もう安心 

~演劇とアイドルと何かと~

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

モンスターを飼い馴らせ

*NODA・MAP『MIWA』 東京芸術劇場プレイハウス (2013年10月16日


 実在の事象、それも近過去に生じた事象や現在にまで引き続く事柄が作品に織り込まれるとき、そこにはある緊張感が生じざるを得ません。それはまだ、その事象や出来事が「歴史」化されていないためです。つまりそれらは、すでに「歴史」の一部になって評価が定まったものや、あるいは今日とはさしあたり切り離して考えられるようなものではない。それを描くことは、否応なく現在世界で生起している個別具体的な何かに対して作り手の見方を表明することになる。その最たるものが、2001年のアメリカ同時多発テロを扱った作品群であり、また2011年の東日本大震災をテーマにした作品群でしょう。

2013_10_16_MIWA

 とりわけその解釈が問われるのは、再現VTRやルポルタージュ形式のもの以上に、フィクションとして制作されたものです。フィクションであることで、その事象に対する作り手の解釈がより強く反映され、またフィクションであることで、それがエンターテインメントとして、すなわち楽しまれるためのものとして存在することがより明確になる。

 本作『MIWA』は実在の、それも現役でメディアに頻出する人物を題材にしています。しかも劇中に登場するというレベルではなく、タイトルに名前が冠されているように、「美輪明宏」そのものを大テーマとしている。そして何より大きいのは、その美輪明宏という人物のセクシュアリティを作品最大の駆動因として配置し、その内面が語られることです。それは明らかに美輪明宏という人物についての、劇作家・野田秀樹の解釈であり、美輪明宏の言葉ではない。作家の解釈と創作によって美輪明宏という人物の性ないしは愛に肉薄しようとするかたちで、エンターテインメントをつくりあげていることになります。そこには相応の覚悟と倫理が必要になる。

 しかしまたそのような、ともすれば不遜でもあるような試みをも不思議に飲み込んでしまうものとして、実在の美輪明宏はある。美輪のあり方は、そのかたちを掴んで描ききることがきわめて難しいし、同時にそうして描いたものを許容してしまうような特異さも併せ持っている。


 野田は本作で美輪を、ひとつの肉体に二つの霊が宿ったものとして表現しています。美少年としてのMIWA(宮沢りえ)の背後には、常に化け物的な存在としてのアンドロギュヌス(古田新太)がいる。ここで宮沢の演じるMIWAは、男ではない魂を表現しています。それは冒頭、現世に生まれ落ちる直前を描いたシーンに明示的にあらわれています。男に生まれ落ちるか女に生まれ落ちるかを決める「最初の審判」で、MIWAは男性器を模した「踏み絵」を踏めずにいる。これはここでは男性器を否定できない=男性として現世に生まれることを意味しますが、MIWAは男性に生まれることを拒み、かつ「踏み絵」を踏むこともできないでいる。与えられた性を拒絶し、生まれ落ちることの許されない存在として審判がくだされるところ、それを強引に破りMIWAの手をとって現世への導きをするのがアンドロギュヌスです。つまり現世に生まれ出たこの人物は、男性であるMIWAの肉体に、女としての魂であるMIWAと、男としての魂であるアンドロギュヌスの二つが同時に入り込んでいることになります。


 とはいえ、MIWAの肉体はMIWAのものです。ひとつの肉体を分け合うパートナーとしてアンドロギュヌスと対話を繰り返しながら、ある時ふっとアンドロギュヌスが姿を消す時が訪れる。それは劇中、MIWAに好きな男の子が出来た時、つまりMIWAの心が「女心で澄み切った」ときです。

 幼年期から青年に至る過程で、MIWAの前には幼恋繋一郎、初恋繋一郎、赤絃繋一郎(いずれも瑛太)の三人の恋愛相手があらわれます。彼らとの関係に没頭できる瞬間、MIWAの中にアンドロギュヌスの影は見えなくなる。しかし、MIWAにとってアンドロギュヌスは飼いならすことのできる存在ではなく、またアンドロギュヌスはMIWAの「歌声」を司るような役割を負っているために、エンターテイナーとしてのMIWAと不可分の存在としてある。劇中を通じて、ひとつの肉体がはらんでいるこの二重性はたびたび、MIWAという人物の一代記的な物語に大きなゆらぎをもたらします。


 こうした二重性はまた、本作では登場する各人物にも付与されています。MIWAの居るソドミアンバーに通う作家・オスカワアイドル(野田秀樹)は、最後にその姿を見せる時、MISHIMAすなわち三島由紀夫をモデルとした人物としてあらわれます。そしてオスカワアイドルが彼のアンドロギュヌスであったことを告げ、そのオスカワアイドル=MISHIMAは自衛隊市ヶ谷駐屯地へと赴く。MISHIMAを突き動かす怪物としてオスカワアイドルは彼の内にいた。あるいはソドミアンバーのマスター・日向陽気と他店を統べる日影陰気(ともに池田成志)との反転など、それぞれの人物に大小の二重性を垣間見せ、作品総体のテーマにリンクさせています。


 大切なのは、それら二重性を用いた演出、演技が、明快に観客を楽しませる明るさを持っていることです。美少年であるMIWAのアンドロギュヌスを演じる古田は、登場時から我々が普段メディアで目にする黄色の頭髪の、あの「美輪明宏」に扮しています。それは登場時には、コントのようにさえ見える明らかな陽性のパーツとして機能している。また甲高い声を持って演じられるオスカワアイドルも、池田が受け持つソドミアンバーのマスターの役柄も、明確に笑いを意図した演技とテンポで劇を推進している。本作「MIWA」でまず印象に残ったのは、この作品が非常にわかりやすく笑わせ楽しませるエンターテインメントであることでした。MIWA=美輪明宏という人物のセクシュアリティを描き、また彼の半生を描く途上で戦後を描き、三島由紀夫や赤木圭一郎といった昭和のスターのエピソードをにじませ、そして何よりも、美輪自身の体験に重なる長崎の原爆の記憶を描く。それらひとつひとつに重みを持たせながら、NODA・MAPの近作に比しても簡明な笑いを基調として強く持っているように感じられました。このバランスは頼もしかった。

 MIWAの二つの魂を演じる宮沢と古田はコンビネーションが良く、特に古田の、笑いと哀感の間を一瞬で往還してしまうような巧みさで、アンドロギュヌスの面白さと哀しさが十二分に表現されていました。冒頭に現れた時にはコントのようでしかなかった「美輪明宏」の扮装が、ほどなくして違和感なく、そしてその見た目でなければいけないように思えるほどになっていました。
 またソドミアンバーのマスターを演じる池田も、このエンターテインメントの空気作りに大きく貢献していました。MIWAのサイドを固める役として、特筆すべきは池田の演じた役々でしょう。


 ラストにアンドロギュヌスを失ったMIWAは、自らをアンドロギュヌスの姿に似せて扮装していきます。それはすなわち、我々が今日見かける、あの「美輪明宏」の似姿です。その、他人がやればチープなパロディでしかないはずの扮装が、宮沢=MIWAの身体を通じて実在と地続きの「美輪明宏」になっていく。ここまで野田の解釈によって展開されてきたMIWA像が、現実の「美輪明宏」へと集約していくような感覚がそこには訪れる。
 これは、実在の人物・事象を解釈しようとするならば、倫理的なあやうさをはらんだ明らかな錯誤です。実在の人物に、明らかなフィクションを通して感情移入してしまっているのですから。しかし、それすらも許容してしまうような美輪の特異な存在感は、そんな倫理観を小さなものに感じさせてしまう。「美輪明宏」の扮装を終えたMIWAが若手女優に「大好きです」と声をかけられ、「一生、言われ続けている。飽きちゃった。」と返す時、そこにいるのは虚でも実でもいいような、あの「美輪明宏」です。野田秀樹という作家が真摯に向き合ったフィクションの「MIWA」と実在の「美輪明宏」、舞台上に体現されたその二重性は、次第にそのどちらが真であるといったような、シンプルな捉え方を無効にしていくようでした。
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://katzki.blog65.fc2.com/tb.php/108-0162cb00
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。