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現代とは溶け合わず、でもうまく織り込まれつつ

*「現代能楽集」シリーズ 第四弾 『THE DIVER』 シアタートラム (2008.10.12)


女性情報誌が積極的に自己顕示のツールとして伝統芸能をとりあげて消費者を高尚な気分に酔わせる一方で、伝統芸能が国の保護を受けて(あるいは高い価格設定で)“大きな顔をしている”こととかに対して疑念がつきつけられることもまた、ないわけではないですね。

そもそも、一見で内容を理解することが難しかったり、原理的に現代的なセンスをいちいち採用することのできない「伝統芸能」がどういう状態で現代を生きていなければいけないのか。
この問いに現実的に解答しようとするのは、当然のことかもしれませんがいつも実践者です。自己顕示のために歌舞伎や落語を「嗜む」人々はそこまでシビアに捉えないでしょうし、専門家・評論家は当該の芸能ジャンルそのものにフォーカスしすぎる傾向があるので、現代社会との兼ね合いという観点を主題にすること自体があまりありません。古典だけやってても骨董品になる恐れがある、ならどうすりゃいいのよ、という疑問は、自然なことですが演っている当人の中からもっとも湧き上がるものでしょう。


さて、「伝統という縦糸に横糸を通す」コンセプトを提示した本シリーズは、野村萬斎の発案であるようです。彼自身は狂言師として『山月記』で、狂言を演劇に溶け込ませてみせました。というより、狂言の身体技法のエッセンスを抽出して、そこを起点に演劇をつくったというひとつの発明がそこにはあった、と表現できるかもしれません。能・狂言は、現代演劇との融合が、歌舞伎に比べて困難であるように思えます。歌舞伎は、たいがいなんでも歌舞伎になる、という都合のよさを持っているため、他ジャンルの演出を利用したアイデアは豊富に出せるし、ごくごくわかりやすい(台詞とかが)劇をつくることが可能です。翻って能楽は、形式が固定されがちになる。もちろん能楽にも新作というものはあります。マンガなどを題材にした新奇な企画もある。しかしそれらは結局、「能」「狂言」として扱われる際、能舞台で古典的な演出フォーマットに合わせて行なわれるのです。題材が新しくてもそれはこれまでの古典演目に入ってなかった話、というだけであり、一見さんがとっつきやすい演劇形態のものに変容するわけではありません。歴然として、敷居の高い古典芸能であり続けます。

野村萬斎の世田谷パブリックシアター/シアタートラムにおける試みは、そのフォーマットを外すかたちでの模索なのでありましょうし、それは狂言師自身による、現代と狂言との関係に対する批評であるともいえるでしょう(※古典的形式のみを認め、萬斎の試みを邪道視する実践者もいると思うけれど、そういった人々が、ただちに、現代社会と対峙していないということにはならないでしょう。古典的形式のみを守ること自体によっても、現代に対する姿勢を表明することは可能であろうと思います)。

「現代能楽集」シリーズは萬斎の手によってではなく、現代劇作家及び俳優による、能の演目をモチーフにした演劇となっています(これまでのものは未見)。第四弾とされた今回は野田秀樹の作・演出。


殺人被疑者であるが、精神分裂的な状態ゆえ責任能力の有無が争われている一人の女を軸に、精神科医、検察官、警察署長が彼女の精神分裂の真贋(→責任能力の有無)を解き明かそうとするストーリー。女はそもそも妻子ある男性と愛人関係になり、男性の子を身篭る。しかし男性の妻にも二人目の子が産まれることになり、彼は妻と別れようとはしない。女は絶望の内に子供を堕ろし(二度目らしい)、呪詛の念から男性が妻と外出している最中に男性宅に放火、夫妻の子供二人を焼死させた(実際にあったそういう事件を下敷きにしたらしいです)ことで逮捕され取調べを受けている。

精神科医と面談する度に分裂的に複数の人格を見せる女。ある人格においては、我が子を救うために自分の身を犠牲にして海に潜り宝珠を獲る母性を表現する(能の『海人』に取材したエピソード)。またある人格では源氏物語の夕顔あるいは六条となって、光源氏と葵上に嫉妬心を燃やす(もちろん『源氏物語』からとったエピソード。六条の、賀茂祭での葵上との衝突など)。それら古典に取材した、母性、愛人としての嫉妬心、本妻に二人の子が生まれ自分はやむなく二回堕胎する絶望といった妄想(別人格)は、本人格である殺人容疑者の女の人格に収斂してゆきます。刑事事件としては二人を殺した案件であるけれども、女は「四人死んだ(殺した、とは表現していない)」と繰り返しているため、精神科医は事件に関して彼女に正常な認識力はないと主張するが、死刑判決が下され絞首台に(四人、というのは、放火で殺した子供二人に加え、自分と男性との間の子供を二度堕ろしたことを意味しています)。


劇中、般若の面による女の呪詛表現や、能楽的な身体技法など、しばしばライブ劇としての能楽の要素が織り込まれます。ただ、それが現代演劇と継ぎ目なく溶け合っているかといえば、必ずしも首肯できるものでもありません(継ぎ目なく溶け合うようなやり方があるのかどうかもわかりませんが、『山月記』はわりとできていたのでは)。とはいえ、うまく織り込ませている部類だとは思うので、評価したい点です。とはいえ、現代演劇ベースの中にスパイスとして入る能楽要素は、やはりオリエンタリズムとしてのスパイスであることは否めないのですが。


数少ない道具(椅子、ソファ、布など)を、様々に小道具に変える場面が多々ありますが、その見立ての柔軟さは野田秀樹らしいな、と。落語であれ狂言であれ、手持ちの扇子という武器を何にでも見立てるわけですが、野田は逆に、扇子の形から見立てるアイテムの方を発想しているかのよう。九割方閉じた扇子をシャンパングラスに見立て、開いた状態をピザのピースに見立てるやり方は鮮やか。


腑に落ちなかったところ。源氏に見初められた喜びを夕顔の人格が語る際、その表現としてアメリカかイギリスのTVバラエティショー仕立てになったシーンについて。モテる男性がクイズに答えてさえない女性を魅力的に仕上げていく権利を得て、なんだか女性を魅力的なものにする番組になっている。と書いてもわからないと思いますが、そのとおり、番組の意図がわからなかったです。初演したイギリスでは通じる設定の番組なのかなあ。源氏の男性的魅力の強さとそれに見初められた夕顔の嬉しさを表現するのに、あのシーンは少し通りがよくなかったのではないかな。あと、そもそもこのシーンは、そういう過剰なテンションの海外バラエティショーに対する批評であって、野田はその手のショーを突き放したところから提起して見せています。ところが、そのショーのバタくさいテンションにベタに同調するような笑いが客席から起きていたのでちょっと気になりました。そういう、西洋っぽいテンションに(ちょっと西洋を志向するとき特有の気取りが入りつつ)安易に同調する人たちに対して、「それ、ほんとにそんなに面白いかよ」とクリティカルな視線を投げているシーンだと思うんだけどな。


キャスト4人のうち野田秀樹を除く3人はイギリス人俳優、ほぼ全編英語台詞。今年6月にロンドンで初演したものを、舞台上両脇の電光掲示板に日本語字幕を映して上演する形式。この形式が、余計に能楽的要素をオリエンタリズムに見せていることもあるでしょう。もっとも、イギリスで上演する、という環境であれば(皮肉とかじゃなくて)オリエンタリズムをそれとして、より素直に楽しめるのではないかと思う。実際、日本で見てもひどく気になるわけじゃないし。それはまあ、日本人にとっても、伝統芸能というのは多分にオリエンタリズムであるということなのだよね。
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