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あるいはテレビドラマ的な

*『カワイクなくちゃいけないリユウ』 新国立劇場 小劇場 (2012.6.2)


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 かつてのなだぎ武と友近による『ビバリーヒルズ青春白書』の登場人物パロディは、アメリカの現代的なテレビドラマが吹き替えで放送される際に採用される言い回しや演技のコード、テンションへの、潜在的な違和感を抽出してみせたものでした。それはアメリカ産のテレビドラマの中に配されるゆえに、さしあたりの不自然さを呑み込んで鑑賞することができるものの、日本人が形態模写することで違和が現前してくる。これは、「翻訳」が単語レベルの逐語転換作業の難しさのみならず、言葉の並べ方、繰り返し方の習慣、それに付随する振舞い等を、日本(人)の振舞いに再配置することの困難をうまくとらえたものでもあります。
 翻訳劇は少なからずそうした文化的ギャップが付随せざるをえないものですが、とりわけ本作『カワイクなくちゃいけないリユウ』(原題“Reasons to be Pretty”)は、「現代の若者」が描かれるゆえか、「アメリカのテレビドラマを吹き替えで観ている」感覚が強いものでした。


 二組のカップルのすれ違いでストーリーが進行してゆく本作は、グレッグ(村井良大)とステフ(村川絵梨)の恋人同士が部屋で喧嘩をしている場面から始まります。ここで両者は無難に芝居をこなしているように見えます。しかし、ステフの怒り方のテンションや身のこなし、あるいは同じ言葉、同じ説明のリフレインはいかにも吹き替えドラマ的に見える。かつそこでは吹き替えドラマと異なり、振舞う身体そのものが「日本人」である、という違和が挿入されます。これは、こちらに一般的な知識としてアメリカのドラマ的な(あまつさえ日本人によって戯画化されさえしている)振舞いというものがインプットされているためもあるでしょう。翻訳劇を演じるうえでは、この違和をいかに自然に消化するかという作業が必須なのだなと気付かせてくれる(広くとればそれは「翻訳」劇に限ったことではないですが)。


 その点で、最も不自然にならずに役を表現できていたのはもう一組のカップルの男役・ケントを演じた植原卓也でした。ステフを一途に思いながらも不用意な言葉で関係に溝をつくってしまうグレッグとは対照的に、軽薄で浮気もするものの恋人への立ち回りが上手い(少なくとも表面上は)役柄のケントを、「アメリカ」的にも日本的にも極端に振れない巧妙なバランスで演じています。本人が意識しているかいないかわからないレベルの、若さゆえの未熟さのようなものも仕草等から表現されていて、大別すれば主役側ではありませんが、彼が登場するシーンは起伏に富んでいたように見えました。もっとも自在に動けていたのではないかと。


 上述したような違和は、特にグレッグとステフの喧嘩のシーンにおいて、冗長さに繋がっていたように思います。英語圏ならば自然なのかもしれない同じ言い回しの繰り返しが続くと、観る側はもう意識がその先に向かっているのに、劇の進行がその意識に追いついていないように感じられる。
 たとえばなだぎ武による「ディラン・マッケイ」では、その繰り返しが与える違和を誇張してみせることで、ひとつのスタイルになっていました(自転車を降りるだけの仕草をする際に、「今、自転車から降りるからな」「今、降りている」「ああ、間違いなく降りている」「ようし、降りた」と逐一台詞にしてあえて違和を見せていたように)。
 本作ではその繰り返しによる冗長さが有効に働いているようにも見えなかったため、翻訳でうまく伐採できるところはあったかもしれないなと。それを気にさせない演技プランや技術はあるのではないかと思いますが、今回に関しては「日本」的なアレンジを強くしてもよかったのではないかと。


 もちろん翻訳劇を観る際に常にそのような違和が前景化するわけではなく、やはり演者の抽斗に依存するところは大きい。ケントの恋人カーリーを演じた吉川友(前作映画主演作)は、ステージ上で非常に目を惹く容姿をしています。実際に、容姿に優れているという設定のカーリーには似つかわしく、ステフに比して高いテンションを求められる役ではありませんが、台詞の発声に幾分不慣れなものを感じました。そのためか吐き出す言葉が多少上滑りしてしまっていたように見えます。この点は、キャストのキャリアからくる抽斗の少なさもあるはず。見かけ以上に、役者が対応することの難しい劇のようです。
 また、これはキャスト自身の責ではないですが、全キャストのうちで最も重要な経験をする役柄であるだけに、扱い方がステフに比して簡単になってしまったのも残念。


 とはいえ全体的には、役者たちの素材には魅力を感じる割合のほうが大きく、脚本を守るよりは四人のキャストを活かす方が良かったかなと思います。翻訳台本、演出を、役名にではなくより四人の役者にすり寄せて作ってゆくバージョンを観てみたいなと。とくに吉川のカーリーはそれでこそ引き立つような気もします。

 脚本に関しては、上記の難しさの他に、主人公の経験やそこから得た教訓や成長を、最後に主人公の独白でひと通り語らせてしまうのがどうにもうまくないなと、ダサいなという印象でした。そこは直接的な言葉にしないで表現すべきかと。締めとなるこの部分については、その独白を口にするグレッグ含め、四人のキャストの後味の清々しさによってカバーされていたと思います。

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