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~演劇とアイドルと何かと~

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何者でもないことの眩しさ

*「16人のプリンシパルdeux」 赤坂ACTシアター (2013年5月3,4,12日)


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 アイドルの存在ありきで成立する演劇企画というのは、その演出や脚本よりも「◯◯役をやっている誰々」を見るという側面が常に先行します(詳しくはBerryz工房主演『三億円少女』の項参照)。

 もっとも、スターシステムを旨とする演劇においてはそうした視点の重要性は周知のことでもあり、それはたとえば宝塚歌劇や歌舞伎などでも同様です。上演中に、スターの登場に合わせて拍手が起きたり掛け声が飛んだりする場合、それは往々にして劇中の「◯◯役」よりもステージにいる「スターとしての誰々」が先行していることが多い。
 そうしたスターシステムの演劇とアイドル演劇とを分かつものはなにか。それは、前者が演劇をさしあたりの本業としていること、換言すればその背後に演技者としての一定水準の技術を信頼できる裏付けがあるかどうかです。

 芝居を本業としない、すなわち一般的にいえば演技力には期待できないアイドルが、なおかつその有名性、スターとしての存在そのものとして舞台を成立させるためには、「役者」としての単なる演技力の水準のみならず、各アイドルがその舞台作品に対して見せる、意気込みの強さや葛藤など、「アイドル」としての当人のパーソナリティが垣間見えることが不可欠となるでしょう。アイドルはその技術水準にもまして、パーソナリティそのものがファンの享受の対象となるためです。


 本作「16人のプリンシパルdeux」は、乃木坂46各メンバーが舞台において否応なく背負う、役者/アイドルの二重性を、興味深いバランスで具現化しています。
 二幕構成の第一部がメンバー全員によるアピール=オーディション、第二部が第一部のオーディションで観客投票により選抜されたメンバーのみがステージに立てる演劇という大枠は昨年も行なわれた「16人のプリンシパル」と変わりませんが、今回は二幕目の演劇に脚本・喜安浩平(ナイロン100℃)、演出・江本純子(毛皮族)を招聘し、オリジナル性の高い演劇となっています。
 また各メンバーが各公演で演じたい役に立候補するために公演回ごとに競争相手も異なり選考の条件が異なってくる(同じ役に4人、5人立候補することもあれば、1人しか立候補がいない=事実上その時点で役を獲得できるケースもある)。これにより、比較的に公演ごとに出演するメンバーの流動性が高くなっています。

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 このように第一部は演劇ではなく、観客が選考権をもつオーディションになるわけですが、そのオーディション自体が舞台上で示される以上、その選考過程におけるアイドルたちの姿もまた「見世物」となります。審査を受けているメンバーのみならず、その後ろで審査を眺める、順番待ちのメンバーの姿さえも、消費される。これは先に述べた、パーソナリティが享受対象となる、ということですが、しかしここには多少の虚構性の高さが混ぜ込まれています。


 その象徴となるのが、演出家ローズ・パープル(江本)と演出助手ムーン・シャドウ(柿丸美智恵)です。乃木坂46各メンバーが本人そのものとして舞台に立つ第一幕において、『ガラスの仮面』にインスパイアされた役名・風貌を有するこの二人だけは、虚構、芝居の中だけの人物です。彼女たちが演出する「乃木坂歌劇団第156回公演『迷宮の花園』」のオーディションを、乃木坂46のメンバーは受けているという体裁になっている。ここで第一幕には、その劇内設定としての芝居オーディションを受ける人々の姿こそが描かれる、ミュージカル『コーラス・ライン』のような構造が生じてきます。この虚構と現実の距離感は面白い。


 江本演じるローズ・パープルは虚構の人物ですが、しかし彼女とメンバーとの間には、稽古期間を含めて常に「演出家と演者」として築いてきた関係も垣間見える。『コーラス・ライン』構造の中で「オーディション受験者」が「演出家ローズ・パープル」に受ける指導には、そのまま乃木坂46メンバーと演出家・江本純子との関係が張り付いている。ローズ・パープル/江本は、メンバーのキャラクターや演技の方向性を見ながら、注文をつけて演技を繰り返させて審査を先導していく。

 ここで興味深いのは江本の、オーディションを方向づける審査者でありつつ、「ローズ・パープル」として審査する姿(声)自体が「劇」として観客に見られる役者であり、なおかつオーディションを統べる立場でありながら、それに基づいた選抜を行なうという最重要の権限だけを持っていないという、複雑な立場です。逆に観客はその最重要の権限だけを持っているが、オーディションの細部に介入することはできない。権限のねじれが起きています。

 そうした構造の中で、最重要の権限を持った演劇の素人(観客)たちによって審査されるのは、明確に「役者」ではないアイドルとしての乃木坂46メンバーです。圧倒的に演技で選抜されるわけではなく、乃木坂46というアイドルグループの中での立ち位置も否応なく影響してくる。その中で、通常のグループ内での人気・知名度序列とはまた別の基準で選ばれるメンバーを見るとき、そこにはやはり新鮮な驚きがあるし、彼女たちの新たな活路を垣間見せる。

 しかし一方で、まだ明確に「役者」ではない、もっといえば芸能者としてまだ何者でもない彼女たちの演技における「巧い」はきわめて中途半端なものです。役者としては手札も少なく、改良の余地も山積した、まだ隙の多い存在です。さらに、そのような半端な存在なのに、ひとつの役に専心できるわけではなく、どの役が充てられてもいい準備をしなければならない。
 まだまだ「過程」の存在だからこそ、うまく行っても行かなくてもそのすべては中途半端で歯がゆい。しかしまた、「過程」の存在だからこそ、メンバーが時折見せる光には彼女たちにまだすべての可能性が開かれているようで眩しい。
 アイドル演劇はどのような水準でこそ最も楽しめるものなのか、そもそもが困難さをはらんでいます。「16人のプリンシパルdeux」はアイドルを享受することはどういうことなのか、その演劇構造をもって浮き彫りにするものかもしれません。

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 喜安脚本による第二幕。本土から遠い離島に建つ屋敷で起こる怪死事件に、遺産相続や本土からやってきた探偵などの要素も含まれた45分程度のミステリものです。もっとも、各配役はその役に専従してきた役者ではなく、前述のように直前の第一幕で決められたメンバーたち。額縁的な演劇を観るというよりも、その役々をどのメンバーが演じるのかという、各演者に収斂した見方が強くなります。これは必然的に、毎回誰がその役を演じるか自体がアトラクションのひとつとなる。その意味で、先に挙げたスターシステム演劇のジャンルである、歌舞伎や宝塚歌劇と遠からぬ部分もあるでしょう。


 柿丸を除く演者すべてが「役者」ではない以上、演技力のみによって舞台を推進していくことには限界があります。その点、他の江本演劇にもみられる、歌と映像、ダンスによるタイトルロールで序盤を開始させた運びはとても秀逸でした。アイドルたちが歌い踊る姿、さらには配役として充てられる女中1~6の各役のように、衣装によって目を引くことができる点もすばらしい。女性アイドルが演じる前提でキザな男役が配役中にあるのも好相性でした。


 一方、ファンによるリピートをいやがうえにも促すこの仕組みは、上演期間中に芝居の緊張感を変質させてしまう危うさを持っていると感じました。回が重なり、リピート観劇が多くなることで、演者と客席との関係において、また演者同士の関係においても、もうこの劇構造やディテール、これまでのオーディション風景を多少なりとも皆が共有していることが前提になっているような、初見者への説明的な箇所がいくらか飛ばし気味になっていくような。東京公演終盤で再見した際にはそうした印象もありました。
 これはこの仕組がはらむ必然でもあるため、演出サイドによる手綱の調整が必要となるところなのでしょう。第一部の江本/ローズ・パープルの振る舞いを見る限り、そうしたバランスは持ちうるように感じられたので、大阪公演でさらなる熟成がされれば良いなと思います。


 ともかくも、まだ何者でもないアイドルたちの身体の躍動と、その先の道への、まだ踏み出していないゆえに開かれた可能性の眩しさとを浮き彫りにする「16人のプリンシパルdeux」は、アイドル演劇の企画の可能性としても示唆の大きいものです。乃木坂46自体がまた、この公演をフィードバックして継続的にこんな景色をみせてくれればと思います。
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