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~演劇とアイドルと何かと~

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ジャニーズ曼荼羅

*KAT-TUN TOKYO DOME 2009 『不滅の10日間ライブ』 東京ドーム (2009.5.17&19)


東京ドームで公演を打つということ。

ある面ではこれは、良好な音響を期待できないということでもあります。広すぎるし観客は多すぎるし(彼ら彼女らが沈黙しているわけはないし)。別にそのことをとりたてて意識してディレクションしたわけではないと思いますが、本公演はその会場特性にフィットした方策をとっています。一言でいえばスペクタクル性への特化、ということになりましょうか。

冒頭曲『RESCUE』でそのスペクタクル性は実に象徴的に表れます。ステージ背景の巨大壁面をセル状に区切って、200人のジャニーズJr.を各セルに配備。縦にも横にも広い東京ドームですから、高さも幅も相当な規模のセル群(とジャニーズJr.群)が現出しているわけです。この威圧感は大きい。このセットは「マンション」とも呼ばれているらしいのですが、性質的にはあるいは曼荼羅を想起させるものではないかと。大量の人型が平面を埋め尽くすということもそうですし、東寺の立体曼荼羅とか見にいくと、曼荼羅ってスペクタクル効果も絶対あるよなあとか感じるわけで。


ことほど左様に、この演出はKAT-TUN6人だけの姿や歌で場を成立させるものとは異なっています。広すぎるはずの会場を利用して巨大なバジェットと人海戦術で壮観を提示してみせる、KAT-TUNという名を掲げたエンターテインメントであるのでしょう。ここでは「KAT-TUN」というのは単なるグループ名ではなくて興行の名称である、という側面を持っているといえます。


とはいえ、じゃあKAT-TUNが果たすのはただの看板としての機能なのか、というとそういうことではもちろんないわけで。何よりKAT-TUNとは、日本でもっとも説得力のあるアイドルグループのひとつなのであって、生身の彼らをこそ見るために途方もない数の観客が全国から足を運ぶのですね。そのKAT-TUNがこのスペクタクルの主役であるということに(とても当然のことですが)最大の意味があるわけです。

だから偉いのは、KAT-TUNというアイドルの威光に寄りかかった構成・演出になっていないことなのです。彼らが生ライブをやります、というだけで、当座何万人というファンを動員することは可能でしょう。だけれど先に書いたように、KAT-TUNという名称の持つ意味を幾重にも増幅させるだけの演出力を有しているからこそ、「KAT-TUNのライブ」というものにも箔がつく。というかKAT-TUNというグループ自体の説得力を長きにわたってキープするために、これほどまでのインパクトはぜひとも必要なのでしょう。アイドルが長期にわたり覇権を維持することは、おそろしく困難なことなのですから。


さてその現代最強のアイドルグループの、個としての魅力を際立って体現していたのはやはりというか、ジャパネスクテーマでソロパートを演じた亀梨和也でした。
アイドルとジャパネスク的演出の相性がよいことは、たとえば堂本光一『Endless SHOCK』でも確認済みです。
ただし亀梨のパフォーマンスは、KinKi KidsやSMAPといった、ご家族全員で安心してご覧いただけます、的な良品印のついたグループには到底表現し得ない色気に溢れています。女形というか、「女性装の男性」を演じているような亀梨の振舞いは、あえていうなら弁天小僧菊之助に近いかと。唇に紅を引く際にあえて紅を頬の方へはみ出させた、その表情は、KAT-TUNというアイドルの「説得力」を充分に物語るものでした。
彼はこのパフォーマンス中、けっこう長い間宙乗りを披露し、空中にいながら所作や手続きをこなしているのですが、トータルとして印象に強く残るのはそのアクロバットではなく彼のとてつもない色気の方でした。歌舞伎の方で、ああいう弁天小僧を見ることは、きっとないのだろうなあ。

レベルの高い技巧を織り込みながら、それをスマートにこなして見せることができるのがKAT-TUNの格好良さだと思います。宙乗りによる身体の制約を感じさせないパフォーマンスは、演者育成機関としてのジャニーズの水準の高さもうかがわせます。


だからこそ、彼ら個々人の「一芸」を、「一芸」として過剰にフィーチャーする場面がしばしばあるのは、もったいないなあ、とも感じるわけです。
中丸雄一のボイスパーカッションは確かにこなれたものであるのですが、そのボイパの種類ひとつひとつに対して歓声が起こるタイミングをつくってしまうような見せ方をすると、「新春かくし芸大会」みたいな陳腐なイメージが広がってしまう。もちろんそうした芸当をKAT-TUNである彼らがやることにこそ意味があるわけですが、亀梨がパフォーマンスの中であくまで一要素として宙乗りをしてみせたように、楽曲の中で軽いアクセントとしてボイパを織り込むに留めた方がよかったのでは。ビート音、スクラッチ音といった個別要素に対していちいち歓声が生じるとき、ボイスパーカッションとはつまるところ、江戸家猫八の寄席芸と同種のものであるのだなあという感が強くなります。猫八の名人芸はすばらしいものだし、それ自体が良い悪いということではないのです、もちろん。
けれど、そうした芸を格好良くさりげなくパフォーマンスの中に忍ばせることができるグループなのだから、彼らの芸ひとつひとつにわざわざ反応することは、KAT-TUNというグループのクールな格好良さを殺してしまっているんじゃないかなあ、と思うわけです。上田竜也のピアノしかり、田中聖のバイクしかり。個別の技芸に注目しすぎることは、その技芸としての難易度のみで測られてしまう、ということにも繋がるわけですし。


逆に楽曲中や構成の流れの中にさらっと織り込んでしまえば、素の技芸としての難易度はさほど問題でなくなる。今回でいえば田口淳之助のタップ、ジャグリング、あるいは多用される宙乗りなどはある程度そういう方向性が出ていたのではないでしょうか。
繰り返しますがそのような芸当を、アイドルとして最高のパフォーマンス力を持つKAT-TUN自身がやることに最大の意味があるのです。このとき、その技芸自体のレベルの高さ低さのみが評価を受けやすい環境は作らない方がいい、と思います。というのも、たとえばヒューマンビートボクサーやサーカスを専門に興行している団体に比べれば、その技術に卓越した何かがあるわけではないのですから。

ショーの総体を通じて、KAT-TUNの魅力、KAT-TUNという塊が持つエネルギーをこそ堪能するのが生産的なわけで、スキル至上主義的なだけの評価はナンセンスなのです。とそう言い切れるような環境を整備するのが、もっとも彼らを活かす道なのではないかと。圧倒的なスペクタクルでKAT-TUNの魅力を幾重にも増幅して提示することのできる演出陣がいるのだから、別の手法はきっとあるはず。

でもまあ、そういう隙、というか完成しないところも大事なのかなあ、それこそやはりアイドルとしては。
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