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~演劇とアイドルと何かと~

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饗宴だから仕方ない

*七月大歌舞伎 夜の部『夜叉ヶ池』『高野聖』  歌舞伎座 (2008.7.10)


歌舞伎座の客はよく笑うし、よく拍手するのです。
それはいいのです。歌舞伎座は額縁の中の「芸術」を鑑賞しに行くところではないので。正確には、そういう鑑賞などができる環境を期待してはいけないので。歌舞伎座の客は、当人たちが自覚しているかどうかはわかりませんが、アイドルの登場に拍手を贈り、稚気のある笑いで祭り空間にいることを確認しあうために来ているのです。郡司正勝氏が「饗宴性」という言葉で簡潔に説明していましたが、歌舞伎劇場に美術館的な静かな鑑賞空間を求めるものではないのでしょう。だから、観に行く側も演じる側も、落ち着きのない客席に囲まれていることは、必然として飲み込まなければいけない。


坂東玉三郎が現出しようとした泉鏡花の二作品は、端的に言えばその環境ときわめて食い合わせが悪いものであったと思います。『高野聖』の作品全編を通じて覆う(はずの)薄暗さ、妖しさは、役者の登場・退場のたびに生じる拍手と、およそ作中に求められていないはずの過剰な笑い声で掻き消えてしまいました。観客がアイドルの一挙手一投足にどよめき拍手する、いつものスターシステム歌舞伎座がそこにはありました。


湧水の渕で、玉三郎が海老蔵に誘いをかける場面。魔性と神性を孕んだ玉三郎演じる女の妖しさと不気味さが露わになるシーンです。海老蔵が上半身を脱ぐと同時に客席から笑いが響き、玉三郎が体をすり寄せて色気を示せば、更なる笑いが場内を包む。二人のパフォーマンスが悪いわけではなかった。セクシャルなものを表現するには充分な説得力を持った二人であるし、笑いに繋がる明るい「お色気」なんてそこにはない、はずです。

けれど、そんなはりつめた静寂を要する世界観が、歌舞伎座という場で奏功するわけはないのでしょう。裸になれば笑うもの、色気で言い寄れば笑うもの。歌舞伎座の客席はそういうコードに慣らされています(なぜ、いつからそうなのかは知りませんが)。コードに触れれば、脊髄反射的な反応でいつもどおりの饗宴性が演出されるのです。はりつめた静寂は、歌舞伎では慣習となっている「拍手のタイミング」というコードとも、最悪の食い合わせを見せます。主要役者が登場するたび、退場するたび、彼らを迎え送り出す拍手が沸き起こる。その度ごとに、ここはスターを見に来る場なのだと確認させられ、物語的世界観はぶつ切りになる。歌舞伎座で芝居を打つとはそういう饗宴性を引き受けることなのですね。


歌舞伎座で芝居を打つとは、でもうひとつ。歌舞伎座で歌舞伎をやる、ということは歌舞伎の演技形式に縛られるということでもあります。逸脱できる余地はあれど、全体としては免れない枠に、否応なく規制される(そのこと自体はとりたてて善でも悪でもない)。『高野聖』ラスト二十分では、玉三郎演じる女の妖怪性と神性が詳しく説明されます。この説明、というのは歌六演じる親仁の口からすべてなされるのですが、長々と台詞を続ける作法が、すべて世話物(というか近代以降の歌舞伎か)に見られる、ややもすると平板で退屈な喋り方になるのです。歌舞伎に限らず、ひとりの役者に物語の説明を延々と台詞のみで説明させるというのは、往々にして工夫も見せ場もない時間になりがち。それでもひとり語りで説明させるのならば、それ自体を聞き続けて面白いような話芸なりシチューションなりを演出するべきではないかと思います。歌舞伎でそれができないとは思わないのですが、少なくとも素直に近代歌舞伎に見られる長台詞のやり方に則って演技してしまうと、聞き手が耐えうるものにはなり難いのではないかと。歌舞伎から離れたいち演劇としてはじめからあったならば、この場面の説明の仕方は、発想としてもっと自由だったのかなあ。


役者について。言葉が不自由で腰の立たない病人役の尾上右近は、不気味な存在感を出していて素晴らしい。もっとも、歌舞伎的でない演技だからこそ出せる存在感、雰囲気であるので、歌舞伎演出としての手柄なのかどうかはわからないところですけれども。十五、六歳にして歌舞伎舞台にこの存在感、認めないわけにいきません。よい成長をしています。そういえば、彼が言葉は不自由であるが、木曽節だけは幼少よりの記憶で覚えているので謡える、ということで促され謡う場面。言葉も体も不自由な彼が、覚えている歌だけは朗々と謡い、それが終わるとまた元の体の不自由な男として寂寥のうちに戻る、閉塞した余韻を与えるはずの、個人的にはいちばん好きだった場面。好きになるはずだった場面。謡い終えると同時に客席から盛大な拍手が起きて、余韻も何も掻き消えましたよ。そうだ、ここは歌舞伎座なのです。通常の公演でも、劇中の歌や三味線の見せ場には拍手が起こる。十代半ばの「子供」が舞台上で「がんばって」いればそれだけで拍手が起きる。そういう場所。右近に対する「よくがんばってるね」という温かい拍手は、そのまま彼がよく表現した物悲しさをどこかへ流してしまった。しんと静まったもう少し小さな劇場で、これが見れたらもっと良いだろうに。


演じる側だって、歌舞伎座の客が斯様なものであることは充分すぎるくらい承知しているはずです。表現したい効果が伝わらない可能性まで飲み込んで上演している。それならそれでしかたないのだけれど、鏡花作品はもっと面白く表現できそうな可能性が垣間見えただけに、他の空間でやれば、と思ってしまうな、どうしても。饗宴性とスターシステムそれ自体は、決して悪じゃないです。むしろ掛け声のタイミングやなんかの暗黙の規則なんて潰してしまって、もっとカオスな饗宴を現出したって面白いのじゃないかとさえ思う。それにスターシステムだからこそ、演目の性質に関係なく客は足を運んでくれるという側面だってあって、それは歌舞伎が安穏と存在するための重要なポイントでもある。だけど歌舞伎座は実のところ、なんでも消化できてるわけじゃないのだ。消化できないくせになんでも飲み込もうとするところが、妙に人をひきつけたりもするのだけれど。

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