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人のセックスを笑うな

*ポツドール『恋の渦』(2006年上演:viaシアター・テレビジョン) (2014年2月11日)



 2013年公開映画『恋の渦』の原作となる、ポツドール上演版(2006年)を映像で観ました。順序としては、昨年映画版を先に観ていましたが、その時に感じていたことを含めて、ちょっと通常の演劇レビューとは違う雑感です。

potudor_1
ポツドールHPより)

 映画版を観た際、素直に面白いと思いました。
 その面白さとは、小さな食い違いが雑なままに温存されて流れていくことから来る、人間のコミュニケーションの齟齬に対する視線の細やかさでした。それらを体現する役者の表情や佇まいを含めて、提示してくるものは非常に自分好みの描写がされていました。


 一方で、観た後そしてそれ以降しばらく経っても、ある種の居心地の悪さをずっと感じ続けていました。映画版の「ゲスで!エロくて!!DQN♡」というキャッチコピーに象徴されるように、この映画は「DQNの生態」を覗き見するかのようなプロモーションがされていたように思います。端的にいえばそこに、安全圏から自分とまったく違う世界の人間たちを戯画化して嗤っているような気分を感じていました。つまり、己とは性質や習慣の隔絶した人々としての「DQN」像を設定してそれを観光するような、ともすれば見下しの視線の混じった居心地の悪さです。そしてまた、その作品に面白みを感じている自分を持て余してもいました。


 今回、ポツドール版を観たことで、その何かが少し整理されたような気がします。
 まず三浦大輔という作家がやろうとしているのは、コミュニケーション(の齟齬)の真摯な観察と描写であって、決して「DQNの生態」観察などではない。

 冒頭の、彼女なしの男性オサム(古澤裕介)に女性を紹介するパーティー。一見して感じるのは、初対面の男女を紹介する際の周囲の人々のデリカシーのなさ。グループの中心的存在であるコウジ(米村亮太朗)をはじめとする彼らは、オサムに女性を紹介する流れでTVの際物ネタなどの「ノリ」をオサムに強要し、当のオサムと相手女性のテンションをないがしろにしている。
 ここに描かれているのは、つまり友人に異性を紹介してあげるという体裁をとりながらも、場の主役も主導権も無意識に手放そうとしないコウジたちの論理です。彼らにとって、男女を引き合わせるというのは自身たちのための肴であり、あくまでも自分たちの気分を良くするためのイベントです。同時に、コウジたち自身はそうであることに気づいていない。主観としては、オサムのためのイベントを「開いてあげている」。その自らの錯誤ゆえの権力性にコウジは無頓着です。


 コウジは自宅で開いていたそのパーティー終了後、己の無自覚な権力性を同棲している彼女トモコ(遠藤留奈)に向けます。コウジの弟ナオキ(河西裕介)が連れてきた彼女サトミ(小島彩乃)が所在なさげにしていたことに目を留め、なぜトモコがケアしなかったのかと問い詰める。よく聞けばコウジの論理にも破綻はあるにもかかわらず、彼の高圧的な態度に屈して謝ってしまうトモコは、半ば論理的に負けてしまったような錯覚と腑に落ちなさを覚えつつ怯える。そしてまたコウジも、その場の権力関係によって、自身が論理的に正しいと錯覚する。このもどかしさとどうにもならなさの描写がまず見事です。


 他方、コウジらの先導でオサムと引き合わされた女性ユウコ(白神美央)はなし崩しにオサムの部屋に押しかけます。とはいえパーティーがコウジらの「ノリ」に占拠されていたため、ろくに打ち解けていない二人は、部屋にぎこちなく座ったのち会話が弾まない。それでも、互いに異性を紹介するといわれてパーティーに足を運び、その異性と部屋を共にしている以上、その水面下に相手へのエロティックな期待を忍ばせて、ついにはその期待が噴出してセックスへと流れていく。あからさまな性欲先行の交わりの中で、それでも自身の行動を正当化するような場当たり的な言葉を並べて、相手に対して取り繕おうとする不格好さが滲む。


 他者との関わりにおいて無数に生じる、コミュニケーションのささくれた部分が、本作では丁寧に描写されていきます。ナオキとその彼女サトミの間の、表向きうまく行っているようでいて互いに「裏切り」をしている、それでいて相手との結びつきをありがちなやり方で確認しようとする関係、あるいは一見奔放にセックスをしているように思えるカオリ(内田慈)をめぐるタカシ(美館智範)とユウタ(鷲尾英彰)の、友人関係の内にある小さな苛立ち。それに、「恋人」に無様に依存してすがりつく登場人物たち。


 それらは我々の生活にいくらでも転がっていて、それをやり過ごしたり先送りにしたりして、小さく不満をためながら日々は過ぎていく。そんな大小の齟齬の集積を浮き彫りにする設定として若くてチャラい男女が登場人物に設定されてはいますが、それは彼らのような社会的属性に特有のものではない。間違っても、「DQNだからこのような思考回路や行動をとる」といったような、「DQN」ではないと自認する者が対岸の火事のようにみなせる事柄ではありません。


 セックスを伴う「裏切り」は彼ら彼女らのような人物に特有のものではなく、恋人でない者同士のセックスも観客の生きる日常世界にはいくらでもある。そんな「普通の」セックスが俯瞰されれば皆たいがい滑稽だし、一時的であれ思い入れた相手にすがりつく瞬間はたいがいみっともない。自身の心情の伝え方なんて常に雑で、そこから生まれる誤解もささやかな上下関係も放置しがち。当の我々が生きているのはまさにそんなみっともなさです。

 そうした人間のコミュニケーションへの、真摯で細やかな視線こそが、『恋の渦』のなによりも優れた点です。


 これらのエピソード描写は、実は映画版『恋の渦』でも忠実に再現されています。映画でも、こうしたコミュニケーションに関する齟齬はやはり細かに描かれている。つまり、この映画においても見るべきは、「DQN」の戯画ではなく、その人間同士の関わりへの繊細な視点なのです。

 冒頭で述べたような居心地の悪さとは、映像作品単体というよりは、その繊細で普遍的な人間への視線によって支えられた面白さが、「DQNの生態」のような印象に置き換えられてプロモーションされ、受容されることへの違和感だったのかもしれません。緻密に描かれているのは我々が日々体験し続けているみっともなさや苛立ちの種、セックスにまつわる滑稽さであって、それは「DQN」特有の何かではない。ともすればその「DQN」を「他人」として嗤ってしまえるような誘導は、映画版の魅力のあり方をややねじれさせてしまうようにも思います。


 それでも、そうしたイメージに引っ張られて、「DQN」の戯画化そのものをエンタメにしたようなプロモーションは、さしあたり成功しているように見えますし、そのことの利点は小さくないと率直に思います。この映画の面白さが「DQNの生態」みたいな印象に回収されてしまうのはちょっと惜しいと感じるのだけれど、そこはプロモーションとの諸刃なのかな……。映画が多くの人に届くことは良いことに違いないですし。


 セリフなども含めておおむね進行の共通した舞台版、映画版を観たことで、両者の媒体上の利点もまた鮮明になりました。映画版で強く印象に残っていたのは、コウジ(新倉健太)をはじめとした役者の表情が皆良いこと。それはもちろん自在にカットを割ることのできる映像特性によってもたらされるものですが、各キャラクターの立ち方という面では、やはり映画版に利がありました。舞台で群像として観ていると、ともすると似た印象に見える瞬間もある人物たちを、映画版では微細に切り取り、また役者陣もいい「顔」で応えている。

 一方でオリジナルの舞台の強みは、それぞれの部屋でパーティー後の同時間帯に並行して起きるやりとりを一覧させるダイナミックさです。三浦大輔作品に頻出する、舞台上に複数の部屋を割ってみせるセットの面白さが、ここではねじれた男女関係の進行や、各部屋でそれぞれの事情で苛立ちを爆発させる様がほぼ同時に描かれる際の盛り上がりなどに有効に用いられている。舞台でしかなしえない機構の面白さを、映画版を踏まえて観ることでまた再確認させてくれる。
舞台版、映画版いずれにも、正負入り混じった刺激に溢れているゆえの収穫かなと思います。
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