくも、佐藤江梨子という役者の強さは記憶に留めておきたいところです。これから30歳代、40歳代を迎えた時に、彼女が役者としてさらに大きな凄みを見せつけてくれるように思えて非常に楽しみです。

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 劇後半、ドナーの特徴を示す鍵として登場するのが売れないアイドル・カレン(吉川友)です。吉川主演映画『きっかけはYOU!』はアイドルコンテンツの時流を批評しつつそれを反転させるような意欲的な試みでしたが、その作品内でもうかがえるように、彼女の俳優としての適応力は低くありません。
 本作品内では相対的に出番も少なく、重さが課される役ではありませんが、それでも細かい反応や表情には素材の良さを感じさせます。いわゆる歌ものの“アイドル”はとかく出演する舞台作品やそこでの演者としての機能が限られがちですが、この水準の舞台に立ち、適応できたことはとても嬉しいし心強い。

 それとはまた別に、実際のアイドルがアイドル役を演じることの難しさはあるかもしれません。『きっかけはYOU!』の際にも少し感じたことですが、アイドルがアイドルを演じるとディテールの不自然さが否応なく目についてしまうということがあります。吉川演じるカレンのファンであった「オタク」の造形が幾分乱雑であること、握手会にファンが一桁程度しか集まらないレベルのアイドルが常連ファンの見た目を一切覚えていないこと等は、細かい点ですが、演じ手がまさにキャリアをもつアイドルであるだけに少し引っかかります。劇の作り、演出の水準が高いだけに、もっとうまい作劇上の嘘の付き方はあったかもしれません。

 しかしそれも瑣末なことではあります。吉川友が「アイドル」役を演じながらも、作品をつくるパーティーの一員としては「アイドル」としての甘い扱いをされていないというのは大きなことですし、この方針で舞台仕事が入れられていくならば、ソロの演者としての彼女の、この先にも繋がるはず。

 また作品全体としてみたとき、デリケートなテーマをエンターテインメントとしてつくるのも、覚悟をもったひとつの正当なアプローチですし、舞台作品としての各要素の平均レベルも高い。こうした芝居の一員として吉川友が参加し機能し得た、そのことの意義は小さくありません。

【追記】
 舞台演劇において、「アイドル」扱いされないことこそがよい、という単純なものでもないので、そのあたりはBerryz工房主演『三億円少女』の項も参照のこと
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「ここにいたこと」

*北九州芸術劇場プロデュース『テトラポット』 あうるすぽっと (2012.3.2)


 まず、強く想起するのは海に呑まれた生命のことです。
 全編が「海」をモチーフにつくられたこの作品は、2011年3月11日を、そして本当は今でも当たり前にここにいたはずの人たちを、ごくごくありふれた(ようにみえる)ドメスティックなエピソードで想像させます。

 人物設定は直接的に東北を示すものではありません。あくまで北九州の人々が描かれ、家族の死も、それを受け止める兄弟たちも、その末弟がアクシデントとして経験する新しい生命のはじまりも、九州の方言で描かれ、そこで語られる生や死はありふれたもののようであっても、実際にあった何かではなく、まして大災害ではない。

 それでも作・演出の柴幸男は3月11日の記憶を明確にそこに重ねている。

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 時間が止まり、同じ場面が幾分ずらされながら繰り返される、その基点になりまた居場所にもなるのは、「2時46分前後」。東北地方太平洋沖地震の発生時刻です。繰り返し言葉にしてあらわされる「2時46分前後」は、北九州に息づく家族や知人の日常的(というフィクション)なエピソードのキーになってゆく。

 ある人物の喪失が語られるエピソードが進行していたかと思えば、そのエピソード終盤にその喪失された主体が実は「自分」なのだと指し示され立場が転換するような台詞が語られ、生者と死者の入れ替えがにおわされる。あるいはまたさっきみた「2時46分前後」に戻り、人物の時代設定が行き来し、学生だった彼らが大人に変わり、そのうえでさっきの台詞のシークエンスが反復され、途中で少しそのやりとりの軌道がずらされる。
 反復的、往還的な構成でほのめかされるのは、今はもういない誰かが、いま自分が経験している日常を経験していたのかもしれないこと。壮年を迎えた誰かの若い頃の些細なエピソードが、若くしてこの世を去った誰かにとっての「今日」であったかもしれないこと。一人称的な人物として登場する海坂三太(大石将弘)が、みんなはいないのか、と叫ぶとき、「みんな」は逆に、三太だけが“いない”という可能性を突きつける。今はもういない人のありえたはずの現在の日常を自分のものとして経験している我々と、我々と同じような小さな日常を持ちえたはずの誰かの喪失と。両者の本当はありえた現在への想像力が喚起されることで、面倒臭い母親の言動への応対も、みっともない男女関係も、もう割れてしまった家族関係の世知辛いやりとりさえも慈しみたいものに思えてくる。この日常風景的なエピソードが泣きたいほどに愛おしく見えてくる感覚は柴幸男が自身の劇団「ままごと」で上演した前作『わが星』にも通じるものです。


 この世の終わりをある意味肯定的に描いた『わが星』は、結果としてそのことが今ある生への祝福にもつながっていたように思いました。本作『テトラポット』においては、終末ではなくその先に繰り返される生の営みが強調されます。

 四兄弟の末っ子・四郎(藤井俊輔)との間に予想外の、しかも大きな“生”の体験をする川合らっこ(古賀菜々絵)が滔々と言葉にするのは、46億年前から繋がって自分たちの生へと連なり未来にまた今はいない生がうまれる、その繰り返しです。今はもう壮年を迎えた人物の少年期を、少年である別の人物の現在の営みに微かに重ねるような想像力を誘うこの劇を観ているうち、生者としてあること、死者としてあること、過去の生、未来の生へのマクロな捉え方と、日常レベルの些細さを丁寧に見つめるような捉え方とが不思議に重なる。
 劇中で象徴的に合奏される「ボレロ」の曲の繰り返しを背景にして、生の営みの繰り返しが「2時46分前後」に重なるとき、そこにあるのは鎮魂だけでも遠大な宇宙観だけでもない、優しさと哀悼と日常と、言い尽くせない何かが綯い交ぜになった感覚です。


 「当事者」であり、且つ「当事者」でないことの自覚を持ちながら、3月11日を受け止める作品を創作するのはとても怖いし難しいことでしょう。また観る側もその作品をどう受けたらいいのか、安易に結論も出せないし腑に落ちたような思いになれるはずもない。けれど少なくともこの作品には、生が失われてしまったという、取り返しのつかない事態の中でなんとかその現状を受け止めるための祈りが見えます。また翻って、今ここにいる我々という生を引き受け、慈しむ視点がみえる。この構成をもって、シンプルに切り分けられない多くのことを語ろうとした柴幸男の手際は素晴らしく、またそれを成立させた役者陣の好演も相俟って、演劇体験ということの強さと奥行きを確認させる作品になっていたと思います。

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