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よくないアマチュアリズム

*Three Quarter 『Big Tree ~世界の果て~』 明石スタジオ(2008.11.1)


友人がこの舞台に関わった縁で公演へ足を運びました。

「社会人を中心とした “芝居をやめられない”仲間が集まる創作集団です」(公式HPより)、「もう一度芝居をしたいけど時間が無い。演劇に興味があるけど趣味でやりたい。そんなあなたを歓迎します」(本公演配布紙より)というのはつまり、我々は本気っていうより、趣味の範囲でやっているんですということの遠まわしな表現ではありましょう。だからといって何かを突きつける力の強い作品がつくれないとは考えないですし、視点のハードルを下げて見る必要もないと思います。だけれど、その劇団の自己紹介的なフレーズが、結果として見事に体現されてしまっていました。


近未来、クローン技術は発達し、国家による実験で次々クローン人間が生み出され、戦争に利用される。研究所から脱走したクローン二人は町のモーテルに逃げ込み匿われる(うち一人は国家元首のクローン)。モーテルに集う売春婦、工員、退役軍人たちの中には、追われる身のクローンたちをかばう者、懸賞金目当てに研究所に突き出そうとするものなど立場さまざま。二人の売春婦と、クローンたちはそれぞれ恋仲になるが、そのうちのひとり(元首のクローンじゃない方)は恋仲になった相手が自分を生んだ代理母であると知り、実験体として誕生させられたことをの恨みを露わにする。また、モーテルで働く女性も、モーテル主人とクローン実験体との間の子であり、母体を破って(殺して)誕生したことが明らかになるなど、クローンという存在が孕む生の葛藤が顕在化してゆく。一方、クローンを作り出していた国家元首たちも、クローンたちによる世界の破壊を止められなくなり、自壊する。戦争と核により人間が地球に住めなくなる状況に対し、モーテルに集う人々は、工員の作っていた宇宙船(唐突にそういう話が出てきた)に乗って脱出を目論むが、宇宙船の定員よりモーテル内の人員は多く、全員は乗れない。自身の人間としての命が長く続かないことを知るモーテルの女性(クローン)らは宇宙船に乗らず、地球に残る道を選ぶ。


大仰な演技プランはこの劇団の好みなのだと思うので、こちらの趣味と合わない点は仕方ないです。ただし、基本的にその大仰さが旧時代的なものであることには自覚的であるべきではないかと。こうした古い演技法に客を乗せるには、その演技者の完成度自体が高くないと厳しい。この劇団は、その完成度に関してあまり追究的でないように見うけられます。「ある程度」まで演技できるようになればそこで良しとしてしまっているような。


たとえば、下手でも何某かの面白さを感じるという場合、それはそこにどういう部分であれ新奇なものを見てとれるから、ということが多いと思います。目指す演技法が古さを感じさせ、大仰なものである場合、それを「そこそこ」のレベルで提示されても見る側が乗っかるのは難しいのではないでしょうか。人々のキャラクターを紹介するための日常風景に(「そこそこ」でよしとする演技の)大仰な台詞回しや笑い方をされてしまうと、なんだか胃にもたれますね。


この「ある程度まで」で良しとしてしまう傾向は他の点にもあらわれます。モーテルの人たちが催す日常的な宴を歌と踊りで表現し、それをBGMに主要人物のダイアローグで話の関係性を語らせる場面、たぶん目論みとしてはお洒落感のある軽いミュージカル調を挿入したいのだろう(退役軍人たちはその場面のみ、他のシーンでは持っていないハットを小道具にして踊る)。これも踊りが、まあ振り付けと段取りは皆覚えている、という程度であるためメリハリもスマートさもなく、やりたいことはわかるけど、それを高いレベルで体現しようとしているのか?(体現できているか、よりも、しようとしているのか、の方)に疑問が残りました。


そこそこでよい、という感覚は音楽選びもしかり。効果的に使用されるのは既成のポピュラーミュージックである。既成の曲を使う場合、どのような曲を選び、どう加工、ないしは劇の中に織り込むのか。そこにセンスとか、発想上のオリジナリティ提示の仕方があらわれるのでしょう。大事なシーンで感動を促すために使用されていたのは「ゆず」の、アテネオリンピックのときにNHKが放送のテーマ曲に採用してた曲でした。すでに「感動させ曲」として使われてる(&全国放送でそういうものとして流布しまくってる)ものじゃん!安直っていうか、それは曲が直接に喚起させるぼんやりとした「感動」イメージに頼りすぎではないか?それと、音的なことで言えば音響のオペレーションが不慣れ。音を大きく出しすぎて急にボリュームを下げるということが(もしも意図的でないのなら)幾度かありました。開演前に練習しておきましょう。

追記:後日、この舞台に携わった友人に聞いたところ、音響オペレートは舞台の演出家が兼ねていたのですが、その演出家が、演技中(本番中ですよ)の役者に喝を入れたい部分の時、流れに関係なく急激にボリュームを上げたりしていたのだそうです。その発想はなかったわ。いや、するなよ、そんなこと。


ストーリーや題材に関しては、クローン、戦争、近未来。面白く発想できそうだし、してる作品はいくらもあるでしょう。いわばおいしい題材であるかと。その題材をつかって、なんだか深みを感じないものを作ってしまったという印象でした。地下工場で宇宙船を作っていたという唐突な設定も「?」だったけれど、宇宙船で地球を脱出して生き延びるために、備蓄用の食材の「買出しをしてきた」ってことは、町にまだいくらでも人はいるわけでしょ。モーテルの中だけが人間世界じゃないわけでしょ。じゃあ、彼らだけが宇宙船で脱出できたところで、人間についての解決にはまったくなってないですよね(脱出したあとどうする、ということもあるし)。宇宙船発射の際の不備で一人犠牲にならなきゃいけないシーンも、新聞配達役の男が犠牲になる必然性はなく、『アルマゲドン』的感動エピソードの簡易劣化版みたいになっていたなあ。全体的に、題材を持ち寄って、話をまとめたはよいが、そこからの詰めがないのかな。あと、地球に残る組が、宇宙船に乗り込む組を一人ずつ見送るところ、皆平等に見せ場を与えたいのか、一人一人順々に立ち上がって言葉を交わさせる金八先生卒業式スタイル。ストーリーのタイトさを求めるならいらないし、あれをやると、皆同じように主役になろうね、みたいな悪平等の学芸会っぽくなってしまいます。


 まとめとしては、各方面において目指すところが「そこそこ」なのだと思います。だから「そこそこ」以下のものにしかならない。本業を別に持った上で劇団をやるという姿勢は、ある意味でまっとうであるしそこに異論はありません。正統なひとつの選択です。しかしそれを、並行ではなく「趣味」と位置づけてしまっていることで、クオリティに対してストイックたりえないことの言い訳になっているのではないでしょうか。ただし、入場料を払い劇場に足を運ぶ以上、そういう前提は観客が気遣ってあげることではありません。もっと目標高く持てるでしょ、というのが端的な感想でした(念のため、結果として完成度が高くなっているか、ではなくて、高くする姿勢が見えるかという話です。ここでは)。たとえば初期衝動の強さがアマチュアリズムの良い点だとすれば、高みを目指さないことの言い訳が成立してしまうという、アマチュアリズムの悪い点が垣間見えた公演であったともいえるでしょうか。
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