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~演劇とアイドルと何かと~

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「あのころの未来に」

*月刊「根本宗子」第9号『夢も希望もなく。』 下北沢駅前劇場(2014年1月17日)


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 根本宗子という作家の真骨頂は、どうにも拭い切れない人間の「甘さ」「弱さ」を繊細に、辛辣に描く点にあります。その「弱さ」は時に社会に対する根拠のない優越感としてあらわれ、時に自身の報われなさの原因を外部に押し付けるみっともなさとしてあらわれる。そうした舞台表現のひとつひとつは、他者を安全圏から笑うためではなく、観る者が自身を省みざるを得ないような痛々しさとしてあります。

 そうした根本作品の目を背けたくもなるような魅力は今回、観る者以上に根本宗子本人に、そして演劇をする者自身に直接返ってくるものになっています。すなわち、そこで冷徹な目をもって観察されているのは、クリエイターワナビー同士が温存し続ける「甘さ」にほかならない。


 作家志望の優一(水澤賢人)は己の才能に自信を持ちつつ、アルバイトをしながら執筆活動をしている。優一の恋人ちひろ(福永マリカ)は劇団に所属し、やはりアルバイトをしつつ演劇やオーディションに勤しんでいる。お互いに「芸術」的な道を進んでいることを好き合い、関係は良好のようにみえる。ちひろの幼なじみで看護師という「普通」の道を目指す絵津子(根本宗子)らもちひろの活動を応援し、ちひろが映画のオーディション一次選考通過の通知を受けるなど順調に日々が流れている。そんな光景が繰り広げられる舞台下手の一室とは対照的に、上手では会社員の女性と半ば無職状態の恋人との力ない同居生活が行われている。


 根拠も実績もない、自らの才能(があってほしいという希望)にすがる男性が恋人に見せるみっともなさは、過去の根本作品『根拠のない余裕』(2010年、タイニイアリス)の主人公に通じる設定です。本作は、『根拠のない~』でもがいていた作家志望男性の過信の描き方がさらに磨かれている。
 他者が世間話的にこぼす会話に対し、日本語がわかりにくいとダメ出しをするさまに滲むのは、作家志望の優一の繊細さ以上に、そのようにダメ出しすることで他者の「才能のなさ」を確認するような自己防衛です。ちひろの所属する劇団の公演にも批判的な感想を述べながら、それは芝居を作っている主宰の責任であり、自分はちひろにそんな才能のない人たちの作品に関わってほしくないと主張する。「才能のある」自分(同時に審美眼もあることになっている)が、ちひろの「ためを思って」するダメ出しに、ちひろもまたほのかに違和感を持ちながらも感謝する。
 二人は互いに「芸術的」な道を歩むことにアイデンティティを見出しますが、それは社会の「普通」に対する見下しによって成立しています。アルバイトを適当な理由で休み執筆のための時間をとる優一にじゃれるような言葉を投げるちひろ。そしてそれに応じて自らたちを「社会不適合者」と自称する優一は、その言葉に明らかに優越感を託しています。また、「芸術的センス」がゼロだと自ら述べながら素直にちひろを応援する絵津子を優一はあからさまに見下している。優一に引きずられるように、優越感を伴ったアイデンティティに浸っていくちひろは、彼女を長年見てきた絵津子の心配をはねつけ、優一への思いに傾斜していく。ここでちひろは、優一のパーソナリティが好きなのか「才能」が好きなのか判然としません。というかそれはどちらかだけが好きと決められるものではない。とはいえ、その優一の根拠のない「才能」はちひろを駆動し、他方で優一の心理にも抑圧的に作用していく。

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 それが大きな軋みとなるのが、ちひろのオーディション一次通過です。「芸術」を志すうえで、他者に公的に認められるステップを踏んだちひろに対し、優一は苛立ちを隠しきれなくなっていく。優一の自らの「才能」への自信は、ちひろが道を切り拓いていないこと、自分よりわずかでも上にいないことが拠り所になっています。その軋みを、やがてちひろは自らが「社会不適合者」から降りることで解消しようとする。しかしそれは、それまでも許していた優一の甘えをさらに許し、生活的にも精神的にも優一を依存させていくことになる。そして、優一の「才能」が駆動因だったちひろの優一への依存心が、くすんでいく契機でもあります。


 ところで、そうした関係が繰り広げられる一方、舞台の反対側ではもうひとつの男女関係が進行しています。会社員として働く女性(大竹沙絵子)と、たまに夜勤に出るのみでほぼ無職の男性(郷本直也)との、もはや惰性と情のみで結びついたような関係です。昨年の根本作品『今、出来る、精一杯。』(2013年、下北沢駅前劇場)に通じる男女の関係といえるでしょう。女性は男性に経済的な期待をせず、依存することを許し続けている。友人の杏奈(梨木智香)との、小さな生活感のあふれる会話に、彼女の静かな諦念と不安が垣間見えています。彼女の名はちひろ。つまり、次第に明らかになるのは、舞台上手で進行している男女の物語は、優一とちひろの10年後の姿をうつしたものだということです。


 創作をやめ、かといってあまり働きもせずにちひろの家に同居する優一は、クリエイティブな道を歩む他者へのシニカルな視線のみを残したまま、自堕落な日々を過ごしている。その優一とちひろの10年後と同時に、舞台下手ではまだ22歳で拠り所のない自身の才能を信望することのできる優一と、劇団を辞めそれを支えることにしたちひろの、無軌道な日々の始まりが描かれていくことになります。それが無軌道に見えるのは、すぐ横に10年後の「生活」が描かれるため。このきわめて舞台的な仕掛けによって、根本はこれまでもテーマにしてきたような人々の「甘さ」の成れの果てを描くことに成功しています。若いちひろたちのストーリーが展開している時、上手にいる10年後のちひろは過去のある岐路を思い返しているようでもあり、10年後の日々が進行していく時、それは下手の若いちひろのゆく道が暗示されているようでもある。
 彼女ら彼らの最悪にどうしようもなく甘くて弱い姿の丁寧な描写は、観る側にとっても遠くにあるものではない。そしてこの作品は、なにより根本や出演者たち自身にとってこそ、自らに対するドライな批評でもあるのです。


 しかし優一の甘さを許したまま過ごしてきた10年後のちひろに、根本は否定的な未来を突きつけてはいない。優一に傾倒するあまり自身の俳優としてのチャンスを自ら絶ち(そのことが本当にマイナスの判断だったのかはもちろんわからない)、優一のためにと始めた「普通」の生活から、「優一のため」という駆動因は消失してしまった。それは何かに賭けてきた日々の終わりではあるけれど、その感傷に浸り続けることすら許さない目の前の生活は、それはそれで自分を否応なく駆り立てる。優一が出て行った瞬間から、もうその次のせわしなさは動き出している。何も達成できなかった10年後が「末路」ではなく、日々の連なりとして肯定されていることは、作品の終盤の完成度に貢献していました。同時に、ちひろがかつて優一のために切り捨てた昔からの友人、すなわち「普通」の人として人生を送る絵津子が過ごしていた10年が最終盤で優しく扱われることで、どうしても甘くて弱い人物たちに注目が当たる根本作品に奥行きをもたらしていたように思います。


 相変わらず根本作品得意の、恋愛沙汰をめぐる人々の気恥ずかしさみっともなさは容赦なくも面白い。誰にでも心当たりのある、それ自体たいした悪でも失敗でもない、不完全な者たちの恋愛へのそれぞれのアプローチを描く繊細な筆致は、根本作品にとって大切な武器でしょう。それを支える、もはや根本作品のキーともいえる梨木や、梨木の10年前を演じる長井短、ちひろと優一の最終的な破綻の鍵となる莉奈(杉岡詩織)、そしてもちろんちひろを演じた福永・大竹らキャストの細やかさも頼もしい。そろそろもうひとつキャパを広げた場で根本作品を観てみたいと思います。
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モンスターを飼い馴らせ

*NODA・MAP『MIWA』 東京芸術劇場プレイハウス (2013年10月16日


 実在の事象、それも近過去に生じた事象や現在にまで引き続く事柄が作品に織り込まれるとき、そこにはある緊張感が生じざるを得ません。それはまだ、その事象や出来事が「歴史」化されていないためです。つまりそれらは、すでに「歴史」の一部になって評価が定まったものや、あるいは今日とはさしあたり切り離して考えられるようなものではない。それを描くことは、否応なく現在世界で生起している個別具体的な何かに対して作り手の見方を表明することになる。その最たるものが、2001年のアメリカ同時多発テロを扱った作品群であり、また2011年の東日本大震災をテーマにした作品群でしょう。

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 とりわけその解釈が問われるのは、再現VTRやルポルタージュ形式のもの以上に、フィクションとして制作されたものです。フィクションであることで、その事象に対する作り手の解釈がより強く反映され、またフィクションであることで、それがエンターテインメントとして、すなわち楽しまれるためのものとして存在することがより明確になる。

 本作『MIWA』は実在の、それも現役でメディアに頻出する人物を題材にしています。しかも劇中に登場するというレベルではなく、タイトルに名前が冠されているように、「美輪明宏」そのものを大テーマとしている。そして何より大きいのは、その美輪明宏という人物のセクシュアリティを作品最大の駆動因として配置し、その内面が語られることです。それは明らかに美輪明宏という人物についての、劇作家・野田秀樹の解釈であり、美輪明宏の言葉ではない。作家の解釈と創作によって美輪明宏という人物の性ないしは愛に肉薄しようとするかたちで、エンターテインメントをつくりあげていることになります。そこには相応の覚悟と倫理が必要になる。

 しかしまたそのような、ともすれば不遜でもあるような試みをも不思議に飲み込んでしまうものとして、実在の美輪明宏はある。美輪のあり方は、そのかたちを掴んで描ききることがきわめて難しいし、同時にそうして描いたものを許容してしまうような特異さも併せ持っている。


 野田は本作で美輪を、ひとつの肉体に二つの霊が宿ったものとして表現しています。美少年としてのMIWA(宮沢りえ)の背後には、常に化け物的な存在としてのアンドロギュヌス(古田新太)がいる。ここで宮沢の演じるMIWAは、男ではない魂を表現しています。それは冒頭、現世に生まれ落ちる直前を描いたシーンに明示的にあらわれています。男に生まれ落ちるか女に生まれ落ちるかを決める「最初の審判」で、MIWAは男性器を模した「踏み絵」を踏めずにいる。これはここでは男性器を否定できない=男性として現世に生まれることを意味しますが、MIWAは男性に生まれることを拒み、かつ「踏み絵」を踏むこともできないでいる。与えられた性を拒絶し、生まれ落ちることの許されない存在として審判がくだされるところ、それを強引に破りMIWAの手をとって現世への導きをするのがアンドロギュヌスです。つまり現世に生まれ出たこの人物は、男性であるMIWAの肉体に、女としての魂であるMIWAと、男としての魂であるアンドロギュヌスの二つが同時に入り込んでいることになります。


 とはいえ、MIWAの肉体はMIWAのものです。ひとつの肉体を分け合うパートナーとしてアンドロギュヌスと対話を繰り返しながら、ある時ふっとアンドロギュヌスが姿を消す時が訪れる。それは劇中、MIWAに好きな男の子が出来た時、つまりMIWAの心が「女心で澄み切った」ときです。

 幼年期から青年に至る過程で、MIWAの前には幼恋繋一郎、初恋繋一郎、赤絃繋一郎(いずれも瑛太)の三人の恋愛相手があらわれます。彼らとの関係に没頭できる瞬間、MIWAの中にアンドロギュヌスの影は見えなくなる。しかし、MIWAにとってアンドロギュヌスは飼いならすことのできる存在ではなく、またアンドロギュヌスはMIWAの「歌声」を司るような役割を負っているために、エンターテイナーとしてのMIWAと不可分の存在としてある。劇中を通じて、ひとつの肉体がはらんでいるこの二重性はたびたび、MIWAという人物の一代記的な物語に大きなゆらぎをもたらします。


 こうした二重性はまた、本作では登場する各人物にも付与されています。MIWAの居るソドミアンバーに通う作家・オスカワアイドル(野田秀樹)は、最後にその姿を見せる時、MISHIMAすなわち三島由紀夫をモデルとした人物としてあらわれます。そしてオスカワアイドルが彼のアンドロギュヌスであったことを告げ、そのオスカワアイドル=MISHIMAは自衛隊市ヶ谷駐屯地へと赴く。MISHIMAを突き動かす怪物としてオスカワアイドルは彼の内にいた。あるいはソドミアンバーのマスター・日向陽気と他店を統べる日影陰気(ともに池田成志)との反転など、それぞれの人物に大小の二重性を垣間見せ、作品総体のテーマにリンクさせています。


 大切なのは、それら二重性を用いた演出、演技が、明快に観客を楽しませる明るさを持っていることです。美少年であるMIWAのアンドロギュヌスを演じる古田は、登場時から我々が普段メディアで目にする黄色の頭髪の、あの「美輪明宏」に扮しています。それは登場時には、コントのようにさえ見える明らかな陽性のパーツとして機能している。また甲高い声を持って演じられるオスカワアイドルも、池田が受け持つソドミアンバーのマスターの役柄も、明確に笑いを意図した演技とテンポで劇を推進している。本作「MIWA」でまず印象に残ったのは、この作品が非常にわかりやすく笑わせ楽しませるエンターテインメントであることでした。MIWA=美輪明宏という人物のセクシュアリティを描き、また彼の半生を描く途上で戦後を描き、三島由紀夫や赤木圭一郎といった昭和のスターのエピソードをにじませ、そして何よりも、美輪自身の体験に重なる長崎の原爆の記憶を描く。それらひとつひとつに重みを持たせながら、NODA・MAPの近作に比しても簡明な笑いを基調として強く持っているように感じられました。このバランスは頼もしかった。

 MIWAの二つの魂を演じる宮沢と古田はコンビネーションが良く、特に古田の、笑いと哀感の間を一瞬で往還してしまうような巧みさで、アンドロギュヌスの面白さと哀しさが十二分に表現されていました。冒頭に現れた時にはコントのようでしかなかった「美輪明宏」の扮装が、ほどなくして違和感なく、そしてその見た目でなければいけないように思えるほどになっていました。
 またソドミアンバーのマスターを演じる池田も、このエンターテインメントの空気作りに大きく貢献していました。MIWAのサイドを固める役として、特筆すべきは池田の演じた役々でしょう。


 ラストにアンドロギュヌスを失ったMIWAは、自らをアンドロギュヌスの姿に似せて扮装していきます。それはすなわち、我々が今日見かける、あの「美輪明宏」の似姿です。その、他人がやればチープなパロディでしかないはずの扮装が、宮沢=MIWAの身体を通じて実在と地続きの「美輪明宏」になっていく。ここまで野田の解釈によって展開されてきたMIWA像が、現実の「美輪明宏」へと集約していくような感覚がそこには訪れる。
 これは、実在の人物・事象を解釈しようとするならば、倫理的なあやうさをはらんだ明らかな錯誤です。実在の人物に、明らかなフィクションを通して感情移入してしまっているのですから。しかし、それすらも許容してしまうような美輪の特異な存在感は、そんな倫理観を小さなものに感じさせてしまう。「美輪明宏」の扮装を終えたMIWAが若手女優に「大好きです」と声をかけられ、「一生、言われ続けている。飽きちゃった。」と返す時、そこにいるのは虚でも実でもいいような、あの「美輪明宏」です。野田秀樹という作家が真摯に向き合ったフィクションの「MIWA」と実在の「美輪明宏」、舞台上に体現されたその二重性は、次第にそのどちらが真であるといったような、シンプルな捉え方を無効にしていくようでした。

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