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世界としての図書館

*イキウメ『The Library of Life まとめ*図書館的人生・上』 東京芸術劇場 シアターイースト (2012.11.20)


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 一見ごく日常的に思える世界の中にふいに非日常的あるいはSF的な設定が挿入され、それが世界を覆ってゆく不穏さが表現される。またある時はその設定を通じて、共感・共存し合えないこと、互いを理解し合えないことの絶望を鮮やかに描いてみせる。イキウメの作品で受ける大きなインパクトとは、簡潔に言えばそのようなことになります〔過去のレビュー:『散歩する侵略者』(2011.5)『太陽』(2011.11)〕。


 そのイキウメがオムニバス形式でエピソードを紡ぎ、上演してきた「図書館的人生」(Vol.1~3:2006~2010年)から、シリーズをまたいでエピソードを選り抜き、再構成したのが今回の「まとめ」です。とはいえ、ただのアンコール企画や、脈絡なくエピソードが個別に並べられるような類のものではなく、そこには初見再見に関係なく見て取ることのできるひとつのまとまりが存在します。

 本作において、端的にそれは「“世界”が具現化されているものとしての図書館」といえるでしょう。本作で特徴的なのは、過去にオムニバスで上演されたことのある、設定も人物もまったく異なる各エピソードが、すべて大元の舞台である図書館の中で生じているように見えることです。そしてそれらのエピソードが進行してゆく傍らでは、そのエピソードに登場しない人物が、図書館で開架から引いてきた書籍を読みふけっている。つまりそれは、上演中のエピソードが、同時に図書館内に所蔵されている書籍に書かれているものとして、図書館の利用者に読まれていることを意味します(ちなみに個別のエピソードも、それぞれ少しずつ他のエピソードとリンクさせられている)。


 この図書館にある一冊一冊の本には、人物ひとりひとりの生の営みが収められている。一冊一冊が人生であり、それを集積する“世界”として図書館は存在します。この膨大な所蔵書籍のどこかに「自分の本」も存在するはず。けれども、検索もできなければ本の場所も流動的。訳知り顔で「お前に似た本を読んだことがある」などと言い出す輩がいても、そんなものは大抵勘違い。手にとった本(誰かの人生)との偶然の出会いに耽溺し、「自分の本」を気まぐれに探しながら、“世界”としての図書館の周遊は終わらない。終盤、図書館内がそれぞれの書籍(エピソード)の声たちであふれるのは、まさに世界の喧騒。この世界≒図書館の見立てが混在して見えるさまは非常に面白い。


 ただしまた、2時間超の本作が中だるみなく飽きさせないのは、その設定にのみ安住していないから。毎度のことながらイキウメのクオリティに役者陣の安定感と各エピソードの作りの繊細さは不可欠です。白眉は万引きのプロと懸賞応募のプロが、一方的に見える関係から水面下で心を通わせてゆく「いずれ誰もがコソ泥だ、後は野となれ山となれ」のエピソード。非現実的な設定が登場しないこの話の中で、それぞれの理念と身勝手さ、雄々しくなく己を貫くさまの表現、ユーモラスさの塩梅、そしてラストに来る小さな心地よさへの展開は、人間の愛おしさを見せてくれる。このエピソードに関しては再見でしたが、感慨は変わらず鮮烈でした。この話の主演となるそれぞれの「プロ」を演じた安井順平、伊勢佳世の距離感も演技も素晴らしい。


“世界”としての図書館の中で、無数の人生が溢れているさまはまた、いくつもの役柄として様々な設定で幾度も生きる、「役者」たちと重ね合わせることも可能です。合計6つのエピソード(+図書館パート)が交互にあらわれてくる本作では、役者たちが瞬時に別エピソードの異なる役として人格を変え、またあるきっかけで以前のエピソードに戻ってさっきまでの役柄を生きます。ひとつひとつの本が、役者の役柄と設定を引き出すものとして機能していることを考える時、役者が別人格にスイッチを切り替える瞬間が、より興味深いものとして抽出されてくる。特に伊勢佳世の“奪衣婆”への切り替わりは格別に素晴らしかったです。

「自分」の人生が書かれた本を手にすることができたとして、それを読み進めている「現在」とその本との間にはどのような関係が生じるのか。ふと浮かぶそんな疑問にケリをつけるような安井順平の最後の言葉は、一人の人間としての「自分の本」への向き合い方と、役者としての彼ら彼女らの生が重ね合わされるようで、清々しく綺麗でした。
 作品全体に漂う明るい基調も相俟って、イキウメのタッチの繊細さと役者陣の巧みさとが、気持よく堪能できる作品になっていたかと思います。
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空疎な「全力」

*ラッパ屋『おじクロ』 紀伊国屋ホール (2012.11.15)


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 設定としてはシンプルといえるでしょう。不景気の中、得意先に撤退をつきつけられた下請けの町工場が倒産の危機に追い詰められ、従業員を抱えて先の見えない模索を余儀なくされる。そこからいかにして立ち直ることができるのか、を中高年世代の悲哀を混じえつつ描くというのが基本線です。言ってしまえば話はそれだけでもあり、立ち直りの過程が具体的に描かれてゆくタイプの話でもないため、1時間45分の芝居の推進力は、ストーリー以外のところに委ねられます。

 この芝居でいえばそれは、市井の人々の他愛ないやりとりのおかしみということになるのでしょう。決して景気の良くない町工場の従業員や家族の、厳しい台所事情のうちにも、ちょっと間の抜けた会話やヤマ場のあるわけではない掛け合いの愛らしさで話を展開させてゆきます。
 もっとも、そうしたやりとりの見せ方は、それほど巧みというわけではありません。掛け合いのタイミングや、声のオーバーさの度合いに若干のこなれなさと手際の良い感じとが混じってあらわれ、結果としてやや冗長なオチのない時間が長く続いてしまうことがしばしば見られました。一見なんでもない、つまらない会話を、それでも愛らしいシーンにするというのは、外から考える以上に計算や役者の足し引きの巧みさが必要であることを思い知らされます。とはいえ、そうしたシーンの滑らかさには欠けるものの、工場の中心的存在で実質主役といえる洋平(おかやまはじめ)やその娘で休職中の順子(三鴨絵里子)らの好感の持てる演技は心地よく、描かれる市井の人々の「なんでもなさ」には親しみを持って観ていられる。


 この芝居の最大のフックは、すでに上演前から各媒体で周知されているように、町工場の中年男性たちがアイドルグループ・ももいろクローバーZ(以下、ももクロ)の曲を踊るというクライマックスです。工場の従業員にももクロ好きが多いというエピソードがストーリー序盤で語られますが、中盤に洋平の旧来の親友であり共に工場を支える勝治(俵木藤汰)も薦められてハマり、軽い療養中の洋平に勝治がももクロのDVDを貸し、という形で伝播してゆきます。これは工場が危機を迎えるまでのくだりに裏テーマとして挿入されてゆくのですが、工場の危機とももクロに従業員がハマってゆくというこの二つが出会ってから、話は説得力を失ってゆくように思いました。


 脚本・演出の鈴木聡自身もインタビューで用いていたももクロ賛辞の言葉である「全力」は、ここしばらくのももクロを称える言葉としてもっとも世に溢れているものかもしれません。素直にいえば、告知のフライヤーに書かれた「ほかのアイドルとは全然ちがうんだよ!」「全力であるってことがどれだけ人を励ますのか、僕はももクロに教わったんだ!」等の言葉には食傷気味でさえあります。

 この点、芝居上で気になったのは、ももクロの魅力を語る「全力」という言葉が繰り返され、それが登場人物に投影されて「自分は今までこれほど全力でやってきたのか?」という問いが次々つきつけられるに至って、そのももクロ賛辞である「全力」という言葉が、意味内容・ニュアンスの見えない空疎な言葉に響いてしまうことです。ももクロが登場するわけではもちろんなく、映像が流れるわけでもない中で、芝居上ももクロが実体の見えない憧憬対象として存在する根拠が、正味「全力」という言葉だけではいかにも弱い。工場の危機からどう立ち直ったらいいだろうかと思案する中で洋平が「だから、全力だよ」とももクロのDVDを観ようと手に取る瞬間、ほかの登場人物はその根拠のなさに呆れますが、ストーリー全体として、「だから、全力だよ」以外のものが提示できているかというと首を傾げざるを得ません。

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 また「中年男性がももクロの曲で踊る」ということまで事前に開示されている以上、クライマックスの絵面のクオリティの上限には大まかな見当はつくわけです。実際、それは予想の範疇を出るものではない。そのこと自体は全然問題ではありませんが、そのライブパートと、主体となるストーリーパートとの接続が弱いように感じられました。ももクロを踊る動機が語られて以降の登場人物の心理、家族がどのような距離感で受け止めているかの描写の弱さなど、必要な手続きはまだたくさんあったのではないか。


「蒲田のライブハウス」でステージに立つ彼らを観に来ている観衆は80名と説明されています。劇内では説明されませんが、決して少ない数ではないその人員は、おそらくは工場の従業員や家族等、関係者なのだろうと想像します。その観客と、ステージ上で「行くぜっ!怪盗少女」を踊る彼らとの温度差の有無や、彼らがももクロを踊ることを家族が支持する理由が示されれば、「中年男性が踊るももクロ」に、単に「中年男性が踊るももクロ」以上の、作品特有の価値が明確に生まれたのではないかと。


 作品の流れとの繋がりが強固にならない彼らのクライマックスのアクトは、端的に「ヲタの振りコピ」になってしまいます。ヲタの余興的なものが楽しくないわけではないし、ヲタ同士で盛り上がることにも価値がある。けれども、「ヲタの振りコピ」がクライマックスで最大の拍手をもらう光景は、あまりすっきりするものではありませんでした。

 市井の人々が他愛なく笑ったりやりとりしたりすることに生じる、ほのかな哀しさとおかしさが武器になる劇団だと思います。その哀感でも小さな希望らしきものでも、中年男性がももクロを踊るということにもっと有機的に絡ませることはできたはず。独立した演劇作品としてももクロを活かしているのを観たかったかなと思います。

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