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テンションと微細さと

*『太陽2068』 シアターコクーン (2014年7月7,8日)

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 ごくごく日常的な暮らしの中にSF的な設定が静かに浸透していき、やがて世界が致命的な事態に向かって加速する。イキウメという劇団は、しばしばそうした世界を描きます。特にそのような設定を用いて、イキウメの主宰・前川知大が巧みに描くのは、異物である他者と共存することの困難さや、理解し合うことができない絶望を前にした人々の葛藤です。

 2011年に上演された『太陽』もまさに、先進的で理性的な人々と、過去の遺物としての立場に置かれた人々との、互いに対する分かり合えなさを繊細に描いていました。(2011年の『太陽』レビューはこちら

 本作『太陽2068』は、その作品の蜷川幸雄演出によるリメイクです。
 この作品は、先に述べたようなSF的な設定が日常に浸透してしまい、世界が一旦破綻を迎えたのちの状況から始まります。


<バイオテロによって人口が激減、現在あるような社会基盤が破壊されたのちの世界。生物兵器感染から奇跡的に回復した人々は、通常の人間を遥かに上回る能力を持つ身体に変異していた。彼らは頭脳明晰、肉体は若く健康なまま維持できるが、吸血鬼のように太陽光のもとでは生きられない体質をもつ。徐々に人口を増してゆく彼らは自らを通常の人間と区別し、「ノクス」(ホモ・ノクセンシス=夜に生きる人)と名乗るようになる。
一方、生物兵器汚染から逃れた通常の人間は、人口的にも政治経済の担い手としてもノクスの周縁に追いやられ、ノクスに依存しながら小さな集落を作り生活している。彼ら通常の人間は「キュリオ」(骨董品の意)と呼ばれている。>


 キーとなるのは、進化形の人類であるノクスと、旧来型の人間であるキュリオとの断絶が単なる排除や敵対の関係ではないことです。
 日本を実質的に掌握するノクスは、キュリオとの間に「共存」を掲げていても、その温情的な眼差しの下には、感情的で今や非文明的な存在でもあるキュリオに対する差別意識も見え隠れする。ノクスは、自身が「理性的」であり、またその理性的であることを美徳として自負しているゆえに、自身の中にある欺瞞や、キュリオへの差別意識という、「感情的」な不完全さを自覚せざるを得ず葛藤します。

 他方、キュリオもまた、ノクスに反発を覚え断絶状態を維持しようとしながらも、キュリオからノクスに変異する施術の権利を我が子のために得ようとします(若者に限り、ノクスに変異できる方法が発明されている)。つまり、ノクスを嫌悪し拒絶する一方で、できるものならばノクスとしてこの先の人生を生きた方が人間として「幸せ」である、という認識も持ち合わせている。それはまた、自分たちキュリオが、旧世代として滅びていくほかないという諦念とも隣り合わせです。
 この細やかな関係性の描写によって、対立しあう二者という構図が生む単純でない感情のありようがえがかれていく。


 さて、この基本的な設定やストーリーは、2011年のイキウメ版を継承していますが、蜷川演出になったことで、その手触りや強調されるものは大きく変わりました。

 イキウメが日常性を保ち、落ち着いた明晰な発声で会話するのに対し、蜷川演出では言語をより劇的に発し、テンションも高く強烈になり、その身体も日常的な静かさというよりも、より劇的なものになります。そのことで、イキウメ版のような我々と地続きの世界とは異なる、ひとつ異世界の出来事になった、独特のリアリティの水準が生まれます。

 その蜷川演出のテンションによってこそ可能になったのは、「スター」の個が放つチャームの強調です。
 蜷川版のリメイクでバランスに手が加えられ、大きくフィーチャーされるようになったのが、断絶するノクス-キュリオ間の個人的な友好関係の象徴である、ノクスの森繁(成宮寛貴)とキュリオの青年鉄彦(綾野剛)のやりとりです。
 抑制の効いた言葉で意味を伝えることよりも、個の感情の応酬の方を泥臭く引き出すことで、成宮寛貴、綾野剛という二人のスターのチャームを強く見せている。またその中に、ともすれば役柄以上に、二人の若手スターのパーソナリティの交流を見るようなじゃれ合いを頻繁に差し挟む。
 これは、高い有名性をもつタレントを揃えるという、シアターコクーン的なキャスティングに対して効果的に働き、この二人によって担われるラストのカタルシスも、イキウメ版とは対照的な高揚感になっていました。
 少しずつ距離感を詰め、仲を深めていく二人の可愛らしさを最大限に引き出せたことが、後半のある悲劇、それを経てのラストの解放へと繋がり、本作随一の魅力になっていたと思います。


 また、変異の権利を得るチャンスを持ちながらもキュリオに留まることに希望を見ようとする娘・結(前田敦子)も、その一例でしょう。彼女の前半~中盤の感情表出の強い演技は、終盤の表情の変化に効いてきます。
 芝居中盤までの彼女は、座組に馴染んではいるけれど、演技に自身の色がさほど強く出せてはいないかなと見えていました。しかし終盤の展開を経て再び姿を現した時、彼女はそれまでの流れと断絶した、「別人」の表情を正しく作ります。一種特異な存在感をもつ前田敦子という役者の片鱗は、この終盤の表情に集約されていました。
 ここで彼女が見せる表情は、ごくごく穏やかで台詞も落ち着いたトーンで語られるのみです。この、ごく普通のテンションをきちんと体現できたからこそ、彼女が演じる結の決断がもたらした哀しさが強烈に響く。感情を強く叩きつけるような演技のあり方ではないこの場面にこそ、彼女の手柄はあったように思います。これから先、もっと舞台で成長する姿を観続けたい役者の一人です(ちなみに、伊藤蘭さんのようなキャリアを持つ俳優が「母親」役としてそばにいることも、彼女に良い効果をもたらしそうな気がします)。

 前田さんがここで見せた、断絶を体現した曇りのない表情は、結の父親草一(六平直政)にとっては、肩の荷が下りた安堵の種であり、同時に娘と完全に分かり合えなくなったことを思い知らされる絶望です。彼女の表情が強いからこそ、草一がここで見せる泣き笑いの表情が活きる。


 これら、若手スターの魅力の強調こそが、蜷川版がこの『太陽』にもたらした大きな効果でした。

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 一方で、それと引き換えに薄れたのは、この戯曲が持つ静かで微細な描写ではないかと思います。
 イキウメのSF的設定が秀逸なのは、その設定自体の新奇性に寄りかからず、その設定を介した語りを通じて、「人間」の感情を単純化せずに描ききる点です。本作でいえば、断絶した二者の相互に対する拒否反応と無理解が、単なる疎み合いだけで成り立っていない複雑さでしょう。

 それは、設定を説明したり論理を積み重ねたりする台詞の中で獲得されるものです。イキウメは役者陣の演技水準の高さが毎回、作品に大きく貢献していますが、その演技は抑制的で明晰な発声であるため、細かなやりとりに含まれる設定までを受け手が理解することができる(これはもちろん、「演劇」的な面白さを損なうものではないと思います)。

 蜷川演出によるエモーショナルな芝居は、個の強さを提示して劇的な言葉や身振りを引き出す一方で、そうした静かな細やかさをいくらかスキップしてしまうことにもなった気がします。それは役者個体の劇的な言葉や身体を大事にするならばある程度は不可避のことであったかもしれません。


 また、もう一点、蜷川版の特徴に、イキウメ版にはなかった追加登場人物・拓海(内田健司)の存在があります。己の欲求のコントロールが下手な若者としてのこの役を創出したことで、舞台上に「生」の匂いも、「性」の匂いも不穏なかたちで付加され、蜷川版オリジナルの空気を作ることに貢献していたと思います。

 しかし一方で、新たに追加されたことの余波かもしれませんが、ストーリーの中ではやや中途半端になっていたように見えました。後半の拓海の「ある行動」が、その後にどう繋がるのか。結の絶望の引き金のひとつと捉えられなくもないですが、あまり決定的なものにもなっていないような。
 拓海の存在は、特に「性」の匂いに関する生々しさをもたらしましたが、同時に、戯曲に歪さを加えることにもなったのかもしれません。特に、ともすれば「前田敦子さんにあやういシーンを用意する」という、俗っぽい芸能トピックに回収されてしまう可能性も考えると、あんまりうまくないかなあと感じました。


 ただし、エモーショナルさの強調に関して言うならば、それは戯曲から何かが「失われた」と捉えるべきではないのだろうと思います。
 2011年のイキウメ版では、相互についてイメージし受容することの困難さが抑制的に描かれるからこそ、そこに断絶についての普遍的な示唆がありました。たとえば欧米地域とアジア地域、原発にまつわる錯綜、あるいは世代間の断絶、また部分的にはハンディキャップをもつ人々とそうでない人々といった、数々の「断絶」。

 本作ではそのうち、「世代間」の断絶というものが、特に視覚的には色濃くあらわれます。これは、もとの戯曲に比べて何かイメージが限定されてしまったのではなく、そのように幾重にも意味を投影できる脚本から、演出・脚色の段階で、「世代」の割合を強めに抽出したということかと思います。

 優秀な脚本が、演出家によってある面を強調されること、新たに色付けられるということ。そのことによって、オリジナルからは想起できなかった役者の個のチャーミングさの強調を堪能し、また翻って、オリジナル版の持つ微細さをあらためて噛みしめることができる。脚本の強靭さ、演出による肉付けの凄み、往還するように双方を楽しむことができたかなと思います。
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  • 2014/08/22(金) 14:13:13 |
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