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ベタもまた悪くないわけで

*演出 蜷川幸雄 『表裏源内蛙合戦』 シアターコクーン (2008.11.12)


キャストや演出家のネームバリューが否応なく先行してしまう、シアターコクーンの人選にはそんな印象があります。その意味において観客からある種の信頼を得ているのだとはいえそうですし、それを実現する資金力も、おそらく俳優・スタッフ側からの信頼も獲得しているのでしょう。蜷川幸雄が芸術監督をつとめ、自身が演出を手がけることも多いため、彼と関わりが深いのであろうおなじみの俳優も少なくありません。勝村政信しかり、六平直政しかり。加えて、テレビ等で名の知れた俳優が主要キャストに配されることも多く、客席に座っていても「あれ、誰?」とか「○○さんだ」と上演最中にひそひそ声が聞こえます。この点、歌舞伎の観客に似ていて、ひとつのスターシステムが形成されているのかなと。


このスターシステムが前提となる本作、端々に織り込まれる笑いはきわめてオーソドックス、ベタな手法で行なわれています。たとえば、寺子屋の先生の見ていないところで子供(という体裁の)役が友人を殴り、先生が振り向くととっさに形勢を変えて逆に殴られるふうを装うシーン。あるいは赤ちゃんという体裁の役では、床からキャストが顔を出して床上に赤ちゃんの体が小さい作り物でこしらえてある、という手法など。期待の裏切りで笑いを取ってゆくのではなく、どこかで幾度か見たことのある、パターン的な笑いのとり方です。正直、期待の裏切りはないので、不意を突かれるほどのギャグシーンはほぼありません。
とはいえ、ベタな笑いというのは基本なので、それは笑いの質の低さに直結するものではありません。キャストはそうしたオーソドックスな笑わせ方をしても面白くさまになるだけの技量を持っているため(特に勝村政信)、飽き飽きするものにはならずにしっかりとコメディがつくられています。それになにより、スターシステムを観る姿勢で席に座る(そのことに自覚的か否かは関係なく)観客にとってはベタこそが快適な笑いなのではないでしょうか。実際、繰り返されるベタは心地よいものに感じました。


スターシステムにおいては、スターが愛嬌を見せることこそが、観客を満足させることになります。そこにエッジの効いた笑いは必要ではありません(繰り返しますがそれは必ずしも、作品として、また笑いとしてレベルが低いということではないので誤解なきよう)。スターを見に来る客は、ベタで大いに笑ってくれる。平賀源内(上川隆也)がちょっとオカマっぽい口調、身振りをしてみればそれだけで爆笑が起きるし、六平直政が少し顔をゆがめればやはり笑い声が響きます。長崎に遊学する場のパートは、挿入歌がことごとく「長崎は今日も雨だった」のサビで終わり、役者がそれぞれ熱唱している風の演技をしてみせますが、ここでもそのたびごとに観客が沸きました。スターシステムに気持ちよくおさまった観客のために、ゆるやかでオーソドックスな手法を用いてコメディをつくってゆく。受容にあった供給を、手練れのスターが提示してみせているのです。両国の見世物場のシーンでは、源内考案の見世物(ほぼ下ネタ)を冗長に延々見せるのですが、それにも爆笑が起き続けていたので、たぶんそのくらいのゆるやかさ、ひねりのない下ネタでちょうどよいのでしょう。そしてやはり、それが心地よいものとして成立しているのには、出演俳優の技量に負うところが大なのです。


さて、ストーリーは平賀源内の一代記です。発明・発案を次々成し、オランダ語に通じる才気を持ちながら、順調に学者として公に保護される道を歩めず、周囲からは才気を正当に評価してもらえず奇人、山師と囃され、ついに失意の中で牢死するまでを描いています。

源内役は上川隆也ですが、「裏」源内として勝村政信が「表」源内に随伴します。源内として生きる「表」に対して「裏」源内は時にナレーション、時に源内の行動を見守る俯瞰的人物、時に「表」の意図に反する行動(同一人物であるのでその行動は「表」のとった行動とされる)で環境を引っ掻き回したり、「表」をそそのかしたりするオルターエゴ。一人の人間の中にある複雑性、屈折性は、「裏」がいることで鮮明に描かれる。

舞台装置背景には一面の鏡。蜷川幸雄が歌舞伎の『十二夜』を演出した際にも用いていたアイデアです(小栗旬主演『間違いの喜劇』の時もやってなかったっけ)。一人の人物の「表」「裏」の二者、主観・客観などを観客側に想起させるように、その一面の大鏡には並んで座った観客の姿が映る。鏡に映った自身(客)の姿は、客観視された己。それを俯瞰するかたちでこちら側の己が見ていて。というように見る側が勝手にメッセージを受け取ってしまう。蜷川は、この便の良い装置を最近お気に入りの武器にしているようです(『十二夜』『間違いの喜劇』はともに、「双子」が入れ違って人々から勘違いされる話なので、そういう意味を持たせることもできますね)。


挿入歌が数多く使用され、意味が伝わりやすいよう、両サイドに電光掲示板で歌詞を流しています。最近この電光掲示をよく見るのですが、ミュージカルは特に合唱になると歌詞がわからないことも多いのでこれは良い策であるかと。


歌の中でとりわけ印象深いのは小塚原の腑分けの場。かつて源内と肉体関係にあった女性(高岡早紀)が斬首刑となり、その体を源内自身が腑分けする。内臓を取り出し説明しながら、はじめは人体組織の生成を讃える歌詞でうたい、中盤、トーンを落としたかと思うと、かつて交わった彼女の体を懐かしみ、ここでは内臓の説明ではなく乳房等外形への執着とセックスを歌う。そのひとときの緊張から最後にはまた、科学者源内として人体組織への礼賛で歌が締めくくられる。芝居中、随一の緊張感でした。


「表」源内の上川は充分に上手いのですが、一人の人間の屈折、複雑さの表現において、やはり「裏」の勝村の存在感はすばらしい。獄中で動かなくなった「表」源内に対し、自ら芝居終わりの幕を引きつつ「死ぬことはねえじゃねえか」と「裏」源内が投げかけるラストシーンの画は秀逸です。
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