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欲望もレベル上げれば

*DOCUMENTARY of AKB48 NO FLOWER WITHOUT RAIN 少女たちは涙の後に何を見る? TOHOシネマズ有楽座 (2013.2.1)


akbdocumentary_2013_1

 封切りを待って映画館に足を踏み入れた観客の脳裏には、ほぼ例外なくひとつの、吐き気をもよおすような“茶番”が刻印されています。
 映画公開前日にYouTube上にアップされた峯岸みなみさんの坊主頭。スキャンダルの責任をとって自ら頭を丸めた(という体裁の)その映像は、自分の体感的にはこれまでにAKBがマッチポンプ的に生成してきた「劇薬」の中でも、とりわけ非ファンの反応を含めて最も目に見える波風の大きいものだったように思います。
 同時に、どこまでが誰の差配なのかわからなくなるほどにスキャンダルを自前の「物語」に取り込んできたAKBの、きわめてAKB的な露悪性のひとつでもあるように見えました。


 それは、劇薬に慣れすぎて劇薬とさえ感じなくなってゆく身体を、ある時ふと俯瞰で見るような気色悪さ。
 処分から収拾に至るシナリオまで画を描いて雑誌記事掲載の可否を判じ、その処分がAKBファンは勿論、AKBに関心を持たない、あるいは普段少なからぬ反感を持って見ている人たちまで巻き込んで世間の倫理観に訴えかけることを算段に入れ、嫌悪感の拡散や糾弾の嵐と引き換えに、絶大な話題性を獲得することを見込んだうえでの映像公開なのだろう。それをエンターテインメントとして峯岸さん自身が謀って発信しているのであれば、まだ幾分救われるのだろうか。AKBが劇薬を投与し続けるシステムであることに慣れきった自分の頭で即座にそこまで考えてはすべて打ち消して、という不毛な思考を繰り返す。


 けれどまた、思い知るのは、こういう露悪性をも孕みながらエピソードを無数に生成する装置に魅了され、それに乗っかることで、自分はAKB48というものにはまり込んでしまったのだということ。公開された動画に対して向けられる世間の圧倒的な正論に同意しながら、自分自身もまたひどく嫌悪感をもよおしながら、一旦依ってしまった楽しみの足場すべてを否定する正しさも潔さも持てずに、ファンとしてAKBを追うことを辞めない自分を持て余して、どこに頭を下げているのかわからないような後ろ暗さと、真っ当な批判に対する同調と、その批判の声に混じった文脈の齟齬をうまく消化もできず返答もできないまま口をつぐんでいました。
 日付が変わる頃、初期メンバーに囲まれて笑顔を見せる峯岸さんの写真がメンバー、また峯岸さん自身によってネット上にアップされました。
 それを見て、何を感じていいかわからないまま朝になっていました。


 そのまま目の当たりにしたAKB48ドキュメンタリー第三弾は、最初から最後まで、常に余計なフィルターに覆われながら鑑賞しているような、やりきれない手触りのものでした。
 さいたまスーパーアリーナ公演、総選挙、東京ドーム公演から秋葉原の最終公演へと、AKB48のシンボル的存在だった前田敦子さんの卒業に向けた日々が綴られてゆく。その経緯はいかに嗚咽にあふれていようと、すでに周知の過去となっている。また前田さんの卒業そのものはきわめて前向きなステップアップです。昨日までに起こっていたリアルタイムの醜悪な波乱を受け止めたばかりの自分にはそれは、気を落ち着かせていられる悠長なものに思える瞬間さえありました。できることなら、こんなふうに悠長にだけ見ていたい。

 そう考えてぞっとする。自分はここに映っている彼女たちの疲弊と同じものを一年前に観て、面白さの裏に伴走する、彼女たちの感情の起伏を消費している己のグロテスクさに折り合いをつけられずにいたはずじゃなかったのか。劇薬であることは重々知っているのに、それにどれだけ自分が慣れてしまっているのか気づかなくなっている愚かさと恐ろしさ。そのことを、総選挙直後のシーンで映されたある研究生の姿でようやく思い知る。

akbdocumentary_2013_2

 そんな劇薬としてこの映画で、冗談のようにルーティーン化してあらわれるのが、恋愛スキャンダルです。AKB48が発信するこの映画は、AKB48の恋愛禁止ルールが不毛であるという、自明すぎる事柄を自ら、うんざりするほどに見せつけてきます。ファンの前での釈明、それを見守り、また顔を背けるファン、それにメンバー。映されるメンバーの人選(半ば偶然的にカメラが押さえていたものであるにせよ)が無言で突きつける、恋愛禁止という檻の醜悪さ。

 実質的に誰が望んでいるのかさえわからなくなった恋愛禁止という檻は、もはやそれを梃子にして残酷な「サプライズ」を内部生成するためだけに機能しているような無意味さを呈しています。ステージで見せるアイドルの身体の躍動とは関わりのない場所で恣意的に描かれる波乱は、もはや本体を失っているように感じられました。


 前田さんの旅立ち、板野さんの新たなステップ発表、研究生で始まり研究生で終わる構成に象徴される、AKB次世代の躍動。AKBを旅立つ者に向けても、AKBをこれからつくる者に向けても、明確に希望を託したはずの今作。AKBが自家中毒的に生じさせているリアルタイムの波乱に呑まれ、咀嚼することができないまま観終えていました。


 自分はアイドルのパーソナリティを身勝手に解釈して遊ぶ、何千何万のファンの一人。よくあるファンの一人。その心理を最大限にスリリングに、最悪にグロテスクにくすぐり続けるのがAKBであることなんて、前からわかっていたはず。それでも安心させてくれる何かを求めて、その何かにすがることで身勝手な遊びを続けられる。安心できる確証じゃなくていい。けれど明確に致命的な危うさに踏み込むことはお願いだから避けてほしい。

 言葉にしたくないすべてが杞憂でありますように。
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